【第35話】二つの目
雨は上がった。
だが、灰ヶ峰城の土は乾いていなかった。
荷場の端には水たまりが残り、城門の下には泥が薄く広がっている。
踏めば、音がした。
ぬちゃり、と。
人の足。
牛の足。
荷台の車輪。
水桶を置いた跡。
すべてが、昨日の雨を覚えていた。
火定めが始まってから、城の中には「二人で見る」という言葉が増えた。
水桶には添え手。
荷にも添え手。
戻る足にも添え手。
役札にも割符と口上。
椀にも添え手。
火にも、煙にも、荷札にも、米にも。
一人に背負わせない。
それは正しい。
正しいはずだった。
「閉めた」
「見た」
「置く」
「見た」
喜助は水桶の前で、今日も同じ言葉を繰り返していた。
隣には添え手の人足がいる。
二人とも、蓋を見ていた。
じっと。
同じ蓋を、同じように見ていた。
迅は、その横で立っていた。
少し離れた城門では、片桐数馬が立っている。
槍は立てているが、穂先は下げていた。
昨日、瀬川に言われたことを守っているのだろう。
槍を置く前に見る。
水桶の道を塞がない。
荷台が曲がるところに立たない。
それでも、片桐の顔にはまだ硬さがあった。
納得した顔ではない。
だが、逃げた顔でもない。
「置く」
「見た」
喜助がまた言う。
迅は、ふと気づいた。
二人とも蓋を見ている。
だが、その後ろから歩いてきた老婆が、水桶の横で足を止めていた。
どこへ並べばいいか分からず、桶と荷台の間に立っている。
そのせいで、細い道が塞がりかけていた。
「喜助」
「何」
「後ろ」
喜助が振り向く。
「あっ。すみません、そっちじゃなくて木札の横へ」
老婆が慌てて動いた。
添え手の人足も気づき、すぐに道を空ける。
水桶は守られていた。
だが、水桶の道は見落とされかけた。
喜助は、顔をしかめた。
「二人で見てるのに」
「同じところを見てた」
迅が言う。
「それ、駄目なの?」
「分からない。でも、今は危なかった」
喜助は水桶の蓋を見て、それから道を見た。
「二つ目が増えたのに、見るところも増えてるじゃん」
「うん」
「嫌な増え方だなあ」
迅は頷いた。
守るために目を増やす。
だが、目が増えても、同じものだけを見ていれば、別の場所が空く。
その空いた場所に、人が立つ。
道が止まる。
迅は、城門の向こうを見た。
泥の道が、東へ続いている。
*
昼前、赤土峠から急使が来た。
馬ではない。
ぬかるんだ道を、徒歩で戻ってきた若い伝令だった。
膝まで泥が跳ねている。
息は荒い。
だが、倒れてはいない。
城門で片桐が止める。
「口上」
伝令は、息を整えた。
「赤土峠より。火薬箱の覆い布一枚、雨に裂けあり。替えの覆い布、油紙、乾いた縄を至急送られたし。夜までに届かねば、明朝の火薬箱移しが遅れる恐れあり」
片桐が割符を見る。
割れ目は合った。
後ろについていたもう一人の伝令も、同じ口上を繰り返した。
昨日から定められた手順だ。
割符あり。
口上二人。
札だけではない。
それでも、片桐の目はまだ疑っていた。
「荷は何を送る」
伝令が答える。
「覆い布一枚。油紙二包み。乾いた縄三束。ついでに浄火寺へ干し菜二袋」
「ついでに?」
片桐の声が固くなる。
「火薬箱のための急ぎ荷に、寺の干し菜を混ぜるのか」
伝令は困った顔をした。
「倉橋様の帳面に、同じ道で送れと」
「帳面を見せろ」
「荷場にあります」
片桐は、門を半分塞ぐように立った。
伝令が止まる。
後ろの人足も止まる。
水桶を抱えた喜助も止まる。
迅は、門の流れを見た。
また止まっている。
ただ、昨日とは違う。
片桐は闇雲に疑っているわけではない。
急ぎ荷に別の荷を混ぜる。
確かに危うい。
だが、ここで全部止めれば、覆い布も遅れる。
「片桐さん」
迅が声をかけた。
片桐は振り向いた。
「何だ」
「道が止まりかけています」
片桐は一瞬、門の後ろを見た。
水桶。
人足。
戸板。
伝令。
自分の足。
片桐は、ほんの少し横へ退いた。
「荷場へ通す。ただし、荷場で改める」
伝令が頭を下げる。
喜助が水桶を抱えて脇を通る。
「通ります! 水、通ります!」
片桐は、その声に合わせて槍を少し下げた。
水桶は止まらなかった。
だが、迅は片桐の横顔を見た。
疑いを捨ててはいない。
捨てないまま、道を空けた。
それは、昨日より少しだけ変わった目だった。
*
荷場には、すぐに人が集まった。
坂部。
倉橋。
瀬川。
赤松弥八。
藤吉。
嘉助。
辰五郎。
迅。
喜助も、水桶の置き場所を見るために呼ばれた。
片桐も門から移ってきている。
火薬箱の覆い布。
油紙。
乾いた縄。
浄火寺への干し菜。
それらを一つの小荷にして送るか、分けるか。
雨上がりの荷場で、小さな評定が始まった。
坂部が言った。
「選択肢は三つだ」
誰も軽く聞かなかった。
昨日の雨の縄で、荷は落ちかけた。
誰もが、その重さを知っている。
「一つ。全部開けて見る」
倉橋がすぐに言う。
「時間がかかります。干し菜も湿気を吸います」
「二つ。火薬箱に関わる覆い布、油紙、縄だけ開ける。干し菜は荷札と目方で見る」
赤松弥八が顔をしかめた。
「火薬箱に関わるものは、それでいい。だが、干し菜に何か入っていたらどうする」
「三つ。割符と口上を信じ、このまま送る」
辰五郎が軒下から言った。
「そいつは楽だが、楽な荷はだいたい後で重くなる」
坂部は頷いた。
「三つ目は薄い」
倉橋が帳面を抱えたまま言う。
「干し菜は浄火寺の粥に使います。遅れれば寺の列に響きます」
赤松弥八が続ける。
「覆い布が遅れれば、火薬箱が湿る。火薬が湿れば、鉄砲はただの鉄と木だ」
片桐が言った。
「ならば、全部を見るべきです」
坂部が片桐を見る。
「全部見れば、全部遅れる」
「しかし、見落とせば」
「見落としも怖い。遅れも怖い」
瀬川が静かに言った。
「どちらかだけではない」
雨上がりの空気が重い。
迅は、並んだ荷を見た。
覆い布。
油紙。
縄。
干し菜。
それから、それを見ようとする目。
藤吉は荷の結びを見る。
嘉助は縄目を見る。
倉橋は数を見る。
赤松弥八は火薬箱へ届くかを見る。
喜助は水桶の道を見る。
片桐は門と札を見る。
瀬川は、人の立つ場所を見ている。
目はたくさんある。
それでも、不安は消えない。
「迅」
瀬川が言った。
「はい」
「何を見る」
まただった。
迅は喉が渇いた。
見れば、何かを言わなければならない。
言えば、動く。
動けば、落ちるものが出るかもしれない。
迅は荷を見た。
「全部は、見られません」
片桐が眉を動かす。
迅は続けた。
「全部見ると、全部止まります」
坂部が黙って聞いている。
「火薬箱に関わるものは開けて見ます。覆い布、油紙、乾いた縄。ここを見落とすと、峠で火薬箱が止まります」
「干し菜は」
倉橋が問う。
迅は少しだけ口を閉じた。
干し菜を見なければ、何かを見落とすかもしれない。
寺の粥が薄くなるかもしれない。
太助の椀がまた止まるかもしれない。
「干し菜は、袋の口と重さと匂いだけを見ます。開けません」
倉橋の顔が険しくなる。
「中を見ないのですか」
「はい」
「泥が入っていたら」
「その時は、俺の見なかった場所です」
自分で言って、胸が重くなった。
瀬川が迅を見る。
「なぜ、そうする」
「夜までに覆い布を届ける方を優先します。火薬箱が止まると、峠の荷が明日もっと遅れます」
赤松弥八が、じっと迅を見ていた。
藤吉が言った。
「干し菜は、俺が袋の沈み方を見ます」
嘉助が続ける。
「俺は口の縄を見ます。開けなくても、結び直したかどうかは見えます」
倉橋は、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「分かりました。ただし、記録します」
迅は頷いた。
「はい」
坂部が決めた。
「火薬箱に関わる荷は開ける。干し菜は開けず、袋口、目方、匂いを見る。二つの目を同じところに置くな。物を見る目と、流れを見る目に分けろ」
喜助が、ぼそりと言った。
「水桶と同じか」
迅は頷いた。
「たぶん」
「そこは、はいでいいよ」
だが、喜助の顔も硬かった。
見ない場所を決めた。
その怖さが、荷場に残った。
*
荷の支度は急がれた。
だが、乱れなかった。
藤吉と嘉助は、覆い布を開いた。
乾いている。
油紙は二包み。
端が少し折れているが、中までは濡れていない。
乾いた縄は三束。
辰五郎が軒下から見る。
「そこの縄、上に置くな。下に置け。雨の戻り水を吸う」
「はい!」
嘉助が動かす。
片桐は門の方を見ている。
水桶の道、荷台の道、人足の足。
槍は下がっている。
だが、目は動いていた。
喜助は、水桶を一つ動かした。
「そこ、人が寄る」
坂部の配下が言う。
「水はこっちでいいだろ」
「そこだと油紙を積む人とぶつかる。こっち」
「遠くないか」
「火薬箱からは遠い。人の道からは近い」
喜助は、嫌そうな顔で言った。
「俺も、何を言ってるのか嫌になるけど」
それでも置いた。
迅は干し菜の袋を見た。
開けない。
袋の口を見る。
重さを見る。
匂いを見る。
藤吉が袋の沈み方を見る。
嘉助が縄を見る。
「口は、結び直してないと思います」
嘉助が言った。
「でも、右の袋の底が少し柔らかいです」
藤吉が言う。
倉橋が顔を上げる。
「開けるか」
迅の胸が跳ねた。
開ければ分かる。
だが、開ければ遅れる。
雨上がりの空気で干し菜が湿る。
迷う。
迷っている間にも時間が落ちる。
赤松弥八が低く言った。
「火薬箱の覆い布は、日暮れまでに峠だ」
倉橋は迅を見る。
「決めなさい」
迅は、右の袋を見た。
底が柔らかい。
だが、袋の口は乱れていない。
匂いは干し菜。
腐った匂いではない。
泥の匂いも強くない。
見ないと決めた場所。
その場所が、今、目の前にある。
「開けません」
迅は言った。
声は小さかった。
だが、聞こえた。
「ただ、右の袋は寺に着いたら先に見てもらいます。濡れていたら、使える分だけ分けるよう伝えます」
倉橋は筆を取った。
「右袋、底に湿りの疑い。開けず。寺で先に確認」
その文字が書かれる。
迅は、それを見た。
見なかったことも、記録される。
逃げられない。
「出すぞ!」
坂部が叫んだ。
荷が動いた。
*
小荷は、二手に分かれた。
火薬箱に関わる覆い布と油紙、乾いた縄は、赤土峠へ。
干し菜は、途中で浄火寺へ下ろす。
同じ道を途中まで使う。
完全に分ければ安全だが、人手が足りない。
同じにすれば早いが、混じる。
だから途中で分ける。
分ける場所にも、人が要る。
水も要る。
目も要る。
迅は、その小荷に同行した。
藤吉と嘉助もいる。
片桐は門まで見送った。
「門は空ける」
片桐が言った。
迅は少し驚いた。
「はい」
「だが、口上は聞く」
「はい」
「両方やる」
その言葉は、自分に言い聞かせているようだった。
迅は頷いた。
「俺も、両方はまだ下手です」
片桐は、少しだけ視線を向けた。
「火守は、下手と言えるのか」
「言えないと、怖いので」
片桐は何も言わなかった。
ただ、門の横へ退いた。
小荷が通る。
水桶が通る。
人足が通る。
門は止まらなかった。
*
浄火寺へ干し菜を下ろした時、太助が椀を洗っていた。
梅吉は子ども連れを分けている。
嘉七は火のそばにいる。
庄吾は堂庇の下に座っていた。
蓮昭が、荷を受け取る。
「右の袋を先に見てください」
迅が言った。
「底に湿りの疑いがあります。開けずに来ました」
蓮昭の目が少し動いた。
「開けなかったのですか」
「はい」
「理由は」
「覆い布を赤土峠へ急がせるためです」
蓮昭は、しばらく黙っていた。
それから、袋を開けた。
干し菜の匂いが出る。
だが、底の方に少し泥が入っていた。
全部ではない。
半分でもない。
だが、使えない分があった。
太助がそれを見て、顔をしかめた。
「これ、粥に入れられない」
迅の胸が沈んだ。
見なかった場所。
そこに、泥があった。
蓮昭は、干し菜を分けた。
「使える分を取ります。泥のついた分は洗っても苦みが残る。子どもには使えません」
「すみません」
迅は頭を下げた。
蓮昭は首を横に振った。
「謝るだけでは足りません」
その言葉は静かだった。
迅は顔を上げる。
「次にどうするかを残してください」
蓮昭は言った。
「ここで開けなかった理由。泥があったこと。どれほど使えたか。赤土峠へ何を優先したか。すべて」
迅は頷いた。
「はい」
太助は、泥のついていない干し菜を取った。
「少し減ったけど、入れます」
「足りる?」
迅が聞く。
「足りない」
太助は正直に答えた。
「でも、ないよりまし」
それは軽い言葉ではなかった。
迅は、干し菜の袋を見た。
見ないことを決めた。
その結果が、ここにある。
荷は進んだ。
火薬箱の覆い布は間に合うかもしれない。
だが、浄火寺の粥は少し薄くなる。
どちらも、自分の判断の先にあった。
*
赤土峠へ覆い布が届いたのは、日が傾く少し前だった。
安蔵は、すぐに受け取った。
「遅い」
言葉はいつも通りだった。
だが、顔には少しだけ安堵があった。
火薬箱の古い覆い布は、角が裂けていた。
雨が吹き込めば、危うい。
油紙を重ね、乾いた縄で結ぶ。
嘉助が縄を見る。
藤吉が結びを見る。
安蔵が火薬箱の位置を見る。
迅は、周りの人を見る。
誰が寄るか。
誰が火薬箱に近すぎるか。
誰が濡れた足で滑りそうか。
覆い布は間に合った。
火薬箱は濡れなかった。
安蔵が言った。
「助かった」
短い言葉だった。
迅は頷いた。
だが、喜べなかった。
浄火寺の干し菜を思い出す。
泥のついた底。
太助の顔。
蓮昭の言葉。
次にどうするかを残せ。
火薬箱は守れた。
粥は少し薄くなった。
迅は、自分の手を見た。
見た手。
見なかった手。
どちらも同じ自分の手だった。
*
夜の灰ヶ峰城では、報告が二つ並んだ。
一つは、赤土峠。
覆い布、日暮れ前に到着。
火薬箱、濡れなし。
明朝の移し、予定通り。
もう一つは、浄火寺。
干し菜二袋のうち、右袋底に泥。
一部使用不可。
粥、少し薄くなる。
鷹見は、両方を書いた。
迅は、部屋の端で立っていた。
景胤、真木、瀬川、倉橋、坂部、黒羽、赤松弥八がいる。
藤吉と嘉助も控えていた。
喜助も呼ばれている。
水桶の流れが関わったからだ。
景胤は、迅を見た。
「何を見た」
迅は答えた。
「火薬箱に関わる荷を見ました。覆い布、油紙、乾いた縄を開けて見ました」
「何を見なかった」
胸が少し痛んだ。
「干し菜の中です」
「結果は」
「火薬箱は濡れませんでした。干し菜には泥がありました」
部屋は静かだった。
景胤は責めなかった。
それが、かえって重かった。
「なぜ見なかった」
「時間を落としすぎないためです」
「見なかったことを、どうする」
迅は、蓮昭の言葉を思い出した。
「残します。次に同じことがあったら、干し菜の袋は底だけでも開けるか、寺で開ける人を先に置きます。火薬箱の急ぎ荷と食べ物の荷を一緒にするときは、分ける場所を決めてから出します」
倉橋が頷いた。
「必要です」
坂部も言った。
「荷を混ぜるなら、分ける場所まで荷のうちだな」
喜助が小さく言った。
「水桶と似てる」
赤松弥八が迅を見る。
「火薬箱を守ったのは悪くねえ」
迅は顔を上げない。
「でも、粥が薄くなりました」
「そうだ」
赤松弥八は否定しなかった。
「火を守れば、腹が薄くなることもある。腹を守れば、火が遅れることもある」
景胤が言った。
「その両方を記録せよ」
鷹見の筆が動く。
二つの目。
同じものを二人で見るのみならず。
一つは物を見る。
一つは流れを見る。
見ない場所を決めた時、その場所も記録する。
火薬箱、守る。
干し菜、一部失う。
迅は、その文字を見ていた。
逃げ道のない文字だった。
瀬川が言った。
「迅」
「はい」
「全部を見ることはできぬ」
「はい」
「だから、見ない場所を決める」
「はい」
「だが、見ない場所で起きたことも、お前の判断の外には出ぬ」
迅の喉が鳴った。
「はい」
瀬川は静かに言った。
「それを、指図する者は背負う」
迅は、手を握った。
まだ指図する者ではない。
そう思いたかった。
だが、今日、自分は見ない場所を決めた。
その結果、泥のついた干し菜が出た。
火薬箱は守れた。
どちらも、同じ日の中にある。
景胤は、そんな迅を見ていた。
「火定めは、人を見つける」
景胤が言った。
「だが、人を見つけたら、次はその人に何を見せ、何を見せぬかを決めねばならぬ」
真木が低く続ける。
「見る力は、見るものを選ぶ力になりますな」
「そうだ」
景胤は頷いた。
「そして、選ばなかったものの痛みも残る」
その言葉は、部屋に沈んだ。
*
その夜、迅は城の外れで一人立っていた。
空は曇っている。
月は見えない。
赤土峠の方角も、浄火寺の灯も、ここからは見えない。
だが、そこにある。
火薬箱。
薄くなった粥。
覆い布。
泥のついた干し菜。
見たもの。
見なかったもの。
喜助が水桶を抱えてやってきた。
「いた」
「うん」
「また怖い顔してる」
「うん」
「今日は何」
「見なかった袋に、泥が入ってた」
喜助は、黙った。
「でも、火薬箱は間に合った」
「うん」
「よかったのか、悪かったのか、分からない」
喜助は水桶を地面に置いた。
「たぶん、両方」
「うん」
「俺、水桶でもあるよ」
迅は喜助を見る。
「飲む水を守ったら、火消し水が遠くなる。火消し水を近くしたら、子どもが触る。全部ちょうどいい場所は、あんまりない」
喜助は、水桶の蓋を軽く叩いた。
「だから、置いたあとも見る」
迅は、その言葉を聞いていた。
置いたあとも見る。
見ない場所を決めたら、終わりではない。
その後を見る。
そこに痛みが出たら、次に変える。
「喜助」
「何」
「水桶って、重いな」
「今さら?」
「うん」
「めちゃくちゃ重いよ」
喜助は少し笑った。
迅も、少しだけ笑った。
だが、すぐに風が吹いた。
東の山から、冷たい音がした。
かん。
小さな音だった。
迅は顔を上げる。
「今の」
「何?」
「音」
喜助も耳を澄ませる。
だが、もう聞こえない。
風が木を揺らしただけかもしれない。
どこかの荷具が鳴っただけかもしれない。
迅は、しばらく東を見ていた。
*
同じ頃、赤土峠の外れで、雨を吸った竹筒が枝に結ばれていた。
誰が結んだのかは、まだ誰も知らない。
中には小さな石が入っている。
風が吹くと、石が竹の内側を打った。
かん。
小さな音。
獣の足音にも似ている。
荷具の鳴る音にも似ている。
遠くの竹が割れる音にも似ている。
夜番の兵が、顔を上げた。
「今、何か鳴ったか」
隣の兵が耳を澄ませる。
「風だろ」
「そうか」
また、風が吹く。
かん。
夜番の兵は、もう一度顔を上げた。
見えるものはない。
火もない。
煙もない。
ただ、音だけがあった。
見る目が増えた峠に、今度は眠らせぬ音が置かれていた。




