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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第28話】落とした時間

 雨が一度降り、晴れが二度続き、また細い雨が降った。


 火定め(ひさだめ)が始まって、五日が過ぎていた。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の広場には、もう新しい土の色ができていた。


 水桶を置く場所。


 荷を担ぐ者が並ぶ場所。


 子ども連れが待つ場所。


 火を見る者が立つ場所。


 鉄砲を構える者が、まだ撃たずに見る場所。


 戻る足が、息を整える場所。


 それぞれの土だけが、少しずつ踏み固められている。


 喜助の水桶の跡は、広場の土に丸く残るようになった。


 藤吉は荷を持たぬまま、人の膝を見る癖がついた。


 辰五郎は座ったまま、誰が強がっているかを言い当てるようになった。


 嘉七(かしち)は火のそばに置かれたが、米のそばには近づけられなかった。


 烈は走る前に、必ず一度だけ息を整えるようになった。


 小夜の石は、城にはない。


 だが、城の者たちは少しずつ、石のようにものを分けて見るようになっていた。


 迅は、荷場の端に立っていた。


 昨日から、赤松弥八の射場だけではなく、荷の場にも立つよう命じられている。


 鉄砲を撃つためではない。


 撃つ前に見る者は、火薬箱のそばにも置く。


 赤松弥八はそう言った。


 火薬箱は、鉄砲より先に道を通る。


 道が崩れれば、鉄砲は撃つ前に死ぬ。


 だから見ろ。


 そう言われた。


 迅の前では、坂部が荷台を見ている。


 辰五郎は相変わらず座っていた。


 肩の布は少し薄くなったが、まだ片腕は自由に動かない。


 藤吉は辰五郎の横に立っている。


 膝の布は取れていない。


 だが、今は荷を持つ者ではなく、荷を持つ者を見る側にいる。


「軽い荷からです」


 藤吉が言った。


 人足の男が顔をしかめる。


「また軽い荷か」


「昨日、右膝が揺れました」


「もう戻った」


「戻ったかどうかを見るために、軽い荷からです」


 男は不満そうだった。


 だが、前ほど怒鳴らない。


 自分の膝が揺れたことを、本人も知っているからだ。


 辰五郎が横から言った。


「見栄で重い荷を持つな。見栄は荷に混ぜても軽くならねえ」


「分かってるよ」


「分かってねえ顔だ」


「顔まで見るのか?」


「見るさ。荷は顔に出る」


 男は舌打ちしたが、軽い荷を受け取った。


 五歩。


 十歩。


 戻る。


 膝は、少しだけ揺れた。


 藤吉は見逃さなかった。


「今日は、軽い荷二つまでです」


「三つはいける」


「二つまでです」


 藤吉の声は、前より少し硬くなっていた。


 男は文句を言いかけた。


 だが、辰五郎の目を見てやめた。


 坂部は、その様子を黙って見ている。


 鷹見の書役(かきやく)が帳面へ書く。


 軽荷二つ。


 膝に揺れあり。


 明日、再び(あらた)め。


 迅は、その文字を見ながら、自分の手を握った。


 できることだけが増えているわけではない。


 できないことも、毎日少しずつ見つかっていく。


 それは、人を守る。


 だが、時には人を傷つける。


 その時、城門の方から烈が走ってきた。


 今日は一人ではない。


 八瀬隼人(やせはやと)が少し後ろにいる。


 烈の足は早い。


 けれど、以前のように飛ぶようには走っていない。


 息を整え、後ろを一度見る。


 添え手が離れていないかを確かめる。


 その仕草が、もう癖になり始めていた。


「坂部様!」


 烈が声を上げた。


 坂部が振り返る。


「何だ」


赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう荷の道で、荷札(にふだ)の違う荷が見つかったそうです!」


 荷場の空気が変わった。


 坂部の目が鋭くなる。


「誰が見つけた」


八瀬隼人(やせはやと)様の配下です。荷は止めています」


「止めたのか」


「はい」


 坂部の顔がさらに険しくなった。


 荷を止める。


 その言葉は軽くない。


 荷が止まれば、米が止まる。


 火薬箱が止まる。


 赤土峠(あかつちとうげ)で待つ者たちの腹と火が止まる。


 だが、違う荷札の荷をそのまま通せば、もっと危うい。


「どこの荷だ」


 坂部が問う。


 烈は息を整えた。


「火薬箱ではありません。小袋の米と、替えの縄です。ただ、荷札には米と書いてあるのに、中身の一つが縄でした」


 倉橋が、どこからか歩いてきた。


 米の話を聞きつけたのだ。


「小袋の米に、縄?」


「はい」


 烈は続ける。


「荷札は濡れていて、端が焦げています。割符(わりふ)は合いません」


 八瀬隼人(やせはやと)が木の皮を出した。


 そこに、荷札の形が写されている。


 穴の位置。


 焦げた端。


 濡れて膨らんだ角。


 前に見つかった焦げた木札と、少し似ている。


 迅は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 水。


 戻る足。


 そして、荷の道。


 敵は、本当に順番に置いてきている。


 疑いという石を。


     *


 荷の道へ向かう一行は、すぐに組まれた。


 坂部。


 瀬川。


 倉橋。


 黒羽。


 八瀬隼人(やせはやと)


 迅。


 藤吉。


 それから、辰五郎も来ようとした。


 坂部が止める。


「お前は座ってろ」


「座ってても見えません」


「肩が開く」


「目は開いてます」


「口もな」


 辰五郎は不満そうにした。


 だが、坂部は譲らなかった。


「荷場を見ろ。ここも止めるな」


 辰五郎は口を閉じた。


 その顔から、ふざけた色が消える。


「……へい」


 藤吉が辰五郎を見る。


「俺が見てきます」


「見るな」


 辰五郎は言った。


 藤吉が目を丸くする。


「え?」


「見るだけで分かった気になるな。触る前の顔、持つ前の肩、結ぶ前の手も見ろ」


「はい」


「それと、荷札だけ見るな」


 藤吉は頷いた。


縄目(なわめ)も見ます」


 辰五郎は、少しだけ口の端を上げた。


「なら行け」


 藤吉は頭を下げ、坂部たちの後を追った。


 道は、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)から東へ下り、途中で赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう荷の道に分かれる。


 雨の後だった。


 泥が深い。


 車輪の跡が溜まり水になっている。


 草の端に、米粒が一つついていた。


 倉橋がそれを見つけ、眉を寄せる。


「こぼれている」


「一粒だ」


 坂部が言う。


「一粒から崩れることもあります」


 倉橋は短く返した。


 坂部は言い返さなかった。


 荷は、道の曲がり角で止まっていた。


 荷台が三つ。


 人足が六人。


 牛が二頭。


 小袋の米が積まれている。


 その横に、替えの縄束。


 そして、問題の荷が一つ。


 荷札は濡れている。


 端が焦げている。


 紐で結ばれているが、結び方が少しおかしい。


 藤吉は、すぐに近づこうとした。


 瀬川が止める。


「待て」


 藤吉は足を止める。


 瀬川は問う。


「何を見る」


 藤吉は息を吸った。


 荷札。


 縄目。


 荷の沈み方。


 周りの足跡。


 人足の顔。


 牛の向き。


 荷台の車輪。


「荷だけじゃなく、周りです」


「よい」


 藤吉は、今度はゆっくり近づいた。


 荷札には、米と書かれている。


 だが、袋の一つは軽い。


 米ではない。


 中身は縄だ。


 縄そのものは悪くない。


 替えの縄は必要だ。


 問題は、米と書かれた荷札に、縄が混じっていることだった。


 倉橋が低く言う。


「帳面と違う」


 坂部が言う。


「荷が違う」


 黒羽が道を見る。


「誰かが入れ替えたか。あるいは、入れ替えたように見せたか」


 瀬川が人足たちを見る。


「誰がこの荷を積んだ」


 人足たちは顔を見合わせた。


 一人が前に出る。


「俺です」


 若い男だった。


 声が震えている。


「名は」


嘉助(かすけ)です」


 嘉助(かすけ)は藤吉より少し年上に見えた。


 肩は強そうだが、目が落ち着かない。


 濡れた草履の先が、泥の中で何度も動いている。


 逃げる足ではない。


 だが、ここに立っているのが苦しい足だった。


 瀬川が問う。


「中身を知っていたか」


「知りません。荷札の通り、米だと思って」


 倉橋が言う。


「小袋の重さで分からなかったか」


 嘉助(かすけ)は顔を赤くした。


「雨で濡れて重かったので」


 坂部が荷へ近づく。


 袋を持ち上げる。


 確かに濡れている。


 縄も濡れている。


 米袋も濡れている。


 重さだけでは紛れる。


 藤吉は、荷札の紐を見た。


「結び直してます」


 坂部が見る。


「分かるか?」


「はい。最初の締め跡と、今の縄目(なわめ)がずれています」


 嘉助(かすけ)の顔がさらに白くなる。


「俺じゃない」


 すぐに言った。


 言うのが早かった。


 早すぎた。


 周りの人足たちが、嘉助(かすけ)を見る。


「本当か?」


「お前、最後に触ってたろ」


「違う。俺は荷台に乗せただけだ」


「じゃあ誰が?」


 声が増える。


 荷の道が揺れる。


 迅は、喉が乾いた。


 まただ。


 水の時と同じ。


 誰かが汚したかもしれない。


 誰かが汚したことにしたのかもしれない。


 だが、疑いはすぐ人を探す。


 人を探せば、手が止まる。


 荷が止まる。


 坂部が怒鳴った。


「黙れ!」


 声が道に響いた。


 牛が鼻を鳴らす。


 人足たちは口を閉じた。


 坂部は嘉助(かすけ)を見る。


「逃げるな」


「逃げません」


「なら、息を整えろ」


 嘉助(かすけ)は、必死に息を吸った。


 藤吉は、その肩を見ていた。


 持つ前の肩。


 嘘をつく肩。


 怖がる肩。


 見分けるのは難しい。


 嘉助(かすけ)の肩は、怖がっている。


 でも、それが嘘だからとは限らない。


「藤吉」


 坂部が言った。


「どう見る」


 藤吉は、少しだけ逡巡(しゅんじゅん)した。


 自分が言えば、嘉助(かすけ)の立場が決まるかもしれない。


 できる。


 できない。


 持てる。


 持てない。


 疑わしい。


 疑わしくない。


 その言葉が人を動かすことを、もう知っている。


「怖がっています」


 藤吉は言った。


「嘘か」


「分かりません」


「では」


「でも、荷を落とす怖がり方ではありません」


 坂部の目が少し動いた。


 藤吉は続けた。


「荷を間違えた者の怖がり方です。たぶん、気づかなかったことを怖がっています」


 嘉助(かすけ)が、藤吉を見た。


 泣きそうな顔だった。


 坂部は荷札を見る。


「なら、荷と人を分ける」


 瀬川が頷く。


嘉助(かすけ)を拘束はしない。ただし、荷から離す」


 倉橋が言う。


「荷はどうする」


 問題はそこだった。


 荷を止めるか。


 通すか。


 荷札が違う以上、通せない。


 だが、止めれば赤土峠(あかつちとうげ)への米が遅れる。


 縄は必要だが、米の代わりにはならない。


 火薬箱ではない。


 それでも、荷の道が一度疑われれば、次の荷も止まる。


 迅は、周りを見た。


 人足の足。


 牛の鼻。


 車輪の泥。


 荷札。


 濡れた縄。


 米袋。


 曲がり角。


 道の右手の草。


 草の下に、小さな木片が見えた。


「待ってください」


 迅は言った。


 坂部が振り返る。


「何だ」


 迅は草の下を指した。


「そこに、何かあります」


 黒羽がすぐに動いた。


 触らず、膝をついて見る。


 木片だった。


 焦げ目。


 穴。


 赤土。


 これまで見つかっていた木札の欠片に似ている。


 ただし、少しだけ新しい。


 雨で濡れきっていない。


 置かれてから、そう時間は経っていない。


 黒羽が言った。


「置いたな」


 瀬川が問う。


「誰が」


「分からぬ」


 黒羽は木片を見たまま答えた。


「だが、荷を疑わせるために置いた可能性が高い」


 倉橋の顔が険しくなる。


「米を遅らせるためか」


 坂部が低く言った。


「荷の手を止めるためだ」


 迅は息を吸った。


 水を見る手。


 戻る足。


 今度は、荷を持つ手。


 敵は、役目を一つずつ触っている。


 汚すために。


 止めるために。


     *


 荷の道で、小さな評定が始まった。


 大広間ではない。


 畳もない。


 上座もない。


 あるのは、泥。


 牛。


 濡れた米。


 焦げた木片。


 疑われた人足。


 そして、止まった荷だった。


 坂部が選択肢を出した。


「一つ。この荷は戻す」


 倉橋がすぐに顔をしかめる。


「米が遅れます」


「二つ。この荷だけ置いて、残りを通す」


 瀬川が言う。


「置いた荷が狙われます」


「三つ。ここで中身を全部開け、荷札を作り直して通す」


 黒羽が言った。


「時間がかかる。敵に見られれば、荷の中身を見せることにもなる」


 坂部は頷く。


「どれも悪い」


 藤吉は、濡れた荷を見ていた。


 濡れ米。


 縄。


 荷札。


 雨。


 もし全部開ければ、米はさらに濡れる。


 縄も泥を吸う。


 だが、見ないまま通せば、次の荷も疑われる。


「藤吉」


 坂部が言った。


「何を落とす」


 藤吉は、一瞬意味が分からなかった。


 坂部は続ける。


「全部は守れねえ。何を落とす」


 藤吉の喉が鳴った。


 昔なら、答えられなかった。


 今も、簡単には答えられない。


 だが、答えなければ荷は止まる。


「時間を落とします」


 藤吉は言った。


 全員が藤吉を見る。


「ここで少し遅らせます。中身を全部は開けません。荷札の違う一つだけを開けます。米と縄を分けて、荷札を作り直します。残りは、割符と縄目だけ見て通します」


 倉橋が問う。


「米の数は」


「あとで帳面と合わせます。でも、ここで全部数えると、全部止まります」


 坂部が、少しだけ目を細めた。


「誰が見る」


 藤吉は嘉助(かすけ)を見た。


 嘉助(かすけ)はびくりとする。


嘉助(かすけ)さんは、荷に触らない方がいいです」


 嘉助(かすけ)の顔が歪む。


 藤吉は続けた。


「でも、離しすぎると、逃げたと思われます。見えるところで、見ていてもらいます」


 瀬川が頷く。


「疑うためではなく、手を守るためか」


「はい」


「添え手は」


 藤吉は周りを見る。


「俺と、坂部様の人足一人。倉橋様の書役にも数を見てもらいます」


 倉橋が短く頷いた。


「よい」


 坂部は藤吉を見た。


「なら、やれ」


 藤吉は荷へ近づいた。


 手が震えていた。


 自分で気づいているのか、いないのか。


 辰五郎がここにいたら、きっと言っただろう。


 腹で持て。


 頭だけで持つな。


 藤吉は深く息を吸った。


「開けます」


 濡れた縄をほどく。


 縄目を崩さないように。


 荷札を外す。


 破かないように。


 袋を一つ開ける。


 中から、濡れた縄が出た。


 米ではない。


 だが、その下に、小袋の米が二つあった。


 縄で隠されていたのではない。


 雨で滑り、上にずれただけかもしれない。


 いや、誰かがそう見えるようにしたのかもしれない。


 分からない。


 倉橋が米を数える。


「小袋二つ。帳面上は三つ」


「一つ足りませんか?」


 藤吉が聞く。


「いや」


 倉橋は、別の荷を見た。


「隣に一つ多い」


 坂部が舌打ちした。


「入れ違いか」


 黒羽が言う。


「そう見せたか」


 どちらか分からない。


 だが、荷は完全に消えたわけではなかった。


 米はある。


 縄もある。


 数は、隣と合わせれば合う。


 ただし、荷札だけがずれている。


 瀬川が言った。


「荷札を疑わせる策か」


 迅は、焦げた木片を見た。


 もし誰かがこの木片を先に見つけていたら。


 もし荷札の違いだけが騒がれていたら。


 嘉助(かすけ)は捕らえられていたかもしれない。


 荷は全部止まっていたかもしれない。


 人足たちは、互いに疑っていたかもしれない。


 荷の道は、槍も火もなく止まる。


 その事実が、迅の背中を冷やした。


     *


 荷は、半刻(はんとき)遅れて動き出した。


 全部は守れなかった。


 時間は落とした。


 だが、荷そのものは落とさなかった。


 嘉助(かすけ)は、荷から少し離れて歩いている。


 逃げない。


 だが、荷には触れない。


 藤吉が横を歩く。


「俺、疑われたんだな」


 嘉助(かすけ)が言った。


「はい」


 藤吉は正直に答えた。


「お前、そこは慰めるところだろ」


「すみません」


「でも、助かった」


 嘉助(かすけ)は、顔を前へ向けたまま言った。


「俺一人だったら、たぶん逃げてた」


「逃げたら、もっと疑われます」


「分かってる。でも、怖いと逃げたくなる」


 藤吉は頷いた。


「分かります」


 嘉助(かすけ)が藤吉を見る。


「お前もか?」


「俺も、米俵を戻した時、逃げたかったです」


「戻したのか」


「一つだけ」


「一つだけ?」


「二つは無理でした」


 嘉助(かすけ)は、しばらく黙った。


 それから、小さく笑った。


「一つだけって、正直だな」


「正直に書かれました」


「嫌だな」


「嫌です」


 嘉助(かすけ)は、自分の手を見た。


 泥で汚れている。


 荷を担いできた手。


 荷札を信じた手。


 疑われた手。


「俺は、荷を間違えたことより」


 嘉助(かすけ)は、ぽつりと言った。


「仲間に見られた顔が怖かった」


 藤吉は黙って聞いた。


「お前がやったのかって目で見られると、足が逃げようとする。荷を置いてでも」


「はい」


「次は」


 嘉助(かすけ)は唇を噛んだ。


「次は、俺も縄目を見る。荷札だけ信じない」


 藤吉は頷いた。


「俺も一緒に見ます」


「ああ」


 二人は、少しだけ笑った。


 だが、藤吉はすぐに荷へ目を戻した。


 笑っている間にも、荷は動く。


 道は崩れる。


 誰かがまた、石を置くかもしれない。


 迅は、その後ろを歩いていた。


 撃つ前に見る者。


 今は鉄砲ではない。


 荷の道だ。


 何が撃つ前なのか。


 そう考えた。


 荷が止まる前。


 人が疑われる前。


 逃げる前。


 怒鳴る前。


 その前を見られなければ、間に合わない。


 迅は、焦げた木片の形を目に焼きつけた。


     *


 夕方、荷は赤土峠(あかつちとうげ)へ向けて再び進んだ。


 半刻遅れ。


 それは小さくない。


 だが、一日遅れにはならなかった。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ戻った坂部は、すぐに景胤へ報告した。


 小部屋では、鷹見が待っていた。


 倉橋もいる。


 黒羽、瀬川、真木もいる。


 迅と藤吉は端に控えた。


 坂部が、泥のついたまま口を開く。


「荷札の違いあり。木片あり。焦げ、穴、赤土。荷は半刻遅れで通しました」


 倉橋が続ける。


「米の総数は合いました。小袋の位置がずれていました。意図的か、雨による崩れかは不明」


 鷹見が筆を走らせる。


 景胤が問う。


「人は」


 坂部が答える。


嘉助(かすけ)という人足が疑われました。拘束はせず、荷から離しました。逃げず」


「荷は」


「落ちていません」


「時間は」


「落としました」


 その言葉に、景胤は目を伏せた。


 時間を落とした。


 荷を落とさなかった。


 だが、時間は戻らない。


 真木が低く言う。


「敵は、荷を奪わずに遅らせていますな」


 黒羽が頷く。


「こちらが見れば見るほど、止まる」


 倉橋が言った。


「見なければ、入れ替えられる」


 坂部が腕を組む。


「見すぎれば、荷が(とどこお)る」


 景胤は、しばらく黙っていた。


「ならば」


 景胤は言った。


「荷にも添え手を置く。だが、見すぎて止めぬための手も要る」


 鷹見が筆を止める。


「止めぬための手、ですか」


「そうだ」


 景胤は藤吉を見る。


「藤吉」


「はい」


「そなたは何を落とした」


 藤吉は、少しだけ驚いた。


 だが、答えた。


「時間です」


「何を落とさなかった」


「荷です」


「なら、それも記録せよ」


 鷹見が書く。


 荷の見定め。


 疑いあり。


 すべてを止めず、一部を開ける。


 時間を落とし、荷は落とさず。


 藤吉は、その文字を見ていた。


 自分のしたことが、また帳面に残る。


 嬉しいとは違う。


 怖いとも少し違う。


 ただ、次に同じことが起きた時、誰かがこの文字を見るかもしれない。


 それが重かった。


 景胤が言った。


「火定めは、人を見つけるために始めた」


 誰も声を出さない。


「だが、今は道の止まり方を見せられている」


 真木が頷く。


「敵に」


「そうだ」


 景胤は、拳を軽く握った。


「なら、こちらも見る。どこで止まり、どこなら通せるかを」


 迅は、その言葉を聞いていた。


 戦は、槍がぶつかる前から始まる。


 今は、荷札一枚で戦が始まっている。


     *


 その夜、煤谷村(すすたにむら)では、小夜が新しい石を置いていた。


 烈が持ち帰った知らせを聞いた後だった。


 荷の道。


 荷札。


 木片。


 疑われた人足。


 半刻遅れ。


 時間を落として、荷を落とさなかった。


 小夜は、道の石の上に小さな石を置いた。


 黒い石ではない。


 灰色の石だった。


「これは?」


 烈が聞く。


「止まりかけた道」


「黒じゃないの?」


「黒だと、敵か味方か分からないもの」


「灰色は?」


「止まったけど、崩れてないもの」


 志乃が、それを聞いて静かに頷いた。


「いい石ね」


 小夜は少しだけ嬉しそうにした。


 名を言わない男も、納屋の横から見ている。


 男は言った。


「荷を止められると、腹が遅れる」


 小夜が見る。


「知ってるの?」


「焼けた村では、荷が二日遅れた。米が来ない間に、先に噂が来た」


「何の噂?」


「誰かが米を隠した。誰かが荷を売った。誰かが敵に渡した」


 男は、乾いた笑いを漏らした。


「米より先に、疑いが腹へ入った」


 志乃は、黙って聞いていた。


 小夜は、灰色の石の横に、小さな黒い石を置いた。


「これは?」


 烈が聞く。


「腹に入る疑い」


「石が増えすぎだよ」


「増えすぎたら、分ける」


 小夜は言った。


「でも、置かないと忘れる」


 烈は何も言わなかった。


 庭の石は、また増えた。


 水。


 火。


 戻る足。


 荷の道。


 止まりかけた道。


 腹に入る疑い。


 火定めで見つかったものが、村の土の上でも増えていく。


 良いものだけではない。


 嫌なものも。


 怖いものも。


 見たくないものも。


 それでも、小夜は置いた。


 見えなくなる方が、もっと怖かった。


     *


 山の奥で、鹿部市之助(ししべいちのすけ)は報告していた。


 火はない。


 声も低い。


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、木にもたれて聞いている。


「荷は通りました」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が言った。


「だが、遅れた」


「半刻ほど」


「十分だ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は静かに言った。


「荷を奪えば、怒りが向く。荷を焼けば、守りが固まる。荷を疑わせれば、荷の手が止まる」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)は笑った。


「燧は、よく見ます」


「よく見る者は、足元に石を置かれると止まる」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、山の向こうを見た。


 赤土峠(あかつちとうげ)の方角。


 そこには、まだ見えない戦がある。


「まだ押すな」


「押さないのですか?」


「押せば、向こうも押し返す」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は言った。


「今は、遅らせる。水を遅らせ、知らせを遅らせ、荷を遅らせる」


 若い男が恐る恐る聞いた。


「それで勝てるのですか?」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、若い男を見る。


「腹は、遅れに弱い」


 その一言で、若い男は黙った。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が、懐の木片を指で弾いた。


「次は?」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は答えなかった。


 ただ、遠くの暗い峠を見ていた。


     *


 夜の灰ヶ峰城(はいがみねじょう)で、藤吉は荷場に座っていた。


 荷はない。


 人足もほとんどいない。


 ただ、昼に使った縄が干されている。


 迅が近づくと、藤吉は顔を上げた。


「眠れないの?」


「はい」


「膝?」


「膝も少し。でも、それより」


 藤吉は、干された縄を見た。


「今日、嘉助(かすけ)さんを疑いました」


「うん」


「疑わないと見えないことがあります。でも、疑うと人が止まります」


「うん」


「どうすればいいんでしょう」


 迅は、すぐには答えられなかった。


 烈にも、同じようなことを聞かれた。


 早いと落とす。


 遅いと困る。


 疑わないと見えない。


 疑うと止まる。


 答えは、いつも間にある。


 だが、その間に立つのが一番苦しい。


「分からない」


 迅は言った。


 藤吉は少し笑った。


「迅さんもですか?」


「うん」


「でも、今日は荷が落ちませんでした」


「うん」


「時間は落としました」


「うん」


「それで、よかったんでしょうか」


 迅は、昼の荷を思い出した。


 濡れた荷札。


 焦げた木片。


 疑われた嘉助(かすけ)


 半刻遅れ。


 でも、荷は進んだ。


「たぶん、今日のところは」


 迅は言った。


「たぶん」


「はい」


 藤吉は小さく頷いた。


「たぶん、で明日もやるんですね」


「うん」


「嫌ですね」


「うん」


 二人は、干された縄を見ていた。


 縄は、風に揺れている。


 結ぶためのもの。


 荷をまとめるもの。


 人を縛ることもできるもの。


 使い方で、役目は変わる。


 火も。


 水も。


 木札も。


 石も。


 そして、人の手も。


 迅は、自分の手を見た。


 撃つ前に見る手。


 まだ、撃っていない手。


 荷の道で、止まりかけた手を見た手。


 守るために見ているはずなのに、見るほど遅れる。


 それでも、見ないわけにはいかない。


「荷って」


 迅は、ぽつりと言った。


「止まってから重くなるんじゃないんだな」


 藤吉が顔を上げる。


「え?」


「疑われた瞬間に、もう重くなる」


 藤吉は、何も言わなかった。


 干された縄が、風で小さく揺れた。


 遠くで、夜の鐘が鳴った。


 赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう道は、闇の中に沈んでいる。


 その道のどこかに、また小さな石が置かれるのかもしれない。


 疑いという石。


 遅れという石。


 荷を止める石。


 迅は、目を逸らさなかった。


 荷の道は、まだ崩れていない。


 だが、確かに遅れ始めていた。

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