【第27話】遅れる知らせ
雨が二度降った。
灰ヶ峰城の広場には、足跡が残るようになっていた。
水桶を置く場所。
荷を担ぐ者が並ぶ場所。
子ども連れが待つ場所。
火を見る者が立つ場所。
鉄砲を構える者が、まだ撃たずに見る場所。
それぞれの土だけが、少しずつ踏み固められている。
喜助の水桶の跡は、広場の土に丸く残るようになった。
藤吉は荷を持たぬまま、人の膝を見る癖がついた。
辰五郎は座ったまま、誰が強がっているかを言い当てるようになった。
嘉七は火のそばに置かれたが、米のそばには近づけられなかった。
太助は椀を渡す前に、相手の手ではなく顔を見るようになった。
烈は、走る前に必ず一度だけ息を整えるようになった。
火定めは、もう一日だけの騒ぎではなくなっていた。
朝になれば、人が集まる。
昼になれば、誰かが見られる。
夕方になれば、鷹見の帳面に新しい文字が増える。
夜になれば、その文字が誰かの胸を重くする。
そんな日が、続き始めていた。
喜助は、今日も水桶の前にいた。
一人ではない。
隣には若い人足がいる。
水を汲む。
蓋をする。
置く。
使う。
捨てる。
そのたびに、二人で見る。
「閉めた」
「見た」
「置く」
「見た」
喜助は、何度も同じ言葉を繰り返していた。
最初は嫌そうだった。
今も嫌そうだった。
だが、声は少しだけ慣れてきている。
「慣れたか」
迅が聞くと、喜助はすぐに首を振った。
「慣れてない。嫌さが深くなっただけ」
「深く?」
「うん。前は水桶が重いだけだったけど、今は蓋も重い」
迅は少しだけ笑った。
喜助も笑いかけた。
だが、その笑いは途中で止まった。
広場の向こうで、誰かが噂をしていた。
「煤谷村からの知らせ、昨日は遅れたらしいぞ」
「戻る足ってやつか」
「足が早くても、途中で言葉を落としたら意味がない」
「子どもに伝令など任せるからだ」
喜助は、水桶の蓋に手を置いたまま顔をしかめた。
「聞こえてるよな、あれ」
「うん」
「烈のこと?」
「たぶん」
迅は、広場の外へ目を向けた。
烈はまだ戻っていない。
今朝も煤谷村へ走った。
村の石。
名を言わない男。
水桶。
山の煙。
それらを崩さず運ぶためだ。
走るだけなら、烈は早い。
だが、今はただ早ければよいわけではない。
何を見たか。
誰が見たか。
何が分からないか。
何をまだ決めていないか。
それらを持って戻らなければならない。
速い足ほど、遅れる。
迅は、そんな妙なことを思った。
そして、胸の奥が少し重くなった。
戦いたがっていた烈の足が、今は戦わないために走っている。
それが嬉しいのか、怖いのか、迅には分からなかった。
たぶん、両方だった。
*
城の北の小部屋では、黒羽が木札を並べていた。
瀬川、鷹見、八瀬隼人、そして烈がいる。
烈は走ってきたばかりで、肩で息をしていた。
黒羽は、水も休みも与えず、まず問うた。
「報告」
烈は一度口を開きかけた。
だが、すぐに閉じる。
息を吸う。
小夜に言われたことを思い出す。
変わったところ。
分からないところ。
勝手に決めてはいけないところ。
「煤谷村の水桶は、今朝から二人で見ています。母上と村の女の人です。名を言わない男は、まだ納屋の横にいます。昨日より咳は減りました。でも名は言っていません」
黒羽は頷かない。
ただ聞いている。
烈は続けた。
「山の煙は、今朝は出ていません。ただ、小夜は赤い石と黒い石を片づけていません」
「理由は」
「煙が消えたから安全、とはまだ言えないからです」
「他」
「名を言わない男の包みにあった木札は、村のものではないそうです。母上は見たことがないと言っていました」
八瀬隼人が顔を上げる。
「木札の形は」
「細長い。端が焦げている。穴が一つ」
「持ってきたか」
「いいえ」
烈は首を振った。
「持ってこいとは言われていません。小夜が、動かすと分からなくなるかもしれないと言いました」
八瀬隼人が眉を寄せる。
「証がなければ、こちらでは見られぬ」
烈の顔が少し赤くなった。
「でも、勝手に動かすなって」
「現物がなければ、報告は言葉だけになる」
「言葉を崩さず持ってきました」
「現物には敵わぬ」
空気が少し硬くなる。
黒羽が、そこで初めて口を開いた。
「どちらも正しい」
烈と八瀬隼人が黙る。
「物を動かせば、場が崩れることがある。物を動かさねば、城で見られぬことがある」
黒羽は木札を一枚取った。
「戻る足は、言葉だけでは足りぬ」
烈は肩を落とした。
「では、どうすれば?」
「言葉と形を合わせる」
「形?」
黒羽は、薄い木片を二つに割った。
片方を烈へ渡す。
もう片方を鷹見へ渡す。
「割符だ」
烈は割られた木片を見た。
割れ目は同じ形をしている。
二つを合わせれば、一つの木札に戻る。
「城から出す知らせには、割符を持たせる。村に残すものと、城へ戻すものを合わせる。言葉だけでなく、割れ目を見る」
鷹見が筆を取る。
戻る足。
言葉と割符を併せる。
伝書は一人に背負わせず。
烈は、その文字を見ていた。
戻る足。
そこにまた新しい重さが増えた。
「走るだけでは、足りないんですね」
烈が言った。
黒羽は短く答える。
「足りぬ」
烈は唇を噛んだ。
悔しい。
でも、否定できない。
自分の足が早くても、言葉が疑われれば遅れる。
知らせが疑われれば、道が止まる。
黒羽は続けた。
「今日から、烈には添え手をつける」
烈は顔を上げた。
「俺にもですか?」
「そうだ」
「一人で行けます」
「行けるかどうかではない。疑われぬためだ」
烈は黙った。
水を見る喜助に添え手がついた。
火を見る者にも、荷を見る者にもついた。
今度は、自分にもつく。
守るため。
でも、見張られるようでもある。
その重さが、胸に落ちた。
瀬川が言った。
「烈」
「はい」
「添え手は、そなたを疑うためだけにつくのではない」
烈は瀬川を見た。
「そなたの足を守るためだ。誰かが偽の知らせを流した時、そなた一人では、そなたが疑われる」
烈は、ようやく頷いた。
「はい」
黒羽は、八瀬隼人を見た。
「今日の村行きは、八瀬隼人が添え手につけ」
「はっ」
八瀬隼人はすぐに頭を下げた。
烈は、少しだけ驚いた。
物見の若者。
石を笑うなと言われた者。
その者が、自分の添え手になる。
八瀬隼人は烈を見る。
「足は合わせる」
「俺、早いです」
「知っている」
「遅れたら困ります」
「早すぎて言葉を落としても困る」
烈は言い返せなかった。
黒羽は、二人を見た。
「行け。村の木札を見る。だが、勝手に動かすな。見て、形を写し、必要なら戻れ」
「はっ」
「はい!」
二人は同時に答えた。
*
煤谷村へ向かう道は、昨日の雨で柔らかかった。
烈は走りたい。
だが、隣に八瀬隼人がいる。
物見の足は、速いようで速くない。
ただ、乱れない。
坂で少し遅くなっても、息が崩れない。
泥に足を取られても、すぐ戻る。
烈は何度も先へ出かけた。
そのたびに、八瀬隼人が短く言う。
「離れるな」
「急がないと」
「急ぐ」
「なら」
「離れるな」
烈は歯を食いしばった。
遅い。
そう思った。
だが、道の途中で、八瀬隼人が急に止まった。
烈は二歩先で止まり、振り返る。
「どうしました?」
「足跡」
八瀬隼人が、道端の泥を指した。
細い草が倒れている。
足跡が二つ。
一つは村へ向かっている。
一つは山へ戻っている。
それだけなら珍しくない。
だが、足跡の横に、細い木片の欠片が落ちていた。
烈はしゃがむ。
「木札?」
「触るな」
八瀬隼人が止める。
烈は手を引っ込めた。
木片の端には、煤がついている。
穴が一つ。
小夜が言っていた、焦げた木札。
それに似ている。
「これ、村の男の包みのものと同じかも」
「かも、だな」
八瀬隼人は周囲を見た。
「人がここで立った」
「誰が?」
「分からぬ」
烈は、思わず言いそうになった。
早く村へ。
だが、八瀬隼人の目が木片から離れない。
「どうするんですか?」
「形を覚える」
「持っていかないんですか?」
「動かすと、ここにあったことが消える」
烈は、少しだけ目を開いた。
小夜と同じことを言った。
八瀬隼人は、小刀を抜き、近くの柔らかい木の皮に木片の形を軽く刻んだ。
穴の位置。
焦げた端。
割れた角。
その形を写す。
「これが形だ」
烈は、見入っていた。
小夜は石で残す。
八瀬隼人は木の皮に写す。
やっていることは違う。
だが、似ている。
「行くぞ」
八瀬隼人が言った。
「はい」
今度は、烈も少しだけ足を合わせた。
*
煤谷村に着くと、庭には石が並んでいた。
昨日より増えている。
だが、ただ増えたわけではない。
人。
水。
火。
道。
戻る場所。
一人ではない水。
添え手。
分からない者。
それぞれが、小さく分けられていた。
小夜は、石の前にしゃがんでいる。
志乃は井戸のそばにいた。
名を言わない男は、納屋の横に座っている。
顔色は少し戻ったが、相変わらず名は言わない。
「小夜!」
烈が声をかける。
小夜は顔を上げた。
「遅い」
烈はむっとする。
「添え手がついたんだ」
小夜は八瀬隼人を見る。
「物見の人」
「八瀬隼人だ」
「知ってる」
「知っているなら、そう呼べ」
「今は石を見てた」
八瀬隼人は少しだけ眉を動かした。
烈は慌てて言った。
「木札を見に来た」
志乃が、納屋の横を指した。
「動かしていません」
名を言わない男の包みの中から、焦げた木札が見える。
八瀬隼人は近づき、しゃがんだ。
触れない。
まず見る。
穴の位置。
焦げた端。
割れた角。
道で見た木片と、似ている。
「同じものから割れた可能性がある」
八瀬隼人が言った。
名を言わない男が顔を上げる。
「何だと」
「道に欠片があった」
男の顔が強ばる。
「俺が落としたんじゃない」
村人の何人かがざわついた。
「では、誰が?」
「やっぱり、この男が」
「村に入れるから」
声が増える。
小夜は、黒い石を一つ握った。
烈は、すぐに言い返しかけた。
だが、志乃が先に声を出した。
「決めつけない」
強い声ではなかった。
だが、通った。
「この人が落としたかもしれない。誰かが落としたかもしれない。誰かが、この人に疑いを向けるために置いたかもしれない」
村人たちは黙った。
志乃は続ける。
「分からないものは、分からないまま置きます」
小夜は、黒い石を男の石の横に置いた。
さらに、木片の形の石を隣に置く。
「似ている木札」
八瀬隼人が小夜を見る。
「石にするのか」
「しないと、忘れる」
「木の皮に写した」
「なら、二つある」
小夜は答えた。
「石と、木の皮」
八瀬隼人は、少し黙った。
それから、木の皮を取り出した。
道で写した形を見せる。
小夜はそれを見て、石の位置を少し動かした。
「こっち」
「なぜ動かす」
「木札は、男の包みだけのものじゃなくなったから」
烈は、意味を考えた。
木札が男だけのものなら、男の石の横。
道にも欠片があったなら、道の石の横。
小夜は、木札の石を男と道の間に置いた。
「間の石」
小夜が言った。
八瀬隼人は、今度は笑わなかった。
「よい置き方だ」
小夜は顔を上げない。
「当たり前」
「小夜」
志乃がたしなめる。
小夜は少しだけ口を閉じた。
烈は、ほっとしたような、悔しいような顔をした。
自分も何か言いたかった。
だが、今日は添え手がいる。
自分一人で運ぶのではない。
「城へ戻る」
八瀬隼人が言った。
「今見たことを持ち帰る」
烈が頷く。
「はい」
小夜がすぐに言った。
「待って」
「何」
「言うことを決める」
烈は、今度は反発しなかった。
小夜は石を指した。
「村の木札と、道の欠片は似ている。同じものから割れたかもしれない。でも、名なしの男が落としたとは決めない。誰かが置いたかもしれない。木札は、男と道の間に置いた」
烈は繰り返した。
「村の木札と道の欠片は似ている。同じものから割れたかもしれない。でも、名なしの男が落としたとは決めない。誰かが置いたかもしれない。木札は、男と道の間に置いた」
八瀬隼人が続ける。
「道の欠片は、煤谷村へ向かう足跡と、山へ戻る足跡の間にあった。焦げあり。穴一つ。赤土少し」
烈はそちらも繰り返した。
小夜が頷く。
「今は、それだけ」
志乃が言った。
「それ以上は、言わない」
烈は頷いた。
以前なら、急いで走り出していた。
今は、言葉を整えてから走る。
その分、遅い。
でも、崩れない。
*
城へ戻る途中、烈は何度も同じ言葉を口の中で繰り返した。
村の木札。
道の欠片。
似ている。
決めない。
誰かが置いたかもしれない。
男と道の間。
足跡。
山へ戻る跡。
焦げ。
穴。
赤土。
多い。
多すぎる。
走っているうちに、言葉が混ざりそうになる。
隣の八瀬隼人が言った。
「声に出せ」
「え?」
「落とすくらいなら、声に出せ」
烈は少し恥ずかしかった。
だが、言った。
「村の木札と道の欠片は似ている。同じものから割れたかもしれない。でも、名なしの男が落としたとは決めない」
「続けろ」
「誰かが置いたかもしれない。木札は、男と道の間に置いた」
「続けろ」
「道の欠片は、村へ向かう足跡と山へ戻る足跡の間。焦げあり。穴一つ。赤土少し」
八瀬隼人が頷いた。
「よい」
烈は息を切らしながら言った。
「添え手って、面倒ですね」
「面倒だ」
「でも、忘れにくいです」
「そうだ」
「一人の方が早いです」
「早い」
「でも、間違えるかもしれない」
「そうだ」
烈は、少しだけ悔しそうに笑った。
「物見って、面倒ですね」
八瀬隼人は短く答えた。
「そうだ」
烈は、初めて少しだけ、物見という役目の重さを見た気がした。
*
灰ヶ峰城に戻ると、すぐに小部屋へ通された。
黒羽、瀬川、鷹見、迅がいた。
迅は烈の顔を見る。
泥だらけだ。
だが、目は折れていない。
「報告」
黒羽が言う。
烈は、息を吸った。
そして、言葉を崩さず伝えた。
村の木札と、道の欠片。
似ていること。
同じものから割れたかもしれないこと。
だが、名を言わない男が落としたとは決めないこと。
誰かが置いたかもしれないこと。
小夜が木札の石を、男と道の間に置いたこと。
道の欠片の場所。
足跡。
焦げ。
穴。
赤土。
八瀬隼人が木の皮を出す。
そこには、欠片の形が刻まれていた。
鷹見が筆を動かす。
黒羽は、木の皮を見た。
「木札そのものではないが、形は残った」
八瀬隼人が頭を下げる。
「動かさず、写しました」
「よい」
烈は、少しだけ誇らしくなった。
だが、黒羽はすぐに言った。
「喜ぶな。まだ分からぬ」
「はい」
瀬川が言った。
「これは、戻る足を狙ったものかもしれません」
迅は、胸の奥が重くなる。
「戻る足を?」
「偽札とまでは言えぬ。だが、似た形の木札が村と道にある。これを誰かが見つけて騒げば、烈が運んだ言葉も疑われる」
鷹見が書く。
戻る足。
木札。
疑い。
添え手により、言葉と形を照合。
迅は、烈を見る。
烈は黙っている。
だが、拳を握っていた。
自分の足が狙われた。
それを、今知った顔だった。
「兄上」
烈が小さく言った。
「何」
「早く走ればいいわけじゃないんですね」
「うん」
「でも、遅いと困ります」
「うん」
「どうすればいいんですか?」
迅は答えられなかった。
瀬川が代わりに言った。
「速く、崩さず戻る」
烈は瀬川を見る。
「難しいです」
「役目とは、たいていそうだ」
烈は、少しだけ笑った。
笑ったというより、息を吐いた。
「嫌ですね」
「逃げるか」
瀬川が問う。
烈は首を横に振った。
「戻ります」
その答えは、早かった。
迅は、弟を見ていた。
戦いたがっていた足が、戻る足になっていく。
そして今、その足が敵に狙われ始めている。
それが誇らしいのか、怖いのか、迅には分からなかった。
たぶん、両方だった。
*
夕刻、火定めの広場に新しい木札が立てられた。
戻る足。
その横に、小さく書かれている。
一人で走らせず。
言葉と形を持たせる。
添え手を置く。
分からぬものを、分からぬまま戻す。
喜助がその札を見て、烈に言った。
「お前も面倒になったな」
「喜助もでしょ」
「俺は水桶だけで十分だったのに」
「俺も走るだけでよかった」
二人は顔を見合わせた。
少しだけ笑う。
だが、その笑いは長く続かない。
水桶も、戻る足も、もうただの役目ではない。
狙われる場所になった。
迅は、木札を見ていた。
撃つ前に見る者。
水を見る者。
戻る足。
添え手。
それらが、広場に並んでいる。
役目が増える。
守れるものが増える。
同時に、狙われる場所も増える。
景胤は少し離れたところから、それを見ていた。
その横に真木が立つ。
「一つずつ、敵に教えているようなものですな」
真木が言った。
「何を見ているか。何を守ろうとしているか」
景胤は頷いた。
「だが、隠せば育たぬ」
「はい」
「見せれば狙われる」
「はい」
「ならば、狙われることも含めて育てるしかない」
景胤の声は静かだった。
だが、重かった。
火定めは、もう理想の制度ではない。
敵に見られながら育つ、危うい仕組みだった。
*
その夜、山の奥で鹿部市之助は笑っていた。
笑い声は低い。
木々の間に染み込むようだった。
「戻りましたね」
岩貫弥惣は答えない。
ただ、山の下を見ている。
若い男が、震える声で言った。
「失敗では?」
「何が」
鹿部市之助が聞く。
「木札で、疑わせられなかった」
鹿部市之助は、男の方を見て笑った。
「疑わせたさ」
「でも」
「疑いを消すために、添え手を増やした。割符を増やした。見る手を増やした」
岩貫弥惣が、そこで口を開いた。
「手が増えれば、遅くなる」
若い男は黙った。
「遅くなれば、間に合わぬものが出る」
風が吹いた。
葉が擦れる。
岩貫弥惣は、静かに言った。
「速さを疑わせれば、足は鈍る。正しさを求めさせれば、知らせは遅れる」
鹿部市之助が、懐から小さな木片を取り出した。
焦げ目。
穴。
赤土。
村にあったものと、よく似ている。
「まだ、あります」
岩貫弥惣は、それを見なかった。
「置く場所を変えよ」
「どこへ」
「水でも火でもない」
岩貫弥惣は、山道の闇を見た。
「荷の道だ」
鹿部市之助の笑みが、ゆっくり広がった。
*
夜の灰ヶ峰城で、烈は城門のそばに座っていた。
足を投げ出している。
足の裏が痛い。
でも、眠れなかった。
迅が近づく。
「寝ないの?」
「兄上こそ」
迅は隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
城門の外には、夜の道がある。
煤谷村へ続く道。
浄火寺へ続く道。
赤土峠へ荷が向かう道。
どの道も、夜になると同じ黒に沈む。
「今日」
烈が言った。
「遅くなりました」
「うん」
「でも、前より崩さず持ってこられた気がします」
「うん」
「だけど、遅いと、誰かが困るかもしれません」
「うん」
「早いと、落とすかもしれません」
「うん」
烈は、少し不満そうに迅を見た。
「兄上、うんしか言ってません」
「答えが分からない」
「またですか?」
「うん」
烈は、ため息をついた。
それから、夜の道を見る。
「戻る役も、悪くないって言いました」
「うん」
「でも、思ったより嫌です」
迅は少しだけ笑った。
「役目って、だいたい嫌なのかもしれない」
「兄上のも?」
「うん。嫌だ」
「でも、やるんですか?」
「たぶん」
「俺も、たぶんやります」
烈は、自分の足を見た。
泥が乾いている。
足の指が少し痛い。
でも、折れてはいない。
小夜が置いた枝の石。
折れちゃだめな戻る足。
それを思い出す。
「明日は」
烈が言った。
「もっと速く、崩さず戻ります」
迅は、弟を見た。
無理をするなと言いたかった。
だが、それだけでは足りない。
戻るなとも言えない。
走れとも言えない。
だから、別のことを言った。
「折れるな」
烈は、一瞬驚いた。
それから、小さく笑った。
「小夜みたいなこと言いますね」
「小夜が言いそうだから」
「じゃあ、戻ったら言われます」
「たぶん」
二人は、夜の道を見た。
遠くで、風が木を揺らした。
火は見えない。
煙も見えない。
それでも、どこかで敵は石を置いている。
疑いという石。
遅れという石。
そして、次は荷の道へ。
迅は、その気配まではまだ知らない。
ただ、胸の奥が少し重かった。
戻る足が狙われた。
水の手が狙われた。
次に何が狙われるのか。
分からない。
分からないまま、夜は深くなっていった。




