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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第31話】偽りの役札

 細い雨が一度降り、晴れが二日続いた。


 火定め(ひさだめ)が始まって、十日に近づいていた。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の広場には、もう新しい音があった。


 水桶の蓋を確かめる音。


 荷札をめくる音。


 割符を合わせる音。


 木札を立て直す音。


 鷹見の筆が紙をこする音。


 そして、名を呼ばれる前に息を飲む者たちの音。


 火定めは、一度の騒ぎではなくなっていた。


 朝になれば、誰かが水を置く。


 昼になれば、誰かが荷を見られる。


 夕方になれば、誰かの名が帳面に残る。


 夜になれば、その名を羨む者と、怖がる者が出る。


 そんな日が続いていた。


 迅は、広場の端で木札を見ていた。


 撃つ前に見る者。


 その札は、まだ新しい。


 墨の黒さが濃い。


 その横に、水を見る者。


 戻る足。


 荷を通す手。


 腹に入る言葉。


 次々に増える札を見ていると、役目が増えたというより、逃げ場が減っていくようにも見えた。


 赤松弥八が、横から言った。


「札を睨んでも、撃てるようにはならねえぞ」


「撃つために見てたわけじゃありません」


「じゃあ、何を見てた」


 迅は、少し迷った。


「名前がつくと、狙われるんだなと」


 赤松弥八は鼻を鳴らした。


「今ごろ気づいたか」


「はい」


「遅いな」


「はい」


「だが、気づかねえよりはましだ」


 そう言って、赤松弥八は火縄を確かめに行った。


 迅はもう一度、木札を見た。


 火定めは、名もなき手を見つけるために始まった。


 だが、名がつけば、それを偽る者も出る。


 そのことを、まだ誰もはっきりとは口にしていなかった。


     *


 その頃、煤谷村(すすたにむら)では、一枚の札が戸口に置かれていた。


 最初に見つけたのは、小夜だった。


 朝の水を汲む前だった。


 井戸のそばへ行こうとして、足を止めた。


 戸口の前。


 戻る場所の石の少し外。


 そこに、薄い木札が落ちていた。


 いや、置かれていた。


 小夜は、すぐには触らなかった。


「母上」


 志乃が戸口から顔を出す。


「何」


「札」


 志乃の目が変わった。


 昨夜のうちに置かれたものか。


 朝早く、誰かが来たのか。


 木札の端は少し焦げている。


 穴が一つ。


 紐が通されている。


 その表に、墨で文字が書かれていた。


 火定め。


 戻る足。


 若き者一名。


 米小袋一つ。


 水桶一つ。


 城へ持参せよ。


 小夜は、眉を寄せた。


「変」


 志乃は札を見た。


「何が」


「言葉が急いでる」


「急いでる?」


「城の札なら、誰へって書く。これは、誰でもいいみたい」


 志乃は頷いた。


 烈が出てきた。


 寝起きの顔だったが、木札を見た瞬間に目が覚めた。


「城から?」


「まだ分からない」


 小夜は言った。


「触るな」


 烈は伸ばしかけた手を引っ込めた。


「分かってる」


「分かってない顔だった」


「分かってる!」


 声が大きくなりかけて、烈はすぐ口を閉じた。


 村の者が集まりかけていた。


 井戸端の女。


 薪を割る男。


 若い者が二人。


 皆、木札を見ている。


「火定めの札か」


「城へ行けってことか?」


「若い者一名なら、俺でもいいのか」


「米小袋一つって、また出すのか」


 声が増える。


 小夜は石を見た。


 戻る場所。


 水の道。


 井戸。


 留める場所。


 そして黒い石。


 小夜は黒い石を一つ取り、札の横に置いた。


「まだ黒」


 若い男が言った。


「城の札かもしれないだろ」


「かもしれない」


「なら、早く行かないと」


「偽物かもしれない」


「偽物?」


 ざわめきが大きくなる。


 志乃が一歩前へ出た。


「決めつけない」


 声は静かだった。


 だが、村の空気が少し止まった。


「城の札かもしれません。そうでないかもしれません。だから、今は動かし方を決めます」


 若い男は不満そうに言った。


「もし本物だったら、遅れる」


 小夜はすぐに言った。


「もし偽物だったら、米と水と人が減る」


 若い男は口を閉じた。


 名を言わない男が、納屋の横からこちらを見ていた。


 まだ村に留められている。


 札を見る目が、少し細くなった。


「その焦げは、火に落ちた焦げじゃない」


 志乃が振り向く。


「分かるの」


「分かる」


 男は、少し咳をした。


「端だけ(あぶ)ってる。火の中に落ちた木は、もっと匂いが入る」


 烈が眉を寄せる。


「じゃあ、偽物?」


「そう決めるな」


 男は低く言った。


「焦げを作った奴がいる、というだけだ」


 小夜は、男を見た。


 まだ信用はしない。


 だが、聞く場所には近づけている。


「母上」


「何」


「札を城へ持っていく?」


 志乃は少し考えた。


 動かすと、ここにあったことが消える。


 だが、城で見なければ分からないこともある。


 八瀬隼人が、木の皮に形を写した。


 小夜はそれを思い出した。


「形を残す」


 小夜は言った。


 細い木の皮を取り、木札の形を写す。


 穴の位置。


 焦げた端。


 紐の結び。


 墨の太さ。


 置かれていた場所には、黒い石と、薄い木片を置く。


「ここに札があった」


 志乃は頷いた。


「烈」


「はい」


「城へ運びなさい。ただし、騒がせない」


「分かりました」


「言うことを決める」


 烈は、息を吸った。


 小夜が石を指した。


「火定めと書かれた札。若い者一名、米小袋一つ、水桶一つを城へ持参せよとある。誰へとは書いてない。端は焦げてるけど、名なしの男は炙った焦げかもしれないと言った。偽物か本物かは決めない。形は木の皮に写した。置かれていた場所は戸口の前、戻る場所の石の外」


 烈は繰り返した。


 言葉が多い。


 だが、崩すわけにはいかない。


「火定めと書かれた札。若い者一名、米小袋一つ、水桶一つを城へ持参せよ。誰へとは書いていない。端は焦げている。名なしの男は、炙った焦げかもしれないと言った。偽物か本物かは決めない。形は木の皮に写した。置かれていた場所は戸口の前、戻る場所の石の外」


「それでいい」


 志乃が言った。


 烈は札を布で包んだ。


 素手では触らない。


 割符はない。


 そのことも覚える。


「行きます!」


 烈は走り出した。


 小夜は、その背中を見送った。


 戻る足が、偽りかもしれない札を運んでいく。


 石なら、動かせる。


 だが、札は人を動かす。


 小夜は、黒い石を一つ増やした。


 火定めの名を使うもの。


     *


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の小部屋に、その札が置かれた。


 鷹見、黒羽、瀬川、倉橋、坂部。


 そして景胤もいた。


 迅は部屋の端に立っている。


 烈は息を整えて、報告を終えたばかりだった。


 鷹見は、札を直接触らず、布の上から見た。


役札(やくふだ)の形に似せている」


 倉橋が顔をしかめる。


「米小袋一つ、水桶一つ。人も一名」


 坂部が腕を組む。


「米と水と足を同時に抜く札か」


 黒羽が言った。


割符(わりふ)は」


「ありません」


 烈が答えた。


口上(こうじょう)は」


「誰もいません。札だけでした」


 瀬川が低く言う。


「札だけで人を動かす。危ういな」


 鷹見は、文字を見ていた。


筆跡(ひっせき)が違う」


「城のものではないか」


 景胤が問う。


「はい。ただ、似せようとはしております」


 鷹見は札を少し傾ける。


「火定めの『火』が太い。『定』の下が浅い。役目帳の木札を書いた者の手ではありませぬ」


 倉橋が、端に貼られた紙を見た。


「木札に紙を貼ってあるのか」


「はい」


 鷹見は紙の端を見る。


紙質(かみしつ)も違います。城で使う紙は、もう少し荒い。これは筋が長く、白すぎる」


 倉橋の眉が動いた。


「西から入る紙に似ておりますな」


 部屋の空気がわずかに変わった。


 西。


 それは国の名ではない。


 だが、外の商いを指す言葉だった。


 景胤はすぐには反応しなかった。


「荒砥が西の紙を使ったのか」


 真木が静かに言った。


「あるいは、商人の荷から流れたか。紙だけで決めるのは早いでしょう」


 黒羽が頷いた。


「分からぬものは、分からぬまま置くべきです」


 小夜の言葉が、城の小部屋で使われた。


 烈は、少しだけ誇らしそうにした。


 黒羽がちらりと見る。


「喜ぶな。まだ分からぬ」


「はい」


 景胤は、札を見下ろした。


「これは、ただの偽造(ぎぞう)ではないな」


 鷹見が筆を持つ。


「はい。火定めの名を使っております」


 瀬川が言った。


「火定めが信じられ始めたから、騙れるようになった」


 その言葉は重かった。


 火定めの名が、人を守るために作られた。


 だが、その名で人を抜くこともできる。


 米を抜くこともできる。


 水を抜くこともできる。


 景胤は、ゆっくり息を吐いた。


「この札を偽物と告げるだけでは足りぬ」


 坂部が頷く。


「偽札が出た、と言えば、次から本物も疑われます」


 倉橋が続ける。


「米の受け渡しも止まります」


 黒羽が言う。


「戻る足も止まる」


 瀬川が、迅を見た。


 迅は胸の奥が重くなった。


 敵は、火定めの火そのものを消そうとしているのではない。


 火定めの名を汚そうとしている。


 景胤は言った。


「定めよ」


 鷹見が筆を構える。


「以後、役札のみで人、米、水を動かさぬ。必ず割符を添える。さらに、口上を持つ者を二人置く」


 瀬川が続ける。


「村や寺へも、同じく伝えます」


「それだけでは足りぬ」


 景胤は、札の文字を見た。


「役札は、人を取る札ではない。役を見に来いと告げる札だ。米や水を持ち出させる命には使わぬ」


 鷹見の筆が走る。


 役札。


 人、米、水を徴する札にあらず。


 割符なき札にて動かず。


 口上二人を要す。


 迅は、その文字を見ていた。


 役目に名がつく。


 名が札になる。


 札が人を動かす。


 ならば、偽りの札も人を動かす。


「迅」


 景胤が呼んだ。


「はい」


「そなたは何を見る」


 急な問いだった。


 だが、迅は札から目を離せなかった。


「札を見て動く手です」


 景胤の目が少し動く。


「札そのものではなく」


「はい。札が本物か偽物かを見るだけだと、間に合わないかもしれません。札を見た人が、何を動かそうとしたかを見ます」


 迅は、煤谷村(すすたにむら)の戸口を思った。


 若い者。


 米。


 水。


 戻る足。


「今回なら、米と水と若い者です。そこを抜かれると、村が動けなくなります」


 瀬川が静かに頷いた。


「よい見方だ」


 迅は嬉しくなかった。


 よい見方をするほど、見なければならないものが増える。


     *


 同じ頃、浄火寺(じょうかじ)の門前でも、札が一枚出された。


 椀の列ができていた。


 太助は椀を配っている。


 梅吉は子ども連れを横へ流している。


 嘉七は火のそばに立ち、煙が門前へ流れないように薪を見ていた。


 庄吾は、少し離れた場所に座っている。


 見える。


 だが、近すぎない。


 その位置だった。


 列の途中で、男が声を上げた。


「俺は火定めの役札を持っている。先に椀を渡せ」


 太助の手が止まった。


 男は、懐から札を出した。


 端が焦げている。


 紙が貼られている。


 そこに、火定めの文字がある。


「役に出る者は、腹を満たしてから城へ向かえとある」


 列が揺れた。


「役札?」


「先に食えるのか」


「じゃあ、俺も見てもらう」


「ずるいぞ」


 太助の顔が青くなる。


 椀を渡す手が止まった。


 嘉七が怒鳴りかけた。


 蓮昭が手で止める。


「札を見せなさい」


 男は少しだけ札を引っ込めた。


「寺の者に見せるものではない。城の札だ」


 その言葉で、さらに空気が悪くなる。


 寺。


 城。


 火定め。


 椀。


 腹。


 全部が一つに絡まり始めた。


 庄吾が、ぽつりと言った。


「口上は」


 男が振り向く。


「何だ」


「札だけか。口上は誰が持ってる」


 男の顔がわずかに動いた。


 蓮昭が、それを見逃さなかった。


「誰から受け取った」


「……城の者だ」


「名は」


「急いでいたから」


 太助が椀を握りしめた。


「先に渡すの?」


 声が震えている。


 渡せば、列が崩れる。


 渡さなければ、札を持つ者が怒る。


 嘉七が低く言った。


「札で腹の順番は変えねえ」


 男が睨む。


「何だと」


「火定めの役でも、腹は一つだろうが」


 嘉七の言葉は荒い。


 だが、門前には届いた。


 梅吉が子を抱えた女たちへ言う。


「列を詰めるな。子を前へ出すな。椀は逃げねえ」


 蓮昭は男へ近づいた。


「割符はありますか」


「割符?」


「ありませんね」


 男は黙った。


 蓮昭は僧兵へ言った。


「札を預かる。男は列の後ろへ。腹が減っているなら粥は渡す。ただし、先にはしない」


 男が怒鳴る。


「俺は役札を持っている!」


 庄吾がまた言った。


「その札、火の匂いが浅い」


 男が動きを止める。


 蓮昭は、札を布で受け取った。


「浅い火で炙った札ですか」


 男の顔色が変わった。


 逃げようとした瞬間、梅吉が前に出た。


「走るな!」


 男は足を止めた。


 逃げ場はあった。


 だが、門前の子どもたちがいた。


 走ればぶつかる。


 太助が、思わず椀を抱えたまま一歩引く。


 粥はこぼれなかった。


 蓮昭は静かに言った。


「捕らえるのではありません。まず聞きます」


 男は、肩で息をしていた。


 怒っているのか。


 怖がっているのか。


 腹が減っているのか。


 たぶん、全部だった。


 太助は、ようやく椀を渡した。


 列の順番どおりに。


 手は少し震えていたが、止まらなかった。


     *


 昼過ぎ、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)に二枚目の札が届いた。


 浄火寺(じょうかじ)からだった。


 煤谷村(すすたにむら)の札と並べられる。


 鷹見が見た。


 黒羽も見る。


 倉橋も、紙の端を覗き込んだ。


「似ている」


 鷹見が言った。


「同じ手か」


 瀬川が問う。


「同じ者が書いたとは言い切れません。ただ、同じ形を真似ています」


 倉橋が言う。


「紙も似ております」


「西から入る紙か」


 景胤が問う。


「その可能性はあります。ただし、西の商いすべてを疑えば、紙も薬も止まります」


 倉橋の声は苦かった。


 外の物を疑えば、内の手が止まる。


 ここでも同じだった。


 坂部が言った。


「荷で止まり、札で止まり、次は紙で止まるか」


 黒羽が静かに言う。


「止めるための札です」


 瀬川が頷いた。


「火定めの名を盗み、城と寺と村の間を疑わせる」


 迅は、二枚の札を見ていた。


 片方は煤谷村(すすたにむら)から人と米と水を抜こうとした。


 もう片方は浄火寺(じょうかじ)で椀の順を崩そうとした。


 同じ札ではない。


 だが、狙いは同じだ。


 役目に名がついた場所を揺らす。


 景胤は、ゆっくり言った。


「火定めの名を、守らねばならぬ」


 鷹見が筆を持つ。


「布告を」


「布告だけでは遅い」


 景胤は言った。


「木札の前で言え。水場で言え。寺の門前で言え。荷場で言え。役札だけで人は動かぬ、と」


 瀬川が頭を下げる。


「承知しました」


 景胤は、迅を見る。


「迅。そなたは水場へ行け」


「水場ですか」


「偽の札が出たと聞けば、水を見る手も止まる。喜助の手を止めるな」


 迅は頷いた。


「はい」


 景胤は続けた。


「烈は村へ。八瀬隼人を添え手につけよ。小夜と志乃殿に伝えよ。黒い石を置くことは、正しかったと」


 烈の顔が少しだけ明るくなった。


 だが、すぐに引き締める。


「はい!」


 黒羽が言った。


「喜ぶな」


「はい」


 そのやり取りに、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 だが、札は机の上にある。


 偽りの役札。


 それはまだ、燃えずに残っていた。


     *


 夕方、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の水場には人が集まっていた。


 偽の役札の話は、もう広がっている。


 広がるのが早すぎる。


 誰かが走って伝えたのか。


 それとも、最初から広がるように置かれていたのか。


 喜助は水桶の前で固まっていた。


 隣には添え手の人足がいる。


 だが、その人足も顔が硬い。


「札が偽物だったんだろ」


「じゃあ、本物はどう見分ける?」


「水を持っていけって札が来たらどうする」


「城が出したと言われたら」


 声が寄ってくる。


 水桶の前に、人が寄る。


 喜助の顔が青くなる。


「寄らないでください」


 声が弱い。


 迅は、人の間に入った。


「水を取りに来た人は、木札の横へ。札の話を聞きたい人は、井戸の道から離れてください」


 一人の男が言った。


「本物の札ならどうするんだ?」


 迅は答えた。


「役札だけでは、人も米も水も動かしません」


「でも、城の命なら」


「割符と口上が要ります。二人で伝えます。札だけで水を持ち出せと言われたら、動かさないでください」


 喜助が、少しだけ顔を上げた。


「俺も?」


「うん」


「殿の札って言われても?」


 迅は喜助を見る。


 怖い問いだった。


 殿の名。


 城の名。


 火定めの名。


 それを疑うのは、簡単ではない。


「札だけなら、動かさない」


 迅は言った。


 喜助は唇を噛んだ。


「怖いな」


「うん」


「間違って本物だったら?」


「戻る足に走ってもらう。割符を合わせる。二人で見る」


 喜助は、深く息を吸った。


 そして、水桶の前に立った。


「水は、札だけでは動かしません!」


 声は少し震えていた。


 だが、届いた。


「飲む水はここです! 火消しの水は向こうです! 持ち出すなら、俺と添え手が見ます! 勝手に持っていかないでください!」


 ざわめきが少し下がった。


 完全には消えない。


 でも、人の輪は少しだけほどけた。


 その時、城の奥から本物の伝令が走ってきた。


 木札を手にしている。


 腰には割符。


 後ろにもう一人、同じ口上を持つ若い兵がついている。


「負傷者小屋より! 清め水一桶を移せとの命!」


 喜助の手が止まった。


 ほんの一息。


 だが、確かに止まった。


 周りの者たちも、一斉に伝令を見る。


「本物か?」


「また札か」


「水を動かすなって言ったばかりだぞ」


 伝令の顔が強ばった。


「割符はある!」


 若い兵が腰から割符を出す。


 もう一人が、同じ口上を繰り返した。


「負傷者小屋。清め水一桶。火消し水ではなく、洗い水より。運ぶ者二人。戻し桶あり」


 喜助は、まだ動けない。


 迅は、その手を見た。


 偽札は、札そのものだけを狙っているのではない。


 札を信じて動く手を狙っている。


 本物の言葉まで、一息遅らせるために。


 迅は言った。


「割符を合わせて」


 喜助がはっとする。


「うん」


 添え手の人足が割符を受け取る。


 伝令の持つ割符と、水場に置かれた控えの割符を合わせる。


 割れ目は合った。


 口上も二人で同じ。


 水は、洗い水から一桶。


 火消し水ではない。


 飲み水でもない。


「動かします!」


 喜助が声を出した。


 さっきより少し強かった。


「これは本物です! 割符あり、口上二人! 洗い水から一桶、負傷者小屋へ!」


 人の輪が開いた。


 水桶が動く。


 遅れたのは、ほんの一息だった。


 だが、その一息を迅は見た。


 偽りは、本物の足まで鈍らせる。


 その怖さが、喉に残った。


 迅は、喜助の横に立った。


 水の手は止まらなかった。


 だが、一度止まりかけたことは、忘れてはならないと思った。


     *


 夜が落ちる頃、煤谷村(すすたにむら)に烈が戻った。


 八瀬隼人もいる。


 小夜は庭の石の前にいた。


 志乃は戸口に立っている。


 黒い石は、まだ札が置かれていた場所に残っていた。


「城で見た」


 烈は言った。


「偽物?」


 小夜が聞く。


「偽物の可能性が高い。でも、決めつけすぎるなって。似た札が浄火寺(じょうかじ)にも出た」


 志乃の顔が険しくなる。


「寺にも」


「うん。椀を先に渡せって」


 小夜は黒い石を一つ増やした。


「火定めの名前を使ってる」


「うん」


「名前を盗んだ」


 烈は頷いた。


 その言い方が、一番近い気がした。


 小夜は、火定めの石の横に黒い石を置いた。


 さらに、水の石、椀の石、戻る足の石の近くにも小さな黒い石を置く。


 八瀬隼人が黙って見ていた。


「増やすのか」


「増やさないと、どこを狙われたか忘れる」


「全部黒にすれば、何も動かなくなるぞ」


 小夜は八瀬隼人を見る。


「だから、黒いまま動かす」


 八瀬隼人は少し黙った。


「石は動かせる、か」


「人は動かしにくい」


 志乃が言った。


 八瀬隼人は、志乃に頭を下げた。


「城より伝言です。黒い石を置いたことは、正しかったと」


 小夜は顔を上げない。


「当たり前」


「小夜」


 志乃がたしなめる。


 小夜は口を閉じた。


 だが、石を動かす手は止まらない。


 名を言わない男が、納屋の横から言った。


「札は、名より怖い」


 志乃が男を見る。


「なぜ」


「名を持つ者のふりができる」


 男は低く言った。


「荒砥でも、よく使った。村の名主の札。寺の札。兵の札。札を見せられると、人は手を止める」


 小夜は、男の黒い石を少しだけ札の石へ近づけた。


 男が気づく。


「また近づいたな」


「知ってたから」


「信用したのか」


「まだ」


 小夜は言った。


「でも、聞く場所には近づいた」


 男は苦い顔をした。


「石は、ほんとに面倒だ」


「人の方が面倒」


 烈が小さく笑った。


 だが、すぐに山を見た。


 煙はない。


 火もない。


 それでも、偽りの札はもう村に入ってきた。


 火がなくても、村は焼けるのかもしれない。


 そう思って、烈は少し背筋が冷えた。


     *


 山の奥で、鹿部市之助は二枚の木札を火にくべた。


 火は小さい。


 煙も少ない。


 岩貫弥惣は、その火を見ていない。


 夜の道を見ていた。


「村では止められました」


 鹿部市之助が言う。


「寺でも、大きくは崩れておりません」


「大きくは、か」


 岩貫弥惣の声は低い。


「札を見れば止まる。止まれば、見る。見れば、遅れる」


 鹿部市之助は笑う。


「火定めの名は、思ったより効きます」


「名は、人を動かす」


 岩貫弥惣は言った。


「だから、名を汚せば足が鈍る」


 若い男が、少し離れた場所で黙っている。


 火に照らされた顔は青い。


「次も札ですか」


 鹿部市之助が問う。


 岩貫弥惣は答えなかった。


 少しだけ風が動く。


 落ち葉が鳴る。


「同じ石を置き続ければ、相手は拾い方を覚える」


 鹿部市之助の笑みが薄くなる。


「では」


「札が偽りと知れたなら、次は本物を疑わせる」


 若い男が顔を上げた。


 岩貫弥惣は、ゆっくりと続けた。


「本物の言葉ほど、疑われた時に遅れる」


 火が、木札の端を食った。


 小さな音を立てて、墨が黒く崩れていく。


     *


 夜の灰ヶ峰城(はいがみねじょう)で、迅は役目帳の前に立っていた。


 鷹見がまだ筆を動かしている。


 今日の記録が増えていた。


 偽りの役札。


 煤谷村(すすたにむら)


 浄火寺(じょうかじ)


 水。


 椀。


 米。


 戻る足。


 割符なき札。


 口上なき札。


 役札のみで人、米、水を動かさぬこと。


 その下に、鷹見はもう一行を加えていた。


 本物の水移し、一息遅れる。


 迅は、その文字を見た。


 胸が重くなった。


 火定めは、名もなき者を残すためのものだった。


 だが、名を残せば、その名を盗む者が出る。


 偽物が出れば、本物まで疑われる。


 瀬川が隣に来た。


「重い顔をしているな」


「役目に名をつけたら、守れると思ってました」


「守れるものは増える」


「でも、偽物も出る」


「そうだ」


 瀬川は帳面を見た。


「名は、火に似ている」


「火に」


「暗いところを照らす。だが、扱いを誤れば燃え移る」


 迅は、札の文字を思い出した。


 若い者一名。


 米小袋一つ。


 水桶一つ。


 もし小夜が止めなければ。


 もし志乃が決めつけなければ。


 もし烈が崩して伝えていれば。


 村から水と米と足が抜かれていたかもしれない。


 浄火寺(じょうかじ)では、椀の列が崩れていたかもしれない。


 そして城では、本物の水移しまで、一息遅れた。


「札を見てるだけじゃ、足りないんですね」


 迅は言った。


 瀬川が迅を見る。


「どういうことだ」


「札じゃなくて、札を信じて動く手を見ないと」


 迅は、自分の手を見た。


「偽札は、札を狙ってるんじゃない。札で動く手を狙ってる。水を持つ手とか、米を出す手とか、走る足とか」


 瀬川は、少しだけ目を細めた。


「よい」


 迅は苦く笑った。


「よくないです」


「なぜ」


「見るものが、また増えました」


 瀬川は少しだけ黙った。


 それから言った。


「減ることは、しばらくない」


 迅は、帳面を見た。


 偽りの役札。


 本物の水移し、一息遅れる。


 文字になると、逃げられない。


 「見たいものではなく、見るべきものを」


 迅は小さく言った。


 瀬川が聞く。


「何だ」


「前に言われたことです」


「そうか」


「見るべきものが、増えてます」


「増える」


 瀬川は言った。


「だから、一人で見るな」


 迅は顔を上げた。


「一人で見れば、見落とす。一人で背負えば、潰れる。火定めは、そのために始まったはずだ」


 その言葉は、少しだけ胸に残った。


 外では、夜の風が城壁を撫でていた。


 火は見えない。


 煙もない。


 だが、偽りの札が残した焦げた匂いが、まだ鼻の奥にある気がした。


 火定めの名は、守るために生まれた。


 その名を、誰かが盗んだ。


 ならば、その名を守る手も必要になる。


 迅は、自分の手を見た。


 撃つ前に見る手。


 まだ撃っていない手。


 けれど、今日見たのは鉄砲の先ではなかった。


 札を見て動く人の手。


 名を信じようとする腹。


 偽りを恐れて止まりかける足。


 それらだった。


 夜は深くなっていく。


 火定めの火は、消えていない。


 だが、その周りには、偽りの影が増え始めていた。

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