【第42話】片方の草履
小さな草履は、板の上に置かれていた。
片方だけだった。
泥と煤で黒ずみ、底は半分ほど擦り切れている。
鼻緒の片側は切れていた。
もう片側には、細くよった紙のようなものが巻かれている。
子どもの足に合わせて作られた草履だった。
それが、子どもの足ではなく、顔を伏せた男の手から出てきた。
炭焼き道の留め場には、朝の光が差し込んでいる。
夜の間に置かれた小さな火は、もう消えていた。
水桶は洗われ、縄は張り直されている。
それでも、道の土は戻らない。
踏み荒らされた跡は、そのまま残っていた。
迅は、板の上の草履を見ていた。
見れば見るほど、胸の奥が詰まる。
草履は、ただの物ではなかった。
誰かが履いていた。
誰かが片方だけ失った。
誰かが、それを拾った。
そして、誰かが名を言わないまま、ここまで持ってきた。
瀬川が男の前に立つ。
「その草履を、どこで拾った」
顔を伏せた男は、すぐには答えなかった。
膝を抱え、目だけを地面へ落としている。
昨日よりは顔を上げるようになった。
だが、声はまだ遠い。
「道で」
「どの道だ」
男は黙る。
黒羽が、草履ではなく男の手を見ていた。
爪の間に泥が残っている。
掌には、縄で擦れた跡があった。
荷を持った手。
ただの村人の手とも、兵だけの手とも言い切れない。
迅にも、それは分かった。
「黒根村の道か」
瀬川が聞いた。
男の肩が、わずかに動いた。
それだけだった。
「知っているのだな」
男は、長く息を吸った。
「通った」
「誰と」
「言えない」
「言えば、誰かが危ないのか」
男は答えない。
答えないことが、答えに近かった。
迅は、思わず前へ出た。
「その子は、生きていますか」
瀬川が、ちらりと迅を見た。
急ぎすぎるなという目だった。
けれど、言葉はもう出ていた。
男は、草履を見た。
長い沈黙のあと、首を横へ振る。
「知らない」
迅の胸が落ちた。
「見たのではないのですか」
「見ていない」
「では、なぜ持っているんですか」
男の指が、膝の上で震えた。
「捨てられなかった」
その声は、あまりに小さかった。
喜助が水桶の手を止める。
黒羽の配下も、木の皮へ線を引く手を止めた。
瀬川だけが、静かに続ける。
「拾った場所を言え」
男は目を閉じた。
「焼けた道だ」
「黒根村か」
「村の手前」
「手前?」
「村へ入る前の、荷を止める場所」
迅は息を呑んだ。
荷を止める場所。
それは、いま自分たちが作っている留め場と同じ言葉だった。
同じ形の場所が、焼けた道にもあった。
「誰が荷を止めていた」
瀬川が聞く。
「荒砥国の兵」
男は言った。
しかし、すぐに首を振った。
「いや、兵だけじゃない」
「ほかに誰がいた」
「荷を持つ者。火を持つ者。紙を見る者」
「紙を見る者?」
黒羽が反応した。
男は口を閉じる。
また、言いすぎたと気づいた顔だった。
瀬川は声を荒げなかった。
「紙とは何だ」
「分からない」
「見たのか」
「見た」
「なら、見たものを言え」
男は、板の上の草履を見た。
「木札じゃない。役札でもない。荷に挟む紙だ」
「荷札か」
「そうかもしれない」
「どんな紙だ」
男は、指先で草履の鼻緒を示した。
「それと似ていた」
*
黒羽は、草履を手に取らなかった。
代わりに、八瀬隼人へ目で合図した。
八瀬隼人が木の皮を近づけ、草履の形を写す。
底の減り方。
鼻緒の切れ方。
紙の巻かれた場所。
すべてを、炭で細く残していく。
迅は、草履の鼻緒に巻かれた紙を見た。
紙は細くよられている。
紐の代わりに使ったのだろう。
だが、草や藁ではない。
紙だ。
子どもの草履を直すために、紙が使われている。
それだけなら珍しくないかもしれない。
けれど、今の燧国の村で紙は安くない。
焼けた道に落ちていた子どもの草履に、なぜ紙が巻かれているのか。
「紙縒りか」
瀬川が言った。
「はい」
八瀬隼人が答える。
「ただ、粗い紙ではありません。水を吸っても、まだ切れきっていません」
黒羽が目を細める。
「城へ持ち帰る」
迅は草履を見る。
「持っていくんですか」
「ここで見られることは限られる」
「でも」
「分かっている」
黒羽は、迅の言葉を遮らなかった。
「これは証だけではない。誰かのものだ」
迅は黙った。
証。
誰かのもの。
その二つが、同じ板の上にある。
どちらとして扱えばよいのか、迅には分からなかった。
顔を伏せた男が、不意に口を開いた。
「持っていくなら、なくすな」
黒羽が男を見る。
「誰のものか知っているのか」
「知らない」
「なら、なぜ」
「片方だけ戻っても、もう片方が探す」
意味の取りづらい言葉だった。
だが、迅には少しだけ分かった。
片方だけの草履。
片方だけ通された子。
片方だけ残された手。
同じではない。
それでも、似ていた。
「なくしません」
迅が言った。
男は迅を見た。
「お前が持つのか」
「城へは、八瀬が形を持ち帰ります。草履は、黒羽殿が」
「お前は」
「俺は、ここを見ます」
男は、しばらく迅を見ていた。
そして、初めて小さく頷いた。
「ここも、なくすな」
迅は返事に詰まった。
ここ。
留め場。
半分の道。
通した場所。
止めた場所。
通せなかった場所。
「はい」
やっと、それだけ言えた。
*
灰ヶ峰城では、鷹見が草履の写しを見ていた。
実物は黒羽の配下が運び、別の板の上に置かれている。
景胤、真木、瀬川、倉橋、坂部、赤松も集まっていた。
迅はまだ炭焼き道に残っている。
烈が、八瀬隼人とともに報告へ立っていた。
「顔を伏せた男は、草履を焼けた道で拾ったと言っています」
烈は、言葉を崩さないように言った。
「黒根村の中ではなく、村へ入る前の荷を止める場所。そこに荒砥国の兵、荷を持つ者、火を持つ者、紙を見る者がいたと」
「紙を見る者」
鷹見が繰り返す。
筆が止まっている。
「草履の鼻緒には、紙縒りが巻かれていました」
八瀬隼人が木の皮を差し出す。
鷹見は、実物の草履へ顔を近づけた。
触れる前に、黒羽が言う。
「まだ切るな」
「承知しています」
鷹見は紙縒りを指で押さえず、目だけで見る。
「燧国の村で子どもの草履を直すなら、藁か布を使うことが多い。紙を使うこともありますが、この紙は少し薄い」
「西の紙か」
真木が聞いた。
鷹見は首を振った。
「まだ決められません」
「似てはいるか」
「偽りの役札に混じっていた紙、油布の男が持っていた紙。その二つと、近い手触りに見えます」
景胤は、地図の端に置いた黒い石を見た。
「梶ノ国か。弓削国か」
「まだ、どちらの名も付けるべきではありません」
鷹見が言った。
「西の紙、とだけ」
景胤は頷いた。
「そう記せ」
倉橋が帳面をめくる。
「西の紙が、子どもの草履の補いに使われていたとなると、紙そのものが村へ流れていた可能性があります」
「商い荷か」
坂部が言った。
「米や塩の荷に混じったか。寺筋か。荒砥が奪ったものを使ったか。どれも今は分かりません」
倉橋はそう言って、紙の欄を作った。
「塩の荷の噂もあります」
景胤が顔を上げる。
「浄火寺からのものか」
「はい。西の寺筋で、塩の荷が戻されたと」
真木が低く唸った。
「紙、塩、火。別々に見れば、ただの物だ」
「同じ道に乗れば、戦になります」
倉橋が言った。
景胤は草履を見た。
小さすぎる物だった。
それなのに、地図の上の国境より重く見えた。
「荒砥を外すな」
景胤が言った。
「だが、荒砥だけに入れるな」
鷹見が筆を取る。
荒砥。
西の紙。
塩の荷。
草履。
黒根村手前の留め場。
出どころ不明。
景胤は、その文字を見ていた。
「子どもの物を、戦の証だけにするな」
鷹見の筆が止まる。
「はい」
「持ち主不明。片方のみ。保管。そう記せ」
鷹見は深く頭を下げた。
「承知しました」
*
煤谷村では、小夜が石を並べていた。
地面に描いた道の上に、白い石。
黒い石。
赤い石。
そして、小さな灰色の石。
烈が持ち帰った木の皮の写しを、志乃が横から見ている。
草履の絵は、小さかった。
けれど、小夜はそこから目を離さなかった。
「片方だけ」
小夜が言った。
「そうだ」
烈が頷く。
「顔を伏せた男が持ってた。名前は、まだ言わない」
「草履の子は?」
「分からない」
「生きてるかも?」
「分からない」
「死んでるかも?」
「それも、分からない」
烈は、言っていて喉が苦しくなった。
分からないばかりだ。
けれど、分かったことにしてしまえば楽になる。
その楽さが怖かった。
小夜は、草履の絵の横に黒い石を置いた。
その隣に、小さな白い石を置く。
さらに、少し離れたところへ赤い石を置いた。
「黒は分からないもの」
「うん」
「白は?」
「戻したいもの」
烈は少し驚いた。
「戻したいもの?」
「草履は、足に戻りたい」
小夜は言った。
「でも、足がどこか分からない」
志乃が静かに息を吐いた。
烈は何も言えなかった。
小夜は、赤い石を指した。
「赤は火?」
「ううん」
「違うの?」
「火もあるけど、嫌な気持ち」
小夜は、草履の絵を見つめる。
「この草履を見ると、嫌な気持ちが出る。怒るのとも違う。泣くのとも違う」
志乃が、小夜の肩へ手を置いた。
「それも置いておきなさい」
「うん」
小夜は赤い石を、草履のすぐ近くではなく、少し離して置いた。
「近すぎると、草履が赤になる」
「赤にしてはいけないの?」
烈が聞く。
「草履は火じゃない」
小夜は、はっきり言った。
「火で焼けたかもしれないけど、草履は火じゃない」
烈は、その言葉を胸に刻んだ。
敵が持っていたもの。
焼けた場所にあったもの。
火の匂いがするもの。
それらをすぐ火そのものにしてしまえば、見るものを間違える。
「兄上に伝える」
烈が言った。
「草履は火じゃないって」
小夜は頷いた。
「あと、片方だけなら、もう片方を探す人がいる」
志乃の手が、わずかに強くなった。
「小夜」
「だって、草履は一人で歩けない」
烈は、木の皮を見た。
小さな草履の絵。
片方だけの線。
それは、ただの物ではなかった。
戻れないもの。
戻したいもの。
そして、まだ敵とも味方とも決めてはいけないものだった。
*
浄火寺の門前では、粥の列が続いていた。
太助は椀を渡している。
梅吉は子ども連れを日陰へ寄せる。
蓮昭は門の内と外を見ていた。
寺へ来る者の中にも、片方の草履で歩く子がいた。
鼻緒を失い、布で足に巻きつけている。
太助は、その足を見て椀を止めかけた。
「止めるな」
蓮昭が言った。
太助ははっとして椀を渡す。
「はい」
けれど、目はその子の足へ戻ってしまう。
「草履がない子、多いですね」
「焼けた道を歩けば、そうなる」
梅吉が言った。
「片方だけでも、履ける方がましだ」
太助は、自分の足を見る。
自分は両方履いている。
それが急に、申し訳ないことのように思えた。
門の端で、僧が蓮昭へ紙を渡した。
「また西の寺筋からです」
蓮昭は受け取らない。
「今は読むな」
「ですが」
「粥の列がある」
僧は紙を下げた。
「塩の話か」
「はい」
「なら、なおさら今は読むな。腹が聞く」
太助は、その言葉を聞いていた。
腹が聞く。
粥が薄い時、塩の話はただの噂ではなくなる。
足が痛い時、草履の話はただの物ではなくなる。
椀を持つ手が、また重くなる。
「太助」
蓮昭が呼んだ。
「はい」
「足を見るな。椀を見ろ」
「でも」
「足を見たなら、あとで残せ。今は椀を止めるな」
太助は唇を結んだ。
「はい」
椀を渡す。
一つ。
また一つ。
足を見たことを、なかったことにはしない。
けれど、今は椀を止めない。
それが、太助の役目だった。
*
夕刻、迅は炭焼き道の留め場へ戻ってきた烈から、小夜の石の話を聞いた。
留め場には、まだ焦げた笠の男がいる。
顔を伏せた男もいる。
草履の実物は城へ送られたが、八瀬隼人の写しが残されていた。
烈は、小夜の言葉を崩さず伝えた。
「草履は火じゃない」
迅は、思わず聞き返した。
「小夜が?」
「うん。火で焼けたかもしれないけど、草履は火じゃないって」
迅は、木の皮の写しを見た。
焦げた草履。
煤のついた鼻緒。
紙縒り。
それを見れば、火を思う。
敵を思う。
罠を思う。
けれど、小夜はそうしなかった。
草履は草履。
片方だけでは歩けないもの。
戻したいもの。
探す人がいるもの。
迅は、顔を伏せた男を見た。
「聞こえましたか」
男は答えない。
だが、少しだけ顔を上げていた。
焦げた笠の男が、鼻を鳴らした。
「火じゃないなら、何だ」
迅は少し考えた。
「道です」
「草履が道?」
「はい」
迅は、木の皮を見た。
「誰かが歩いた道です。途中で切れた道です」
焦げた笠の男は黙った。
顔を伏せた男の手が、膝の上で強く握られる。
もう草履はそこにない。
それでも、手は何かを握っている形のままだった。
迅は、その手へ向けて言った。
「草履は城で見ます。紙も見ます。でも、誰かのものとして残します」
男の唇が少し動いた。
声にはならない。
迅は待った。
急がない。
名を無理に開かせない。
だが、聞くことをやめない。
やがて男は、かすれた声で言った。
「俺が拾った時」
迅は息を止めた。
「はい」
「草履のそばに、もう一つ残っていたものがあった」
「もう一つ?」
「足跡だ」
男は、地面を見た。
「小さい足跡が、片方だけ。もう片方は、引きずった跡だった」
迅の背中に、冷たいものが走った。
「その子は、歩いていたんですか」
「分からない」
「誰かに引かれていた?」
「分からない」
「どちらへ」
男は長く黙った。
そして、炭焼き道の奥ではなく、山の西側を見た。
「西へ」
その言葉だけが、留め場に落ちた。
西。
紙。
塩。
商い荷。
草履。
まだ、線にはならない。
けれど、別々の石が同じ方を向き始めていた。
迅は、すぐには何も言わなかった。
分かったことにしてはいけない。
だが、聞かなかったことにもできない。
「八瀬」
迅が呼んだ。
八瀬隼人が木の皮を広げる。
「小さい足跡。片方だけ。もう片方は引きずった跡。向きは西」
迅は、言葉を一つずつ置いた。
「分からないものとして」
八瀬隼人が頷いた。
「はい」
顔を伏せた男は、また黙った。
だが、その沈黙は、朝より少しだけ浅かった。
迅は、山の西を見た。
夕日が沈み、木々の影が長く伸びている。
荒砥国は東にある。
だが、草履の跡は西を向いていた。
そのことを、迅はまだ誰にも敵の名として渡せなかった。
ただ、残す。
消さない。
それだけを、今は選んだ。




