【第29話】半刻の腹
赤土峠の朝は、腹の音から始まった。
誰か一人の音ではない。
火のそばに座る兵。
槍を抱えた若い者。
夜番を終えて戻った男。
縄を直している人足。
湯気の立たない椀を持った者。
それぞれの腹が、別々の時に鳴った。
けれど、聞いている者には一つの音に思えた。
足りない。
まだ来ない。
腹は、そう言っていた。
赤土峠は、燧国の東を押さえる場所だった。
高い城ではない。
深い堀もない。
だが、道が細い。
岩が多い。
東から来る者は、必ず一度ここで足を落とす。
だから、ここに米が要る。
火薬箱が要る。
縄が要る。
水が要る。
腹が空いた兵に、峠は守れない。
峠番の安蔵は、空の飯桶を覗き込んだ。
底に、白い粒がわずかに張りついている。
それを指で取ろうとして、やめた。
見ている若い兵がいる。
年長の者がそれをすれば、若い者はもっとする。
「まだか」
若い兵が言った。
名は兼太という。
昨日から何度も同じことを聞いている。
安蔵は、飯桶の蓋を閉めた。
「来る」
「いつですか?」
「道が通れば来る」
「それ、答えじゃないですよ」
「答えられるなら、もう答えてる」
兼太は口を閉じた。
悪気はない。
ただ腹が減っている。
腹が減ると、人は同じことを何度も聞く。
同じ答えでは足りなくなる。
そこへ、見張りの声がした。
「荷だ!」
その声だけで、峠の空気が動いた。
座っていた兵が立つ。
槍を持つ者が道を見る。
人足が縄を拾う。
安蔵は、すぐに手を上げた。
「寄るな! 道を空けろ!」
声は荒かった。
だが、必要だった。
荷が来る時、人が寄る。
人が寄れば、荷台が曲がれない。
荷台が曲がれなければ、米は目の前で止まる。
峠の道に、三つの荷台が見えた。
牛が一頭、鼻を鳴らしている。
人足たちは泥だらけだった。
その横に、坂部の配下がいた。
藤吉もいる。
膝を庇いながら歩いている。
迅も少し後ろにいた。
鉄砲は持っていない。
だが、目だけが忙しく動いていた。
安蔵は、荷台の数を見て眉を寄せた。
「遅い」
坂部の配下が頭を下げる。
「半刻、落としました」
「落とした?」
兼太が聞き返す。
藤吉が答えた。
「荷は落としていません。時間を落としました」
兼太は顔をしかめた。
「何だ、それ」
「荷札の違いがありました。止めて、見て、通しました」
「止めたのか!」
若い兵の声が跳ねた。
「こっちは腹を空かせて待ってたんだぞ!」
周囲の兵がざわつく。
人足たちの顔が強ばる。
安蔵が怒鳴ろうとした時、迅が一歩前へ出た。
「荷は来ました」
声は大きくない。
けれど、まっすぐだった。
「止まったけど、崩れてはいません」
兼太が迅を見る。
「お前、誰だ」
「火守迅です」
「火守?」
兼太は笑いかけた。
腹が減っている者の笑いだった。
少し尖っている。
「城から来た見る役か。見るだけなら、飯は増えないぞ」
藤吉の顔が少し動いた。
だが、迅が先に言った。
「見るだけでは増えません」
兼太の口元が止まる。
「でも、見ないで通せば、次は荷が来ないかもしれません」
峠の風が、少し強く吹いた。
荷台の縄がきしむ。
安蔵が、低く言った。
「まず下ろせ。数を見る。飯はその後だ」
「また見るのかよ」
兼太が小さく言った。
その声を、藤吉は聞いた。
聞こえなかったふりもできた。
だが、できなかった。
「見ます」
藤吉は言った。
「ここでまた間違えると、次の飯も遅れます」
「偉そうに」
「偉くないです」
藤吉は自分の膝を見た。
「俺も、できないことを見られています」
兼太は何も言えなくなった。
安蔵は、藤吉を一度見てから、荷台へ目を移した。
「米を開ける。縄は右。火薬箱は触るな。水桶は道の曲がり角へ置け。人は寄るな!」
声が飛ぶ。
人が動く。
それでも、動きは少し遅い。
腹が減っているからだ。
疑いが混じっているからだ。
半刻の遅れは、すでに腹の中へ入っていた。
*
荷を下ろすだけで、いつもより時間がかかった。
袋を一つ開けるたびに、誰かが覗こうとする。
縄をほどくたびに、誰かが「数は合うのか」と聞く。
米の小袋を並べるたびに、誰かが唾を飲む。
安蔵は、それらを全部叱りつけていた。
だが、叱るたびに空気が硬くなる。
空気が硬くなると、手が遅くなる。
迅はそれを見ていた。
荷そのものは重い。
だが、疑いが入ると、もっと重くなる。
第28話で見たことが、ここで腹の形になっていた。
藤吉は、荷札を一枚ずつ見ている。
荷札。
割符。
縄目。
袋の濡れ方。
米の沈み方。
坂部の配下が横に立ち、倉橋の書役が数を読む。
「米、小袋十」
「十」
「縄、替え三束」
「三」
「火薬箱、一。封は切らず」
「封、見た」
安蔵が言った。
「火薬箱は蔵へ」
人足が二人、火薬箱へ手を伸ばす。
藤吉がすぐに止めた。
「その二人では駄目です」
人足たちが止まる。
安蔵の眉が動いた。
「なぜだ」
「右の人は肩が下がっています。左の人は腹が減って足が早いです」
「腹が減って足が早い?」
「早く置きたくて、歩幅が乱れます」
言われた人足が顔を赤くした。
「乱れねえよ」
藤吉は、少しだけ息を吸った。
「なら、空箱で五歩」
「何だと?」
安蔵が手を上げた。
「やれ」
人足は不満そうに空箱を持った。
一歩。
二歩。
三歩目で、左の足が少しだけ先へ出た。
荷を置きたい足だった。
安蔵は見逃さなかった。
「別の者に替えろ」
人足は歯を食いしばる。
「俺は持てる!」
声が出た。
周囲がまた見る。
安蔵が言う前に、藤吉が言った。
「持てます」
人足が藤吉を見る。
「でも、今は急ぎすぎます」
「急いで何が悪い」
「火薬箱は、急ぐと落ちます」
空気が少し変わった。
火薬箱。
その言葉は、腹より重かった。
人足は口を閉じた。
藤吉は続けた。
「米なら、落ちても拾える時があります。でも、火薬箱は違います」
安蔵は、別の二人を指した。
「そこと、そこの者。ゆっくり持て。膝を見る者は藤吉につけ」
藤吉は驚いた。
「俺ですか?」
「今見たのは、お前だ」
安蔵は短く言った。
「なら、最後まで見ろ」
藤吉の顔が固まる。
責められたわけではない。
任された。
それが、少し怖かった。
迅はその横顔を見た。
藤吉はもう、米俵を一つだけ戻した人足ではない。
荷が落ちる前に、誰の手が揺れるかを見る者になっている。
だが、その目が誰かを止める。
止められた者は、悔しさを腹に入れる。
役目は、誰かを守る。
同時に、誰かを傷つける。
*
昼の粥は、少し薄かった。
米は届いた。
だが、半刻遅れた分、朝の粥は伸ばされていた。
水を足し、塩を控え、具を減らした。
椀の底が早く見える。
それだけで、兵の目が変わる。
兼太は、椀を持ったまま言った。
「これで足りると思うか?」
隣の兵が答える。
「夜まで持たせろってことだろ」
「敵が来たら?」
「腹で槍は振れねえ」
「じゃあ、誰のせいだ」
その言葉が、粥の湯気より低く流れた。
誰のせいだ。
遅れた荷か。
止めた者か。
荷札を間違えた者か。
見すぎた者か。
灰ヶ峰城か。
嘉助か。
藤吉か。
迅は、椀を持つ兵たちのそばで足を止めた。
安蔵も聞いていた。
だが、すぐには怒鳴らない。
怒鳴れば、声は止まる。
腹の中の疑いは止まらない。
藤吉が、少し離れたところから見ている。
嘉助もいた。
荷から離されていたが、峠までは同行している。
自分の名前が出るかもしれない場所に、立たされている。
それだけで、顔が青い。
兼太の声が少し大きくなった。
「荷札を間違えた奴がいるんだろ」
嘉助の肩が動いた。
藤吉が一歩出ようとする。
迅が先に言った。
「荷札はずれていました」
兼太が振り向く。
「なら、誰かが間違えたんだろ」
「間違えたかもしれません。そう見せたのかもしれません」
「また分からないか」
「はい」
兼太は苛立った。
「分からないで腹が膨れるか!」
声が広がった。
何人かが顔を上げる。
迅は、喉の奥が乾くのを感じた。
その通りだ。
分からないで腹は膨れない。
正しい言葉で、空腹は消えない。
それでも、決めつければもっと崩れる。
迅は、兼太の椀を見た。
薄い粥。
底が見える。
そこに映る苛立ち。
「膨れません」
迅は答えた。
「でも、分かったことにすると、誰かの手が止まります」
「手?」
「次の荷を持つ手です。疑われた手は、遅くなります。逃げたくなります。怒ります。そうすると、次の荷も遅れます」
兼太は、すぐには返せなかった。
迅は続けた。
「腹が減っている時に、分からないまま待てと言われるのは苦しいです。でも、誰か一人のせいにして楽になると、道がもっと詰まります」
安蔵が低く言った。
「聞いたか」
兵たちは黙る。
兼太は、椀の中を見た。
「じゃあ、この薄い粥はどうする」
迅は答えられなかった。
そこへ、安蔵が言った。
「足す」
兼太が顔を上げる。
「何を」
「山菜だ。干し芋も少し残っている。米だけで腹を満たそうとするな」
安蔵は峠の者たちを見た。
「腹が減っているのは事実だ。荷が遅れたのも事実だ。だが、誰かを決めつけて半日潰す余裕はない」
それから、嘉助を見る。
「お前」
嘉助の肩が跳ねる。
「はい」
「山菜を洗え。荷には触るな。だが、飯の手伝いはしろ」
嘉助は目を見開いた。
「俺が、ですか?」
「立って震えているだけなら、余計に疑われる」
安蔵は言った。
「見えるところで、役に立て」
嘉助は、一度唇を噛んだ。
それから、深く頭を下げた。
「やります」
藤吉が小さく息を吐いた。
迅も、少しだけ肩の力が抜けた。
疑われた手を、止めきらせない。
それも、添え手なのかもしれない。
*
その頃、灰ヶ峰城では、倉橋が帳面の前に座っていた。
米の数字が並んでいる。
届いた数。
遅れた数。
薄めた粥の数。
浄火寺へ回す分。
負傷者へ先に渡す分。
赤土峠へ送る分。
どれも足りているようで、足りない。
どれも削れるようで、削れない。
倉橋は、筆を置いた。
「数字は嘘をつかぬ」
誰に言うでもなく、呟く。
そばにいた鷹見が顔を上げた。
「ですが、数字は腹を黙らせませぬ」
倉橋は苦い顔をした。
「分かっている」
部屋には、景胤もいた。
真木、瀬川、坂部、黒羽も集まっている。
赤土峠から早馬で知らせが入ったばかりだった。
荷は届いた。
ただし、粥は薄まった。
兵の中に、荷札の疑いが広がりかけた。
嘉助を荷から離し、飯の手伝いに回した。
大きくは崩れていない。
だが、腹に遅れが入っている。
景胤は、その報告を黙って聞いていた。
「半刻」
景胤が言った。
声は静かだった。
「半刻で、腹はこれほど揺れるか」
倉橋が答える。
「腹は、刻限で動きます。朝に入るはずの米が昼に回れば、昼の器が薄くなります。昼が薄くなれば、夕が疑われます」
坂部が腕を組む。
「荷を奪われたわけじゃねえ。だが、遅れただけでこれだ」
黒羽が言う。
「敵は、それを見ています」
瀬川が続けた。
「水、戻る足、荷。次は、腹の声を使うかもしれませぬ」
真木が低く言う。
「兵の不満か」
「兵だけではありませぬ」
瀬川は首を横に振った。
「寺、村、人足。飯を待つ者は皆、同じです」
景胤は目を閉じた。
火定めは、火を見つけるために始めた。
だが、見つかったのは火だけではない。
腹。
遅れ。
疑い。
そして、それを使う敵。
「倉橋」
「はっ」
「米の帳面に、刻を入れよ」
倉橋の目が動いた。
「刻、ですか」
「数だけでは足りぬ。いつ届くか。どれほど遅れたか。遅れれば、どこの粥が薄くなるか。腹が揺れる前に見よ」
倉橋は、すぐに筆を取った。
「承知しました」
「坂部」
「へい」
「荷の道に、止める者だけでなく、通す者を置け」
坂部は頷く。
「見すぎて止まるのを防ぐ手ですな」
「そうだ」
「なら、藤吉だけでは足りません」
「誰が要る」
「辰五郎の目が要ります。肩は使えませんが、口は動く」
真木が少し眉を上げる。
瀬川は小さく笑いかけて、すぐに消した。
景胤は言った。
「使え。ただし、無理はさせるな」
「無理を止める者をつけます」
「それも添え手か」
「たぶん、そうですな」
景胤は少しだけ息を吐いた。
「火定めは、役を見つけるほど、役を支える手が増える」
黒羽が静かに言う。
「支える手もまた、狙われます」
「分かっている」
景胤は目を開けた。
「だから、記録せよ。遅れたものを。薄まったものを。疑われた者を。疑いを止めた者を」
鷹見が筆を持った。
「はっ」
景胤は続けた。
「半刻を、軽く見るな」
その言葉で、部屋の空気が重くなった。
「敵は、半刻で腹を揺らした」
誰も反論しなかった。
半刻。
わずかな遅れ。
だが、その中で人は疑い、怒り、誰かを責める。
戦は、もう始まっている。
槍がぶつかる前に。
*
夕方前、赤土峠では、山菜の匂いが粥に混じっていた。
少し青い匂い。
少し苦い匂い。
だが、朝の薄い粥よりは腹に残った。
嘉助は、川から戻ってきた。
洗った山菜をざるに入れている。
手は冷えて赤い。
兼太が、それを見ていた。
「お前が荷札を間違えたのか」
嘉助の手が止まる。
藤吉が近くにいた。
迅も、少し離れて見ている。
嘉助は、逃げなかった。
「分からない」
兼太が眉を寄せる。
「自分のことだろ」
「俺が気づかなかったのは本当だ。でも、俺が入れ替えたかと聞かれたら、違う」
「証は」
「ない」
嘉助は正直に言った。
「だから、見えるところにいる」
兼太は黙った。
嘉助は、ざるを差し出した。
「洗った。泥は落ちてる」
「俺に渡すのか?」
「食うだろ」
「……食う」
兼太は、ざるを受け取った。
乱暴ではなかった。
丁寧でもなかった。
だが、受け取った。
藤吉は、それを見て小さく息を吐いた。
迅は、その息を聞いていた。
手が完全に信じられたわけではない。
疑いが消えたわけでもない。
それでも、手は止まらなかった。
安蔵が、火のそばで言った。
「飯ができたら、先に夜番へ回せ。次に負傷者。文句がある奴は、俺に言え」
兼太が小さく言う。
「文句はある」
「言え」
「腹が減った」
「俺もだ」
それだけで、周りの兵が少し笑った。
笑いはすぐに消えた。
だが、空気は少しだけ動いた。
迅は、峠の道を見る。
東は暗い。
森が濃い。
敵の姿はない。
だが、敵はもうここに触れている。
荷ではなく、腹に。
腹ではなく、手に。
手ではなく、疑いに。
赤土のついた木片一つで、ここまで届く。
「迅さん」
藤吉が言った。
「はい」
「半刻って、短いですか」
迅は、峠の道を見たまま答えた。
「前なら、短いと思った」
「今は?」
「長い」
藤吉は頷いた。
「俺もです」
「うん」
「でも、半刻落としてなかったら、荷が崩れてたかもしれない」
「うん」
「落としても、腹が揺れました」
「うん」
「どっちも嫌ですね」
「うん」
藤吉は苦く笑った。
「迅さん、うんが増えてます」
「烈にも言われた」
「兄弟ですね」
迅は少しだけ笑った。
だが、すぐに峠の下を見た。
道の曲がり角に、水桶が置かれている。
火から近すぎず。
人が寄りすぎず。
でも、見える場所に。
喜助がここにいれば、嫌そうな顔で少し直すかもしれない。
小夜がいれば、石を置くだろう。
志乃がいれば、人を分ける。
烈がいれば、遅れず、崩さず知らせを戻す。
ここにいない者たちの役目が、ここにもあった。
迅は、それを見た。
*
夜が近づく頃、山の奥で岩貫弥惣は報告を聞いていた。
鹿部市之助は、低く笑っている。
「粥は薄くなりました。兵の間に、荷札の話も流れました」
「誰かを吊るしたか」
岩貫弥惣が問う。
「いいえ。疑われた人足は、飯の手伝いに回されたようです」
「ほう」
岩貫弥惣の目が少し動いた。
「止めきらなかったか」
「はい。手は震えましたが、止まりませんでした」
鹿部市之助は、楽しそうに言った。
「燧は、手を守ろうとしています」
「ならば、手ではなく腹を押せ」
若い男が顔を上げる。
岩貫弥惣は、峠の方角を見ていた。
「腹は、守るのが難しい。誰のものでもあり、誰のものでもない。空けば皆が同じ顔になる」
「米を狙いますか」
「まだ狙うな」
鹿部市之助が笑みを薄くした。
「まだ、ですか」
「奪えば、敵は一つになる。遅らせれば、内へ向く」
岩貫弥惣は、足元の小石を蹴った。
小石は落ち葉の中に消える。
「水を疑わせた。知らせを遅らせた。荷を止めた。腹を薄くした。次は、薄くなった腹に言葉を入れる」
若い男の喉が鳴った。
「誰に」
「腹を空かせた者に」
鹿部市之助が、ゆっくり頷いた。
「兵ですか。寺ですか。村ですか」
岩貫弥惣は答えない。
ただ、暗い山の下を見ていた。
「どこでもよい。腹は、道より広い」
夜の風が吹いた。
火はまだ点いていない。
それでも、煙の匂いがする気がした。
*
夜、迅は灰ヶ峰城へ戻った。
足は重かった。
だが、眠れる気がしなかった。
広場には、もう人が少ない。
水桶も片づけられている。
荷場の縄だけが、軒下に干されていた。
そこに、喜助がいた。
「遅かったね」
「うん」
「峠、どうだった?」
「腹が鳴ってた」
「何それ」
「本当に」
喜助は少し笑った。
だが、迅の顔を見て、笑いを引っ込めた。
「まずかった?」
「荷は届いた。でも、粥は薄かった」
「ああ」
喜助は、水桶の縁を指で叩いた。
「水で薄めたやつだ」
「うん」
「水って便利だけど、薄めるとばれるよね」
「ばれる」
「腹はごまかせないか」
「うん」
喜助は、空の桶を見た。
「俺、水の置き場ばっかり見てたけどさ」
「うん」
「水で増やせるものと、増やしちゃいけないものがあるんだな」
迅は喜助を見る。
喜助は、少し照れたように顔を逸らした。
「粥とかさ。水を入れれば増えるけど、腹はごまかせない」
「うん」
「火消しの水も、少ないと困る。でも、人が飲む水を回しすぎたら、そっちが困る」
喜助はため息をついた。
「水桶、やっぱ面倒だなあ」
「うん」
「でも、見ないと駄目なんだろうな」
「たぶん」
「たぶんか」
「うん」
二人は、しばらく黙っていた。
遠くの山は見えない。
赤土峠も見えない。
だが、そこに薄い粥を食べた兵がいる。
疑われながら山菜を洗った嘉助がいる。
荷を落とさないために時間を落とした藤吉がいる。
腹の音を聞いた安蔵がいる。
ここからは見えない。
でも、つながっている。
迅は、夜の広場を見た。
火定めで見つけたものは、火だけではなかった。
水。
足。
荷。
腹。
手。
疑い。
そして、遅れ。
半刻。
たったそれだけで、人は誰かを疑う。
たったそれだけで、粥は薄くなる。
たったそれだけで、敵の言葉が入る隙ができる。
迅は、自分の手を握った。
撃つ前に見る者。
今は、撃つ前どころではない。
腹が鳴る前に。
手が止まる前に。
誰かを責める前に。
そこを見なければならない。
「喜助」
「何」
「半刻って、長いな」
喜助は少し考えた。
「腹が減ってたら、めちゃくちゃ長い」
「うん」
「眠れない時も長い」
「うん」
「好きなことしてる時は短い」
「うん」
「火定めは?」
迅は答えられなかった。
長いのか。
短いのか。
まだ分からない。
ただ、始まったばかりなのに、もういくつものものが遅れ始めている。
喜助は、水桶を担ぎ直した。
「明日、粥の水の置き場も見るか」
「嫌じゃないの?」
「嫌だよ」
喜助は即答した。
「でも、薄い粥で揉めるの、もっと嫌だ」
そう言って歩き出した。
迅は、その背中を見送った。
嫌だと言いながら、逃げない背中。
水を見る者。
その肩にも、半刻の重さが乗っている。
夜の広場に、風が通る。
火は見えない。
だが、腹の底に残った遅れが、まだ消えていなかった。




