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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第43話】西の紙

 紙は、音を立てなかった。


 火のように燃え上がらない。


 槍のように突いてこない。


 水のように桶からこぼれることもない。


 それでも、鷹見の前に並べられた小さな紙片は、広間の空気を重くしていた。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の小広間。


 低い机の上には、三つのものが置かれている。


 一つは、偽りの役札(やくふだ)に使われていた紙の切れ端。


 一つは、油布(あぶらぬの)の男が持っていた、折られた紙。


 そしてもう一つは、片方の草履の鼻緒に巻かれていた紙縒り(こより)だった。


 草履そのものは、隣の板の上に置かれている。


 小さすぎる。


 その小ささが、紙よりも重かった。


 鷹見は、紙縒りをほどいていない。


 ほどけば、分かることがあるかもしれない。


 けれど、戻せなくなるものもある。


 景胤は、机の向こうで腕を組んでいた。


 真木、黒羽、倉橋、坂部、赤松、瀬川がそろっている。


 片桐も、少し離れた位置で立っていた。


 烈と八瀬隼人は、炭で写した木の皮を持って控えている。


「同じ紙か」


 景胤が聞いた。


 鷹見は、すぐには答えなかった。


「同じ、とまでは申せません」


「似ているか」


「似ています」


 鷹見は、偽りの役札の切れ端を指した。


「こちらは、人の手で切られています。端に迷いがあります」


 次に、油布の男が持っていた紙を指す。


「こちらは、折り癖があります。何かを包んでいたか、何かに挟まれていたものです」


 最後に、草履の紙縒りを見る。


「こちらは、草履の鼻緒を補うために細くよられています。泥と煤を吸っていますが、まだ切れきっていない」


「強い紙だな」


 坂部が言った。


「はい」


 鷹見は頷いた。


「燧の村でよく使う紙より薄い。だが、繊維が長い」


「荒砥の紙か」


 真木が聞く。


「荒砥で使う粗い紙とは違います」


「では、西か」


 鷹見は、そこで言葉を止めた。


 広間の目が、机の上へ集まる。


 西。


 その一文字は、まだ敵の名ではない。


 だが、何度も石の横に置かれ始めている。


「西の紙、とは言えます」


 鷹見は言った。


「しかし、梶ノ国(かじのくに)の紙とも、弓削国(ゆげこく)の紙とも、瑞穂国(みずほのくに)の紙とも、今は決められません」


 景胤は頷いた。


「決めるな」


「はい」


「だが、残せ」


「はい」


 鷹見の筆が動く。


 西の紙。


 出どころ不明。


 偽りの役札、油布の男、片方の草履に近い紙あり。


 筆が止まる。


 鷹見は、草履を見た。


「草履は」


 景胤が言った。


「証とだけ書くな」


「承知しています」


 鷹見は、少しだけ筆を持ち直した。


 持ち主不明。


 片方のみ。


 子どもの物。


 紙縒りに西の紙の疑い。


 その文字を見て、烈は唇を噛んだ。


 子どもの物。


 それが書かれたことで、草履は机の上で少しだけ草履に戻った気がした。


     *


 倉橋は、紙を見たあと、帳面を開いた。


「紙だけでは道になりません」


 静かな声だった。


「だが、紙が何かを包んでいたなら、包まれたものが道を通っています」


 坂部が頷く。


「荷に混じったか」


「はい」


「米か。塩か。油か。鉄か」


「どれもあります」


 倉橋は、帳面の余白に小さな欄を作った。


 紙。


 塩。


 油。


 鉄。


 米。


「この数日、塩の荷が遅れています」


「赤土峠の混乱でか」


 真木が聞いた。


「それもあります。しかし、それだけではありません。西から来る商い荷(あきないに)が、手前で戻されたという話が浄火寺(じょうかじ)寺筋(てらすじ)から入っています」


「寺筋の噂だろう」


 片桐が言った。


「噂で道を動かすのですか」


 倉橋は顔を上げた。


「噂で腹は動きます」


 片桐は口を閉じなかった。


「腹が動くなら、なおさら閉じるべきです。西から入る紙が怪しいなら、西からの荷を止めればよい」


 坂部が眉を寄せる。


「荷を止めれば、塩も止まる」


「塩より敵を止める方が先でしょう」


「塩が止まれば、兵も民も弱る」


「敵が入れば、それ以上に崩れます」


 二人の間に、空気が張った。


 真木が片手を上げる。


「どちらも違っていない。だから難しい」


 瀬川が、机の上の草履を見たまま言った。


「全て開ければ、敵の紙も入る。全て閉じれば、子どもの草履を直す紙すら入らぬ」


 片桐の目が動いた。


 草履を見る。


 小さい。


 戦の道具には見えない。


 それでも、その鼻緒には西の紙が巻かれている。


「草履の紙が、敵の紙かもしれません」


 片桐は言った。


「かもしれぬ」


 瀬川が頷いた。


「だが、草履は敵ではない」


 烈は、小夜の言葉を思い出した。


 草履は火じゃない。


 瀬川は続ける。


「紙も同じだ。敵が使えば敵の手になる。子どもの草履を直せば、子どもの足になる」


 片桐は何も言えなかった。


 景胤が、机の上へ黒い石を置いた。


「西からの荷を、全て止めるな」


 片桐が顔を上げる。


「景胤様」


「ただし、紙を見る者を置く」


 景胤は、倉橋と坂部を見る。


「荷を止める者ではなく、荷の中を見る者だ」


 坂部が頷く。


「荷は通すために止めます」


「そうだ」


 景胤は鷹見を見る。


「紙を見る役を、役目帳に足せ」


 鷹見の筆が動く。


 紙を見る役。


 荷を止めきらず、通しきらず、紙の出どころを残す者。


 景胤は、さらに言った。


「だが、紙を見た者を一人にするな」


 黒羽が静かに頷く。


「見る者も見られる」


「そうだ」


 景胤は言った。


「紙を見る者が、次に狙われる」


     *


 城の蔵には、古い紙が残っていた。


 戦の前に納められた帳面の端。


 役人が書き損じた紙。


 荷に巻かれていた古い包み紙。


 雨を避けるため、油を薄く引いた紙。


 鷹見は、それらを一枚ずつ広げていた。


 八瀬隼人が横で木の皮へ形を写している。


 烈は、紙を触るのをためらっていた。


「破れるぞ」


 鷹見が言った。


「すみません」


「謝る前に、手を乾かせ」


「はい」


 烈は、袖で手を拭きかけて止まった。


 袖も湿っている。


 八瀬隼人が乾いた布を差し出した。


「これを」


「ありがとう」


 烈は手を拭き、紙の端にそっと触れた。


 薄い。


 だが、簡単には破れない。


「紙にも強い弱いがあるんですね」


「ある」


 鷹見は言った。


「米にも、水にも、縄にもある。紙も同じだ」


「これで、どこの紙か分かりますか」


「分かることもある。分からぬことも多い」


 鷹見は、一枚の紙を灯りに透かした。


「この紙は、繊維が長い。水を吸っても、まだ形が残る」


「西の紙ですか」


「西で紙漉き(かみすき)された紙に似ている」


「梶ノ国ですか」


「まだ言うな」


 烈は、はっとした。


「すみません」


「国の名は、槍に似ている」


 鷹見は、紙を下ろした。


「一度向ければ、引っ込めにくい」


 烈は頷いた。


 言葉を持ち帰る足が、言葉で槍を作ってはいけない。


「なら、どう言えばいいですか」


「西の紙。出どころ不明。荒砥の手に乗った可能性あり。他国の名はまだ付けず」


 烈は繰り返した。


「西の紙。出どころ不明。荒砥の手に乗った可能性あり。他国の名はまだ付けず」


「よし」


 鷹見は、別の紙を出した。


 端に細い黒い線がある。


「これは?」


 烈が聞く。


墨筋(すみすじ)だ」


「墨筋?」


「紙を重ねて切る時、上の紙に引いた線が下へ薄く移ることがある。あるいは、荷の印が擦れて残ることもある」


 八瀬隼人が、木の皮へその線を写す。


 黒い線は、まっすぐではない。


 少し曲がっている。


「偽役札の紙にも、似た筋がありました」


 八瀬隼人が言った。


 鷹見が頷く。


「油布の男の紙にもある」


「同じ束ですか」


 烈が聞く。


「そこまでは言えない」


 まただ。


 言い切れない。


 けれど、似ている。


 烈は、その曖昧さをそのまま持たなければならなかった。


「分からないものが増えますね」


「分かったことにして減らすより、よい」


 鷹見はそう言って、紙を重ねた。


「これを恐れる者は多い」


「分からないことをですか」


「違う」


 鷹見は、烈を見た。


「分からないと書かれることをだ」


     *


 炭焼き道(すみやきみち)の留め場にも、紙はあった。


 落ちていたわけではない。


 焦げた笠の男が、笠の内側から小さな紙片を出した。


 迅は、すぐ手を伸ばさなかった。


 黒羽の配下が一歩前へ出る。


 焦げた笠の男は、鼻で笑った。


「取らねえのか」


「何の紙です」


 迅が聞いた。


「俺のじゃねえ」


「どこで」


「昨日の夜、油布の奴が落とした」


 迅の目が動いた。


 瀬川が、男の横へ立つ。


「なぜ今出した」


「出したら俺までそいつらの仲間にされると思った」


「なら、なぜ今出す」


 焦げた笠の男は、草履の写しが置かれた木の皮を見た。


「紙を見てるんだろ」


「はい」


「なら、見ろ」


 男は、紙を地面に置いた。


 手渡しはしなかった。


 迅も、すぐには拾わなかった。


 黒羽の配下が木の枝で紙の位置を示し、八瀬隼人が形を写す。


 それから、乾いた木の板ですくい上げた。


 小さな紙片だった。


 端が焦げている。


 中央に、黒い細い線が一本。


 墨筋に見えた。


「同じか」


 瀬川が聞く。


 八瀬隼人は首を振った。


「ここでは言えません」


「よい答えだ」


 瀬川が言った。


 焦げた笠の男が顔をしかめる。


「分からねえことばかりだな」


「分かったことにすると、誰かを斬ることになります」


 迅は言った。


 男は、すぐには言い返さなかった。


「その紙を出したことも残します」


「また残すのか」


「はい」


「俺の名は残すな」


「名は、まだ聞けていません」


「聞けてねえんじゃない。言ってねえんだ」


「はい」


 迅は頷いた。


「でも、紙を出したことは残します」


 男は舌打ちした。


 だが、目は逸らさなかった。


「それで俺は通れるのか」


「まだです」


「だろうな」


 男は笑った。


 今度の笑いには、少しだけ疲れが混じっていた。


「疑われたまま、人の役に立つのは腹が立つな」


「はい」


「そこは否定しろ」


「でも、腹は立つと思います」


 焦げた笠の男は、今度こそ少し笑った。


「変な奴だ」


 迅は、男の足元を見た。


 草履は両方ある。


 だが、片方の鼻緒は布で直されていた。


 紙ではなかった。


     *


 浄火寺(じょうかじ)では、紙が腹に入ろうとしていた。


「西の紙が敵の紙なんだと」


 列の中で、誰かが言った。


 太助の手が止まる。


 蓮昭の声が飛んだ。


「椀を止めるな」


 太助は慌てて椀を渡す。


 梅吉が列の横へ出た。


「誰が言った」


「聞いただけだ」


「誰から聞いた」


「知らねえよ」


「知らねえなら、腹に入れるな」


 男がむっとする。


「紙くらいで偉そうに」


「紙くらいで人が止まってるんだろうが」


 梅吉の声は荒い。


 だが、列を乱す荒さではなかった。


 押し合いそうな肩が、少しだけ離れる。


 太助は、椀を渡しながら蓮昭を見た。


 蓮昭は、門の奥に置かれた紙をまだ読んでいない。


 西の寺筋から届いた紙。


 塩の荷が止まったという紙。


 読むだけで、粥の列に言葉が落ちる。


 蓮昭は、僧へ言った。


「紙は奥へ置け」


「読まれないのですか」


「読む。だが、ここでは読まぬ」


「はい」


「紙は火ではない。だが、腹に入れば火になる」


 太助は、その言葉を聞いた。


 紙は火ではない。


 けれど、言葉が腹へ入れば火になる。


 小夜の言葉とは少し違う。


 でも、つながっている気がした。


 列の端で、片方だけ草履のない子が座っていた。


 太助は椀を渡したあと、その子の足元へ目をやる。


 足に巻いた布がほどけかけている。


 太助は、椀を置き、布を結び直した。


「太助」


 蓮昭が呼んだ。


 太助は肩を震わせた。


「椀を止めるなと言った」


「はい」


「だが、足を結んだことは残せ」


 太助は顔を上げた。


 蓮昭は厳しい顔のままだった。


「次からは、椀を渡す手と足を見る目を分けろ」


「誰に頼めば」


「梅吉」


 梅吉が振り向いた。


「俺かよ」


「声が荒い者は、足元もよく見える」


「褒めてんのか、それ」


「役を言っている」


 梅吉は頭をかいた。


「足を見るだけなら、やる」


 太助は、少しだけ息を吐いた。


 椀を渡す。


 足を見る。


 紙を聞く。


 腹を止める。


 寺の門前にも、役目が増えていく。


     *


 その夜、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の広間に、小さな紙片がまた増えた。


 焦げた笠の男が出した紙。


 浄火寺から届いた塩の荷の噂を書いた紙。


 草履の紙縒りの写し。


 偽役札の紙。


 油布の男の紙。


 机の上は、白くも黒くもない色で埋まっていた。


「多すぎる」


 片桐が言った。


「紙片ばかり集めていて、敵を見失いませんか」


 黒羽が答える。


「敵が紙を使うなら、紙も敵の足跡だ」


「荒砥を討つべき時に、西ばかり見れば、正面を破られます」


「その通りだ」


 真木が言った。


 片桐は少し驚いた顔をした。


 真木は続ける。


「だから、荒砥は外さぬ。赤土峠も炭焼き道も、兵は緩めない」


「では」


「だが、荒砥の手に何が乗っているかを見ずに討てば、また別の手で同じことをされる」


 景胤は、地図の東に赤い石を置いた。


 荒砥。


 次に、西の端へ黒い石を置く。


 西の紙。


 その間に、白い小石をいくつか置いた。


 商い荷。


 寺筋。


 塩。


 紙。


 草履。


「荒砥は東にいる」


 景胤が言った。


「だが、荒砥の手に乗ったものは、東から来たとは限らぬ」


 広間は静かになった。


 景胤は、鷹見へ言った。


「西の紙を、国の名にするな」


「はい」


「商人を敵の名にするな」


「はい」


「寺筋を疑いだけで閉じるな」


「はい」


「だが、紙を見る者を置け」


 鷹見が筆を走らせる。


「紙を見る者。添え手を置く。見る紙と、見た者の顔を記す」


 景胤は頷いた。


「見た者の顔もか」


 片桐が聞いた。


 鷹見が答える。


「見る者も見られます」


 片桐は口を閉じた。


 それは、片桐自身にも向けられた言葉だった。


 景胤は最後に、草履の写しを見た。


「小夜は、草履は火ではないと言ったそうだな」


 烈が頷く。


「はい」


「なら、紙も火ではない」


 景胤は言った。


「だが、火を包むことはある」


 赤松が、低く頷いた。


「包んだ火は、見えにくい」


「だから見る」


 景胤は、地図の上の黒い石を見た。


 西の紙。


 まだ敵の名ではない。


 まだ国の名でもない。


 ただ、見なければならないものだった。


     *


 夜更け、烈は紙片の写しを持って廊下を歩いていた。


 八瀬隼人が隣にいる。


 外では、風が鳴っている。


 竹筒の音ではない。


 それでも、烈は一度足を止めた。


「音に聞こえる」


 烈が言った。


「はい」


 八瀬隼人も、同じ方を見ていた。


「でも、風です」


「うん」


 烈はまた歩き出した。


 音も、紙も、草履も、すぐに敵の名へ変えてはいけない。


 だが、無視してもいけない。


 それは、思ったよりずっと難しかった。


 廊下の角で、鷹見が待っていた。


「烈」


「はい」


「明朝、これを炭焼き道へ戻せ」


 鷹見は、細く畳んだ紙を差し出した。


「何ですか」


「迅へ渡す写しだ。西の紙のこと、まだ国の名を付けぬこと、顔を伏せた男と焦げた笠の男へ無理に名を求めぬこと」


「はい」


「それから」


 鷹見は少し間を置いた。


「通せなかった者の声も、まだ消していないと伝えろ」


 烈の手が、紙を受け取る。


 軽い。


 紙は軽い。


 けれど、持つ手は重かった。


「分かりました」


「崩さず戻せ」


「はい」


 烈は紙を懐にしまった。


 明朝、また走る。


 ただ速くではない。


 言葉を崩さず。


 分からないものを、分からないまま。


 西の紙は、まだ小さな紙片でしかなかった。


 それでも、燧国の地図の端に、静かに新しい影を落としていた。

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