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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第33話】椀を渡す手

 浄火寺(じょうかじ)の朝は、粥の湯気から始まった。


 白く、薄い湯気だった。


 米の匂いはある。


 だが、腹を満たすほど濃くはない。


 釜の底で米が踊り、水がそれを大きく見せている。


 椀に注げば、最初は温かい。


 けれど、すぐに底が見える。


 太助は、その椀を両手で持っていた。


 前なら、奪う側だった。


 今は渡す側に立っている。


 それだけで、手が重い。


「一つずつ」


 太助は言った。


 声は小さい。


 だが、言わなければ手が伸びてくる。


「一つずつです」


 もう一度言う。


 列の先には、子ども連れがいる。


 怪我人がいる。


 歩けるが、顔色の悪い者がいる。


 昨夜から何も食べていない者もいる。


 太助は、椀を渡す相手の顔を見た。


 手ではない。


 顔。


 椀を握る前の顔。


 その顔を見るようにと、蓮昭に言われた。


 手だけを見ると、奪う手に見える。


 顔を見ると、腹が減った人に見える。


 でも、顔を見すぎると、渡したくなる。


 後ろの列を忘れる。


 だから、太助は怖かった。


「早くしてくれ」


 列の後ろから声がした。


「子が泣く」


「うちもだ」


「昨日より薄いぞ」


「寺は米を隠してるんじゃないのか」


 声が混ざる。


 粥の湯気より早く広がる。


 施粥(せがゆ)の場に、腹だけではないものが入り始めていた。


 梅吉は子を抱いた女たちを横へ流していた。


「子ども連れはこっちだ。押すな。椀は逃げねえ」


「でも、後ろが」


「後ろは後ろで待て。前を崩すな」


 声は荒い。


 だが、門前には通る。


 嘉七は火のそばに立っていた。


 薪を見ている。


 煙が浄火寺(じょうかじ)の門の方へ流れると、列が咳き込み、動きが乱れる。


 火を見る役として置かれているが、米のそばには近づけられていない。


 本人はそれを分かっていた。


 分かっているから、顔が少し苦い。


「火を弱めるぞ」


 嘉七が言った。


 寺の僧兵が頷く。


「煙が門に行く」


「見てる」


「ならいい」


「見てるだけで疑われるってのも、面倒だな」


 嘉七はそう言いながらも、火を荒く扱わなかった。


 堂庇(どうびさし)の下には、庄吾が座っていた。


 火からは離れている。


 釜からも離れている。


 けれど、門前の声は聞こえる場所だった。


 瀬川の指示だ。


 信じていない。


 だが、耳は使う。


 庄吾も、それを分かっていた。


 完全に許されたわけではない。


 だからこそ、動かない。


 動けば、すぐに見られる。


 庄吾は膝に手を置き、目を伏せていた。


 耳だけが、門前を向いている。


     *


 浄火寺(じょうかじ)境内(けいだい)には、いつもより人が多かった。


 火定め(ひさだめ)の名が広がったせいでもある。


 偽りの役札(やくふだ)が出たせいでもある。


 食べたい者。


 見られたい者。


 見られたくない者。


 寺を信じたい者。


 寺を疑っている者。


 それらが同じ列に並んでいる。


 迅は、瀬川とともに門の脇にいた。


 今日は鉄砲を持っていない。


 火薬箱もない。


 それでも、胸の奥は落ち着かなかった。


 ここには火がある。


 水がある。


 椀がある。


 腹がある。


 そして、声がある。


 声は見えない。


 だが、人を動かす。


 昨日、偽りの役札が人の手を止めた。


 今日は、札ではなく声が椀を止めようとしている。


「見えるか」


 瀬川が言った。


「声は見えません」


「なら、何を見る」


 迅は列を見た。


 太助の手。


 梅吉の声。


 嘉七の火。


 庄吾の耳。


 蓮昭の立つ場所。


 子を抱く女の肩。


 列の後ろで、声だけが大きい者。


「声を聞いた後に、動いた手です」


 瀬川は小さく頷いた。


「よい」


 その時、列の中から声が上がった。


「火定めの者は先に食えるんだろ!」


 太助の手が止まった。


 椀の中で粥が揺れる。


 蓮昭が顔を上げた。


「誰が言いました」


 すぐに返事はない。


 別の場所から、似た声がした。


「昨日の役札の男も、先に食えるって言ってたぞ」


「寺が止めたんだろ」


「止めたのは、寺が隠しているからじゃないのか」


 ざわめきが広がる。


 太助は椀を握りしめた。


 目の前には、小さな子がいる。


 椀を待っている。


 後ろには、もっと多くの顔がある。


 太助は一瞬、どちらも見られなくなった。


「太助」


 蓮昭が言った。


 声は静かだった。


「渡しなさい」


「でも」


「順番どおりに」


 太助は唇を噛んだ。


 そして、目の前の子へ椀を渡した。


「一つ」


 子が受け取る。


「横で食べて。こぼさないで」


 梅吉がすぐに子を横へ流す。


 列は少しだけ動いた。


 ほんの少しだ。


 だが、止まらなかった。


 そこへ、また声が入る。


「南から来た者まで食わせるのか」


 列の中にいた女が、びくりと肩を震わせた。


 言葉に少しだけ(なま)りがある。


 燧国(ひうちのくに)の山村とは違う響きだった。


 子どもを二人連れている。


 小さい方の子が、母の袖を握った。


「ここは燧の寺だろ!」


 声がまた飛んだ。


「よその者を先にするのか!」


 梅吉の顔が険しくなる。


 嘉七が火のそばから一歩出かけた。


 瀬川が低く言う。


「嘉七」


 嘉七は止まった。


 歯を食いしばる。


「言わせておくのか」


「火から離れるな」


「火より、あの口だろ」


「その口に釣られて火を離れるな」


 嘉七は、悔しそうに火へ戻った。


 蓮昭が門前へ出た。


浄火寺(じょうかじ)の門前で、国を分けません」


 声は大きくない。


 だが、境内に響いた。


「腹は、国境を知りません」


 ざわめきが少し沈む。


 しかし、完全には止まらない。


 列の中で、誰かが笑った。


「きれいなことを言えば、米が増えるのか」


 今度は別の場所だ。


 迅は顔を向けた。


 声の位置が違う。


 さっきは列の後ろ。


 今は柴積みの陰。


 腹を空かせた者の声にしては、逃げるのが早い。


 庄吾が、ゆっくり顔を上げた。


「同じ言い方だ」


 近くの僧兵が身構える。


「何が」


「声の高さは違う。でも、言い方が同じだ」


 庄吾は門前を見ずに言った。


「腹の声じゃない。腹の声を真似た声だ」


 瀬川が庄吾を見る。


「どこだ」


「柴の陰。次は門の外に動く」


 蓮昭が僧兵へ目を向ける。


 僧兵が一人、静かに動いた。


 走らない。


 人を押さない。


 列から目立たないように。


 庄吾は続けた。


「追いすぎるな。声を追えば、椀が止まる」


 太助が、庄吾を見た。


 庄吾は目を合わせなかった。


 その言葉が正しいかどうかは、まだ分からない。


 だが、迅は太助の手を見た。


 また止まりかけている。


「太助」


 迅は言った。


「渡して」


 太助は、はっとする。


「声を追うのは、別の人がやってる」


「でも」


「椀が止まったら、声が勝つ」


 太助の目が揺れた。


 それから、次の椀を取った。


「一つずつ!」


 今度は少し声が強かった。


「子ども連れは、梅吉さんの方へ。歩ける人は列を詰めすぎないで。椀は逃げません!」


 梅吉がすぐに続いた。


「聞いたか! 椀は逃げねえ。逃げるのは、横入りしようとする足だけだ!」


 少しだけ笑いが起きた。


 笑いはすぐに消えたが、列のこわばりは少し緩んだ。


 蓮昭は太助を見た。


 太助は椀を渡し続けている。


 手は震えている。


 でも、止まってはいない。


     *


 騒ぎは、大きくはならなかった。


 だが、何もなかったわけではない。


 柴積みの陰にいた者は、見つからなかった。


 小さな足跡が残っていた。


 草履の跡。


 赤土はない。


 代わりに、黒い灰が少しだけあった。


 焦げた木札ではない。


 火を持っていた証でもない。


 ただ、灰を指に塗れば、煤けた者のふりはできる。


 蓮昭は、それを見て眉を寄せた。


「火ではなく、声を煤で汚すか」


 瀬川が言った。


「捕らえることはできませんでした」


「捕らえれば、列はもっと崩れたでしょう」


 蓮昭は答えた。


 迅は、柴積みの陰を見ていた。


 椀は止まらなかった。


 列も崩れなかった。


 だが、声を置いた者は消えた。


 止められなかったものが、また一つ増えた。


 その事実が、胸の奥に小さく残った。


 庄吾は堂庇の下に戻されていた。


 僧兵が二人、少し離れた場所に立っている。


 信用されたわけではない。


 だが、耳は使われた。


 その位置だった。


 太助は椀を洗っていた。


 釜から少し離れた水場だ。


 水を見る者がいない場所では、椀洗いも詰まる。


 今日は、寺の小僧が添え手(そえて)として横に立っている。


 太助は、洗った椀を重ねながら言った。


「俺、また止まりました」


 迅はそばにいた。


「でも、渡した」


「止まったのに?」


「止まったけど、戻った」


 太助は椀を見た。


 水の中で、粥の白い筋が流れていく。


「前は、俺が椀を奪った」


「うん」


「だから、欲しい顔を見ると分かる」


「うん」


「分かると、渡したくなる」


「うん」


「でも、渡したら後ろが崩れる」


「うん」


 太助は少し顔をしかめた。


「迅さん、うんしか言ってない」


「よく言われる」


「どうすればいいんですか?」


 迅はすぐには答えられなかった。


 太助の手。


 渡したい手。


 止めなければならない手。


 それを一人で持たせていいのか。


 蓮昭が近づいた。


「一人で持たせない」


 太助が顔を上げる。


 蓮昭は言った。


「椀を渡す手には、添え手を置きます」


「俺が疑われるからですか」


「それもあります」


 太助の顔が少し沈む。


 蓮昭は続けた。


「ですが、疑うためだけではありません。あなたが揺れた時、手を戻すためです」


 太助は黙った。


 蓮昭は、洗われた椀を一つ手に取った。


「椀は、一つずつ渡すものです。けれど、一つの手だけで渡すものではありません」


 太助は、その言葉を聞いていた。


 椀の水が、ぽたりと落ちた。


     *


 午後、浄火寺(じょうかじ)の堂の脇で、小さな話し合いが行われた。


 蓮昭、瀬川、迅。


 梅吉、嘉七、太助。


 そして庄吾。


 庄吾は少し離れて座らされている。


 呼ばれている。


 だが、輪の中ではない。


 その距離が、今の庄吾の場所だった。


 蓮昭が言った。


「今日、列は大きく崩れませんでした」


 梅吉が鼻を鳴らす。


「崩れかけたぞ」


「はい。崩れかけました」


 蓮昭は否定しない。


「ですが、椀は止まりませんでした」


 太助は少しだけ肩を落とした。


「止まりかけました」


「止まりかけた。だが、止まりきらなかった」


 瀬川が鷹見へ渡すための木札に言葉を残している。


 椀を渡す手。


 欲しい者の顔を見る。


 情に揺れる。


 添え手を要す。


 声で止まりかける。


 迅はその文字を見た。


 役目帳に入れば、太助の揺れも残る。


 それは守るためでもあり、重さでもある。


 嘉七が言った。


「俺は、あの声の奴を殴りたかった」


「殴れば列が崩れました」


 蓮昭が言う。


「分かってるよ」


「分かっていて、火の場へ戻った」


 嘉七は口を閉じた。


 瀬川が木札に書く。


 火を見る者。


 声に釣られかける。


 火場を離れず。


 嘉七は顔をしかめた。


「釣られかける、まで書くのか」


「書く」


 瀬川は答えた。


「次に同じ声が来た時、忘れぬためだ」


 梅吉が腕を組む。


「俺は?」


 瀬川は梅吉を見た。


「子ども連れを流した。声で列が固まりかけた時、笑いを少し作った」


 梅吉は変な顔をした。


「笑い?」


「緩めた」


「俺は怒鳴っただけだ」


「怒鳴り方で、燃える時と緩む時がある」


 嘉七が横から言う。


「お前の怒鳴りは雑だが、たまに使える」


「お前に言われたくねえ」


 二人の声が少し荒くなる。


 蓮昭が静かに言った。


「二人とも、火のそばです」


 嘉七と梅吉は黙った。


 迅は少しだけ笑いそうになったが、すぐにやめた。


 庄吾が、低く言った。


「声は、また来る」


 全員の視線が向いた。


 庄吾は、肩をすくめるようにした。


「俺が言わなくても分かるだろ」


 瀬川が問う。


「今日の声を、どう聞いた」


「同じ言葉を、別の口が言った」


「どういうことだ」


「火定めの者は先に食える。寺が隠している。よその者を食わせるな。言ってることは別だが、息の置き方が似てた」


 太助が眉を寄せる。


「息?」


「腹から出た声じゃない。言う場所を探してから出した声だ」


 庄吾は、自分の喉に触れた。


「腹が減った奴は、もっと汚く言う。今日のは、汚い言葉をきれいに置いていた」


 梅吉が顔をしかめる。


「分かりにくいな」


「分かりやすい声なら、捕まってる」


 庄吾の声には、少しだけ皮肉があった。


 僧兵が一歩動く。


 蓮昭が止めた。


「庄吾」


「何だ」


「そなたの耳は使います」


 庄吾は、蓮昭を見る。


「信じるのか」


「信じきりません」


 蓮昭は答えた。


「ですが、使います」


 庄吾は苦い顔をした。


「ひどい言い方だな」


「互いにその方がよいでしょう」


 庄吾は、しばらく黙った。


 それから、小さく笑った。


「まあ、そうだな」


 瀬川は木札に書いた。


 庄吾。


 声の置き方を聞く。


 信用しきらず。


 門前から離し、堂庇に置く。


 庄吾はそれを横目で見た。


「名前まで書くのか」


「嫌か」


「嫌だな」


「では、消すか」


 庄吾は黙った。


 そして、目を伏せた。


「……消すな」


 短い声だった。


 迅は、その声を聞いていた。


 撃たなかった男。


 信用できない男。


 でも、消されたくはない男。


 役目帳に名が残るということは、嬉しいだけではない。


 消えないということでもある。


     *


 夕方、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ報告が入った。


 浄火寺(じょうかじ)門前。


 施粥(せがゆ)の列に流言(りゅうげん)あり。


 火定めの者は先に食える。


 寺が米を隠している。


 よその者を食わせるな。


 声の主、捕らえられず。


 椀の列、大きくは崩れず。


 太助、椀を渡し続ける。


 梅吉、子ども連れを流す。


 嘉七、火場を離れず。


 庄吾、声の置き方を聞く。


 添え手を増やす必要あり。


 鷹見は、その報告を黙って書いた。


 景胤は、最後まで聞いてから言った。


「声は、札より捕らえにくいな」


 真木が頷く。


「札は残ります。声は残りませぬ」


「だが、声で手は止まる」


 景胤は、机の上にある役目帳を見た。


「椀を渡す手を記録せよ」


 鷹見が筆を取る。


「すでに」


「名だけではなく、揺れも書け」


 鷹見は顔を上げた。


 景胤は続けた。


「欲しい者の顔を知る。ゆえに渡したくなる。ゆえに後ろを崩しかける。そこまで書け」


「承知しました」


「庄吾も書け」


 部屋の空気が少し変わった。


 赤松弥八が眉を動かす。


「まだ危うい男ですぞ」


「だから書く」


 景胤は言った。


「危うい者を、どこに置いたかを残せ。役に立ったことだけを書けば、次に近づけすぎる。危うさだけを書けば、次に使えぬ」


 瀬川は頭を下げた。


「承知しました」


 景胤は、窓の外を見た。


 夕方の光が、城壁の端を赤く染めている。


「火定めは、火を見つけるものだと思っていた」


 誰も声を出さない。


「だが、今は手の震えを見ている。耳の置き場所を見ている。声が人を動かすところを見ている」


 真木が静かに言った。


「敵も、それを見ています」


「そうだ」


 景胤は頷いた。


「ならば、こちらはさらに見る。声を消すことはできぬ。だが、声で何が止まりかけたかは残せる」


 鷹見の筆が、紙の上を走った。


 椀を渡す手。


 声で止まりかける。


 添え手を要す。


 庄吾の耳。


 信じきらず、置く。


 その文字は、まだ新しい。


 だが、また一つ、名もなき働きが消えずに残った。


     *


 夜の浄火寺(じょうかじ)では、椀が洗われていた。


 太助は、手を赤くして水に椀を沈めている。


 冷たい水だった。


 指先が痛い。


 それでも、椀についた白い粥の筋を落とさなければならない。


 明日も使う。


 明日も、誰かが待つ。


 迅は、横にしゃがんで一枚の椀を拭いていた。


「迅さん、下手」


 太助が言った。


「そうかな」


「まだ白いの残ってる」


「ごめん」


「謝るほどじゃないけど」


 太助は椀を取り、もう一度水につけた。


 その手つきは、昼より落ち着いていた。


「今日」


 太助が言った。


「俺、渡すのやめそうになった」


「うん」


「前に奪ったから、欲しい顔が分かるって言われた」


「うん」


「分かると、きつい」


「うん」


「でも、分からない人よりは、渡せるのかな」


 迅は、太助の手を見た。


 小さな手。


 椀を奪った手。


 椀を渡した手。


 震えた手。


 それでも止まらなかった手。


「渡せると思う」


 迅は言った。


 太助は顔を上げた。


「たぶんじゃないの?」


「今日は、渡した」


 太助は、少しだけ目を丸くした。


 それから、ほんの少し笑った。


「じゃあ、明日は分からないね」


「うん」


「そこは、うんなんだ」


 二人は少しだけ笑った。


 堂庇の下では、庄吾が座っている。


 見張りの僧兵がいる。


 庄吾は自由ではない。


 だが、今日の声を聞いた耳は、明日もそこに置かれる。


 嘉七は火の番をしている。


 梅吉は子を抱いたまま、眠る場所を分けている。


 蓮昭は本堂の前で、明日の粥の数を僧兵と確かめている。


 それぞれの手が、夜の浄火寺(じょうかじ)を支えていた。


 迅は、洗った椀を積み上げる。


 椀は軽い。


 一つなら。


 だが、重ねれば重くなる。


 役目も同じだと思った。


 一つ一つは小さい。


 椀を渡す。


 水を置く。


 火を見る。


 声を聞く。


 子を横へ流す。


 でも、重なれば門を支える。


 声は、また来る。


 札より軽く。


 煙より早く。


 腹の隙間へ入り込むように。


 けれど、今日、椀は渡された。


 止まりかけても、渡された。


 迅は夜の山を見た。


 火は見えない。


 煙も見えない。


 それでも、どこかに声を置く者がいる。


 見たいものではなく、見るべきものを。


 今夜、見るべきものは、火ではなかった。


 椀を渡す手だった。

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