【第37話】火を待つ者
「火は、まだ置くな」
岩貫弥惣の声で、鹿部市之助の指が止まった。
火打ち石の下には、油をわずかに吸わせた火口がある。
もう一度打てば、火花が落ちる。
その脇では、細く巻いた油布を持つ男が、斜面へ上がる合図を待っていた。
鹿部市之助は、火打ち石を離した。
「一晩じゅう、峠へ音を置きました」
「分かっている」
「今、火を重ねれば崩せます」
岩貫弥惣は答えず、地面に広げた筵を見た。
筵の上には、炭で道が描かれている。
太い線は、赤土峠へ続く道。
細い線は、炭焼き道。
その先には、煤谷村と浄火寺へ分かれる印があった。
道の上には、小さな竹片が置かれている。
兵。
荷。
水。
夜番。
名を書かなくても、何を表しているかは決めてあった。
岩貫弥惣は、赤土峠の荷場に置かれた竹片を一つ、斜面の方へ動かした。
「音が鳴れば、斜面を見る者が増える」
別の竹片を、水の印へ寄せる。
「水を守る者も要る」
さらに一つを、夜番の場所へ置いた。
「眠れぬ者が増えれば、交代も乱れる」
「だから火を置くんでしょう」
鹿部市之助が言った。
「音で目を散らし、火で止める」
「今、火を置けば、向こうは火だけを見る」
「それでいい」
「よくない」
岩貫弥惣は、荷場に残った竹片を指で倒した。
「火の場所が分かれば、人を集められる。水を運べる。敵の方角も決められる」
「なら、いつまで待つんです?」
岩貫弥惣は、筵の端に置かれた火打ち石を見た。
「向こうが、火を待ち始めるまでだ」
鹿部市之助が眉を寄せる。
「もう恐れているでしょう」
「今は、音を恐れている」
「同じことです」
「違う」
岩貫弥惣は、炭焼き道の線を指でなぞった。
「音のない時まで斜面を見る。煙のない道へ水を寄せる。何も起きておらぬ場所を、先に閉じる」
「道を閉じれば、我らも通れません」
「閉じるのは、我らではない」
岩貫弥惣の指が、燧国側の道の上で止まった。
「向こうが、自分で閉じる」
鹿部市之助は黙った。
夜が明けたばかりだった。
東の空は白み始めているが、谷の底までは光が届いていない。
二人がいるのは、斜面の窪みに作られた小さな隠れ場所だった。
旗はない。
焚き火もない。
昨夜使った火の残火には、土がかぶせられている。
周囲にいるのは、六人だけだった。
槍を持つ者が二人。
残りは、竹を切る者、細い縄を結ぶ者、峠を見る者だった。
大軍ではない。
正面から赤土峠を取れる数でもない。
だから岩貫弥惣は、兵の代わりに音を置いた。
竹と小石。
細い縄。
暗い斜面。
それだけで、赤土峠の者たちは一晩休めなかった。
泥のついた男が、斜面を下りてきた。
夜の間、峠を見ていた物見だった。
「戻りました」
「見えたものを言え」
岩貫弥惣が命じた。
「夜の間に、水らしきものがこぼれました。朝の荷車は一度、後ろへ下がっています」
「荷は落ちたか」
「白い束が二つ、泥へ落ちました。油紙に見えましたが、確かではありません」
「米俵は」
「落ちたところは見ておりません」
「火薬箱は?」
「動いたようには見えませんでした」
「追ってきた者は」
「見ておりません」
岩貫弥惣が目を細めた。
「なら、追ってこなかったとは言うな」
「はい」
鹿部市之助が息を吐いた。
「見えたのは、白い束が二つだけです」
「一晩でな」
「次は、向こうも慣れます」
「慣れれば、起きぬ音を決める」
「なら、その音に足を混ぜればいい」
「早い」
鹿部市之助の目が険しくなった。
「何がです?」
「向こうはまだ、音の意味を決めきれていない」
岩貫弥惣は竹片を一つ起こした。
「合図かもしれぬ。火の前触れかもしれぬ。人を呼ぶ音かもしれぬ。分からぬから、音のたびに目を動かす」
「分からせないまま削ると?」
「今夜も音を置け」
「それだけですか」
「それだけで足りる間はな」
鹿部市之助は、火打ち石を握り直した。
火を置けば、目に見える結果が出る。
煙が上がる。
人が走る。
水が減る。
荷が止まる。
岩貫弥惣が選ぶのは、その前の時間だった。
何も燃えていないのに、水を寄せる時間。
誰も来ていないのに、兵を起こす時間。
鹿部市之助には、それがひどく遅く見えた。
物見の男が、何か言いたそうに顔を上げた。
岩貫弥惣は、それを見逃さなかった。
「まだあるな」
「夜明け前に、音が一つ増えました」
「増えた?」
「炭焼き道の方です。昨夜のものより、少し高く聞こえました」
鹿部市之助が、すぐに男を見た。
「いつ置いた」
「何をです?」
「炭焼き道の筒だ」
「私は見ておりません」
「違う。お前に聞いているのではない」
鹿部市之助は、周囲の男たちを順に見た。
「誰を行かせた?」
誰も答えなかった。
岩貫弥惣が、鹿部市之助を見る。
「お前の手ではないのか」
「違います」
「確かか」
「俺が置かせたのは、右の林、崩れ道、水場への坂です。炭焼き道には置いていません」
「ほかの者へ命じたか」
「命じていません」
鹿部市之助は、火打ち石を強く握った。
「本陣の別の手でしょうか」
物見の男が尋ねた。
岩貫弥惣は首を振った。
「見ていないものへ、本陣の名をつけるな」
「では、何と?」
「分からぬ手だ」
岩貫弥惣は筵の上から、焦げた竹片を一つ取った。
それを、炭焼き道の線の脇へ置く。
これまでの竹片とは、向きを変えた。
「同じ荒砥国の者かもしれない」
鹿部市之助が言った。
「そうでないかもしれん」
「燧国の者が、自分で鳴らしたと?」
「それも分からん」
「味方の手なら、放っておけばいい」
岩貫弥惣は鹿部市之助を見た。
「味方と決めるな」
鹿部市之助の眉が動いた。
「こちらの邪魔をするなら、敵です」
「まだ邪魔をされたとも決まっておらぬ」
「音が重なれば、こちらの合図まで崩れます」
「だから見る」
谷から風が上がった。
筵の端が揺れる。
鹿部市之助が足で押さえた。
「では、どうします?」
「火は置かぬ」
「また待つんですか」
「知らぬ手に合わせて、こちらの火まで動かすな」
岩貫弥惣は、炭焼き道の脇へ置いた焦げた竹片を指した。
「違う音を置いた者を見る」
「見つけられなければ?」
「音の置かれ方だけ持ち帰れ」
「誰の手か分からないまま?」
「分からぬものを、勝手に味方へ入れるよりよい」
鹿部市之助は、手の中の火打ち石を見た。
「俺は、いつまで音を置けばいいんです?」
「今夜までだ」
「そのあとは?」
「燧国が、どの道を守ろうとするかを見る」
「道を守るだけでしょう」
「全部の道は守れん」
岩貫弥惣は、赤土峠、炭焼き道、煤谷村、浄火寺を結ぶ線を見た。
「兵を峠へ寄せれば、ほかが薄くなる」
「だから、薄くなった場所へ火を置く」
「まだだ」
鹿部市之助の口元が強張った。
「いつならいいんです?」
岩貫弥惣は、倒した竹片を起こさなかった。
「火を待つ者は、火がなくても火を見る」
鹿部市之助は、しばらく何も言わなかった。
やがて、火打ち石を懐へ戻す。
「炭焼き道を見てきます」
「近づきすぎるな」
「誰の手か確かめます」
「確かめられぬ時は?」
鹿部市之助は立ち止まった。
「分からぬまま戻ります」
岩貫弥惣が頷いた。
「それでいい」
*
烈は、灰ヶ峰城の門を駆け抜けなかった。
息は上がっている。
足も重い。
それでも、八瀬隼人が背負う木の皮と、自分が持ち帰る言葉を崩さない速さで進んだ。
門を守る兵が、二人の姿を見つけた。
「赤土峠からか?」
「はい」
「敵襲か?」
「敵の姿は見ていません。音と、そのあとの動きを持ち帰りました」
兵は聞き返しかけたが、烈の顔を見て道を開けた。
二人は、小広間へ通された。
床には、燧国東側の地図が広げられていた。
景胤は上座にはいなかった。
地図の端へ膝をつき、赤土峠と炭焼き道の間を見ている。
真木、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見もいた。
「見たものから話せ」
景胤が言った。
烈は一度、息を整えた。
「夜の間、竹を打つような音が何度も鳴りました。右の林、左の崩れ道、水場への坂です」
「人影は?」
「見ていません」
「敵はいなかったか」
「それも分かりません」
景胤が頷いた。
「続けろ」
「音のたびに兵が起きました。水桶が一つ倒れました。夜番の交代の刻を取り違えた者がいます。火消し水を飲もうとした者もいました」
倉橋の指が、膝の上で動いた。
「朝の荷は」
「遅れました」
「どれほどだ」
「荷下ろしは、俺たちが出る時にも終わっていません」
八瀬隼人が木の皮を広げた。
音の場所は、炭の点。
水桶、夜番、荷車の動きは線で残されている。
坂部が身を乗り出した。
「荷車はどうした」
「車輪へ楔を入れる者が、音を見ました。荷車が後ろへ下がり、油紙が二束、泥へ落ちました」
「米は」
「落ちていません」
「火縄は」
「無事です」
「人は?」
「怪我はありません」
坂部は息を吐いた。
安堵ではない。
荷が落ちなかったことより、落ちかけた理由を見ている顔だった。
「夜番明けを、荷下ろしへ使ったか」
「使おうとしました。辰五郎が何人か外しました」
「外せば、人が足りぬ」
「はい」
「外さなければ、次は荷が落ちる」
坂部は地図の外へ目を落とした。
倉橋が、持っていた帳面を開く。
「赤土峠への米が半刻遅れれば、朝の炊き出しがずれる」
「一度なら持たせられる」
真木が言った。
「一度ならな」
倉橋は帳面から目を上げなかった。
「同じことが続けば、次の荷を早く出すか、一度に積む量を増やす必要がある。早く出せば積み手が足りぬ。増やせば車輪が重くなる」
「浄火寺へ回す米は?」
景胤が尋ねた。
「減らさぬなら、城の蔵出しを早めます」
「早めれば?」
「帳面の余りが薄くなります」
景胤は何も言わなかった。
黒羽が、八瀬隼人の木の皮を手に取る。
「音のした方角へ、何人出した」
烈が答えた。
「最初は二人です。そのあとも、音が鳴るたび二人ずつ」
「同じ者か」
「違う者もいました」
「その間、どこが薄くなった」
烈は答えられなかった。
安蔵に聞いていない。
自分でも見ていない。
「分かりません」
「それでよい」
黒羽は点と線を見た。
「音を追えば、ほかの道が空く。追わなければ、本物の足を入れられる」
「どちらも選べぬではないか」
真木が言った。
「どちらかを選ばねばならんということです」
瀬川が地図の赤土峠を見た。
「敵の槍は、まだ一本も見えておらぬ。だが、こちらにはもう兵を使わせている」
「音だけでか」
景胤の声は低かった。
「音だけだからです」
瀬川が答える。
「槍なら、向きを決められます。音は、向きを決めさせぬ」
鷹見が筆を走らせている。
見たもの。
見なかったもの。
遅れた刻。
落ちた油紙。
休めなかった者。
役目帳とは別の紙に、すべてを書き分けていた。
「迅は何と」
景胤が尋ねた。
「音が鳴った場所だけが狙いではなかったと」
烈が答えた。
「どういう意味だ」
「音の方を皆が見た間に、荷が動きました。敵が荷車を押したわけではありません。でも、止める手を止めました」
広間が静かになった。
景胤は、地図の外に置かれた小さな石を取った。
赤土峠の斜面へ一つ。
荷場へ一つ。
水場へ一つ。
石を分けて置く。
残った石は少なかった。
「音を見る者を増やせば、荷を見る者が減る」
景胤が言った。
「荷を見る者を残せば、斜面へ出せぬ」
「兵を増やしますか」
坂部が尋ねた。
真木が首を振る。
「どこから取る」
誰も答えなかった。
煤谷村の道。
浄火寺の門。
炭焼き道。
沢の出口。
兵を取れば、どこかが薄くなる。
廊下から足音が聞こえた。
「申し上げます!」
泥のついた兵が、小広間の入口で膝をついた。
「赤土峠から、追加の報せです」
「言え」
「烈殿たちが発ったあと、炭焼き道の方角から、別の音が鳴りました」
黒羽が顔を上げた。
「別とは」
「それまでより、わずかに高い音だったと」
「人影は」
「確認できておりません」
「足跡は」
「まだ分かりません」
「同じ竹の音か」
兵は口を閉じた。
「分かりません」
黒羽が頷く。
「同じ手と決めるな」
「はい」
鷹見の筆が再び動いた。
異なる音。
炭焼き道。
手は不明。
景胤は、地図の炭焼き道へ指を置いた。
「この道を閉じれば、足は入りにくくなります」
黒羽が言った。
「荷も通せなくなる」
坂部が返す。
「煤谷村へ戻る者も、村から逃げてくる者も止まる」
瀬川が続けた。
「開けたままなら、敵の足にもなる」
真木が言った。
四人の言葉が、地図の上でぶつかった。
景胤は指を動かさなかった。
「今ここで決めれば、音に決めさせられる」
誰も口を開かなかった。
景胤は、ゆっくりと顔を上げた。
「日が傾くまでに、決めるためのものを揃えよ」
真木を見る。
「道を開けた場合と、閉じた場合。どちらで何を失うかを分けろ」
「はっ」
黒羽を見る。
「音を追わずに道を見るには、何人要る」
「調べます」
坂部を見る。
「夜番を荷から外した時、荷を通す手が何人足りなくなる」
「出します」
倉橋を見る。
「赤土峠、浄火寺、城の米が、半刻、一刻、二刻遅れた時を出せ」
「承知しました」
瀬川を見る。
「煤谷村と浄火寺へ使いを出せ。道を閉じた時、戻れぬ者がどれほど出るか聞け」
「分かりました」
鷹見を見る。
「分からぬものを、分かった欄へ入れるな」
「心得ております」
最後に、烈と八瀬隼人を見た。
「お前たちは休め」
「ですが、まだ報告が」
「持ち帰った。次に戻るために休め」
烈は何か言いかけた。
だが、八瀬隼人が背負ってきた木の皮を見て、頷いた。
「はい」
景胤は、炭焼き道の脇へ黒い石を置いた。
道の上ではない。
まだ、閉じたとは決めていない。
「閉じる案には、閉じ出される者の数も添えよ」
真木が深く頭を下げた。
小広間の者たちが、次々に立ち上がる。
帳面を持つ者。
地図を写す者。
馬を出す者。
水と米の数を見に行く者。
道を決める評定は、まだ始まっていない。
それでも、そのための手は動き始めていた。
地図の上では、どの道もまだ開いていた。




