【第32話】見る者も見られる
偽りの役札が出た翌朝。
灰ヶ峰城の城門は、いつもより狭く見えた。
門が狭くなったわけではない。
人の足が止まるようになったのだ。
水を運ぶ者。
荷を通す者。
浄火寺へ向かう使い。
煤谷村から戻る伝令。
城下へ出る兵。
城へ入る人足。
その一人一人が、木札を見せる。
口上を言う。
割符を合わせる。
それだけで、足は止まる。
足が止まれば、後ろの者が詰まる。
後ろが詰まれば、誰かが苛立つ。
苛立てば、声が荒くなる。
声が荒くなれば、門はさらに狭くなる。
迅は、門の端でそれを見ていた。
喜助は少し離れたところで水桶を抱えている。
今日は、飲む水ではない。
広場の端へ移す洗い水だった。
だが、偽りの役札が出たせいで、水桶一つ動かすにも、人の目が刺さる。
「これ、本当に動かしていいやつ?」
喜助が小さく言った。
「割符は合ってる」
迅が答える。
「口上も二人だった」
「うん」
「でも、みんな見てる」
「うん」
「水桶って、いつからこんなに見られるものになったの」
「火定めから」
「嫌な答えだなあ」
喜助はため息をついた。
それでも、水桶を置く場所から目を離さない。
門の横では、若い武士たちが数人、並んでいた。
昨日から、役札の見分けと口上の確認のために立たされている。
その中の一人が、目に見えて不満そうだった。
名は片桐数馬。
瀬川より若い。
まだ頬に少年の硬さが残っているが、腰には槍を持つ者の意地がある。
片桐数馬は、門を通ろうとする人足の木札を見て、眉を寄せた。
「もう一度、口上を言え」
人足が困った顔をする。
「さっき言いました」
「言え」
「浄火寺へ干し菜二袋、塩一袋。倉橋様の帳面より。口上二人、割符あり」
「もう一人は」
後ろの男が同じことを言った。
割符も合った。
それでも、片桐数馬は通さない。
「袋を開けろ」
人足の顔が変わった。
「ここでですか?」
「偽札が出た。中身も見る」
「ここで開けたら、人が寄ります」
「寄らせねばよい」
その声を聞いて、坂部の配下が顔をしかめた。
門の後ろでは、荷台が止まりかけている。
水桶の道も塞がり始めていた。
喜助が、あっと声を漏らす。
「まずい」
迅も見た。
水桶を運ぶ道の先に、若い武士たちの足がある。
槍を持つ者の足。
整っている。
だが、動かない。
動かない足は、道を塞ぐ。
「瀬川様は」
喜助が言うより早く、瀬川が門の内側から歩いてきた。
顔には、昨夜の疲れが残っている。
それでも、目は鈍っていなかった。
「何が止まっている」
瀬川が問う。
片桐数馬が振り返った。
「偽札への備えです」
「備えか」
「はい。干し菜と塩を浄火寺へ出すとのことですが、偽りの役札が出た以上、中身も検めるべきかと」
「割符は」
「合いました」
「口上は」
「二人とも同じです」
「帳面は」
「倉橋殿の印あり」
「では、なぜ止めている」
片桐数馬の顔に、赤みが差した。
「疑うべきだからです」
瀬川は、門の外を見た。
止まった荷。
動けない水桶。
戸板を担ぐ者。
足を止められた人足。
それを見てから、もう一度若い武士を見る。
「疑うなら、道を塞ぐな」
声は静かだった。
だが、鋭かった。
片桐数馬は唇を噛む。
「我らが、道を塞いでいると?」
「塞いでいる」
瀬川は即座に言った。
空気が固まった。
若い武士たちの顔が変わる。
片桐数馬は、一歩前へ出た。
「瀬川殿」
「何だ」
「我らは、敵の偽りを防ぐために立っています。水桶や人足を通すためだけに立っているのではありません」
「なら、何のために立っている」
「城の命を守るためです」
「城の命は、荷を止めろと言ったか」
「いいえ」
「水を止めろと言ったか」
「いいえ」
「寺へ向かう塩を門前で晒せと言ったか」
「……いいえ」
瀬川は一歩、門の真ん中へ出た。
「なら、道を空けろ!」
その一声で、門の前の者たちが動いた。
若い武士たちも、反射的に足を引いた。
荷台が少し進む。
喜助が水桶を抱えて、脇道へ抜ける。
「通ります! 水、通ります!」
声は裏返ったが、通った。
藤吉が荷台の横から言う。
「右の車輪、泥を噛んでます。ゆっくり!」
坂部の配下が牛を押さえる。
人足が塩の袋を担ぎ直す。
動いた。
ほんの少し。
だが、止まっていたものが動いた。
瀬川は、その流れを見届けてから、若い武士たちへ向き直った。
「見る者は、見られる」
片桐数馬が眉を寄せた。
「何のことです」
「そなたらは、札を見ていたつもりだろう」
「はい」
「だが、今はそなたらの足が見られていた」
瀬川は、迅を見た。
「迅」
「はい」
「何が止まった」
突然振られて、迅は息を吸った。
だが、見たことはあった。
「水桶です。喜助が通れませんでした」
「他」
「荷台が止まりかけました。右の車輪が泥を噛みました」
「他」
「人足が門前で待って、後ろの戸板が揺れました」
「他」
迅は、少し奥を見た。
「烈が戻ってきた時、門の外で一度止まっていました。たぶん、入る隙がなかったからです」
瀬川は頷いた。
「聞いたか」
若い武士たちは黙る。
片桐数馬だけが、まだ目を逸らさなかった。
「ですが、それは結果です。我らは偽りを防ぐために」
「結果が道を塞げば、敵の役に立つ」
瀬川の言葉に、片桐数馬の顔が強ばった。
「我らを敵と同じと?」
「同じではない」
瀬川は答えた。
「だが、同じように道を止めることはある」
それは、叱責より重かった。
若い武士たちは、黙った。
だが、納得したわけではない。
片桐数馬は、拳を握っていた。
*
昼前、城門近くの小屋に瀬川と若い武士たちが集められた。
説教の場ではない。
瀬川はそう言った。
だが、若い武士たちの顔は、明らかに叱責を受ける者の顔だった。
迅も呼ばれていた。
理由は分からない。
ただ、瀬川が「見た者も来い」と言った。
喜助は水場へ戻された。
藤吉は荷場へ戻った。
烈は煤谷村へ戻るため、八瀬隼人と割符を確かめている。
小屋の中には、槍が数本立てかけられていた。
木札もある。
役札。
割符。
口上。
水。
荷。
寺。
門。
瀬川は、その木札を一つずつ床に置いた。
「何が不満だ」
瀬川は言った。
若い武士たちは顔を見合わせる。
誰も口を開かない。
瀬川は、片桐数馬を見る。
「そなたが言え」
片桐数馬は、少しだけ息を吸った。
「我らは、槍を持つために育てられました」
「そうだ」
「城を守るため、殿を守るため、敵を防ぐためです」
「そうだ」
「なのに、今は水桶の道を空けろ、荷台の車輪を見ろ、百姓の口上を聞けと言われる」
声が少し震えていた。
怒りだけではない。
悔しさがあった。
「我らの槍は、そこまで軽いのですか」
小屋の中が静まった。
迅は、片桐数馬を見た。
嫌な人だと思っていた。
門で人を止めたから。
けれど、今の顔は違った。
自分の役目が見えなくなった者の顔だった。
瀬川は、すぐには答えなかった。
「軽いと思うか」
片桐数馬は眉を寄せる。
「こちらが聞いております」
「私は聞いている。そなたは、自分の槍が軽くなったと思うのか」
若い武士は答えられなかった。
瀬川は言った。
「火定めは、百姓や人足を武士の上に置くものではない」
「ですが」
「同時に、武士を札の外に置くものでもない」
片桐数馬が顔を上げる。
「我らも、見られるのですか」
「そうだ」
若い武士たちがざわついた。
「武士を、ですか」
「我らの槍を火定めに?」
「百姓と同じ帳面に?」
片桐数馬の声が低くなった。
「それは、武士を侮ることでは」
「違う」
瀬川は言った。
「武士の槍が、どこに立てば人を守り、どこに立てば道を塞ぐかを見る」
小屋の空気が変わった。
瀬川は、床に置いた木札を動かした。
門。
水。
荷。
寺。
その間に、槍を示す細い木片を置く。
「ここに立てば、偽札を止められる」
次に、少し動かす。
「ここに立てば、水桶が通れぬ」
また動かす。
「ここに立てば、荷台が曲がれぬ」
さらに動かす。
「ここに立てば、逃げる者を追える。だが、子ども連れの列が崩れる」
小夜の石に似ていた。
ただ、石ではなく槍だった。
迅は、それを見た。
小夜が見たら、何と言うだろう。
たぶん、槍の石も要る、と言う。
片桐数馬は、床の木片を見ていた。
「では、我らは槍を持ちながら、水桶を見るのですか」
「そうだ」
「荷も」
「見る」
「百姓の足も」
「見る」
「偽札も」
「見る」
「敵は」
瀬川は、少しだけ間を置いた。
「その全てを見たうえで、敵を見る」
若い武士たちの顔が険しくなった。
あまりに重い。
迅にも分かった。
瀬川は続けた。
「槍が軽くなったのではない」
声は低かった。
「重くなったのだ」
片桐数馬は、何も言えなかった。
瀬川は、さらに言った。
「そなたらが面目を失うのを恐れることも分かる」
若い武士が一人、顔を上げた。
「分かるのですか」
「分かる」
瀬川は、自分の腰の刀に目を落とした。
「私も武士だ」
それは、静かな言葉だった。
「だが、沢の出口で見た。水桶を持つ手が止まれば、槍は届かぬ。荷が落ちれば、鉄砲は撃てぬ。戻る足が遅れれば、敵の火は村へ入る」
瀬川は、片桐数馬を見る。
「名もなき手を守れぬ槍は、ただ長い棒だ」
片桐数馬の目が揺れた。
怒りか。
悔しさか。
それとも、分かってしまったことへの痛みか。
迅には分からなかった。
*
午後、もう一度、門で試しが行われた。
今度は、本物の口上を持つ荷を通す。
浄火寺へ向かう干し菜。
負傷者小屋へ向かう清め布。
広場へ戻す水桶。
三つを同じ時に通す。
わざとだった。
瀬川が、若い武士たちを門の左右へ置いた。
中央ではない。
道の真ん中ではない。
片桐数馬は、右の柱の内側に立たされた。
槍を立てる。
しかし、穂先は下げる。
威圧するためではなく、見せるための槍だった。
「口上」
瀬川が言う。
人足が言った。
「浄火寺へ干し菜二袋、塩一袋。倉橋様の帳面より。口上二人、割符あり」
もう一人が同じことを言う。
割符を合わせる。
合う。
片桐数馬の手が、わずかに袋へ伸びかけた。
だが、止まった。
中身を全部開けたい。
偽りを防ぐなら、その方が安心できる。
だが、ここで開ければ人が寄る。
道が詰まる。
瀬川は何も言わない。
見ている。
片桐数馬は、息を吸った。
「通せ」
荷が動いた。
次に、喜助が水桶を持って来る。
「水、通ります!」
声が少し強くなっている。
若い武士の一人が、反射的に水桶の前へ出かけた。
片桐数馬が言った。
「そこは道だ。横へ」
その若い武士が驚いた顔で横へ退く。
喜助が通る。
「助かります!」
喜助は言った。
言ってから、少しだけ嫌そうな顔をした。
武士に礼を言うのが照れくさいのかもしれない。
最後に、清め布を持つ女たちが来た。
少し迷っている。
門の左右に槍があるからだ。
片桐数馬は、それに気づいた。
槍をさらに少し下げる。
「通れ」
女たちは頭を下げ、通った。
瀬川が問う。
「何を見た」
片桐数馬は答えた。
「札と口上」
「他」
「水桶の道」
「他」
「槍を上げると、女が止まりました」
「他」
「……私が見られていました」
瀬川は頷いた。
「そうだ」
若い武士は、唇を噛んだ。
「これも、火定めですか」
「そうだ」
「武士も、ですか」
「武士もだ」
片桐数馬は、顔を伏せた。
納得したわけではない。
だが、門の道は塞がなかった。
それだけで、今日のところは十分だった。
*
夕刻の評定では、瀬川が門でのことを報告した。
景胤、真木、鷹見、倉橋、坂部、黒羽、赤松弥八がいる。
迅は、また端に控えた。
なぜ自分がいるのか、まだ慣れない。
だが、見た者として呼ばれているのだと分かっていた。
瀬川は隠さず言った。
「若い武士の間に、火定めへの反発があります」
景胤は頷いた。
「知っている」
「百姓や人足の役目が見られることへの反発だけではありません。自分たちの槍が軽くなるのではないか、武士の名が役目帳の中で薄まるのではないかという恐れです」
鷹見が筆を動かす。
坂部が腕を組んだ。
「名がある者も、名を失うのが怖いってことか」
倉橋が静かに言う。
「米のある蔵ほど、盗まれることを恐れるのと同じかもしれませぬ」
赤松弥八が鼻を鳴らした。
「武士の威儀も米俵か」
倉橋は真顔で答えた。
「軽くはありませぬ」
真木が言った。
「放っておけば、敵の言葉が入ります」
黒羽が続ける。
「すでに入る隙があります。偽りの役札が出たことで、火定めそのものを疑う声も出るでしょう」
景胤は、しばらく黙った。
それから瀬川を見る。
「そなたは、どう見る」
瀬川は、息を吸った。
「武士も火定めの外に置かぬ方がよいかと」
部屋の空気が少し変わった。
瀬川は続ける。
「百姓や人足を見て、武士だけを見ないなら、火定めは武士を疑わぬものになります。すると、武士は自分の足で道を塞いでも気づきませぬ」
鷹見の筆が止まらない。
「武士を責めるために見るのではありません。槍を、どこに置けば守れるかを見るためです」
真木が問う。
「武士が受け入れるか」
「すぐには」
瀬川は正直に答えた。
「ですが、受け入れぬまま門に立てば、また止まります」
景胤は頷いた。
「鷹見」
「はっ」
「役目帳に、武士の欄も加えよ」
赤松弥八が少し眉を上げる。
鷹見も一瞬だけ筆を止めた。
「武士の欄、ですか」
「そうだ」
景胤の声は静かだった。
「槍働きだけではない。門を塞がぬ立ち位置。口上を通す声。民を怯えさせぬ槍の下げ方。偽札を疑いながら、荷を滞らせぬ判断。それも書け」
坂部が低く笑った。
「武士も荷札つきですな」
真木が坂部を見る。
坂部はすぐに口を閉じた。
景胤は、笑わなかった。
「武士の名を軽くするためではない」
瀬川は頭を下げた。
「はい」
「重くなった槍を、どう持つかを見るためだ」
その言葉で、評定は静かになった。
迅は、景胤を見ていた。
火定めは、百姓や人足を見つける制度だと思っていた。
だが、違う。
見る者も、見られる。
それは武士も同じだった。
*
夜、瀬川は城門の外にいた。
訓練を終えた若い武士たちは、もう下がっている。
だが、片桐数馬だけが残っていた。
門の柱のそば。
昼に自分が立った場所を見ている。
瀬川が近づくと、片桐数馬は頭を下げた。
「瀬川殿」
「まだ不服か」
「はい」
正直な答えだった。
瀬川は少しだけ目を細めた。
「よい」
「よいのですか?」
「不服が消えた顔をされる方が怖い」
片桐数馬は、少し戸惑った。
それから、門の外を見た。
「父は、槍で死にました」
瀬川は黙って聞いた。
「門を守ったと聞いています。敵を三人止めたと。だから私は、槍を持つ者になりたかった」
風が門を抜ける。
夜の土の匂いがした。
「それなのに、水桶の道を空けろと言われる」
声は静かだった。
「父の死まで、水桶の後ろに置かれた気がしました」
瀬川は、その言葉をすぐには返さなかった。
軽く扱えば、傷になる。
否定しても、嘘になる。
「そなたの父は、門を守ったのだろう」
「はい」
「なら、門を通るものを守ったのだ」
片桐数馬が瀬川を見る。
「敵を止めることだけが、門を守ることではない」
瀬川は、昼の門を見た。
水桶。
荷。
戸板。
女たち。
伝令。
それらが通った道。
「門は、閉じるためだけにあるのではない。通すべきものを通すためにもある」
片桐数馬は、黙った。
その顔には、まだ不服がある。
だが、ただ怒っている顔ではなかった。
「私にも、見えるようになりますか」
瀬川は答えた。
「見る気があるなら」
「見たくないものも」
「見る」
「自分の足が道を塞いでいるところも」
「見る」
片桐数馬は、苦く笑った。
「嫌な役目です」
「役目とは、たいていそうだ」
瀬川は言った。
どこかで聞いたような言葉だった。
迅が、少し離れた場所でその会話を聞いていた。
声をかけるつもりはなかった。
だが、足が止まっていた。
瀬川がこちらを見る。
「迅」
「すみません」
「よい。そなたも聞け」
迅は近づいた。
片桐数馬が、少し気まずそうに目を逸らした。
昼間、門で詰め寄った相手だ。
迅も、どう言えばいいか分からない。
瀬川は二人を見た。
「迅は撃つ前を見る。そなたは槍を置く前を見る」
片桐数馬が顔を上げた。
「槍を置く前」
「そうだ」
瀬川は門の道を指した。
「槍を立てる前に、そこを誰が通るかを見る。槍を下げる前に、誰が怯えているかを見る。槍を動かす前に、荷と水がどこへ行くかを見る」
迅は、その言葉を胸に入れた。
撃つ前に見る。
槍を置く前に見る。
同じだ。
武器が違うだけで、怖さは似ている。
「瀬川様は」
迅が言った。
「何を見るんですか」
瀬川は少しだけ黙った。
城門の外。
暗い道。
その先の煤谷村。
浄火寺。
赤土峠。
見えない場所が多すぎる。
「私は」
瀬川は言った。
「お前たちが立つ場所を見る」
迅は息を止めた。
瀬川の声は、いつもより少し低かった。
「迅。喜助。烈。小夜。藤吉。辰五郎。嘉七。太助。庄吾。今日の片桐もだ」
初めて、片桐数馬の目が瀬川へまっすぐ向いた。
「人を置く場所を誤れば、役目は人を潰す」
瀬川は続けた。
「それを見る。見落とせば、私の責だ」
迅は、何も言えなかった。
瀬川もまた、見られている。
景胤に。
現場に。
武士に。
民に。
そして、迅たちに。
見る者も、見られる。
その言葉が、夜の門に沈んだ。
*
山の奥では、小さな火もなかった。
鹿部市之助は、闇の中で報告を聞いていた。
岩貫弥惣は姿を見せていない。
代わりに、若い男が戻ってきた。
「城門で、武士が揉めていました」
鹿部市之助は笑った。
「火定めでか」
「はい。百姓や人足を見すぎだと」
「よい」
鹿部市之助は、低く言った。
「武士の腹にも、言葉は入る」
若い男は黙った。
「水や米を疑わせるだけではない。槍の面目を疑わせれば、武士も止まる」
鹿部市之助は、闇の中で細い木片を指で弾いた。
「だが、同じ石を置き続けるな、か」
岩貫の言葉を思い出したのだろう。
笑みが少し薄くなる。
「次は、札ではない」
若い男が顔を上げる。
「では」
「声だ」
鹿部市之助は、城の方角を見た。
「武士の耳に入る声を置く」
夜の森は静かだった。
だが、静けさの中にも、誰かが聞くための隙がある。
*
その夜、迅はなかなか眠れなかった。
城の片隅で、火の落ちた焚き口を見ていた。
火はない。
灰だけが残っている。
そこへ、喜助が来た。
「また起きてる」
「喜助も」
「俺は水桶洗ってた」
「まだ?」
「まだ。なんか、誰かに見られてる気がしてさ」
喜助は隣に座った。
「今日は武士の人たちも見られてたね」
「うん」
「偉い人も見られるのかな」
「たぶん」
「殿も?」
迅は少し考えた。
景胤の顔を思い出す。
火定めを始めた若き当主。
名もなき者を見ようとした人。
でも、そのせいで偽札が出た。
武士の不満も出た。
民も揺れた。
「見られてると思う」
「大変だなあ」
「うん」
「見るのも、見られるのも嫌だな」
「うん」
喜助は、灰を見た。
「でも、見ないと水桶ひっくり返るんだよな」
「うん」
「槍も、立つ場所間違えると水桶を止める」
「うん」
「何でも置き場所だな」
迅は、小夜の石を思い出した。
石。
水桶。
槍。
鉄砲。
人。
役目。
すべて、置き場所で変わる。
瀬川は、人を置く場所を見ると言った。
それは、どれほど重いのだろう。
迅は自分の手を見た。
撃つ前に見る手。
まだ何も撃っていない手。
だが、いつか自分も、人を置く側になるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が冷えた。
喜助が言った。
「迅」
「何」
「怖い顔してる」
「怖いこと考えてた」
「何」
「いつか、俺も誰かを置くのかなって」
喜助は黙った。
それから、いつものように軽く言おうとして、やめた。
「置くなら、ちゃんと見てよ」
「うん」
「俺、水桶のそばがいい」
「戦場でも?」
「戦場は嫌だ」
「俺も嫌だ」
二人は少しだけ笑った。
だが、笑いはすぐに消えた。
灰の中に、赤い火は残っていない。
それでも、火の匂いはある。
迅は夜の外を見た。
見えるものが増えている。
見られるものも増えている。
火定めは、名もなき者を見つけるために始まった。
だが今は、武士も、民も、寺も、城も、敵も。
誰もが誰かを見ている。
そして、誰もが誰かに見られている。
それは、守るための目にもなる。
疑うための目にもなる。
迅は、灰の匂いを吸った。
目を逸らすな。
そう言われている気がした。
見る者も、見られる。
その重さを抱えたまま、夜は静かに深くなっていった。




