【第40話】閉じた道
からり。
道の奥で、また音が鳴った。
炭焼き道の木々が、夜の色を濃くしている。
その奥から、足音が重なっていた。
一つではない。
二つでもない。
列になりきれていない足音だった。
誰かが泣いている。
子どもの声にも聞こえた。
大人が真似ている声にも聞こえた。
迅は、音のした方だけを見なかった。
火を見る。
水桶を見る。
槍を見る。
焦げた笠の男を見る。
顔を伏せた男を見る。
そして、道を見る。
半分だけ開けた道は、夜になると昼より細く見えた。
「来た」
焦げた笠の男が言った。
迅は男を見る。
「何がですか」
男は答えなかった。
代わりに、立ち上がろうとした。
瀬川の手が上がる。
「座れ」
「後ろに火が来る!」
「まだ見えていない」
「見えてからでは遅い!」
焦げた笠の男の声が、留め場に響いた。
水桶のそばで、喜助が肩を震わせた。
火のそばにいた子どもが泣き出す。
それだけで、空気が前へ押された。
槍を持つ兵が、半歩出る。
「槍を前に出すな」
瀬川が言った。
声は大きくない。
だが、兵は止まった。
黒羽の配下が、木の上から手を上げた。
指が三つ。
次に、五つ。
さらに、数えるのをやめるように、掌を横へ振った。
多い。
列ではない。
押されている。
迅の喉が乾いた。
「喜助」
「うん」
「飲み水を、子どもの方へ」
「火消し水は?」
「動かさないで」
「分かった」
喜助は飲み水の桶だけを動かした。
火消し水は火の後ろ。
洗う水は怪我人のそば。
決めた通りの場所に残す。
動かしたい時ほど、動かしてはいけない水がある。
赤松の鉄砲衆が、火薬箱のない方角を見ていた。
ここには火薬箱はない。
だが、火はある。
油紙もある。
火口もある。
火薬箱でない火も、道を崩す。
「火を小さく」
赤松が言った。
兵が薪を抜いた。
小さな火は、さらに小さくなった。
暗くなる。
暗くなれば、見えない。
見えなければ、疑う。
迅は、夜が人の目をどれほど狭くするかを知った。
*
最初に現れたのは、女だった。
髪が乱れ、頬に煤がついている。
背中には子どもを負っていた。
もう一人の子どもを、手で引いている。
その後ろから、老人が二人。
さらに後ろから、男たちが押し寄せている。
女が叫んだ。
「通してください!」
瀬川が前へ出た。
「ここで一度、止まってください」
「後ろが燃えているんです!」
「煙はどこから」
「分かりません!」
「誰に追われている」
「分かりません!」
女の声は裂けていた。
嘘をついているようには聞こえない。
だが、嘘でない声を、誰かが前へ押すこともある。
迅は女の後ろを見た。
子どもは泣いている。
背負われた子は、声を出していない。
眠っているのか。
気を失っているのか。
分からない。
「子どもから水を」
迅が言った。
喜助が動く。
女が一歩前へ出ようとする。
槍の兵が反射で止めかけた。
「水の方へ。道の奥へはまだ通しません」
迅が言うと、女の顔が歪んだ。
「まだ?」
「水を飲ませます。怪我を見ます。そのあとです」
「そんなことをしている間に!」
後ろから男の声が重なった。
「早くしろ!」
「閉じるな!」
「子どもがいるんだ!」
「火が来るぞ!」
怒号が、道の幅を一気に狭くした。
泣き声が混じる。
咳が混じる。
誰かの呻きが混じる。
そして、その中に、同じ調子で泣く声があった。
あまりに同じだった。
高く、細く、間がそろっている。
子どもの泣き声に似ている。
似すぎている。
黒羽の配下が、木の上から短く鳴き真似をした。
鳥ではない。
合図だ。
声を聞け。
迅は、泣き声の場所を探した。
女の背の子ではない。
袖にしがみつく子でもない。
男たちの後ろ。
人の肩の間。
そこから、同じ泣き声がまた上がった。
「瀬川様」
迅が低く言った。
「泣き声が一つ、同じです」
「どこだ」
「後ろの男たちの間」
瀬川の目が細くなる。
「黒羽の者」
木の上の物見が頷き、指を二本曲げた。
子どもではない。
そういう合図だった。
だが、本物の子どもも前にいる。
だから閉じきれない。
「左の縄を上げる」
迅が言った。
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
「子ども連れと老人だけ。荷は置かせます。男は手を見せて、一人ずつ」
瀬川が迅を見る。
「右は」
「下げたまま」
「男たちは」
「見ます。今は通しません」
焦げた笠の男が立ち上がった。
「俺もか!」
「あなたもです」
「火が来ると言っただろう!」
「だから火の方を見ます」
「俺を見ろ!」
「見ています」
迅は言った。
「通すかどうかは、まだです」
焦げた笠の男が一歩踏み出す。
赤松の兵が、火の後ろから短く言った。
「足を止めろ」
声には鉄があった。
男は止まった。
左の縄が上がる。
女と子どもが入る。
老人が続く。
喜助が水を渡す。
「一口ずつ。次もいる」
女が怒りをこらえながら、子どもへ椀を持たせる。
背中の子は、まだ動かない。
「その子を下ろしてください」
迅が言った。
「嫌です」
「息を見ます」
「取らないで!」
「取りません」
女は唇を噛み、ゆっくり子どもを下ろした。
喜助が膝をつく。
子どもの口元に手を寄せる。
「息、あります」
喜助の声が震えた。
だが、届いた。
女の肩が崩れた。
「こっちへ」
瀬川が兵へ合図する。
子ども連れは、道の奥ではなく、水のそばへ送られた。
通した。
だが、奥までは通していない。
半分だけだった。
*
右の縄の向こうで、男たちが詰まっていた。
七人。
いや、八人。
暗がりで数が揺れる。
そのうち二人は、何かを布で巻いて持っている。
一人は、泣き声を出していた。
顔を伏せて、肩を揺らしている。
その肩の揺れ方が、泣く子どものものではない。
「その布を置け」
黒羽の配下が言った。
「これは母の形見だ!」
男が叫んだ。
「置け」
「触るな!」
男が布を抱え込む。
その瞬間、油の匂いがした。
強くはない。
だが、確かにあった。
喜助が顔を上げる。
「油」
赤松が片手を上げた。
鉄砲衆の一人が、火の前に立つ。
もう一人が、火消し水の桶へ手をかける。
瀬川の声が飛ぶ。
「槍を突くな。押し返せ」
槍の兵が柄を横にした。
刺すのではない。
押し戻す形だった。
布を持った男が叫ぶ。
「燃やすぞ!」
広間で聞いた言葉が、迅の頭に戻った。
火薬箱はない。
だが、火はある。
水はある。
子どもがいる。
火を前に出されれば、列が崩れる。
焦げた笠の男が突然叫んだ。
「そいつは違う!」
全員が彼を見る。
焦げた笠の男は、右の縄の向こうにいる布の男を睨んだ。
「そいつは、後ろで泣き声を出していた。子どもじゃねえ」
「黙れ!」
布の男が怒鳴る。
焦げた笠の男は、初めて自分から笠を地面に叩きつけた。
「俺は焼けた村から来た。火の匂いは知ってる。そいつの布は、逃げた火じゃねえ。持ってきた火だ」
迅は焦げた笠の男を見た。
通せなかった男。
疑った男。
まだ名を言わない男。
その男が、火を見ていた。
「黒羽殿」
迅が言う。
黒羽の配下が布の男へ回ろうとした。
その瞬間だった。
右の奥から、人がさらに押した。
本物の悲鳴が上がる。
老人が倒れかける。
別の女が叫ぶ。
「閉じないで!」
「子どもがいる!」
「こっちにもいるんだ!」
迅の胸が裂けるように痛んだ。
右の縄を開ければ、布の男も入る。
閉じれば、そこにいる本物の者も止まる。
「左だけ、もう一度上げます」
迅が言った。
瀬川が見る。
「どこまで」
「手を空にした者だけ。荷は置かせます。子どもを抱いている者、老人、怪我人。男は一人ずつ。布を持つ者は通さない」
「押されたら」
「右は下げたまま。槍は突かず、押す」
自分で言いながら、迅は分かっていた。
これで、通れない者が出る。
全部は無理だ。
その言葉を、心の中で何度も噛んだ。
「左を上げろ!」
瀬川が命じた。
縄が上がる。
人が流れ込む。
喜助が叫ぶ。
「水はこっち! 走らないで!」
梅吉の荒い声が遠くから聞こえた気がした。
列を崩すな。
歩ける者は足を止めろ。
子どもが先だ。
迅は、目の前の一人ずつを見る。
子ども。
老人。
怪我人。
手が空か。
布を持っていないか。
油の匂いはないか。
泣き声は本物か。
声に目を奪われるな。
火に目を奪われるな。
足を見ろ。
手を見ろ。
水を見る喜助を見ろ。
槍を見る瀬川を見ろ。
全部は見られない。
だから、見る場所を決める。
決めた場所の外で、何かが落ちる。
それでも、決める。
*
布の男が動いた。
右の縄を越えようと、体を低くした。
黒羽の配下が飛びかかる。
男は布を振った。
中から、油を吸った油布が落ちた。
赤松の兵が叫ぶ。
「火を離せ!」
男の手には、小さな松明があった。
いつ火を移したのか。
誰も見ていなかった。
いや、誰かが別のものを見ている間に、火は手の中へ来ていた。
男が松明を投げようとする。
その先にあるのは、火ではない。
水桶でもない。
通されたばかりの子ども連れだった。
迅の体が動いた。
だが、届かない。
赤松の兵が横から飛び込み、松明を槍の柄で叩き落とした。
火が地面に転がる。
喜助が火消し水を投げた。
水は的を外さなかった。
じゅっ、と音がして、火が消える。
だが、その音で人がさらに押した。
右の奥から、悲鳴が上がる。
黒羽の配下が布の男を押さえつける。
焦げた笠の男が、縄の向こうで何かを叫んでいた。
「後ろだ! 後ろの火を見ろ!」
迅は道の奥を見た。
赤い光が揺れていた。
本物の火か。
持ち込まれた火か。
枝の間で、赤いものが二つ、三つ動いている。
人の手にある火にも見える。
地面を舐める火にも見える。
分からない。
分からないが、前の者たちは本当に怯え始めていた。
「閉じろ!」
槍の兵の一人が叫んだ。
「全部閉じろ! 押し切られます!」
女が叫ぶ。
「閉じないで!」
老人が倒れた。
子どもが泣く。
泣き真似の声も混じる。
本物の泣き声と偽物の泣き声が、夜の道で一つになった。
迅は、左の縄を見た。
まだ三人、通せる。
その後ろは詰まりすぎている。
右の縄は、油布の男を押さえている。
火は奥にある。
ここで左を開けたままにすれば、油布とは別の者が紛れて入る。
右を完全に閉じれば、そちらにいる本物も止まる。
迅の口の中が、からからに乾いた。
「左を、あと三人」
迅が言った。
声が小さかった。
瀬川が聞き返す。
「何人だ」
「あと三人!」
迅の声が、初めて裂けた。
「子ども、老人、怪我人。三人通したら、左も下げます」
「まだ後ろにいるぞ!」
槍の兵が叫ぶ。
「分かっています!」
迅は叫び返した。
広間で景胤が言った言葉が、胸の奥で燃える。
通せなかった者。
見なかった場所。
足りなかった水。
遅れた荷。
全部、残す。
残すから痛みが消えるわけではない。
でも、消さないために残す。
「三人!」
瀬川が命じた。
「それ以上は通すな!」
左の縄が一瞬だけ上がる。
一人目。
血のついた足を引きずる老人。
二人目。
泣き疲れた子を抱く女。
三人目。
小さな男の子。
その子の手を、後ろの誰かが掴んでいた。
母親か。
姉か。
分からない。
縄が下がる。
その手が離れた。
迅は、その瞬間を見た。
見てしまった。
「待って!」
女の声がした。
母親かもしれない。
姉かもしれない。
声はすぐに押し返され、闇の中へ沈んだ。
男の子が、こちら側で泣き出す。
喜助が抱きとめた。
迅は動けなかった。
瀬川が迅の肩を掴む。
「見るな、ではない。見たまま立て」
迅は歯を食いしばった。
縄の向こうで、誰かが叫んでいる。
閉じるな。
開けろ。
子どもがいる。
敵じゃない。
火が来る。
声が重なる。
その中のどれが本物で、どれが偽物なのか。
全部は分からない。
ただ、閉じた道がそこにあった。
*
火は、大きくならなかった。
奥の赤い光は、しばらく揺れたあと、少しずつ遠ざかった。
追い火だったのか。
脅し火だったのか。
逃げる者が持っていた火だったのか。
最後まで分からなかった。
留め場は崩れなかった。
水桶は倒れなかった。
火薬箱へ火は届かなかった。
油布の男は押さえられた。
子ども連れと老人の多くは、こちら側へ入った。
けれど、通せなかった者がいた。
縄の向こうへ残した者がいた。
声が消えた者がいた。
夜が深くなっても、迅の耳には、その声が残っていた。
喜助は、泣き続ける男の子に水を飲ませていた。
男の子は、椀を持つ手が震えている。
「お母さんは」
その声は小さかった。
喜助の手が止まる。
答えられない。
迅も答えられない。
瀬川も、何も言わなかった。
顔を伏せた男が、その子を見ていた。
彼は、手の中の小さなものを握りしめている。
迅は、その手へ視線を落とした。
「それは何ですか」
男は長く黙った。
やがて、少しだけ手を開いた。
小さな草履だった。
片方だけ。
泥と煤で黒ずんでいる。
迅は息を止めた。
「どこで」
男は答えない。
ただ、煤谷村の方を見た。
違う。
黒根村かもしれない。
もっと別の焼けた場所かもしれない。
分からない。
だが、その片方だけの草履は、子どもを失った道の形をしていた。
「名は」
瀬川が尋ねた。
男は、まだ答えなかった。
けれど、手は閉じなかった。
草履を隠さなかった。
それだけが、夜の中で変わったことだった。
*
夜明け前、烈が赤土峠へ走った。
いや、走りすぎなかった。
木の皮を胸に押さえ、言葉を何度も繰り返す。
「通した者。子ども連れ、老人、怪我人、多数」
息を吸う。
「止めた者。名を言わぬ男、焦げた笠の男、油布の男、ほか数名」
息を吸う。
「通せなかった者。数、まだ分からず」
その言葉で、足が重くなる。
数が分からない。
名前も分からない。
けれど、いなかったことにはできない。
安蔵は、報告を聞いて黙っていた。
兼太も隣にいる。
夜の音は、もうしない。
それでも、誰も安心していなかった。
「崩れたか」
安蔵が聞いた。
烈は、顔を上げた。
「崩れてはいません」
「勝ったか」
烈は答えられなかった。
安蔵は頷いた。
「その言い方でよい」
兼太が小さく言った。
「通せなかった者は、どうなるんです」
安蔵は、すぐには答えなかった。
「分からん」
「分からないままですか」
「分からないまま、残す」
兼太は唇を噛んだ。
烈は、その言葉も木の皮へ書いた。
分からないまま、残す。
戻る足は、軽い知らせだけを運ぶものではない。
重いものも、崩さず運ぶ。
*
炭焼き道の留め場に、朝が来た。
霧が低く流れている。
縄は濡れていた。
杭は一本、斜めにずれていた。
火消し水の桶は半分になっていた。
飲み水は、ほとんど残っていない。
それでも、桶は倒れていなかった。
迅は、閉じたままの右の縄を見ていた。
縄の向こうには、踏み荒らされた土がある。
小さな足跡。
大きな足跡。
引きずった跡。
転んだ跡。
そして、途中で消えた跡。
黒羽の配下が、黙ってそれを木の皮へ写している。
鷹見に渡すためだった。
できたことだけではない。
通せなかった者も。
見なかった場所も。
足りなかった水も。
閉じた道の向こうに残った声も。
全部、残す。
喜助が隣へ来た。
「水、足りなかった」
「うん」
「でも、火は消せた」
「うん」
「子どもも、何人か飲めた」
「うん」
「でも、あの子のお母さんは」
喜助の声が途切れた。
迅は答えなかった。
答えられなかった。
瀬川が、二人の後ろに立った。
「迅」
「はい」
「お前が閉じた」
「はい」
「お前だけが閉じたのではない」
迅は振り返らなかった。
「でも、俺が数を言いました」
あと三人。
その言葉は、まだ喉に残っている。
「そうだ」
瀬川は否定しなかった。
「だから覚えておけ」
「忘れられません」
「それでいい」
瀬川は、閉じた道を見た。
「忘れぬ者でなければ、次の道を開けてはならん」
迅は、縄の向こうを見た。
全部開ければ、崩れていた。
全部閉じれば、もっと多くが残された。
半分だけ開けた。
それで多くは通った。
それでも、閉じた道は残った。
朝の霧の向こうで、鳥が鳴いた。
竹筒の音ではない。
けれど迅は、すぐには息を吐けなかった。
守れたものがある。
通せなかったものもある。
その両方が、同じ道の上に残っていた。
炭焼き道は、朝の光の中で細く伸びている。
開いたようにも見える。
閉じたようにも見える。
迅には、そのどちらにも見えた。




