【第41話】残された声
朝になっても、声は消えなかった。
鳥の声ではない。
竹筒の音でもない。
夜のうちに縄の向こうへ残した者たちの声が、迅の耳の奥でまだ揺れていた。
炭焼き道の留め場には、霧が低く流れている。
地面は踏み荒らされていた。
小さな足跡。
大きな足跡。
倒れた者が手をついた跡。
引きずられたような跡。
そして、途中で途切れた跡。
縄は濡れて重くなっていた。
杭は一本、斜めにずれている。
火消し水の桶は半分。
飲み水は、底が見えていた。
それでも、桶は倒れていない。
火も、余燼を残すだけで、広がってはいない。
崩れなかった。
その言葉は、迅の胸に少しも軽く入ってこなかった。
「迅」
瀬川の声がした。
迅は、縄の向こうを見たまま返事をした。
「はい」
「歩けるか」
「歩けます」
「なら、見るぞ」
瀬川は、そう言って道の奥を指した。
黒羽の配下が二人、すでに土を見ている。
八瀬隼人は木の皮を広げ、足跡の形を写していた。
喜助は水桶のそばにいる。
泣き疲れた子どもに、最後に残した水を少しずつ渡していた。
その子は、昨夜、左の縄が下がる寸前に通された子だった。
手を離された子。
こちら側に残された子。
「お母さんは」
子どもがまた言った。
小さな声だった。
喜助の手が止まる。
椀の水面が、細かく揺れた。
「探してる」
喜助は言った。
嘘ではない。
だが、本当を全部言っているわけでもない。
迅は、その言葉がどちらなのか分からなかった。
子どもは椀を抱えたまま、縄の方を見た。
その目を、迅は正面から見られなかった。
「迅」
瀬川が、もう一度呼んだ。
迅はようやく振り向いた。
「見ます」
「よし」
瀬川は、黒羽の配下へ声をかけた。
「どこから消えた」
「ここです」
物見が、土の上へ小さな枝を置いた。
「足跡が三つ、ここで乱れています。一つは戻り、一つは横へ流れ、一つは奥へ押されています」
「血は」
「少し」
「多いか」
「多くはありません」
迅は息を詰めた。
多くはない。
それは、生きているという意味ではない。
死んだという意味でもない。
まだ分からないというだけだった。
「分からないまま、写せ」
瀬川が言った。
八瀬隼人が頷く。
「はい」
木の皮に線が増えていく。
通した者。
留めた者。
止めた者。
押された者。
そして、分からない者。
何もなかったことにはしないための線だった。
*
焦げた笠の男は、縄から少し離れた場所に座っていた。
手は縛られていない。
けれど、立てば黒羽の配下がすぐ見える位置だった。
男の笠は、まだ地面に置かれている。
焦げた縁の匂いは、夜より薄くなっていた。
迅が近づくと、男は顔を上げた。
「俺をまだ通さないのか」
「まだです」
「昨日、火を持った奴を言った」
「はい」
「それでもか」
「それでもです」
男は唇を歪めた。
「便利だな。疑う方は」
迅は返せなかった。
男の言葉は間違っていない。
疑う側は、通さない理由を持てる。
疑われる側は、通れない痛みを持つ。
その重さは同じではない。
「名を聞いてもいいですか」
「まだ聞くのか」
「はい」
「言わねえ」
「なぜですか」
男は黙った。
代わりに、道の奥を見た。
「言えば、そいつを残すのか」
「どういう意味です」
「俺の名を帳面に書けば、俺がどこから来たかも書くんだろう」
「必要なら」
「その村がまだ残っていたら?」
迅は息を止めた。
「俺がここにいると知られたら、残った奴が焼かれるかもしれねえ」
男の声は荒い。
だが、嘘を隠す荒さには聞こえなかった。
もちろん、それも分からない。
「だから名を言わないのですか」
「理由を言えば、名と同じだ」
迅は、それ以上聞けなかった。
黒羽が少し離れた場所から見ていた。
「無理に開かせるな」
黒羽が言った。
「口も、手も同じだ。無理に開けば、隠しているものも、守っているものも一緒に壊れる」
迅は頷いた。
焦げた笠の男は、地面を見たまま呟いた。
「俺は、昨日の奴らと一緒じゃねえ」
「分かりません」
「またそれか」
「はい」
迅は、男の正面に膝をついた。
「でも、昨日、あなたが火を見たことは残します」
男は顔を上げた。
その目に、怒りではないものが少しだけ浮かんだ。
「残す?」
「はい」
「名もないのにか」
「名がなくても、したことは残せます」
男は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、焦げた笠の方へ目をやった。
「なら、俺が通れなかったことも残せ」
「残します」
「本当にか」
「はい」
迅は答えた。
答えてから、その重さに気づいた。
残す。
それは、助けることではない。
それでも、消さないという約束だった。
*
顔を伏せた男は、火の消えた場所から離れた岩のそばにいた。
夜の間、ほとんど動かなかった。
逃げなかった。
叫ばなかった。
泣きもしなかった。
ただ、手の中の小さな草履を握っている。
瀬川が近づいても、男は顔を上げなかった。
「名は」
男は答えない。
「聞かぬわけにはいかぬ」
やはり答えない。
迅は、草履を見た。
小さな片方だけの草履。
泥と煤で黒ずんでいる。
鼻緒の片側が切れていた。
「その草履は、あなたの子のものですか」
男の指が震えた。
だが、答えはない。
「黒根村のものですか」
男の肩がわずかに動いた。
黒羽の目が細くなる。
瀬川も気づいた。
「黒根村を知っているのか」
男は、初めて顔を上げた。
目は赤い。
眠っていない目だった。
けれど、涙ではなかった。
「知っている」
声は、ひどくかすれていた。
迅の胸が鳴った。
「あなたは黒根村の人ですか」
男は首を横に振った。
「違う」
「では、なぜ」
「通った」
「いつ」
男は口を閉じた。
それ以上は言えないのか。
言いたくないのか。
言えば誰かが危なくなるのか。
迅には分からなかった。
瀬川は、急がせなかった。
「その草履の持ち主は」
男の手が強く閉じる。
「分からない」
迅は、その答えに息を呑んだ。
「分からない?」
「拾った」
「どこで」
「道で」
「どの道です」
男はまた黙った。
しかし今度は、完全に閉じた沈黙ではなかった。
何かを選んでいる沈黙だった。
黒羽が低く言った。
「言えるところまででいい」
男は、ゆっくりと炭焼き道の奥を見た。
「焼けた道だ」
迅は、その言葉を胸に留めた。
焼けた道。
黒根村なのか。
別の村なのか。
荒砥に焼かれたのか。
従わされた者が火を運んだのか。
分からない。
「名は、まだ言えませんか」
迅が聞いた。
男は、また草履を握った。
「言えば、俺が拾ったものまで俺のものになる」
「どういう意味ですか」
「俺の罪になる」
迅は言葉を失った。
男はそれ以上話さなかった。
だが、草履を隠しはしなかった。
昨日より、ほんの少しだけ手が開いていた。
*
灰ヶ峰城へ戻った烈は、まっすぐ走り込まなかった。
門をくぐる前に、息を整えた。
木の皮を持つ八瀬隼人が、隣で足を止める。
「先に水を飲むか」
門番が聞いた。
烈は首を振った。
「先に、言葉を置きます」
小広間では、景胤が待っていた。
真木、鷹見、倉橋、坂部もいる。
瀬川と迅は、まだ炭焼き道に残っている。
だから烈が、言葉を持ち帰る。
「崩れたか」
景胤が聞いた。
烈は答えた。
「崩れてはいません」
「通した者は」
「子ども連れ、老人、怪我人、多数。ただし数はまだ確かではありません」
「止めた者は」
「油布の男。焦げた笠の男。顔を伏せた男。ほか数名」
「通せなかった者は」
烈の喉が詰まった。
それでも、言わなければならない。
「数、まだ分かりません」
小広間が静かになった。
景胤は、すぐに次を問わなかった。
鷹見の筆だけが動いている。
通せなかった者。
数不明。
名不明。
声あり。
烈は続けた。
「縄の向こうで、手が離れました。こちら側に来た子どもが、母を探しています」
鷹見の筆が止まりかけた。
止まらなかった。
「その母は」
景胤が聞いた。
「分かりません」
「見た者は」
「迅兄上が見ています。瀬川殿も」
「戻ったら聞く」
景胤はそう言って、地図の上へ石を置いた。
一つは、通した者。
一つは、止めた者。
一つは、通せなかった者。
三つ目の石だけ、道の上に置かなかった。
地図の外に置いた。
まだ、どこに置けばよいのか分からない石だった。
倉橋が帳面を開く。
「水は」
「飲み水、ほぼ尽きています。火消し水は半分。火は消せました」
「粥は」
「遅れています」
「寺は」
「浄火寺の手前で列が増えています。太助が椀を渡し、梅吉が子ども連れを寄せています」
坂部が顔をしかめた。
「荷は届いているが、遅れている。水も足りぬ。人も足りぬ」
倉橋が頷いた。
「それでも、火薬箱は守れた」
「守れたものだけを先に言うな」
景胤の声が低くなった。
坂部が口を閉じる。
景胤は、地図の外に置いた石を見ていた。
「守れたものと、守れなかったものを、同じ紙に書け」
鷹見が頭を下げる。
「承知しました」
「通せなかった者は、数が分からぬまま残す」
「はい」
「名が分かった者は、後で足せ」
「はい」
「名が分からぬ者は」
景胤は少し沈黙した。
「声として残せ」
鷹見の筆が、紙の上で止まった。
「声、ですか」
「名も数も分からぬまま消せば、我らは都合よく忘れる」
景胤は言った。
「昨日の道には、声が残った。そう書け」
烈は、胸の奥が痛くなった。
残された声。
それは報告の言葉なのか。
それとも、罪の名前なのか。
まだ分からなかった。
*
浄火寺では、粥が薄かった。
椀の底が、前より早く見える。
それを見た避難民たちの顔には、不満が浮かんでいた。
蓮昭は、釜のそばに立っている。
太助は椀を渡し、梅吉は列を押し返さずに寄せている。
「薄いぞ」
誰かが言った。
声は一つだった。
だが、その一つを待っていたように、いくつもの目が釜へ向いた。
「道で止められた者には水を渡したんだろう」
「寺の粥は薄めるのか」
「火定めの者が、誰を通すか選んでるらしい」
太助の手が止まりかけた。
蓮昭の声が飛ぶ。
「椀を止めるな」
太助は、はっとして椀を渡した。
「一つ」
「少ない」
「後ろにもいる」
「後ろばかりか」
男が椀を奪うように取った。
太助は唇を噛む。
梅吉が男の前へ出た。
「少ねえのは見りゃ分かる。だが、お前が二つ取れば、後ろは空だ」
「うるさい」
「うるさい声がねえと、列は倒れるんだよ」
男が睨む。
梅吉も睨み返した。
だが、手は出さない。
蓮昭は、そのやり取りを見ていた。
そこへ、寺の奥から僧が一人、紙を持って来た。
「蓮昭様」
「今か」
「西の寺筋からです」
蓮昭の眉がわずかに動いた。
「読め」
僧は声を潜めた。
「西の道で、塩の荷が止まったとのこと。梶ノ国へ抜ける商い荷も、いくつか戻されたと」
蓮昭は、釜の湯気を見た。
「確かな話か」
「寺筋の噂です」
「噂なら、噂として置け」
「はい」
「今ここで流すな。腹に入る」
僧は頷き、紙を折った。
太助は、その紙をちらりと見た。
西。
塩。
商い荷。
意味は分からない。
けれど、粥が薄い時に入ってくる言葉は、どんな小さなものでも腹に残る。
蓮昭は太助へ言った。
「椀を渡せ」
「はい」
「聞いたものを、すぐ口に出すな」
「はい」
「だが、忘れるな」
太助は頷いた。
椀を渡す手が、また少し重くなった。
*
灰ヶ峰城では、油布の男の持ち物が並べられていた。
縄。
小さな火打ち石。
油を吸わせた布。
焦げた木片。
それから、小さく折られた紙。
赤松が油布を見ている。
黒羽は火打ち石。
鷹見は紙を見ていた。
「荒砥国の紙か」
真木が尋ねた。
鷹見は、すぐには答えなかった。
指で紙の端をなぞる。
少し薄い。
だが、強い。
燧の城で使う紙とも違う。
荒砥の粗い紙とも違う。
「分かりません」
「分からぬか」
「ただ、以前の偽りの役札に混じっていた紙と、手触りが近い」
景胤の目が動いた。
「西の紙か」
「その疑いはあります」
鷹見は言った。
「ですが、梶ノ国の紙とも、弓削国の紙とも、今は決められません」
「決めるな」
景胤は静かに言った。
「西の紙、とだけ残せ」
鷹見は頷いた。
「西の紙。油布の男の持ち物。出どころ不明」
筆が走る。
赤松が油布を持ち上げた。
「油の質も、いつものものと違う」
「どう違う」
真木が聞く。
「匂いが軽い。燃え移りは早いが、長く燃やす油ではない。火を大きくするためより、最初に騒がせるための油だ」
黒羽が火打ち石を見た。
「石は粗い。そこらで拾ったものではない。運ばれたものだ」
景胤は、紙と油布と火打ち石を見た。
荒砥の手。
荒砥でないかもしれない手。
従わされた民。
商い荷。
寺筋の噂。
それらが、まだ一つの線にはならない。
だが、ばらばらに置くには、似た匂いがあった。
「荒砥だけを見るな」
景胤が言った。
広間の者たちが顔を上げる。
「だが、荒砥を外すな。今、槍を向けているのは荒砥だ」
真木が深く頷いた。
「表は荒砥。裏に、西の紙」
「そう残せ」
鷹見が筆を取る。
表は荒砥。
裏に、西の紙。
その言葉は、まだ戦の名ではない。
けれど、燧国の地図は、少しだけ広がり始めていた。
*
夕方、迅は炭焼き道の留め場に戻っていた。
通した者たちは、浄火寺へ向かう者と、煤谷村へ戻る者に分けられた。
焦げた笠の男は、まだ留められている。
顔を伏せた男も同じだ。
だが、二人とも昨日とは違っていた。
焦げた笠の男は、笠を抱えていない。
地面に置いたままにしている。
顔を伏せた男は、草履を握った手を隠していない。
迅は、その二人を見た。
「明日、もう一度聞きます」
焦げた笠の男が、鼻で笑った。
「何を」
「名を」
「しつこいな」
「はい」
男は、少しだけ口元を緩めた。
笑ったのではない。
ただ、怒鳴る力が残っていなかっただけかもしれない。
顔を伏せた男は、何も言わない。
ただ、草履を持つ手を膝の上に置いていた。
迅は、その草履を見た。
小さい。
あまりにも小さい。
通せなかった子の母の声。
片方の草履。
西の紙。
薄い粥。
全部が、別々のものに見えて、どこかで同じ道につながっている気がした。
けれど、まだ分からない。
分からないまま、残す。
迅は、木の皮に書かれた報告を見た。
そこには、鷹見へ送るための言葉が並んでいる。
通した者。
留めた者。
止めた者。
通せなかった者。
声。
迅は、最後の一文字を見つめた。
声。
名がなくても、数が分からなくても、そこにあったもの。
夜になる前、喜助が水桶を洗っていた。
桶の底には、わずかな泥が残っている。
「水、明日は増えるかな」
喜助が言った。
「分からない」
「足りないままだったら」
「また、どこに置くか決める」
「そればっかりだね」
「うん」
迅は頷いた。
「そればっかりだ」
山の奥で、鳥が鳴いた。
竹筒の音ではない。
それでも、迅はすぐに顔を上げた。
音を見た。
火を見た。
水を見た。
縄を見た。
それから、顔を伏せた男の手の中の草履を見た。
残された声は、まだ消えていない。
消してはならないのだと、迅は思った。




