【第26話】汚される手
夜の灰ヶ峰城は、昼よりも音が多かった。
昼は人の声が多すぎて、細かな音が消える。
だが、夜は違う。
桶の底に残った水が揺れる音。
荷台の車輪が湿った土を噛む音。
火の番をする者が、薪を折る音。
遠くで誰かが咳き込む音。
火定めの初日は終わったはずだった。
それでも、広場は眠っていなかった。
喜助は、空になった水桶を洗っていた。
井戸のそばではない。
井戸から少し離れた場所だ。
そこに洗い水を置くと、自分で決めた。
飲む水と、洗う水と、火を消す水。
混ぜるな。
そう言ったのは、自分だった。
言ってしまったから、もう適当にできない。
「……ほんと、言わなきゃよかった」
喜助は小さくつぶやいた。
水桶の内側を指でこする。
ぬめりが残っていないか。
泥が沈んでいないか。
誰かが手を入れていないか。
前なら、そこまで見なかった。
水は水だ。
汲んで、運んで、置けばよかった。
でも、今は違う。
水の置き場所が、人を動かす。
水の汚れが、人を揉めさせる。
水が倒れれば、門前が崩れる。
そう言われた。
そして、帳面に書かれた。
水の置き場を見る者。
まだ仮だ。
仮なのに、もう重い。
「嫌だなあ」
喜助はまた言った。
だが、手は止めなかった。
桶を逆さにして、水を切る。
その時だった。
足音が聞こえた。
草を踏む音。
軽い。
だが、ためらいがある。
喜助は顔を上げた。
「誰?」
返事はなかった。
広場の端は暗い。
火の明かりが届かないところに、人影があるように見えた。
喜助は桶を抱えた。
「誰かいる?」
また返事はない。
代わりに、何かが地面へ落ちる音がした。
小さい音だった。
木片か。
石か。
布か。
喜助は、一歩だけ近づいた。
だが、そこで止まった。
勝手に動くな。
赤松弥八に言われた言葉が戻る。
水桶を置く者が、勝手に動くな。
喜助は唇を噛んだ。
行くべきか。
呼ぶべきか。
放っておくべきか。
今までなら、たぶん覗きに行った。
そして、もし何かあれば大声を出した。
だが、今は自分の動きで人が動く。
夜の広場で叫べば、火定めの場に集まった者たちが起きる。
水が汚された。
そう広がれば、誰かの手が疑われる。
喜助は、声を抑えて言った。
「誰か。夜番の人!」
近くの小屋から、番をしていた兵が顔を出した。
「どうした」
「今、あそこに誰か」
兵が火を持って近づく。
広場の端には、誰もいなかった。
ただ、地面に小さな布切れが落ちていた。
黒ずんでいる。
兵が拾おうとする。
「触らないで」
喜助は思わず言った。
兵が振り返る。
「何だ?」
「あ、いや……水の近くなので」
「水?」
「触ると、分からなくなるかもしれない」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
だが、言わずにはいられなかった。
兵は少し顔をしかめたが、手を止めた。
「瀬川殿を呼ぶ」
喜助は頷いた。
胸が嫌な音を立てていた。
布切れから、かすかに匂いがした。
煙。
油。
それから、焦げた飯のような匂い。
喜助は、水桶を抱える手に力を入れた。
手が冷たくなっている。
*
瀬川が来た時、広場には数人が集まっていた。
赤松弥八もいる。
鷹見も、眠そうな顔のまま筆を持っている。
迅も呼ばれた。
喜助が自分で呼んだわけではない。
だが、迅は来た。
顔を見た瞬間、喜助の肩から少しだけ力が抜けた。
「何があった」
瀬川が問う。
喜助は布切れを指した。
「人影がありました。その後、これが落ちてました」
「触ったか」
「触ってません」
「水桶は」
「洗ってました。飲む水の桶じゃないです。洗い水用の桶です」
喜助は早口になった。
「でも、近くに置いてたから。もしかしたら触られたかもしれなくて。でも、桶は俺が持ってました。だから、たぶん大丈夫で。でも、分からなくて」
言葉が転がる。
自分が釈明しているみたいだと、喜助は思った。
まだ誰にも責められていない。
それなのに、もう言い訳している。
赤松弥八が布切れを火で照らした。
「油気があるな」
迅の背中が強ばる。
前に逃げた男が落とした油布の切れ端。
それに似ていた。
赤松弥八は布に直接触れず、細い枝で端を持ち上げた。
「火をつけるには小さい。だが、匂いを残すには十分だ」
鷹見が筆を動かす。
夜。
広場。
水桶近く。
油気ある布。
人影あり。
水桶、喜助が保持。
触れたか不明。
その文字を見て、喜助の顔が青くなった。
「俺、触らせてません」
鷹見は筆を止めない。
「そう書いている」
「でも、不明って」
「不明は不明だ」
喜助の喉が詰まった。
不明。
それは敵ではない。
でも、味方でもない。
小夜の黒い石みたいな言葉だ。
瀬川が言った。
「喜助」
「はい」
「疑っているのではない」
「でも、疑われるんですよね」
その場が静かになった。
喜助は、自分で言ってから唇を噛んだ。
「すみません」
瀬川は首を横に振った。
「謝るな」
迅は喜助を見ていた。
水桶を守っていた手。
帳面に載った手。
その手が、今は疑いのそばに置かれている。
汚されたのは水ではない。
まず、手だった。
瀬川が布切れを見た。
「赤松殿」
「煙と油の匂いはある。昨日の切れと似ているが、同じとは言い切れねえ」
「水は」
「飲むな」
喜助の顔がさらに青くなる。
「全部ですか?」
「近くにあったものはな」
「でも、飲む水じゃなくて、洗い水です」
「洗い水でも、椀に触れる。手に触れる。手が飯に触れる」
赤松弥八の言葉は冷たかった。
だが、間違っていない。
喜助は桶を見た。
自分が洗った桶。
置き場所を考えた桶。
誰かのために用意した水。
それが今、使えないものになっていく。
「捨てます」
喜助は言った。
声が少し震えていた。
「この水、全部捨てます。桶も洗い直します。井戸も見ます。あと、置く場所も変えます」
瀬川が問う。
「一人でやるか」
「やります」
「一人ではやるな」
喜助は顔を上げた。
「なぜですか?」
「一人でやれば、また一人が疑われる」
喜助は黙った。
瀬川は続けた。
「水を見る者を、一人にするな。水を見る手を、複数にする」
鷹見の筆が動いた。
水を見る者。
一人にせず。
二人以上で確認。
喜助は、その文字を見ていた。
少しだけ救われたようで、少しだけ怖くもあった。
自分一人の役目ではなくなる。
けれど、自分一人では信じてもらえないということでもある。
迅は、布切れから目を離せなかった。
敵は、人を斬っていない。
水を毒にしたわけでもない。
ただ、油の匂いのする布を落としただけだ。
それだけで、水を見る手が疑われる。
「これが狙いか」
迅は小さく言った。
赤松弥八が聞き返す。
「何だ」
「水じゃなくて、手です」
瀬川が迅を見る。
迅は、布切れを見たまま言った。
「水を汚すより、水を見ている手を疑わせた方が、次からみんな水を受け取りにくくなります」
喜助の肩が揺れた。
迅はすぐに言った。
「喜助のせいじゃない」
「分かってる」
喜助は言った。
でも、声は分かっていなかった。
*
夜明け前、煤谷村にも小さな騒ぎが起きていた。
最初に気づいたのは志乃だった。
井戸の横に置いていた水桶の蓋が、少しだけずれている。
大きく開いてはいない。
水もこぼれていない。
だが、志乃は手を止めた。
小夜が石で分けた水。
飲む水。
洗う水。
火を消す水。
そのうち、飲む水の桶だった。
志乃は蓋に触れず、小夜を呼んだ。
「小夜」
小夜は庭から顔を上げた。
石の前に座っていたらしい。
眠たそうな目をしている。
「何」
「これを見て」
小夜は井戸のそばへ来た。
蓋を見る。
桶の足元を見る。
土を見る。
水のしずく。
草の折れ。
小さな足跡。
「誰か触った?」
小夜が聞いた。
「分からない」
「母上は?」
「触っていない」
小夜は、蓋の端を見た。
指の跡がある。
ただし、はっきりしない。
水で濡れて、崩れている。
「烈は?」
「まだ寝ている」
「村の人は?」
「朝の水を汲みに来るには早い」
小夜は、庭に戻り、黒い石を一つ持ってきた。
井戸の横に置く。
分からないもの。
それから、赤い石ではなく、灰色の石を置いた。
「これは?」
志乃が聞く。
「汚れたかもしれないもの」
志乃は頷いた。
「水は使わない方がいいね」
「うん」
「でも、言い方を間違えると、村が騒ぐ」
「うん」
小夜は、桶を見た。
水。
飲むもの。
生きるもの。
それが疑われる。
すると、水を汲んだ人も疑われる。
水を置いた人も疑われる。
水を飲んだ人も疑われる。
小夜は小さく息を吸った。
「母上」
「何」
「これ、城の水と同じかもしれない」
志乃の目が変わった。
「城?」
「烈が言ってた。水も火定めで見るって。もし、村と城の両方で水が疑われたら」
「水を見る手が疑われる」
志乃が言った。
小夜は頷いた。
その時、納屋の横から声がした。
「水がどうした」
名を言わない男だった。
まだ村に留められている。
座ったまま、こちらを見ていた。
小夜はすぐに黒い石を見た。
男の石。
まだ敵でも味方でもない石。
男は疲れた顔で言った。
「火を入れるより、水を疑わせる方が早い」
志乃が男を見た。
「どういう意味」
「焼けた村では、井戸の水が濁っただけで殴り合いになった。誰が泥を入れた。誰が先に飲んだ。誰が桶を洗わなかった。そういう話で、半日潰れた」
男は喉を鳴らした。
「その間に、火は別の場所へ回った」
小夜は、男の声を聞いていた。
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
だが、今必要なのは、どちらかをすぐ決めることではない。
「その村は、黒根村?」
男は答えない。
小夜は追わなかった。
「母上。水は捨てる。でも、静かに」
志乃は頷いた。
「烈を起こします」
「待って」
小夜は石を見た。
「烈に走らせる前に、言うことを決める」
志乃は、ほんの少しだけ笑った。
「そうね」
小夜は、石を並べた。
井戸。
飲む水。
蓋がずれていた。
指の跡。
水は使わない。
騒がせない。
名なしの男が、水を疑わせる話をした。
まだ信用しない。
でも、消さない。
「烈に伝えること」
小夜は言った。
「村の飲み水の桶の蓋がずれていた。水はまだ使ってない。井戸には近づけてない。水は捨てる。騒がせない。名なしの男が、井戸の水で揉めた村の話をした。嘘か本当かは分からない」
志乃は頷いた。
「それでいい」
「あと」
小夜は黒い石を、灰色の石の横に置いた。
「水を見た人を、一人にしない」
志乃は、小夜を見る。
小夜は言った。
「一人だと、その人が疑われる」
志乃はしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「では、私も見る」
「母上も?」
「そう」
志乃は桶の前にしゃがんだ。
「見る人を増やすのは、疑うためじゃない」
小夜は顔を上げた。
「じゃあ、何のため?」
「守るため」
志乃は、桶の蓋を見た。
「水も、人も。ひとりにしておくと、汚される。汚されていなくても、汚されたことにされる」
小夜は、黒い石を見た。
分からないもの。
汚れたかもしれないもの。
疑われるかもしれない手。
「だから、一緒に見る」
志乃は言った。
「誰かを疑うためじゃなくて、その人の手を守るために」
小夜は小さく頷いた。
そして、水の石の横に、もう一つ小さな石を置いた。
一人ではない水。
*
朝になると、灰ヶ峰城の広場には、まだ少し冷たい空気が残っていた。
火定めの二日目が始まる前に、すでに水桶が並び直されている。
喜助は、目の下にうっすら影を作っていた。
ほとんど眠っていない。
迅が近づくと、喜助は桶の蓋を見ていた。
「寝た?」
迅が聞く。
「ちょっと」
「嘘だ」
「ばれたか」
喜助は笑おうとしたが、笑いきれなかった。
桶のそばには、喜助一人ではなく、もう一人若い人足がいる。
さらに少し離れて、鷹見の書役が立っている。
水を汲む。
蓋をする。
置く。
使う。
捨てる。
その一つ一つを、二人で見る。
「面倒くさくなった」
喜助が言った。
「でも、一人じゃない」
「うん」
「それは、少しまし」
喜助はそう言って、水桶の端を拭いた。
その手つきが、昨日より丁寧だった。
だが、見ている者の目も増えている。
丁寧にすればするほど、疑いに怯えているようにも見える。
迅は、それに気づいて胸が重くなった。
水を見る手が、自由ではなくなっている。
そこへ、烈が走ってきた。
息を切らしている。
顔には、まだ朝の冷たさが残っていた。
「瀬川様は」
「向こうだ」
迅が指すと、烈は頷き、すぐに向かおうとする。
だが、途中で止まった。
迅を見る。
「兄上にも」
「何」
「村の水桶です」
迅と喜助の顔が同時に変わった。
烈は、息を整えた。
今までよりも、報告の前に息を整える癖がついている。
「村の飲み水の桶の蓋がずれていました。水はまだ使っていません。井戸には近づけていません。水は捨てます。騒がせないようにしています。名を言わない男が、井戸の水で揉めた村の話をしました。嘘か本当かは分かりません」
喜助が、桶から手を離した。
「村も?」
烈は頷く。
「はい」
「同じだ」
迅は言った。
「城と村、両方」
瀬川が近づいてきた。
「続けろ、烈」
「あと、小夜が言っていました。水を見る人を一人にしない。一人だと、その人が疑われるって」
瀬川は静かに目を伏せた。
「同じところへ来たか」
鷹見がすぐに筆を動かす。
城。
村。
水桶。
蓋。
油布。
疑い。
複数で確認。
喜助は、その文字を見た。
自分だけではない。
村でも起きている。
それは安心ではなかった。
むしろ、怖さが増した。
敵がいる。
しかも、こちらが何を見始めたかを知っている。
「迅」
瀬川が言った。
「はい」
「赤松殿を呼べ。黒羽殿にも知らせる」
「はい」
「それと、喜助」
「はい」
「水を止めすぎるな」
喜助は目を見開いた。
「でも、危ないかもしれません」
「危ない。だが止めすぎれば、人が騒ぐ」
瀬川は広場を見た。
朝から集まり始めた者たち。
喉が乾いた者。
粥を待つ者。
負傷者。
子ども。
「水を止めれば、疑いが広がる。だが、何も見ずに出せば、もっと崩れる」
喜助は、顔を歪めた。
「どうすればいいんですか?」
「分けろ」
瀬川は言った。
「飲む水は新しく汲む。桶は二人で洗う。古い水は、見える場所で捨てる。なぜ捨てるかを隠すな。ただし、騒がせる言い方をするな」
喜助は、少しだけ呆然とした。
「俺が言うんですか?」
「水を見る者が言え」
「嫌です」
「嫌でも言え」
喜助は迅を見た。
迅は何も言えなかった。
代わりには言えない。
水を見ているのは、喜助だ。
喜助は大きく息を吸った。
広場の方へ向く。
声は震えていた。
「この水は、念のため捨てます!」
人々がこちらを見る。
喜助の喉が詰まりかける。
だが、続けた。
「誰かが悪いと決まったわけじゃありません! 桶の蓋と周りを見直します! 飲む水は新しく汲みます! 水を取りに来る人は、こっちじゃなくて木札の横へ並んでください!」
声は上ずっていた。
しかし、届いた。
人々はざわついた。
「水が汚れたのか?」
「誰がやった?」
「昨日の水番か」
喜助の肩が震えた。
だが、すぐに別の声がした。
「決まってないって言っただろ!」
梅吉だった。
子を抱いたまま、人々の前に出ていた。
「水を止めるな。だが、勝手に桶へ寄るな。子どもが先だ。怪我人も先だ。文句があるなら、列を崩さず言え」
荒い声。
でも、通る。
嘉七も、火を見る木札の近くから言った。
「誰かを決めつけたら、そいつの手が止まるぞ。手が止まれば、水も止まる」
その言葉に、何人かが黙った。
嘉七自身が怪しまれる側を知っている。
だから、重さがあった。
喜助は、二人を見た。
助けられた。
そう思った瞬間、また怖くなる。
自分の水が、他の手も動かした。
良くも悪くも。
*
昼前、灰ヶ峰城の小部屋で、急ぎの評定が開かれた。
大広間ではない。
だが、空気は重い。
景胤、真木、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八。
さらに、迅と喜助、烈も控えている。
水桶の一件が、火定め二日目の始まりを変えた。
鷹見の前には、二つの報告が置かれている。
城の水桶近くに落ちた油気のある布。
村の飲み水の桶の蓋。
名を言わない男の証言。
どれも、まだ決め手ではない。
だが、重ねると形が見えてくる。
真木が言った。
「狙いは水そのものではないかもしれませぬ」
倉橋が頷く。
「水を止めれば、粥も遅れます。椀洗いも止まる。負傷者の手当ても乱れる」
坂部が続ける。
「水が止まれば、荷も止まる。人足が飲めねえ」
赤松弥八が鼻を鳴らす。
「火消し水も止まる。火を置く側からすりゃ、ありがてえ話だ」
黒羽が静かに言う。
「そして、水を見る者が疑われる」
その言葉で、部屋は静かになった。
景胤は、喜助を見た。
「喜助」
「はい」
「怖かったか」
喜助は、目を伏せた。
「怖かったです」
「何が」
「水が汚されたかもしれないことも怖かったです。でも、それより、自分の手が疑われるのが怖かったです」
その言葉は、小さかった。
だが、部屋の全員に届いた。
「俺、ちゃんと見てたつもりでした。でも、見てたって言っても、誰も見てないところがあったら、信じてもらえないかもしれないと思って」
喜助は手を握った。
「水桶、重いだけじゃなかったです」
景胤は、しばらく何も言わなかった。
やがて、鷹見へ言った。
「記録せよ」
鷹見が筆を持つ。
「火定めにて見つけた役目は、一人に背負わせぬ」
喜助が顔を上げた。
景胤は続けた。
「水を見る者には、水を共に見る者を置く。火を見る者にも、荷を見る者にも同じだ。一つの手を見つけたなら、その手を守る仕組みも作れ」
瀬川が深く頭を下げた。
「承知しました」
景胤の声は、昨日よりも苦かった。
「火を見つけるだけでは足りぬ」
真木が言う。
「火を狙う者がいます」
「いや」
景胤は首を横に振った。
「火を持つ手を狙う者がいる」
迅は、その言葉を聞いていた。
水を見る手。
火を見る目。
戻る足。
椀を渡す手。
荷を持つ膝。
それらが見つかり始めた途端、敵はそこを汚そうとしている。
景胤は迅へ視線を向けた。
「迅」
「はい」
「そなたは何を見る」
突然の問いだった。
迅は息を吸った。
水ではない。
火だけでもない。
人でもない。
今、見なければならないもの。
「手が止まるところです」
景胤の目が少し動いた。
「手が止まるところ」
「はい。水を渡す手。椀を渡す手。荷を持つ手。戻る足。撃つ前の目。そこが止まったら、道が崩れます」
迅は言いながら、自分の声が震えているのを感じた。
「敵は、そこを止めようとしていると思います」
赤松弥八が、ふっと息を吐く。
「火守の子らしい見方だな」
真木が言った。
「では、火定め二日目は続けますか」
部屋の空気がまた重くなった。
止めるか。
続けるか。
止めれば、安全かもしれない。
だが、止めれば、敵の狙い通りかもしれない。
続ければ、また何かが起きるかもしれない。
景胤は、ゆっくりと言った。
「続ける」
誰も声を出さなかった。
「ただし、変える。水も火も荷も、人も、一人で見させるな。疑いが出たら隠すな。隠せば疑心が育つ」
鷹見の筆が走る。
「疑いは記録せよ。だが、決めつけるな」
小夜の黒い石。
迅はそれを思い出した。
分からないものを、分かったことにしない。
村と城が、同じところへ来ている。
景胤は、さらに言った。
「その共に見る者を、添え手とする」
鷹見の筆が止まり、すぐに動いた。
添え手。
新しい言葉が帳面に入る。
「見張りではない。疑うためだけの目でもない」
景胤は、喜助を見た。
「役目を持つ手を、汚されぬよう守る手だ」
喜助は、何も言えなかった。
その言葉はありがたかった。
だが、軽くはなかった。
添え手がつくということは、自分の手を見てくれる者ができるということだ。
同時に、自分の手が一人では信用されきらないということでもある。
景胤も、それを分かっているようだった。
「添え手を置いても、疑いは消えぬ」
景胤は静かに言った。
「むしろ、見る目は増える。守るための目が、疑う目にもなる」
部屋の空気がさらに重くなった。
「それでも置く。手を一人で汚させるよりはよい」
瀬川が頭を下げた。
「現場に伝えます」
*
午後、火定めの広場は少し形を変えた。
水桶のそばには、喜助ともう一人。
椀の場には、太助と梅吉。
火を見る場には、嘉七と赤松弥八の配下。
荷の場には、藤吉と辰五郎。
戻る足の場には、烈と瀬川の若い配下。
一人で見ない。
一人で持たない。
一人で疑われない。
それは、簡単なようで難しかった。
二人にすれば、二人が揉める。
三人にすれば、誰が決めるかで迷う。
人を増やせば、手も増える。
手が増えれば、疑いも増える。
それでも、一人に背負わせるよりはいい。
喜助は、新しく汲んだ水を置いた。
隣の若い人足が蓋を見る。
「閉めた」
「見た」
喜助が言う。
「置く」
「見た」
「飲む人、こっち」
声はまだ少し震えている。
だが、朝よりは通る。
そこへ、一人の男が近づいた。
「本当に大丈夫なのか?」
喜助の顔が強ばる。
男の声には棘があった。
「朝の水は捨てたんだろう。何かあったんじゃないのか」
周囲の視線が集まる。
喜助の手が止まりかけた。
その時、隣の人足が言った。
「見ました」
男がその人足を見る。
「何を?」
「桶を洗うところ。水を汲むところ。蓋を閉めるところ。置くところ。俺も見ました」
喜助は、隣の人足を見た。
その人足は、少し緊張した顔で続けた。
「だから、何かあれば俺も言います」
男は何も言えなくなった。
喜助は、小さく息を吐いた。
一人ではない。
それだけで、手が少し動く。
迅は少し離れたところで、それを見ていた。
水は流れた。
止まらなかった。
だが、前より遅い。
確かに遅い。
疑いが入ると、すべてが遅くなる。
嘉七が火の場から言った。
「遅いな」
迅はそちらを見る。
嘉七は、火を見るために置かれた小さな焚き口を見ている。
「でも、止まってはいません」
迅が言う。
「止まらなきゃ勝ちか」
「分かりません」
「お前、そればっかりだな」
嘉七は笑った。
だが、その顔は少し疲れていた。
「俺も見られてる。火を見る目があるって言われたが、米のそばには置かれない。信用されてるのか、されてないのか分からん」
「両方だと思います」
「ひどい答えだ」
「でも、たぶんそれが本当です」
嘉七は黙った。
それから、小さく言った。
「両方持てってやつか」
迅は、瀬川の言葉を思い出した。
「はい」
嘉七は、焚き口の火を見た。
「重いな」
「はい」
「俺は、軽い方が好きだ」
「俺もです」
二人は少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
火の先に、煙が上がる。
白い煙。
まっすぐ上がる。
今は、低くない。
迅はそれを見た。
火を見る。
水を見る。
そして、手が止まるところを見る。
*
その頃、煤谷村では、烈が戻ってきていた。
城からの返事を、志乃と小夜へ伝えるためだった。
小夜は庭の石の前にいた。
志乃は井戸のそばにいる。
飲み水の桶は、もう空になっていた。
水は捨てた。
桶は洗い直した。
新しい水は、志乃と村の女の二人で汲んだ。
「城も同じだった」
烈が言った。
「油の匂いがする布が、水桶の近くに落ちてたって」
小夜は黒い石を一つ増やした。
「同じ」
「うん」
「でも、同じ人かは分からない」
「うん」
「同じ狙いかもしれない」
「うん」
烈は頷いた。
以前なら、分かったように言っていたかもしれない。
今は違う。
分からないものを、分からないまま運ぶ。
それが戻る役だと知り始めている。
志乃が言った。
「城はどうするの」
「続けるって」
「火定めを?」
「はい。でも、一人で見させないって。水も火も荷も、二人以上で」
志乃は、井戸の水面を見た。
「それがいい」
小夜は、石を動かした。
水の石の横に、もう一つ石を置く。
「一人じゃない水」
烈が聞く。
「そんな石もいる?」
「いる」
小夜は言った。
「一人の石は、倒れたら終わる」
志乃が、小夜の隣にしゃがんだ。
そして、家の前の戻る石の横にも、小さな石を置いた。
「戻る場所も、一人で守らない」
小夜は、それを見た。
「母上も石、増やしすぎ」
「そう?」
「うん」
「でも、必要でしょう」
小夜は少しだけ笑った。
「必要」
名を言わない男は、納屋の横でそれを見ていた。
昨日より、少し顔色が戻っている。
だが、まだ名は言わない。
男がぽつりと言った。
「水で揉めなかったのか」
志乃が答えた。
「揉めかけました」
「そうか」
「でも、止まりませんでした」
男は黙った。
小夜は、男の石を少しだけ動かした。
井戸からは遠い。
火からも遠い。
だが、昨日より少しだけ、戻る場所の石に近い。
男がそれに気づいた。
「俺の石か」
「うん」
「近づいたな」
「水の話をしたから」
「信用したのか」
「まだ」
小夜は答えた。
「でも、聞く場所には近づいた」
男は苦い顔をした。
「石は面倒だな」
「人の方が面倒」
男は、少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに咳に変わった。
山の方で、鳥が飛び立った。
小夜は顔を上げる。
煙はない。
だが、何もないことも見る。
*
夕方、灰ヶ峰城の広場には、朝よりも深い疲れが落ちていた。
火定め二日目は、大きく崩れなかった。
だが、軽くもなかった。
水は止まりかけた。
疑いは広がりかけた。
喜助の手は震えた。
村でも水桶の蓋がずれていた。
敵の姿は見えない。
だが、手が汚されかけた。
鷹見の帳面には、新しい項目が増えた。
手を守る仕組み。
疑いの扱い。
一人に背負わせぬこと。
風評の流れ。
景胤は、それを見ていた。
真木が言う。
「敵は、こちらの火定めを見ていますな」
「そうだな」
景胤は答えた。
「始めた途端に、そこを突かれた」
「やめますか」
真木の問いは、試すようなものではなかった。
本当に必要な問いだった。
景胤は、広場を見た。
水桶を片づける喜助。
その横にいる人足。
火の場で煙を見ている嘉七。
椀を洗う太助。
軽い荷を運ぶ男と、それを見る藤吉。
城門の方へ走る烈。
遠くの村で石を並べる小夜と志乃。
見つけた火は、もう戻せない。
見なかったことにはできない。
「やめぬ」
景胤は言った。
「ただし、変える」
真木は頷いた。
「変えながら続ける」
「そうだ」
景胤は、静かに息を吐いた。
「火定めは、火を探すものだと思っていた」
その声は小さかった。
「だが、火を探せば、その火を消そうとする者が現れる。火を持つ手を汚そうとする者も現れる」
真木は黙って聞いている。
「ならば、火だけではなく、手も守らねばならぬ」
景胤は、鷹見へ言った。
「明日より、役を見つけた者には、必ず添え手を置け」
「添え手」
「一人の役目に、一人の支えをつける。見張りではない。共に見る手だ」
鷹見が書く。
添え手。
新しい言葉が、帳面に増えた。
瀬川が深く頷く。
「現場にも伝えます」
景胤は、迅を見る。
「迅」
「はい」
「そなたの見るものも、増えたな」
迅は、広場を見る。
火。
水。
人。
手。
疑い。
止まりかけた流れ。
「はい」
「苦しいか」
「苦しいです」
景胤は頷いた。
「なら、忘れるな」
迅は、胸の奥でその言葉を受けた。
嫌を忘れるな。
怖さを忘れるな。
苦しさも、たぶん忘れてはいけない。
それがあるから、見えるものがある。
*
その夜、山の奥では小さな火が消えていた。
煙もない。
匂いも薄い。
鹿部市之助は、濡れた枝で土をならしていた。
その横に、若い男が座っている。
前より口数が少ない。
少し離れて、岩貫弥惣が立っていた。
「水は止まらなかったようです」
鹿部市之助が言った。
「止まらずともよい」
岩貫弥惣は答えた。
「遅くなればよい。疑えばよい。手が震えればよい」
若い男が小さく言う。
「それだけで、崩れるのですか?」
岩貫弥惣は、若い男を見た。
「道は、一つの大石で塞がるとは限らぬ」
落ち葉が風で動いた。
「小石が増えれば、人は足元を見る。足元を見れば、前を見るのが遅れる」
鹿部市之助が笑う。
「燧は石を並べるそうです」
「ならば、こちらも石を置く」
岩貫弥惣の声は低かった。
「疑いという石をな」
若い男は、黙って下を向いた。
自分がその石の一つになっていることを、分かっているのかもしれない。
鹿部市之助は、山の下を見た。
煤谷村も、灰ヶ峰城も、夜に沈んでいる。
だが、そこには火がある。
見える火。
見えない火。
そして、汚そうとすれば揺れる手がある。
岩貫弥惣は、さらに低く言った。
「次は、足だ」
鹿部市之助の笑みが止まった。
「戻る足、ですか」
「水は止まらぬ。ならば、知らせを遅らせる」
岩貫弥惣は、夜の道を見た。
「早く戻る足ほど、疑われた時に鈍る」
若い男は、顔を上げなかった。
森の奥で、何かが小さく鳴いた。
*
夜の終わり、迅は広場に一人で立っていた。
水桶は片づけられている。
火も落とされている。
木札だけが、夜露に濡れていた。
そこへ、喜助が戻ってきた。
「まだいたの?」
「うん」
「寝なよ」
「喜助も」
「俺は、水桶が気になって」
「同じだ」
「何が」
「俺も、火が気になってた」
喜助は、少し笑った。
「嫌な二人だな」
「うん」
喜助は、空の桶を一つ指で叩いた。
乾いた音がした。
「今日さ」
「うん」
「疑われるの、きつかった」
「うん」
「何もしてないって言っても、何もしてないって証明するの、難しいんだな」
迅は頷いた。
撃たなかったこと。
逃がしたこと。
水を汚していないこと。
どれも、証明は難しい。
けれど、記録しなければ消える。
見なければ、また同じところで崩れる。
「でもさ」
喜助は言った。
「一緒に見てくれる人がいたら、少しましだった」
「うん」
「一人にするなって、けっこう大事かも」
迅は、広場の木札を見た。
添え手。
まだ新しい言葉。
火定めで見つけた手を、汚させないための手。
「明日もある」
迅が言った。
「嫌だなあ」
「うん」
「でも、明日は桶の蓋、二人で見る」
「うん」
「それで、ちょっとはましか」
「たぶん」
「たぶんか」
喜助はため息をついた。
でも、逃げるとは言わなかった。
迅は夜の山を見た。
敵は、火を置くだけではなくなった。
水を疑わせる。
手を疑わせる。
役目そのものを鈍らせる。
火定めは、名もなき者たちの手を見つけた。
だからこそ、その手は狙われる。
迅は、自分の手を握った。
撃つ前に見る手。
まだ、何も撃っていない手。
それでも、もう汚されるかもしれない手。
夜明け前の空は、まだ黒い。
だが、山の端だけが少し薄くなり始めていた。
火は見えない。
煙も見えない。
それでも、迅は目を逸らさなかった。
見るべきものは、火だけではない。
火を持つ手。
水を守る手。
そして、その手を汚そうとする影だった。




