【第34話】雨の荷綱
夜明け前から、雨が降っていた。
細い雨ではない。
音のある雨だった。
灰ヶ峰城の屋根を叩き、荷場の土を叩き、縄に染みて、米袋の端を暗く濡らしていく。
雨脚は強くなったり弱くなったりしながら、止まらなかった。
荷場には、いつもより早く人が集まっていた。
赤土峠へ送る米。
浄火寺へ回す干し菜。
負傷者小屋へ運ぶ布。
そして、火薬箱。
雨の日の荷は、晴れの日より静かに見える。
だが、静かなだけだった。
米は水を吸う。
縄は締まるようで緩む。
荷台の車輪は泥に取られる。
牛は足を嫌がる。
人足は、濡れた肩で見栄を張る。
迅は荷場の端に立っていた。
今日は赤松弥八の射場ではない。
坂部に呼ばれた。
火薬箱が動くなら、撃つ前に見る者も荷のそばに置く。
そう言われたからだ。
火はない。
火縄もない。
それでも、火薬箱はそこにある。
雨の中、黒い箱は妙に重く見えた。
藤吉は、荷台の横で縄を見ていた。
膝の布はまだ取れていない。
だが、目は荷に向いている。
その横に、嘉助がいた。
前に荷札の違いで疑われた人足だ。
今は、荷に触る前に必ず誰かへ声をかけるようになっている。
「見ます」
嘉助は言った。
藤吉が頷く。
「俺も見ます」
二人で、濡れた縄を指でなぞる。
荷綱は水を吸って、手に冷たく絡んだ。
嘉助は、一本の縄の前で止まった。
「これ」
藤吉が顔を上げる。
「どうしました?」
「結びが違う」
近くにいた人足が振り向いた。
「違う?」
嘉助は、すぐには答えなかった。
自分が言えば、また疑われる。
それを分かっている顔だった。
でも、言わなければ荷が動く。
動けば、何かが落ちるかもしれない。
嘉助は唇を噛み、言った。
「この結び、昨日の城の結びじゃありません」
人足の一人が、眉を寄せた。
「お前、またか」
嘉助の肩が強ばる。
藤吉がすぐに言った。
「見ます」
「お前もか」
「はい。見ます」
藤吉は縄へ近づいた。
濡れた結び目。
締まっているように見える。
だが、縄の尻が外へ向いている。
荷の腹を押さえる縄と、下へ回した縄の向きが少しずれている。
藤吉は、手を伸ばしかけて止めた。
「坂部様」
声を上げる。
坂部が振り返った。
「何だ」
「結びが違います」
坂部が近づく。
嘉助は一歩下がろうとした。
坂部が言った。
「下がるな」
嘉助の足が止まる。
「見つけた手が逃げると、余計に怪しくなる」
「……はい」
坂部は縄を見る。
すぐに辰五郎を呼んだ。
「辰五郎!」
「へい」
辰五郎は軒下に座っていた。
肩の布はまだ厚い。
雨に当たるなと坂部に言われ、荷場の端に追いやられている。
だが、目は最初から荷にあった。
「見えるか」
坂部が問う。
「見えます」
「どうだ」
「雨の日の縄ですね」
「それは見れば分かる」
「いえ」
辰五郎は、少しだけ身を乗り出した。
「雨の日の縄は、嘘をつきます。締まってる顔をして、下りで抜ける」
人足たちが黙った。
辰五郎は、藤吉へ言った。
「胴の縄を見ろ」
「胴締めですか」
「そうだ。荷の腹を押さえてるやつだ」
藤吉は、濡れた縄を見た。
嘉助も隣で見る。
「尻が外を向いてます」
嘉助が言った。
「下りで引かれると」
「抜ける」
辰五郎が言った。
「すぐには落ちねえ。だから厄介だ。道の曲がりで、荷が半分だけずれる」
坂部の顔が険しくなった。
「半分ずれると」
「牛が嫌がる。車輪が泥を噛む。人足が慌てる。そこで火薬箱が隣にあれば、道が死ぬ」
迅は、火薬箱を見た。
雨に濡れないよう、布をかけてある。
だが、その横にある米袋の荷がずれれば。
人が押す。
牛が動く。
車輪が沈む。
火薬箱の道が塞がる。
火がなくても、火薬箱は危うい。
坂部が低く言った。
「誰が結んだ」
人足たちは顔を見合わせた。
「朝は、皆で」
「昨日の夜に、結び直した者は」
「知らねえ」
「俺じゃない」
「俺も違う」
声が増えかけた。
坂部が手を上げる。
「黙れ」
それだけで、荷場の声が止まった。
嘉助は、雨に濡れた縄を見ていた。
その顔は青い。
また、疑いが自分に寄ってくる。
それを感じている。
藤吉も分かった。
前に疑われた手は、次に何かを見つけた時、また疑われる。
藤吉は、一歩前に出た。
「今は、誰が結んだかより、どの荷が危ないかを先に見たいです」
坂部が藤吉を見る。
「理由は」
「雨が強くなっています。ここで人を探すと、荷がもっと濡れます」
辰五郎が小さく笑った。
「言うようになったな」
藤吉は少しだけ顔を赤くした。
だが、下がらなかった。
「まず、同じ結びが他にあるか見ます。次に、荷を全部ほどくか、危ない縄だけ替えるか決めます」
坂部は、しばらく黙った。
それから言った。
「やれ」
*
荷場の雨は、さらに強くなった。
人足たちは、荷台ごとに分けられた。
藤吉と嘉助。
坂部の配下。
倉橋の書役。
それぞれが、荷札、縄、荷の沈み方を見る。
迅は、火薬箱の周りを見た。
火薬箱そのものではない。
その横を通る荷。
その荷を持つ人。
その人の足。
火薬箱の近くで転びそうなもの。
赤松弥八に言われた。
火薬箱は、鉄砲より先に道を通る。
その意味が、雨の中で少し分かった気がした。
嘉助が、二つ目の荷で声を上げた。
「これもです」
藤吉が見る。
同じ結び。
濡れた縄の尻が外へ向いている。
さらに三つ目。
これは違う。
四つ目。
また同じ。
嘉助の顔色が悪くなる。
「俺が見つけるたびに、俺が怪しくなる」
小さな声だった。
藤吉だけに聞こえた。
藤吉は答えた。
「でも、見つけないと落ちます」
「分かってる」
「俺も、米俵を一つだけ戻した時、二つ目を諦めました」
「前にも聞いた」
「今も、全部は守れないかもしれません」
嘉助は藤吉を見た。
藤吉は雨に濡れた荷を見ていた。
「でも、見つけたものは落とさないようにできます」
嘉助は、少しだけ息を吸った。
「分かった」
坂部が全体を見る。
「同じ結びは四つか」
「はい」
藤吉が答える。
「全部ほどくと、赤土峠への荷が遅れます」
倉橋が雨の中で帳面を守りながら言った。
「遅れれば、また粥が薄くなります」
「ほどかず行けば、荷崩れだ」
辰五郎の声が軒下から飛ぶ。
「どっちも嫌な道だな」
坂部は、雨の荷場に小さな評定を作った。
大広間ではない。
畳もない。
雨が打つ荷場。
濡れた縄。
米。
火薬箱。
人足。
書役。
座った辰五郎。
その中で、坂部は選択肢を出した。
「一つ。全部ほどいて結び直す」
倉橋が言った。
「時間を落とします。米が濡れます」
「二つ。危ない四つだけ替える」
辰五郎が言う。
「他を見落とすかもしれねえ」
「三つ。このまま通す」
藤吉が首を振った。
「道で落ちます」
坂部は頷いた。
「つまり、三つ目は捨てる」
誰も反対しなかった。
「残りは二つだ。全部替えるか、四つ替えるか」
雨音が強くなる。
遠くで牛が鼻を鳴らした。
迅は、荷の列を見た。
全部替えれば安全に近い。
だが、遅れる。
四つだけなら早い。
だが、見落としが怖い。
その間に立つ者が必要だった。
坂部は藤吉を見る。
「どう通す」
藤吉は、喉を鳴らした。
今までなら、辰五郎を見るだけだった。
だが、今日は辰五郎は軒下にいる。
動けない。
藤吉は雨の荷を見た。
「四つ替えます」
倉橋の目が動く。
「全部ではなく」
「はい。でも、替えるのは胴締めだけではなく、下を回す縄も一緒にします」
嘉助が続けた。
「同じ結びの荷は、下り坂で揺らしてから出します」
坂部が嘉助を見る。
「揺らす?」
「ここで五歩だけ、わざと傾けます。抜けるなら、ここで抜けます」
人足たちがざわつく。
「そんなことしたら落ちるだろ」
嘉助は、声を飲み込んだ。
また自分が疑われる。
だが、言った。
「道で落ちるより、ここで落ちた方がいいです」
藤吉が頷く。
「俺もそう思います」
辰五郎が軒下から言った。
「いい。落ちる顔をここで見ろ」
坂部は、短く決めた。
「やる」
*
濡れた荷を、荷場の端で試すことになった。
人足が四人、荷台の横へつく。
藤吉は足元を見る。
嘉助は縄を見る。
辰五郎は軒下から肩と膝を見る。
坂部は全体を見る。
迅は、火薬箱の場所を見る。
「近づけないでください」
迅が言った。
坂部が振り向く。
「何を」
「火薬箱です。試す荷と火薬箱を離した方がいいです」
「どれだけ」
迅は荷場を見た。
水桶。
牛。
人足。
通る道。
火薬箱の影。
「二台分。あと、人は下側に立たせないでください」
辰五郎が笑う。
「火守の子が、荷場らしいこと言うじゃねえか」
迅は少し顔を伏せた。
褒められた気はしなかった。
ただ、怖かった。
荷がずれた時、人が下にいれば潰れる。
そう見えたから言っただけだった。
坂部はすぐに指示を出した。
「火薬箱を二台分下げろ! 下側に立つな。押す者は横だ!」
人が動く。
火薬箱が少し下がる。
水桶が道の端へ寄る。
喜助がいれば、文句を言いながら直すかもしれない。
だが、今は迅が見るしかない。
嘉助が縄を結び直した。
指が雨で滑る。
それでも、結び目はさっきより低く、荷の腹に食い込んだ。
「これで」
嘉助が言う。
「揺らします」
人足たちが荷台を少し傾ける。
一歩。
二歩。
三歩目で、古い縄の一本がずるりと動いた。
荷が半寸ずれる。
「止めろ!」
坂部が叫ぶ。
人足たちが止める。
牛が鼻を鳴らす。
雨の中、全員がその縄を見た。
抜けた。
道でなく、荷場で。
倉橋が低く言う。
「ここで止めてよかった」
嘉助は、濡れた縄を見ていた。
藤吉が隣で言った。
「見つけた」
嘉助は、少しだけ目を閉じた。
「疑われても?」
「見つけた」
藤吉は繰り返した。
坂部が二人を見た。
「残り三つもやる。急げ。ただし、雑にするな!」
「はい!」
藤吉と嘉助が同時に答えた。
*
荷は、予定より遅れて出た。
だが、前のように半刻までは落とさなかった。
四半刻ほどの遅れ。
それでも、遅れは遅れだ。
赤土峠へ行く荷は、雨の道へ入った。
坂部の配下。
藤吉。
嘉助。
迅。
人足たち。
火薬箱は、列の中央ではなく、少し後ろへ置いた。
前の荷が崩れても巻き込まれにくい場所。
後ろすぎれば守りが薄い。
前すぎれば道の詰まりに巻かれる。
それを決めるだけでも、人の声が増えた。
藤吉は言った。
「火薬箱は、三台目の後ろです」
坂部の配下が問う。
「なぜ」
「前二台が泥を見ます。三台目が道をならします。その後ろなら、火薬箱の車輪が沈みにくい」
迅は、それを聞いて頷いた。
道を見る荷。
道をならす荷。
守る荷。
荷にも順がある。
雨の道は、灰ヶ峰城を出てすぐにぬかるんでいた。
草は重く倒れている。
泥は足首を掴む。
荷台の車輪は、回るたびに水を跳ねた。
人足たちは口数が少ない。
雨の日は、怒鳴るだけで息が減る。
嘉助は、荷台の横で縄を見ながら歩いた。
何度も手を伸ばしそうになり、そのたびに止まる。
動く荷の縄に触れば、余計に危ない。
見るだけ。
でも、見るだけでは足りない時がある。
「嘉助」
藤吉が言った。
「次の曲がりで見ます」
「分かった」
曲がり道。
右は岩。
左は低い斜面。
雨水が左へ流れている。
ここで荷が左へずれれば、車輪が沈む。
沈めば、人が押す。
人が押せば、火薬箱の列が詰まる。
迅は、下側に立とうとした人足を見た。
「そこは危ないです!」
人足が振り向く。
「押さねえと傾く!」
「横からです。下に入ると潰れます!」
声が雨に消えかけた。
迅はもう一度叫んだ。
「下に入らないでください!」
坂部の配下も怒鳴る。
「聞け! 横から押せ!」
人足が動いた。
荷台が曲がる。
結び直した縄が、水を含んでぎしりと鳴る。
だが、抜けない。
荷は少し傾いた。
藤吉が言った。
「今、止めるな! 止めると沈みます!」
嘉助が縄を見る。
「持ってる!」
「進め!」
荷台が、泥を噛みながら曲がりを抜けた。
後ろの火薬箱も続く。
牛が嫌がる。
迅は牛の目を見る。
白目が見えかけている。
「牛の前を空けて!」
人足が一歩退く。
牛が鼻を鳴らし、前へ出る。
火薬箱が、曲がりを越えた。
誰も声を出さなかった。
雨の音だけがあった。
それから、嘉助が小さく言った。
「落ちなかった」
藤吉が答えた。
「はい」
迅は、息を吐いた。
荷は落ちなかった。
火薬箱も止まらなかった。
だが、胸は軽くならない。
雨の中で、落ちなかっただけだった。
*
赤土峠へ着いた時、安蔵は門の内側で待っていた。
顔を見ただけで、荷が遅れたことを分かっている。
「遅い」
第一声は、それだった。
藤吉は頭を下げる。
「四半刻、落としました」
「また落としたのか」
若い兵が言った。
兼太だった。
だが、前ほど声は荒くない。
空腹の顔ではある。
それでも、まず荷台を見た。
「荷は」
安蔵が問う。
藤吉が答える。
「落ちていません」
「火薬箱は」
迅が答える。
「濡れていません。道で止まりませんでした」
嘉助が、濡れた縄を見せた。
「結びが違うものがありました。荷場で抜けました。道へ出す前に替えています」
兼太が嘉助を見る。
「お前が見つけたのか」
「はい」
「また疑われるぞ」
嘉助は、少し苦い顔をした。
「もう、少し疑われました」
「だろうな」
「でも、落ちなかった」
兼太は、黙った。
それから、荷台の縄を見た。
「俺にも分かるか」
嘉助は少し驚く。
「縄ですか」
「見るだけなら」
藤吉が言った。
「見られます。触るのは、荷を下ろしてからです」
兼太は頷いた。
「分かった」
安蔵が、そのやり取りを聞いていた。
「荷を下ろせ。飯はその後だ」
「またですか」
兼太が言う。
「まただ」
安蔵は答えた。
「飯を食うために、先に荷を落とすな」
その声に、兵たちが少しだけ笑った。
笑いは薄い。
だが、あった。
迅は、峠の荷場に水が溜まっているのを見た。
水桶の置き場が悪い。
そこに人が集まれば、泥がさらに深くなる。
喜助がいれば、きっと嫌そうに直す。
迅は自分で水桶を動かした。
重い。
水は、雨でも重い。
火薬箱のそばから離し、荷下ろしの道を塞がない場所へ置く。
安蔵がそれを見た。
「水まで見るのか」
「見ないと、喜助に怒られそうなので」
安蔵は少しだけ笑った。
「誰だ、それは」
「水を見る者です」
迅は答えた。
自分で言って、少し不思議だった。
喜助はここにいない。
でも、その役目はここにある。
*
夕方、灰ヶ峰城へ戻った報告は、雨に濡れていた。
鷹見が、濡れた紙を乾かしながら読み上げる。
景胤、真木、瀬川、坂部、倉橋、黒羽、赤松弥八が集まっている。
迅、藤吉、嘉助も控えていた。
辰五郎は、坂部に無理をするなと言われたにもかかわらず、部屋の端に座っていた。
「雨の荷綱に不審あり。胴締め、下綱の向きずれ。荷場にて試し、一荷、抜けあり。四荷を結び直し、四半刻遅れにて出発。道中、荷崩れなし。火薬箱、無事」
鷹見が筆を動かす。
景胤は、藤吉を見た。
「何を落とした」
藤吉は答えた。
「四半刻です」
「何を落とさなかった」
「荷です。火薬箱も」
景胤は頷いた。
次に、嘉助を見る。
「嘉助」
「はい」
「疑われたか」
嘉助は少しだけ口を閉じた。
それから答える。
「はい」
「それでも見たか」
「見ました」
「なぜ」
嘉助は、自分の手を見た。
「前に疑われた時、見なかったことも自分の過ちだと思いました。荷札を信じて、中身を見なかった」
雨の匂いが、部屋にも残っている。
「だから、次は荷札だけじゃなくて、縄も見ようと思いました」
景胤は、しばらく黙った。
鷹見の筆が止まりそうになる。
景胤が言った。
「記録せよ」
鷹見が筆を走らせる。
嘉助。
疑われた手。
荷札だけでなく、雨の縄を見る。
見つけたことで、荷崩れを防ぐ。
疑い、なお残る。
嘉助は、その最後の一文で顔を少し強ばらせた。
疑い、なお残る。
消されていない。
だが、悪く書かれただけでもない。
その両方が、紙の上にある。
瀬川が言った。
「疑いを消すために書くのではない」
嘉助が顔を上げる。
「次に置く場所を間違えないために書く」
嘉助は、深く頭を下げた。
「はい」
坂部が辰五郎を見る。
「お前もだ」
「俺ですか」
「雨の日の縄は嘘をつく、と言ったな」
「言いました」
「書かれるぞ」
「言わなきゃよかった」
辰五郎はぼやいた。
だが、顔は少しだけ誇らしそうだった。
鷹見は書く。
辰五郎。
雨の縄を見る。
荷を持つ前の顔に加え、荷が崩れる前の結びを見る。
本人、肩は使えず。
口は使える。
坂部が言った。
「余計なことまで書くな」
鷹見は淡々と返す。
「必要です」
部屋に小さな笑いが生まれた。
すぐに消えた。
黒羽が、持ち帰らせた濡れた縄を見ていた。
「この結び」
景胤が顔を向ける。
「何かあるか」
「荒砥の火付けが使った縄とは違います」
赤松弥八が眉を寄せる。
「分かるのか」
「前に見たものとは尻の向きが違う。荷を落とすための結びではありますが、手癖が違う」
真木が低く言う。
「荒砥が一枚ではない、ということか」
黒羽は答えなかった。
「まだ分かりませぬ」
小夜の言葉が、また部屋に落ちた。
分からないものを、分かったことにしない。
景胤は頷いた。
「なら、黒い石として残せ」
鷹見が筆を動かす。
不明の結び。
荒砥既知の手と不揃い。
継続して見る。
迅は、その文字を見た。
敵も、一つの手だけではない。
そう思うと、背中が冷えた。
*
その夜、煤谷村では、烈が雨の中を戻ってきた。
小夜は戸口で待っていた。
志乃は、濡れた布を用意している。
「荷は落ちなかった」
烈は言った。
「でも、縄が違った」
小夜はすぐに石を置いた。
荷の石。
雨の石。
黒い石。
それから、細い草を一本、荷の石に巻いた。
「雨の縄」
烈が言った。
「そう」
「縄まで石にするの?」
「草」
「そこじゃない」
小夜は、草の端を少し外へ向けた。
「この向き?」
「うん。嘉助さんが見つけたって」
「疑われた人」
「うん。でも、見つけた」
小夜は、黒い石を少しだけ荷の石から離した。
「これは?」
烈が聞く。
「疑いは残る。でも、荷からは少し離れた」
志乃が静かに頷いた。
「いい置き方ね」
名を言わない男が、納屋の横から言った。
「結び方が違ったのか」
小夜が見る。
「知ってる?」
「いくつかは」
「荒砥の結び?」
男は少し黙った。
「荒砥国にも、山の兵と里の兵で結びが違う。雇われた者なら、また違う」
烈が眉を寄せる。
「雇われた者?」
男は答えなかった。
咳を一つする。
「今のは、聞いたことにしておけ」
小夜は、黒い石をもう一つ置いた。
雇われた手。
まだ意味は分からない。
でも、置く。
烈はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。
「また増えた」
「増えたら、分ける」
「分けるの、俺が覚えるんだぞ」
「戻る役でしょ」
烈は言い返せなかった。
志乃は、濡れた烈の髪を布で拭いた。
「戻る役は、風邪をひかないことも役目だよ」
「はい」
小夜は、雨の石の横に赤い石を置いた。
烈が聞く。
「火?」
「火薬箱」
「火は出てないよ」
「出てない火もある」
小夜は言った。
その言葉に、志乃の手が一瞬止まった。
雨の夜。
火は見えない。
だが、火薬箱は雨の道を通っていた。
火が見えない日にも、火は運ばれている。
*
山の奥では、雨が木の葉を叩いていた。
鹿部市之助は、濡れた外套を払った。
若い男が、少し離れて立っている。
岩貫弥惣は、濡れた石の上に座っていた。
「荷は落ちませんでした」
鹿部市之助が言った。
「だが、遅れた」
「四半刻ほど」
「少ないな」
岩貫弥惣の声に、怒りはなかった。
鹿部市之助は、少しだけ笑みを薄くする。
「仕掛けた者が、雑でしたか」
「誰の仕掛けだ」
岩貫弥惣が問う。
鹿部市之助は、少し黙った。
「私の手ではありません」
若い男が顔を上げる。
雨音が強くなる。
「では、誰が」
鹿部市之助は答えない。
岩貫弥惣も、すぐには言わなかった。
雨の中、木の枝から水が落ちる。
「荷を落とす手は、一つではない」
岩貫弥惣は静かに言った。
「荒砥国の手も、一つではない」
若い男は、意味が分からない顔をした。
鹿部市之助は、笑わなかった。
「放っておきますか」
「見る」
岩貫弥惣は答えた。
「使える手か、邪魔な手か」
「味方でも?」
「味方という言葉は、荷綱より緩む」
雨が、火のない地面を叩く。
若い男は、少し震えていた。
寒さのせいだけではなかった。
*
夜の灰ヶ峰城で、藤吉は荷場にいた。
縄が干されている。
雨はまだ止まない。
軒下に吊られた縄から、水がぽたぽた落ちている。
迅が来ると、藤吉は顔を上げた。
「眠れないの」
「はい」
「膝?」
「膝も少し。でも、今日は縄です」
藤吉は、干された縄を見た。
「晴れた日の縄と、雨の日の縄は違いました」
「うん」
「人も、晴れた日と雨の日で違うのかもしれません」
迅は、隣に座った。
「どういうこと」
「腹が減った日。疑われた日。雨で濡れた日。見られている日。同じ人でも、持てる荷が違う気がします」
迅は、今日の人足たちを思い出した。
濡れた肩。
強がる顔。
見つけたせいで疑われる嘉助。
座ったまま荷を見る辰五郎。
雨の中、落ちなかった火薬箱。
「そうかもしれない」
藤吉は、少しだけ笑った。
「たぶん、じゃないんですか」
「今日は、そう思った」
藤吉は、干された縄へ目を戻す。
「嘉助さん、また疑われました」
「うん」
「でも、見つけました」
「うん」
「疑われた人が見ると、疑われます。でも、疑われたことがあるから見るものもあります」
迅は黙った。
その言葉は、庄吾にも、嘉七にも、名を言わない男にもつながる気がした。
疑われた者を、どう置くか。
遠ざけすぎれば、見えるものも消える。
近づけすぎれば、崩れる。
「置き場所だな」
迅が言う。
藤吉は頷いた。
「はい。荷も、人も」
縄から、水が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
それは水桶の音にも似ていた。
迅は、自分の手を見た。
撃つ前に見る手。
今日は、撃つものなどなかった。
見たのは、雨の縄。
濡れた荷。
疑われた手。
火が見えない火薬箱。
そして、敵の手が一つではないかもしれないという、黒いものだった。
見たいものではなく、見るべきものを。
その言葉が、雨音の中で沈んでいく。
荷は落ちなかった。
火薬箱も濡れなかった。
だが、縄の向こうに別の手が見えかけた。
落ちた荷より、落ちなかった理由の方が怖いこともある。
まだ、分からない。
分からないものは、分からないまま置く。
迅は、干された縄を見上げた。
雨の荷綱は、まだ水を滴らせていた。




