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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第2話】灰ヶ峰へ

 沢村(さわむら)の火は、夜が明けても消えていなかった。


 山の向こうに、細い煙が残っている。


 朝の光が差しても、その煙だけは黒かった。


 煤谷村(すすたにむら)の者たちは、誰も大きな声を出さなかった。


 いつもなら、鶏が鳴き、子どもが走り、炭焼き小屋から白い煙が上がる。

 けれどその朝は、村全体が息をひそめていた。


 迅は、家の前で古い槍を見下ろしていた。


 昨夜、村長から渡された槍だ。


 柄は古い。

 穂先も頼りない。

 握ると、木のささくれが手のひらに刺さりそうだった。


 これで人を守れと言われても、どうすればいいのか分からない。


「……こんなもん、畑の支柱の方がまだましだろ」


 迅がぼそっと言うと、背後から声がした。


「じゃあ、畑に立てとけば?」


 小夜だった。


 いつものように明るい声だった。

 けれど、目の下には少しだけ影がある。


 昨夜、小夜はあまり眠れていないはずだった。


 それでも小夜は、いつも通り笑おうとしていた。


「迅兄、持ち方が変」


「持ち方なんか知らねえよ」


「烈兄なら知ってるよ」


「あいつに聞くくらいなら、この槍を川に流す」


「迅兄、意地っ張りだねえ」


「うるせえ」


 小夜はくすくす笑いながら、迅の手元を見た。


「でも、その持ち方だと手が痛くなるよ」


「分かるのかよ」


「見れば分かるよ。手に力、入りすぎ」


 小夜は自分の小さな手を広げて、槍を握る真似をした。


「ぎゅって持つんじゃなくて、逃げ道を残す感じ」


「逃げ道?」


「手にも、足にも。逃げ道がないと転ぶでしょ」


 迅は黙った。


 小夜の言うことは、ときどき子どもらしくない。


 けれど、外れてはいない。


 迅が少しだけ力を抜くと、槍は手の中で軽くなった。


「……小夜、お前ほんとよく見てるな」


「でしょ?」


「そこで得意げになるな」


 小夜はにこっと笑った。


 その時、家の中から母の志乃が出てきた。


 手には布の袋(ぬののふくろ)がある。


「迅」


 志乃はそれを差し出した。


「握り飯と、干した大根を少し入れてある」


「母上」


「多くはないよ」


「分かってる」


 迅は受け取ろうとして、手を止めた。


 袋は軽かった。


 軽すぎた。


 家に残る米が少ないことを、迅は知っている。


 昨日、城の使いは兵だけでなく、米と塩も出せと言った。


 村は人を取られ、米も取られる。


 (いくさ)は、本当に腹の中まで持っていく。


「これ、小夜たちで食えばいいだろ」


 迅が言うと、志乃は首を横に振った。


「持っていきなさい」


「でも」


「持っていきなさい」


 今度の声は少し強かった。


 迅は黙って布の袋を受け取った。


 志乃の手は冷たかった。


「……すぐ帰る」


 迅は言った。


 自分でも、軽い言葉だと思った。


 そんな約束ができるなら、父も帰ってきたはずだ。


 志乃もそれを分かっていた。


 それでも、母は笑った。


「帰ってきなさい」


 それだけだった。


     *


 村の広場には、男たちが集められていた。


 若い者もいれば、年を取った者もいる。

 中には、まだ声変わりも終わっていないような少年もいた。


 誰も、きちんとした武具など持っていない。


 古い槍。

 錆びた短刀。

 木の棒。

 縄で補強した竹の盾。


 戦に出る兵というより、急に山仕事へ行けと言われた村人たちに見えた。


 迅はその中に混じって立っていた。


 隣には、幼なじみの喜助(きすけ)がいる。

 喜助(きすけ)は迅より一つ年上だが、顔は真っ青だった。


「迅」


「なんだよ」


「俺、槍なんか持ったことない」


「俺もだよ」


「どうすりゃいい」


「俺に聞くな。俺も聞きたい」


 喜助(きすけ)は泣きそうな顔で槍を抱えている。


 迅はため息をついた。


「とりあえず、刃をこっちに向けるな。危ねえから」


「そ、そうか」


「あと、人の足を踏むな。転ぶ」


「お前、落ち着いてるな」


「落ち着いてねえよ。しゃべってないと吐きそうなだけだ」


 喜助(きすけ)は少しだけ笑った。


 それを見て、迅も少しだけ息を吐いた。


 笑えるなら、まだ大丈夫だ。


 そう思いたかった。


 広場の前に、村長が立った。


 その隣には、燧家(ひうちけ)から来た下級武士(かきゅうぶし)がいる。

 名を、瀬川源次郎(せがわげんじろう)といった。


 甲冑(かっちゅう)は立派ではない。

 だが、腰の刀と背筋の伸び方で、村人とは違うと分かる。


 瀬川(せがわ)は集まった男たちを見渡した。


「これより、お前たちは灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ向かう」


 誰も返事をしない。


 瀬川(せがわ)の眉が動いた。


「返事!」


「は、はいっ!」


 男たちの声が、ばらばらに上がった。


 瀬川(せがわ)は不満そうに鼻を鳴らした。


「戦になれば、返事が遅い者から死ぬ」


 その一言で、広場の空気が冷えた。


 迅は槍を握り直した。


 瀬川(せがわ)は続ける。


「今のお前たちは兵ではない。荷を運ぶ手、槍を持つ手、穴を掘る手だ」


 喜助(きすけ)が小さく震えた。


「だが、命令を聞ける者は兵になる。逃げる者は、ただの足手まといだ」


 迅は思った。


 ずいぶんな言い方だ、と。


 でも、言い返せる者はいない。


 瀬川(せがわ)は村長へ顔を向けた。


「米は」


「こちらに」


 村長が合図すると、村人たちが米俵を運んできた。


 重そうな荷を抱えたおばあさんが、ふらついている。


 迅は反射的に動いた。


「貸せよ」


「でも、迅」


「いいから」


 迅は槍を喜助(きすけ)に押しつけると、おばあさんの米袋を持った。


「重っ……」


 思ったよりも重かった。


 おばあさんが申し訳なさそうに頭を下げる。


「すまないねえ」


「別に。俺が持った方が早いだけだ」


「またそういう言い方する」


 近くにいた小夜が笑った。


 迅は目をそらす。


「うるせえ」


 小夜は、そんな迅を見て嬉しそうにした。


 小夜は知っている。


 迅は、こういう時に必ず動く。

 文句を言って、嫌そうな顔をして、それでも手を伸ばす。


 だから小夜は、迅を信じている。


 瀬川(せがわ)がその様子を見ていた。


「お前、名は」


 迅は米袋を下ろしながら答えた。


「火守迅」


「足は速いと聞いた」


「誰がそんな余計なことを」


「村長だ」


 迅は村長を見た。


 村長は気まずそうに目をそらした。


 瀬川(せがわ)は短く言う。


「お前は荷駄の後ろにつけ。遅れる者を拾え」


「拾え?」


「歩けなくなった者、荷を落とした者、道を外れた者を見る役だ」


「俺が?」


「そうだ」


 迅は顔をしかめた。


「俺、戦いに行くんじゃないんですか」


「今のお前が前に出ても邪魔だ」


 はっきり言われた。


 喜助(きすけ)が気まずそうに目を泳がせる。


 烈なら、ここで怒ったかもしれない。


 でも迅は、少しだけほっとしていた。


 前に出なくていい。


 敵と斬り合わなくていい。


 そう思ってしまった自分が、少し嫌だった。


 瀬川(せがわ)は続けた。


「ただし、荷駄が遅れれば前の兵が飢える。兵が飢えれば、戦は負ける」


 迅は黙った。


「戦は、槍だけで勝つものではない」


 瀬川(せがわ)の声は静かだった。


「米を運ぶ者も、道を見る者も、伝える者も、みな戦の中にいる」


 迅は初めて、瀬川(せがわ)の顔をまともに見た。


 厳しいが、ただ偉そうなだけではない。


 この男は、戦を知っている。


 そう感じた。


     *


 烈は広場の端で、木槍を握りしめていた。


 迅が行く。

 自分は残される。


 それが、どうしても納得できなかった。


「兄上より、俺の方が戦えるのに」


 烈がつぶやくと、小夜が隣に来た。


「烈兄」


「なんだよ」


「今、すごく顔が怖い」


「当たり前だ」


「でも、その顔だとすぐ死ぬよ」


 烈が小夜を睨む。


「お前な」


「だって、前しか見てないもん」


「前を見ないでどう戦うんだよ」


「横も後ろも見ないと、足をすくわれるよ」


 小夜はさらりと言った。


 烈は言い返そうとして、言葉に詰まった。


 小夜は明るく笑った。


「烈兄は強いよ」


「……急になんだよ」


「でも、強い人から死ぬ戦もあると思う」


 その言葉に、烈の顔から少しだけ怒りが消えた。


 小夜は続ける。


「迅兄は、逃げる人を見る。泣いてる人を見る。倒れそうな人を見る。だから、たぶん帰ってくる道を探せる」


「兄上は逃げ足が速いだけだ」


「それ、すごいことだよ」


 小夜は地面に小枝で線を引いた。


 村から灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ続く山道。

 その脇に、細い抜け道。

 沢へ降りる道。

 炭焼き小屋へ続く道。


「戦って、前に進むだけじゃないでしょ」


「……」


「帰る道を知ってる人がいないと、みんな帰れない」


 烈は黙った。


 木槍を握る手に、力が入る。


「じゃあ、俺は何をすればいい」


 その声は、さっきより少し低かった。


 小夜はにこっと笑った。


「小夜と母上を守る」


「それだけかよ」


「それだけって言うけど、大事だよ」


 烈は口を閉じた。


 遠くで、迅が米袋を荷駄に積んでいるのが見える。


 不器用で、文句ばかりで、戦う気などまるでない兄。


 それでも小夜は、迅を信じている。


 烈には、それが少し悔しかった。


     *


 昼過ぎ、煤谷村(すすたにむら)からの一団は出発した。


 先頭に瀬川源次郎(せがわげんじろう)

 その後ろに、村から出された男たち。

 中央には米と塩を積んだ荷駄。

 最後尾に、迅と喜助(きすけ)たちがつく。


 小夜と烈、志乃は村の入口まで見送りに来ていた。


「迅兄」


 小夜が呼んだ。


 迅は振り返る。


「何だ」


「これ」


 小夜は、小さな炭の欠片を差し出した。


「なんだよ、これ」


「印」


「印?」


「帰り道を忘れないように」


 小夜は笑った。


「迅兄、道は覚えてると思うけど、念のため」


「俺を馬鹿にしてんのか」


「ううん。お守り」


 迅は炭の欠片を見た。


 ただの黒い欠片だ。


 でも小夜が真面目な顔をしているので、捨てる気にはなれなかった。


「……分かったよ」


 迅はそれを(ふところ)に入れた。


 烈が一歩前に出る。


「兄上」


「なんだ」


「死ぬなよ」


「お前に言われなくても死にたくねえよ」


「逃げてもいいから、帰ってこい」


 迅は少しだけ目を丸くした。


 烈はそっぽを向く。


「小夜がうるさいからな」


 小夜が笑う。


「小夜のせいにした」


「うるさい」


 迅は小さく笑った。


「小夜と母上を頼むぞ、烈」


「言われなくても守る」


「無茶すんなよ」


「それは兄上だろ」


 二人は少しだけ睨み合った。


 でも、すぐに目をそらした。


 志乃が迅の前に立った。


「迅」


「母上」


「人を助けるのはいい。でも、自分も帰ってきなさい」


 迅は黙った。


 志乃の言葉は、迅をよく知っている言葉だった。


 迅は人を見捨てられない。

 それは良いところでもあり、危ういところでもある。


「……分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは、はいと言いなさい」


「はい」


 志乃は少しだけ笑った。


 そして、迅の肩に手を置いた。


「行っておいで」


 その言葉で、迅はようやく足を前に出した。


     *


 山道は、思ったよりも険しかった。


 いや、普段なら慣れている道だ。


 炭を運ぶ時にも通る。

 山菜を採りに行く時にも通る。

 子どもの頃は烈と走り回った道でもある。


 だが、米袋を積んだ荷駄があり、槍を持った男たちが並び、皆の顔がこわばっているだけで、同じ道には見えなかった。


 喜助(きすけ)が息を切らす。


「迅、城までどれくらいだ」


「普通に歩けば半日」


「普通じゃない今は?」


「知らねえ。聞くな」


 喜助(きすけ)は情けない顔をした。


「足が痛い」


「まだ始まったばっかだぞ」


「もう帰りたい」


「俺もだ」


 二人は小声で言い合った。


 その前方で、瀬川(せがわ)が振り返る。


「遅れるな」


「はい」


 返事だけは早くした。


 迅は周囲を見た。


 荷駄の車輪が泥にはまりそうになっている。

 年を取った男が息を切らしている。

 槍を逆に持っている少年がいる。

 草履(ぞうり)の紐が切れかけている者もいる。


 戦場に着く前から、もう崩れそうだった。


 迅は舌打ちした。


喜助(きすけ)


「なんだ」


「あいつの草履、結び直させろ」


「え?」


「あのまま歩いたら転ぶ。転んだら荷駄が止まる。荷駄が止まったら瀬川(せがわ)殿に怒鳴られる。俺たちも怒鳴られる」


「分かった」


「それと、あの米袋、右に寄りすぎだ。坂で落ちる」


「よく見てるな」


「見たくなくても見えるんだよ」


 迅は文句を言いながら、荷駄へ駆け寄った。


 米袋を押し直し、草履の切れかけた男を呼び止める。

 少年の槍の向きを直し、息を切らした男に水を飲ませる。


 何度も足を止めた。


 何度も走った。


 そのたびに、瀬川(せがわ)が黙って迅を見ていた。


「火守」


「はい」


「お前、荷駄の後ろを見ると言ったな」


「言われたからやってるだけです」


「そうか」


 瀬川(せがわ)はそれ以上言わなかった。


 だが、その目は少しだけ変わっていた。


     *


 夕方近く。


 一行は、山の中腹にある見張り小屋へたどり着いた。


 そこからは、遠くに灰ヶ峰城(はいがみねじょう)が見える。


 そして、さらに東の山すそに、黒い煙がいくつも上がっていた。


 沢村(さわむら)だけではなかった。


 煙は三つ。

 いや、四つ。


 喜助(きすけ)が息をのむ。


「また燃えてるのか」


 迅は答えられなかった。


 瀬川(せがわ)が見張りの兵に尋ねる。


「報せは」


荒砥(あらと)先触れ(さきぶれ)と思われます。ただし本隊ではありません」


物見(ものみ)か」


「あるいは、村を焼いて道を開けているのかと」


 迅には、言葉の意味がすぐには分からなかった。


 村を焼いて、道を開ける。


 どういうことだ。


 村は、人が住む場所だ。

 田があり、家があり、飯を食う場所だ。


 それを焼いて、道にする。


 戦とは、そういうものなのか。


 瀬川(せがわ)は厳しい顔で東を見た。


灰ヶ峰(はいがみね)へ急ぐ」


 見張り兵(みはりへい)がうなずく。


「城では軍議(ぐんぎ)が始まっています。総大将(そうだいしょう)燧景胤(ひうちかげたね)様。副将(ふくしょう)真木重頼(まきしげより)殿。兵糧奉行(ひょうろうぶぎょう)物見頭(ものみがしら)も集められました」


 知らない役職(やくしょく)ばかりだった。


 総大将(そうだいしょう)

 副将(ふくしょう)

 兵糧奉行(ひょうろうぶぎょう)

 物見頭(ものみがしら)


 迅は、その言葉を聞きながら、遠くの煙を見ていた。


 戦は、ただ槍を持って走るだけではないらしい。


 誰かが命令を出す。

 誰かが米を数える。

 誰かが道を見る。

 誰かが死ぬ場所を決める。


 そして、誰かが村を焼く。


 迅の手が、槍の柄を握った。


 ささくれが、また手のひらに刺さる。


 痛かった。


 けれど、手を離せなかった。


 懐には、小夜からもらった炭の欠片がある。


 帰り道を忘れないように。


 小夜はそう言った。


 迅は東の煙を見た。


 あの煙の下にも、帰り道を探している人がいるのだろうか。


 そんなことを考えてしまった。


「火守」


 瀬川(せがわ)が呼んだ。


「はい」


「ここから先は、城の兵と合流する。勝手に動くな」


「分かってます」


「だが」


 瀬川(せがわ)は少しだけ間を置いた。


「後ろを見る役は続けろ」


 迅は眉をひそめた。


「俺でいいんですか」


「今のところ、お前が一番見ている」


 それだけ言うと、瀬川(せがわ)は前を向いた。


 迅は返事をしそびれた。


 褒められたのか。

 ただの命令なのか。


 よく分からない。


 でも、喜助(きすけ)が小さく笑った。


「よかったな、迅」


「何が」


「役に立ってる」


「嬉しくねえよ」


 迅はそう言った。


 けれど、胸の奥が少しだけ熱かった。


 昨夜、村長が言った言葉を思い出す。


 誰かを守ろうとして灯す火。

 昔の者は、それを徒火(あだび)と呼んだ。


 迅には、まだ分からない。


 自分が握っているものが、槍なのか。

 逃げ道なのか。

 それとも、小さな火なのか。


 ただ一つだけ分かっていた。


 もう、何も知らないふりはできなかった。


 山の向こうで、また煙が上がった。


 迅たちは、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ向かって歩き出した。

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