【第3話】眠らない灰ヶ峰
灰ヶ峰城は、山の上にあった。
遠くから見ていた時は、ただ大きな城に見えた。
だが、近づくほどに、その大きさは重さに変わっていった。
石垣。
土塀。
門。
櫓。
坂道。
どれも、村にはないものだった。
煤谷村の家は、風が強ければ揺れる。
戸は古く、屋根もところどころ傷んでいる。
けれど灰ヶ峰城は違った。
山そのものを押さえつけるように建っている。
火守迅は、荷駄の後ろを歩きながら城を見上げていた。
「でけえな」
隣で喜助がつぶやいた。
「見りゃ分かる」
「俺、城の中に入るの初めてだ」
「俺もだよ」
「すげえな。武士って、こんなところに住んでるのか」
「住んでるやつ全員が偉いとは限らねえだろ」
「でも、偉そうには見える」
「それは分かる」
二人は小声で言い合った。
城門の前には、すでに多くの人が集まっていた。
村から集められた男たち。
米俵を積んだ荷駄。
槍を持った足軽。
馬を引く者。
火薬の箱を運ぶ者。
矢束を抱える少年。
怪我人を乗せた戸板。
人の声。
馬のいななき。
木箱を置く音。
武具の触れ合う音。
どこもかしこも、落ち着かない。
戦は、まだ始まっていないはずだった。
なのに、城の中はもう戦の中にあった。
城門の外には、煤谷村だけではなく、近隣の村々から集められた男たちが列を作っていた。
山村。
川沿いの集落。
城下近くの農村。
炭焼きの村。
木こりの小屋場。
それぞれの村から、男と米と塩が運ばれてくる。
荷駄は三十を超えていた。
米俵は百を越えている。
集められた男たちは、ざっと見ても数百人。
それでも、城兵たちは誰も多いとは言わなかった。
荒砥の本隊は、一万を超えるかもしれないからだ。
「止まるな!」
門番の足軽が怒鳴った。
「荷駄は右へ回せ! 米は蔵前! 塩は兵糧奉行へ知らせろ!」
喜助が慌てて槍を抱え直す。
「迅、どこ行けばいいんだ」
「知らねえよ。右って言ってんだから右だろ」
「右ってどっちだ」
「お前、本当に緊張しすぎだ」
迅は喜助の肩を押し、荷駄の後ろにつかせた。
瀬川源次郎は、一団の先頭で城兵に何かを伝えている。
いつもの厳しい顔だったが、城に着いてからは少し急いでいるように見えた。
「煤谷村より、男二十一名、米七俵、塩二袋。途中脱落なし」
瀬川が言うと、城兵の一人が板に何かを書きつけた。
「煤谷、男二十一。米七。塩二。確認」
それだけだった。
迅は思わず顔をしかめた。
たったそれだけか。
村では、母たちが米を削った。
おばあさんがふらつきながら荷を運んだ。
喜助は青い顔で山道を歩いた。
皆、息を切らして城まで来た。
それが、板の上では短い言葉になる。
煤谷、男二十一。
米七。
塩二。
たったそれだけの言葉で、村の男手と冬の飯が削られていく。
人も米も、数になる。
戦とはそういうものなのかもしれない。
「おい、そこの若いの」
声をかけられた。
迅が振り向くと、髭の濃い男が立っていた。
武士ではない。
だが、村人でもない。
腰には帳面を下げ、手には墨のついた筆を持っている。
「名は」
「火守迅」
「村は」
「煤谷村」
「足は動くか」
「今のところは」
「なら、荷を下ろせ。終わったら水を運べ」
「俺、城に着いたら休めると思ってたんですけど」
男は鼻で笑った。
「城に着いたら仕事が増えるに決まっているだろう」
「決まってるんですか」
「決まってる」
そう言うと、男は次の荷駄へ向かった。
喜助が絶望した顔で迅を見る。
「休めないのか」
「らしいな」
「足がもうない」
「あるだろ。見えてる」
「気持ちの話だよ」
「気持ちで米は下りねえ」
迅は槍を壁に立てかけ、荷駄の米袋に手をかけた。
重い。
ただの米袋ではない。
村の腹の中身だ。
そう思うと、余計に重かった。
*
米を蔵前へ運び終える頃には、迅の腕は震えていた。
城の中には、兵糧を納める蔵が並んでいる。
大きな蔵だった。
煤谷村の家なら、何軒も入りそうなほどだ。
蔵の前では、兵糧奉行の配下たちが忙しく動いていた。
「瑞穂国からの米はまだか!」
「南の港から塩が届いておりません!」
「荒砥勢が東の道を焼いているなら、明日以降は荷が遅れます!」
「城下の商人が米を隠しているという話もあります!」
怒号が飛び交う。
迅は米袋を下ろし、思わず顔を上げた。
米がある。
こんなにある。
それでも、まだ足りないと言っている。
村では一袋を惜しんでいたのに、ここでは袋が山になっている。
だが、その山を前にしても、大人たちの顔は明るくなかった。
帳面を持った男が、蔵の前で声を張った。
「今ある米で、城兵と集めた雑兵を合わせて何日もつ!」
「城兵だけなら十二日!」
「雑兵を入れれば八日!」
「避難民が増えれば?」
「六日、いえ、五日を切るかと!」
「沢村の民がこちらへ逃げてくる。食わせねばならん」
「食わせれば兵の飯が減ります」
「食わせなければ民が死ぬ」
そのやり取りを聞いて、迅は手を止めた。
食わせれば兵の飯が減る。
食わせなければ民が死ぬ。
どちらを選んでも、誰かが苦しむ。
迅は嫌な気分になった。
この日だけで、灰ヶ峰城へ入った徴集兵は六百を超えた。
米俵は百二十。
塩は二十袋。
荷駄は三十七。
それでも、兵糧奉行の配下たちは顔を明るくしなかった。
これから来るかもしれない敵は、その何倍もの腹を持っている。
「火守」
瀬川源次郎の声がした。
迅は振り向く。
「はい」
「そこでぼんやりするな。水瓶を運べ」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「はい」
瀬川は迅を見た。
「疲れたか」
「疲れてないように見えますか」
「見えん」
「なら聞かないでください」
瀬川は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「これが城だ」
「城って、もっと偉い人が座ってる場所だと思ってました」
「それも城だ」
瀬川は蔵の前を見た。
「だが、米を数える場所でもある。水を運ぶ場所でもある。怪我人を寝かせる場所でもある。戦う前に、城は腹を満たさねばならん」
「腹が減ったら戦えないからですか」
「それもある」
「他にも?」
「腹が減った兵は、命令を聞かなくなる」
迅は黙った。
瀬川の声は低かった。
「兵が米を奪い始めれば、敵より先に国が壊れる」
その言葉は、妙に重かった。
迅は村の米袋を思い出した。
母の手。
志乃の布の袋。
小夜の握り飯。
烈の悔しそうな顔。
腹が減るとは、ただ苦しいだけではない。
人を壊すのだ。
「覚えておけ、火守」
瀬川は言った。
「兵糧は、槍より先に折れることがある」
*
夕暮れ前。
迅たち煤谷村の男たちは、城の外郭にある広場へ集められた。
同じように、他の村から来た者たちもいた。
顔ぶれは似ている。
農民。
炭焼き。
木こり。
猟師。
港から来た荷運び。
寺の下働きらしい者もいる。
皆、槍を持っている。
だが、立ち方はばらばらだった。
槍の穂先が隣の肩に向いている者もいれば、逆さに持っている者もいる。
足軽大将らしき男が台の上に立った。
「静まれ!」
ざわつきが少しおさまる。
男は太い声で言った。
「これより、お前たちを組に分ける!」
迅の隣で喜助が小声を出す。
「組ってなんだ」
「知らねえ」
「知らないことばっかりだな」
「お前もだろ」
足軽大将は続けた。
「一組十人! 十人に小頭を一人つける! 小頭五人をまとめ、組頭の指示に従え!」
十人。
小頭。
組頭。
迅は頭の中で数えた。
十人の上に小頭。
小頭が五人なら、五十人ほどを組頭が見る。
そうしなければ、人は動かない。
大勢が一度に叫んでも、誰も動けないのだ。
足軽大将の横に、別の武士が立った。
「槍の扱いは今から覚えろ。だが、勘違いするな。お前たちに一騎討ちは求めていない」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「求めるのは、列を乱さぬこと。命令なく走らぬこと。勝手に追わぬこと。倒れた者を踏まぬこと」
迅は最後の言葉に反応した。
倒れた者を踏まぬこと。
そんなことまで言われなければならないのか。
いや、言われなければ、人は踏むのか。
武士はさらに続ける。
「前へ出る者だけが兵ではない。荷を運ぶ者、矢を配る者、水を汲む者、怪我人を運ぶ者も兵だ。自分の役を捨てた者から、隊は崩れる」
瀬川と同じようなことを言っている。
迅はそう思った。
どうやらこれは、本当のことらしい。
「火守迅!」
突然、名を呼ばれた。
迅は肩を跳ねさせた。
「はい!」
「お前は瀬川源次郎殿の預かりだ。荷駄補助と後方確認につけ」
周囲の何人かが迅を見る。
喜助が小声で言った。
「名前呼ばれたぞ」
「聞こえてる」
「すごいな」
「何がだよ」
「俺なんか、まだ誰にも名前覚えられてない」
「その方が楽だろ」
本気でそう思った。
名前を呼ばれるということは、役目があるということだ。
役目があるということは、逃げにくくなるということだ。
迅は、嬉しくなかった。
けれど、まったく何も感じないわけでもなかった。
*
その頃、灰ヶ峰城の本丸では軍議が始まっていた。
広い板の間に、燧家の重臣たちが集まっている。
中央には、燧国の地図が広げられていた。
地図には、山、川、村、街道、峠、港への道が描かれている。
その上に、黒い石と白い石が置かれていた。
黒い石は敵。
白い石は味方。
東側には、黒い石が三つ置かれている。
沢村。
岩倉村。
古戸の渡し。
その周りに、小さな炭の欠片が置かれていた。
火の印だ。
上座に座るのは、燧景胤だった。
まだ若い。
二十歳になったばかりの当主である。
細身で、顔立ちは整っている。
だが、その目には眠れていない者の疲れがあった。
景胤は、地図をじっと見ていた。
その隣には、副将の真木重頼が座っている。
真木重頼は四十を越えた武将だった。
広い肩。
低い声。
無駄のない動き。
若い景胤とは対照的に、重頼には長く戦を見てきた者の落ち着きがあった。
板の間には、ほかにも役目を持つ者たちがいた。
兵糧奉行、倉橋正継。
物見頭、黒羽甚内。
鉄砲頭、赤松弥八。
荷駄頭、坂部角兵衛。
軍監、鷹見左近。
それぞれが、地図の前で黙っている。
最初に口を開いたのは、物見頭の黒羽甚内だった。
「荒砥勢の本隊は、まだ国境を大きく越えてはおりませぬ」
黒羽は黒い石を一つ動かした。
「ただし、先触れと思われる小勢が三手に分かれ、村を焼いております」
景胤が顔を上げる。
「村を焼く理由は」
「一つは脅し。もう一つは、こちらの兵を散らすためかと」
黒羽は地図の村を指した。
「村が燃えれば、我らは救援に兵を出したくなる。だが、そのたびに城の守りは薄くなります」
真木重頼が低く言った。
「救いに出た兵を、山道で叩くつもりか」
「あり得ます」
部屋の空気が重くなる。
景胤の手が膝の上で握られた。
「沢村の民は」
「一部は灰ヶ峰へ向かっております。だが、逃げ遅れた者もいるかと」
「救援を出す」
景胤はすぐに言った。
だが、真木重頼が静かに首を横に振った。
「お待ちください」
「真木」
「お気持ちは分かります。ですが、今すぐ兵を出せば、荒砥の思うつぼでございます」
景胤の目が鋭くなる。
「燃える村を見捨てろと言うのか」
「見捨てるのではありません。救う順を決めるのです」
その言葉に、景胤は黙った。
真木は地図の上に手を置いた。
「荒砥の小勢は、村を焼いて我らを揺さぶっている。目的は灰ヶ峰城を空けさせること。あるいは東の峠道を確保すること」
「峠道か」
「はい」
真木は地図の東側、山を越える細い道を指した。
「この道を取られれば、荒砥の本隊は荷駄を伴って入れます。兵だけなら山を越えられても、米と矢と火薬が続かねば戦は長くできません」
兵糧奉行の倉橋正継がうなずいた。
「敵も腹が減りますからな」
倉橋は帳面を開いた。
「こちらの兵糧は、現状で城兵のみなら十二日。徴集兵を含めれば八日。避難民を受け入れ続ければ五日から六日」
景胤は目を伏せた。
「民を受け入れぬわけにはいかぬ」
「もちろんでございます」
倉橋は深く頭を下げた。
「しかし、無制限に入れれば、城内の米は尽きます。米が尽きれば、兵は戦えず、民も守れませぬ」
軍監の鷹見左近が口を開いた。
「城下の商人から米を出させるべきです」
倉橋が渋い顔をする。
「出させるだけならできます。ですが、強くやりすぎれば隠します」
「ならば蔵を開けさせればよい」
「隠し蔵まで探すには人手が要ります。今、人手はすべて東へ向いております」
赤松弥八が腕を組んだ。
「火薬も同じだ。港からの荷が止まれば、三日で心細くなる」
「港の様子は」
景胤が尋ねる。
荷駄頭の坂部角兵衛が答えた。
「南の港はまだ動いております。ただし、商人どもが値を上げ始めました」
真木の眉がわずかに動く。
「戦の匂いを嗅いだか」
「はい。米も塩も油も、昨日より二割は高いと」
鷹見左近が不快そうに言った。
「この時に銭勘定か」
坂部は肩をすくめた。
「商人はそういうものです」
景胤は地図を見つめた。
村が燃えている。
民が逃げている。
兵糧は足りない。
火薬も不安。
港の商人は値を上げる。
荒砥の本隊はまだ見えない。
敵が見えないのに、もう国のあちこちが痛み始めている。
これが戦なのか。
景胤は小さく息を吐いた。
「策を聞く」
その一言で、部屋の空気が変わった。
真木重頼が地図へ白い石を三つ置いた。
「まず、灰ヶ峰城の本隊は動かしませぬ」
景胤の顔が少し険しくなる。
真木は続けた。
「代わりに、物見と小勢を出します。目的は救援ではなく、道の確認と避難誘導」
「避難誘導」
「はい。焼かれた村へ兵を突っ込ませるのではなく、逃げる民が通れる道を守る」
黒羽甚内がうなずいた。
「山道に詳しい者が必要です」
「徴集兵の中に、炭焼きや木こりは多いはずだ」
坂部角兵衛が言った。
「荷駄の後ろについてきた村人の中にも、道を見るのがうまい者がおりました」
景胤が顔を上げる。
「名は」
坂部は少し考えた。
「瀬川源次郎殿が預かった者です。煤谷村の……火守迅、とか」
「火守」
景胤はその姓を口にした。
火を守る。
奇妙な響きだった。
真木が言う。
「まだ若い村人です。軍議に上げるほどの者ではありますまい」
「分かっている」
景胤は地図へ目を戻した。
「だが、道を知る者は要る」
黒羽がうなずく。
「物見に山の者をつければ、避難路を見つけやすくなります」
倉橋が地図の蔵の印を指した。
「ただし、避難民を入れるなら、城外に仮の炊き出し場を作るべきです。城内へ一気に入れれば混乱します」
「場所は」
坂部が答えた。
「西の馬場なら広い。水場も近い」
「では、馬場に炊き出し場を作る。米は薄粥にしろ」
倉橋がうなずく。
「承知」
景胤は次に赤松弥八を見た。
「鉄砲は」
「雨が降れば使いづらい。今夜の雲なら、明日は降るかもしれませぬ」
「ならば火薬は温存か」
「はい。威嚇に使う程度でよろしいかと」
真木が地図の東の峠へ石を置いた。
「重要なのはここです。東の赤土峠」
「赤土峠」
「荒砥が本隊を入れるなら、この峠を通る可能性が高い。ここを取られれば、荷駄が入る。荷駄が入れば、敵は長く居座れます」
景胤は赤土峠を見つめた。
「守るべき場所は城ではなく、峠か」
「城も守ります。だが、城に敵を近づけてからでは遅い」
真木は白い石を一つ、赤土峠の手前へ置いた。
「先に小砦を固めます。赤土峠へは、足軽八百、弓二百、鉄砲五十。工兵百。荷駄と人足を三百つけます」
景胤は地図を見つめた。
「千を超えるか」
「はい。ですが、これは決戦の兵ではありません。峠を塞ぎ、敵の本隊を遅らせるための兵です」
真木は、東に置かれた黒い石を見た。
「荒砥の先触れは三百から五百。先陣は三千ほど。本隊が入れば一万。従属兵を合わせれば、二万に届くやもしれませぬ」
二万。
その数が出た瞬間、板の間の空気が変わった。
二万の兵が動けば、米が消える。
道が踏み潰される。
川の水が濁る。
村は、兵が通っただけで冬を越せなくなる。
景胤は、地図の上に置かれた小さな黒い石を見た。
石は小さい。
だが、その向こうには、数えきれない腹と足と槍がある。
鷹見左近が問う。
「徴集兵は」
「前には出さぬ。荷駄、土嚢、木柵、避難誘導に回す」
景胤は静かにうなずいた。
「民を槍の壁にするつもりはない」
その言葉に、部屋の者たちが一瞬だけ黙った。
若い当主らしい言葉だった。
甘い、と見る者もいる。
だが、景胤は本気だった。
真木は景胤を見た。
「そのお考えは尊い。ですが、いずれ選ばねばならぬ時が来ます」
「今はまだ、その時ではない」
「承知しました」
真木は深く頭を下げた。
景胤は板の間にいる者たちを見渡した。
「決める」
全員が姿勢を正した。
「一つ。灰ヶ峰城の本隊は動かさぬ」
「一つ。物見を東へ出し、荒砥の本隊の位置を探る」
「一つ。沢村、岩倉村、古戸から逃げる民を、西の馬場へ誘導する」
「一つ。赤土峠手前の小砦を固める。足軽八百、弓二百、鉄砲五十。工兵百。荷駄と人足を三百つける」
「一つ。徴集兵は荷駄、木柵、炊き出し、避難誘導に回す。無用に前へ出すな」
景胤の声は、若いが澄んでいた。
「最後に」
景胤は少しだけ間を置いた。
「焼かれた村の名を記せ。沢村、岩倉村、古戸。死んだ者の名も、分かる限り記せ」
鷹見左近が顔を上げた。
「戦が終わってからでは」
「今、記せ」
景胤は言った。
「数にするな。村も、人も、米俵ではない」
部屋は静まり返った。
真木重頼は、若き主を横目で見た。
危うい。
そう思った。
だが同時に、この若さがなければ守れないものもあるのだろう、とも思った。
真木は静かに頭を下げた。
「御意」
*
軍議が終わる頃、城の広場には松明が灯り始めていた。
迅は水桶を運び終え、壁にもたれていた。
腕が重い。
足も痛い。
腹も減っている。
それでも、眠れる気はしなかった。
城の中は、夜になっても動いている。
兵が走る。
荷駄が動く。
木材が運ばれる。
釜に火が入る。
怪我人のうめき声が聞こえる。
村の夜とは違う。
夜になれば静かになる村とは違い、城の夜は眠らない。
「火守迅」
声がした。
迅が顔を上げると、瀬川源次郎が立っていた。
「来い」
「どこへですか」
「仕事だ」
「まだあるんですか」
「ある」
「城って本当に休ませる気ないんですね」
「休みたいなら、生き残ってから休め」
迅はため息をついた。
だが、立ち上がった。
瀬川の後ろには、数人の足軽と、見覚えのない男がいた。
細身で、目が鋭い。
その男が迅を見た。
「こいつか」
「はい」
瀬川が答える。
「煤谷村の火守迅です。山道には慣れております。荷駄の後ろで遅れをよく見ていました」
男は迅を上から下まで見る。
「黒羽甚内だ。物見頭をしている」
「はあ」
「返事が鈍い」
「はい」
「明朝、東へ出る。沢村から逃げる民の道を探す。お前はついてこい」
迅は固まった。
「俺が?」
「そうだ」
「いや、俺は荷駄の後ろを見るだけって聞いてたんですけど」
「今度は逃げる民の後ろを見ろ」
黒羽は簡単に言った。
迅は言葉を失った。
逃げる民の後ろ。
その言葉は、軽く聞こえなかった。
瀬川が静かに言った。
「火守。これは前へ出て敵を斬る役ではない」
「なら、何ですか」
「帰れない者を拾う役だ」
迅の胸の奥が、嫌な音を立てた。
小夜の言葉を思い出す。
帰る道を知ってる人がいないと、みんな帰れない。
烈の言葉を思い出す。
逃げてもいいから、帰ってこい。
母の言葉を思い出す。
人を助けるのはいい。でも、自分も帰ってきなさい。
迅は逃げたかった。
全力で逃げたかった。
だが、沢村の火を思い出した。
竹細工をくれた子ども。
干し柿をくれた婆さん。
田植えを手伝いに来た男。
その誰かが、今も山の中で帰り道を探しているかもしれない。
そんなことを考えたくなかった。
考えたくないのに、考えてしまった。
「……俺、戦は嫌いです」
迅は言った。
黒羽が眉を上げる。
「好きな者ばかりではない」
「人が死ぬのも嫌です」
「皆そうだ」
「俺も死にたくない」
「それは大事だ」
黒羽は意外なほどあっさりと言った。
迅は顔を上げた。
黒羽は続ける。
「死にたくない者は、道を見る。音を聞く。風を嗅ぐ。無駄に前へ出ぬ。そういう者の方が、物見には向いている時がある」
「俺は物見じゃありません」
「今はな」
黒羽は背を向けた。
「明朝、夜明け前に出る。遅れるな」
それだけ言って、歩いていった。
迅はその場に立ち尽くした。
喜助が少し離れた場所から駆け寄ってくる。
「迅、何の話だった」
「明日、東へ行くらしい」
「東って」
「沢村の方だ」
喜助の顔が青くなる。
「敵がいる方じゃないか」
「知ってる」
「なんでお前が」
「俺が聞きたい」
迅は空を見た。
夜の空は、城の松明で少し赤かった。
遠くの東の空も、まだかすかに赤い。
火の色ばかりだ。
迅は懐に手を入れた。
小夜からもらった炭の欠片が、指に触れる。
帰り道を忘れないように。
「忘れたくても、忘れられねえよ」
迅は小さくつぶやいた。
その夜、灰ヶ峰城では多くの者が眠らなかった。
若き当主は地図の前に座り続けた。
副将は兵の配置を組み直した。
兵糧奉行は米の数を数え直した。
物見頭は夜明けの道を選んだ。
徴集兵たちは、槍を抱えたまま壁にもたれていた。
そして火守迅は、古い槍を抱えながら、初めて思った。
戦場とは、遠くにある場所ではない。
誰かの腹の中にあり、誰かの足元にあり、誰かの帰り道にある。
夜明け前。
灰ヶ峰城の門が、静かに開く。
迅はまだ知らなかった。
その門の外で、自分が初めて、戦で泣く者の声を聞くことになるなど。




