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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第25話】火定め

 朝の灰ヶ峰城(はいがみねじょう)には、人の声が集まっていた。


 戦の前の声ではない。


 勝ちを祝う声でもない。


 名を呼ばれるかもしれない者の声。


 呼ばれたくない者の声。


 呼ばれたいのに、それを顔に出せない者の声。


 腹が減った者の声。


 怖くて笑う者の声。


 何かが始まると知りながら、それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、まだ分からない者たちの声だった。


 城下の広場には、木札が立てられていた。


 米。


 荷。


 道。


 火。


 水。


 民。


 鉄砲。


 戻る足。


 負傷者。


 分からない者。


 その横に、鷹見が新しく作らせた役目帳(やくめちょう)が置かれている。


 まだ白い。


 白すぎるほどだった。


 迅は、その帳面を見て、胸の奥が少し重くなった。


 白い紙は、何でも書けそうに見える。


 だが、一度書けば、そこに残る。


 消せるようで、消えない。


 名前も。


 役も。


 できたことも。


 できなかったことも。


 逃がしたことも。


 救ったことも。


 広場の端には、触書(ふれがき)が掲げられていた。


 火定め(ひさだめ)は、武士を軽んじるものではない。


 百姓を飾るものでもない。


 戦の底で国を支える手を見落とさぬために行う。


 槍の者は槍を。


 米の者は米を。


 荷の者は荷を。


 道の者は道を。


 火の者は火を。


 水の者は水を。


 民の者は民を。


 同じ場に並べるのではない。


 同じ火を見る。


 その文字の前で、村人たちは足を止めた。


 読める者が、読めない者へ声に出して伝える。


 伝えるたびに、少しずつ意味が変わっていく。


「つまり、すぐ侍になるわけじゃないってことか?」


「でも、働き次第では扶持(ふち)も出るんだろう」


「なら、見てもらった方がいいのか?」


「見られたら、逃げられなくなるぞ」


「女衆も見るって、本気か?」


「子どもまで使う気か?」


「いや、使うんじゃない。見るって書いてある」


「見るのと使うのは、何が違うんだ?」


 声が重なった。


 水のように集まり、濁っていく。


 喜助は、その声を聞きながら、水桶を両手で抱えていた。


「……俺、やっぱり帰っていい?」


 迅は横を見る。


「駄目だと思う」


「だよなあ」


 喜助は、水桶を置こうとして、また持ち上げた。


 置く場所を迷っている。


 昨日なら、広場の端に置いて終わりだった。


 だが、今は違う。


 水を置けば、人が寄る。


 人が寄れば、道が塞がる。


 道が塞がれば、荷が止まる。


 荷が止まれば、火薬箱も負傷者も通れない。


 水桶は、ただの水桶ではなくなっていた。


「そこに置くのか」


 坂部が声をかけた。


 喜助はびくりとする。


「いや、置こうと思ったんですけど」


「置けばどうなる」


「人が寄ります」


「寄ると」


「道が詰まります」


「なら、どこだ」


「それを今、考えてるんです」


 喜助は半分泣きそうな顔で言った。


 坂部は笑わなかった。


「考えろ」


「はい」


「考えて置け」


「はい」


「置いたあとも見ろ」


「それが一番嫌です」


 それでも喜助は、水桶を持ったまま広場を見た。


 井戸。


 日陰。


 木札。


 米の小袋。


 負傷者を寝かせる戸板(といた)


 鉄砲衆のいる場所。


 子どもが集まりそうな場所。


 城門へ抜ける道。


 喜助は、ゆっくり歩いた。


 そして、水桶を三つに分けた。


 一つは井戸のそばではなく、少し離れた木陰。


 一つは負傷者の戸板の近く。


 ただし、戸板の足元ではない。


 一つは広場の端、火を見る場所から少し離れたところ。


 迅は、それを見ていた。


「そこ?」


 思わず聞いた。


 喜助は振り向く。


「たぶん」


「たぶん?」


「飲む水は人が来る。怪我人用は動かせない。火消し用は近すぎると人が触る。遠すぎると間に合わない」


「うん」


「だから、たぶんここ」


 喜助は言ってから、少し肩を落とした。


「間違ってたらどうしよう」


 迅は答えられなかった。


 正しいかどうかなど、始まる前から分からない。


 分からないまま置く。


 置いてから見る。


 そして、間違っていたら動かす。


 小夜なら、石を動かすのかもしれない。


 喜助は水桶を置いた。


 鷹見の筆が動いた。


 水の置き場を見る。


 置いた後、人の寄りを確認。


 まだ仮役(かりやく)


 喜助はその文字を見て、顔をしかめた。


「仮でも嫌だなあ」


 迅は、少しだけ笑った。


 その時だった。


「おい、こっちも見ろ!」


 広場の反対側で、男の声が上がった。


 中年の百姓が、腕まくりをして前へ出ている。


「水だの椀だのを見るなら、俺の鍬も見ろ。畑の水の通し方なら、そこらの若い者より分かる」


 その後ろで、別の男が言った。


「俺もだ。木を伐れる。炭も焼ける」


「先に俺だ!」


「いや、俺の方が!」


 列がわずかに乱れた。


 木札の前に人が寄る。


 水桶の前にも人が寄る。


 喜助の顔が青くなる。


「ほら! 寄った!」


 坂部が叫んだ。


「水桶を動かすな。人を動かせ!」


 喜助が慌てて手を上げた。


「水は逃げません! 人が一歩下がってください!」


 声は少し裏返った。


 だが、届いた。


 迅も思わず前へ出る。


「道を空けてください!」


 瀬川がそれに続く。


「見る順は逃げぬ。詰まれば、誰も見られぬ」


 雑踏(ざっとう)が、少しずつほどける。


 景胤は、その様子を上座から見ていた。


 火定めは、まだ始まったばかりだ。


 それなのに、もう人を揺らしている。


 見られたい者。


 見られたくない者。


 飯が欲しい者。


 役が欲しい者。


 名が欲しい者。


 名など要らぬが、捨てられたくない者。


 それらが、同じ広場にいる。


 景胤の顔に、わずかな痛みが浮かんだ。


     *


 広場の中央では、荷の見定め(みさだめ)が始まっていた。


 坂部が荷台の前に立つ。


 辰五郎は座っていた。


 座らされていた、と言った方が近い。


 肩に巻いた布はまだ厚い。


 片腕は吊ったままだ。


 それでも、目だけは忙しく動いている。


 藤吉はその隣にいる。


 膝を庇っているが、今日は荷を持たない。


 見る側に回された。


 本人は落ち着かない顔をしている。


「持てる者は前へ」


 坂部が言った。


 人足たちが数人、前へ出る。


 その中には、明らかに無理をしている者もいた。


 背を伸ばしすぎている。


 顎が上がっている。


 腕を大きく見せようとしている。


 藤吉が、小さく言った。


「あの人、やめた方がいいです」


 坂部が見る。


「どれだ」


「右から二人目」


 辰五郎が目を細めた。


「理由は」


「足が前に出すぎています。膝が怖いんだと思います」


 その男は、藤吉の声が聞こえたのか顔を赤くした。


「何だと。俺は持てる」


 藤吉の肩が少しすくむ。


 だが、下がらなかった。


「軽い荷なら、です」


「馬鹿にしてるのか」


「違います」


「なら、持たせろ」


 男が荷に手を伸ばす。


 坂部が止めた。


「軽い荷からだ」


「そんなものでは見定めにならん」


 男は声を荒げた。


「重い荷を持ってこそだろう」


 広場の周りから視線が集まる。


 火定めを見るために来た者たちは、こういう場面を待っていたのかもしれない。


 誰が選ばれるのか。


 誰が恥をかくのか。


 誰が役につくのか。


 雑踏の目は、時に敵より鋭い。


 辰五郎が、低く言った。


「見栄で持つ荷は落ちる」


 男は辰五郎を睨む。


「座ってる奴に言われたくない」


 空気が固まった。


 坂部の目が険しくなる。


 だが、辰五郎は笑った。


「座ってるから見えるんだよ」


 男は言葉に詰まる。


「立ってる時は、自分が強いと思いたくなる。座って見てりゃ、足が嘘ついてるのが分かる」


 藤吉が続けた。


「軽い荷を持って、何度か歩いてください。それで膝が大丈夫なら、少し重くできます」


「それでは、俺は弱いと書かれるのか」


 男の声には怒りだけではなかった。


 怖さがあった。


 弱いと書かれる。


 それが怖い。


 火定めは、役目を見つける。


 だが、同時に、できないことも見られる。


 その怖さは、藤吉にも分かるのだろう。


 藤吉は、少しだけ目を伏せた。


「できないと書かれるのは、嫌です」


 男が黙る。


「でも、できると書かれて潰れる方が、もっと嫌です」


 辰五郎が、横で小さく頷いた。


 坂部は、男に軽い荷を渡した。


「まず歩け」


 男はしばらく荷を見ていた。


 それから、受け取った。


 軽い荷を担ぎ、五歩歩く。


 三歩目で、右膝がわずかに揺れた。


 藤吉が見た。


 辰五郎も見た。


 男自身も気づいた。


 顔が歪む。


「……重い荷は、今日はやめろ」


 坂部が言った。


 男は悔しそうに歯を食いしばった。


 だが、荷を下ろした。


「次は」


「膝を戻してからだ」


「次は、持てるか」


 坂部は藤吉を見る。


 藤吉は男の足をもう一度見た。


「軽い荷を二度、崩さず歩けたら」


 男は藤吉を見た。


 さっきの怒りは、まだ残っている。


 だが、少し違うものも混じっていた。


「覚えておけよ」


「はい」


「俺は、持てるようになる」


「はい」


 藤吉は頷いた。


 鷹見の筆が動く。


 重荷は不可。


 軽荷より始める。


 膝に揺れあり。


 見栄強し。


 再見定め。


 男はその文字を見て、顔をしかめた。


 しかし、逃げなかった。


     *


 広場の西側では、民の流れを見る試しが行われていた。


 蓮昭が浄火寺(じょうかじ)から来ていた。


 寺の門前をまるごと動かすわけにはいかない。


 だから、広場に仮の門を作った。


 縄を張り、二本の柱を立てる。


 そこを通る者を、歩ける者、歩けない者、子ども連れ、水が必要な者に分ける。


 梅吉(うめきち)が子を抱いている。


 その横に太助(たすけ)がいた。


 椀を抱えている。


 あの時、椀を奪った子だ。


 今は、椀を配る側に立たされている。


 顔は真剣だった。


 ただ、真剣すぎて、少し怖い顔になっている。


「そんな顔で渡すな」


 嘉七(かしち)が横から言った。


 太助(たすけ)はむっとする。


「うるさい」


「椀をもらう方が悪いことしてる気分になる」


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


「知らん」


「知らないのに言うな」


 嘉七(かしち)は肩をすくめた。


 そのやり取りを、蓮昭は黙って見ていた。


 嘉七(かしち)は、火を見た者として呼ばれている。


 だが、同時に不満を煽った者でもある。


 庄吾(しょうご)は、少し離れたところにいた。


 縄の内側ではない。


 外側でもない。


 瀬川の指示で、見える場所に座らされている。


 火や油に近づけない。


 けれど、耳だけは使わせる。


 煙の向き。


 人のざわめき。


 その変化を聞くためだった。


 庄吾(しょうご)は、ずっと下を向いている。


 迅はそれを見て、胸が少しざわついた。


 生かした男。


 撃たなかった男。


 だが、安心できる男ではない。


 梅吉(うめきち)が、子を抱いたまま列を見ていた。


「子ども連れはこっちだ」


 梅吉(うめきち)の声は荒い。


 だが、通る。


 以前は不満で荒れていた声が、今は人を分ける声になっている。


 太助(たすけ)が椀を渡す。


「一つずつ」


 小さな子が、もう一つ欲しそうに手を伸ばした。


 太助(たすけ)の手が止まる。


 自分も、母のために椀を奪った。


 欲しい気持ちは分かる。


 だから止まる。


 嘉七(かしち)が横から言った。


「渡したら、後ろが崩れるぞ」


 太助(たすけ)は唇を噛む。


 それから、子に言った。


「あとで、残ったら」


「今ほしい」


「分かる」


 太助(たすけ)は、椀を抱える手に力を入れた。


「でも、今は一つ」


 子は泣きそうになった。


 梅吉(うめきち)がしゃがむ。


「こっちで食べろ。こぼすなよ」


 子を少し横へ誘導する。


 列は詰まらなかった。


 蓮昭が静かに頷く。


「盗ませぬ場を作る」


 その言葉を、鷹見が記録する。


 太助(たすけ)


 椀を守る。


 欲しい者の目を知る。


 ただし、情に揺れる。


 太助(たすけ)は、その文字を見て少し顔を曇らせた。


「情に揺れるって、悪いのか?」


 蓮昭が答えた。


「悪くはない」


「じゃあ、なんで書くんだ?」


「揺れる者を、揺れてはならぬ場所へ一人で置かぬためだ」


 太助(たすけ)は黙った。


 それから、小さく頷いた。


 嘉七(かしち)がぼそりと言う。


「俺はどこに置かれるんだ」


 瀬川が近くで答えた。


「火のそば。ただし、米のそばではない」


 嘉七(かしち)は苦い顔をした。


「信用されてねえな」


「信用しすぎず、疑いすぎずだ」


「便利な言葉だ」


「便利ではない。面倒な言葉だ」


 嘉七(かしち)は、少しだけ笑った。


 その時、縄の外で一人の女が声を上げた。


「うちの子も見てください」


 腕を引かれている子がいる。


 まだ十にもならない。


 痩せている。


 目が大きい。


「この子は走れます。戻る役でも、水でも、何でもします。見てもらえれば、飯がもらえるのでしょう」


 広場が静まった。


 子は、母の手を握っている。


 何が起きているのか分かっていない顔だった。


 女の顔は必死だった。


 狼狽(ろうばい)ではない。


 飢えに追われた必死さだった。


 火定めの噂。


 見られれば飯が出る。


 役につけば扶持が出る。


 それが、この女をここへ押し出している。


 迅の胸が詰まった。


 景胤が立ち上がった。


 広場の空気が一瞬で変わる。


 女は、殿の姿を見て膝をつこうとした。


 景胤が手で止める。


「立っていよ」


 女は震えながら立った。


 景胤は子を見た。


 それから、女を見た。


「火定めは、腹を釣るものではない」


 女の顔が白くなる。


「申し訳……」


「責めておらぬ」


 景胤の声は静かだった。


「腹が減れば、人はそうする。子を差し出してでも、飯を得ようとする。それを責める国であってはならぬ」


 倉橋が、少しだけ顔を伏せた。


 米を見る者として、その言葉は重い。


 景胤は続ける。


「倉橋」


「はっ」


「火定めの場で、飯を餌にするな。見る者にも、見られぬ者にも、粥を出せ」


 倉橋はすぐに答えた。


「承知しました」


「蓮昭」


「はい」


浄火寺(じょうかじ)とも分けよ。役を欲しがる者と、飯を欲しがる者を混ぜるな」


「承知」


 景胤は、女へ向き直った。


「その子を、今は走らせぬ」


 女の顔が崩れかける。


「ですが」


「まず食わせよ」


 景胤は言った。


「走るかどうかは、腹が満ちてから見る」


 女は、何も言えなかった。


 子は、ただ景胤を見ている。


 その小さな手を、梅吉(うめきち)がそっと取った。


「こっちだ」


 太助(たすけ)が椀を持って走りかける。


 蓮昭が止める。


「走るな」


 太助(たすけ)は足を止めた。


 それから、ゆっくり歩いた。


 椀はこぼれなかった。


 鷹見の筆が動く。


 火定め。


 飢えを試しに用いぬこと。


 迅は、その文字を見ていた。


 火を見つける。


 役を見つける。


 でも、その前に、人を人として立たせる。


 それがなければ、火定めは人を集める罠になる。


 景胤の顔は厳しかった。


 自分の始めた制度が、もう人を揺らしている。


 その痛みを、景胤も見ていた。


     *


 午後、迅は赤松弥八に呼ばれた。


 広場の端に、簡単な鉄砲の場が作られている。


 もちろん、撃つわけではない。


 今日も空筒(からづつ)だ。


 ただし、昨日とは違う。


 的の前に、縄が張られている。


 縄の向こうに、水桶。


 さらに後ろに、戸板。


 右手には、荷台。


 左手には、仮の門。


 人が動いている。


 鉄砲を構えるには、あまりにも邪魔なものが多い。


 赤松弥八は言った。


「撃てる場所を探せ」


 迅は鉄砲を見た。


 次に、広場を見る。


 的はある。


 だが、的の後ろに人が通る。


 左には水桶。


 右には荷台。


 銃口を少し動かせば、誰かの足が入る。


 今のままなら、撃てない。


「撃てません」


 迅は言った。


 真下兵庫(ましたひょうご)がすぐに言う。


「また撃てぬか」


 迅は唇を噛んだ。


 また。


 その言葉は刺さった。


 だが、赤松弥八は何も言わない。


 迅は、もう一度見た。


 撃てない。


 それだけで終われば、昨日と同じだ。


 撃てないなら、どうすれば撃てるのか。


 的を動かすのか。


 人を動かすのか。


 水桶を動かすのか。


 撃つ者が動くのか。


 迅は、自分の足元を見た。


 少し右に下がれば、荷台が邪魔になる。


 左に動けば、水桶に近すぎる。


 前に出れば、仮の門の列が射線に入る。


 後ろへ下がれば、土手が的の後ろに入る。


「二歩、後ろです」


 迅は言った。


 赤松弥八の目が動く。


「誰が」


「撃つ者が。二歩後ろへ下がれば、的の後ろが土手になります。水桶も射線(しゃせん)から外れます」


「他」


「仮の門の列を少し止める必要があります。でも止めるのは一息だけ。長く止めると、列が詰まります」


 真下兵庫(ましたひょうご)が黙った。


 迅は続けた。


「水桶は動かさない方がいいです。動かすと、人が水を追います」


 赤松弥八が、喜助の方を見た。


 喜助は遠くで水桶を抱え、目を丸くしている。


「聞いたか、水桶の小僧」


「聞こえてますけど、その呼び方やめてください!」


 少しだけ笑いが起きた。


 だが、赤松弥八はすぐに迅へ戻る。


「撃てるように場を作る。撃たぬだけではねえ」


「はい」


「撃たぬ目は、撃つ場も作れ」


 迅は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 撃たぬだけではない。


 撃てる場所を作る。


 守るために、撃たない。


 守るために、撃てるようにもする。


 それは、もっと怖かった。


 鷹見が、木札に筆を置いた。


 撃つ前に見る者。


 場を整え、撃てる場所を探す。


 迅は、その文字を見た。


 胸の奥が詰まった。


 その名が、少しずつ自分に近づいてくる。


 昨日までは、まだ遠い言葉だった。


 今は違う。


 帳面に書かれている。


 人が見ている。


 次も求められる。


 撃てないと口にするだけでは、もう足りない。


 撃てるように場を整えることまで、求められている。


 迅は、息を吸った。


 うまく吸えなかった。


 真下兵庫(ましたひょうご)が低く言った。


「今の答えなら、遅くはない」


 迅は、少し驚いて真下兵庫(ましたひょうご)を見る。


 真下兵庫(ましたひょうご)は、視線を逸らした。


「少しは、だ」


 赤松弥八が笑う。


「素直に褒めると死ぬのか」


「死にませんが、調子に乗ります」


「こいつは乗らねえよ。怖がりだからな」


 迅は何も言えなかった。


 調子には乗らない。


 怖いから。


 ただ、昨日より少しだけ、見る場所が増えた。


     *


 日が傾き始めた頃、烈が戻ってきた。


 朝から煤谷村(すすたにむら)と城を何度も往復している。


 顔は赤い。


 息は荒い。


 それでも、足は止まっていない。


 黒羽が、城門の横で待っていた。


「報告」


 烈は、すぐに口を開きかけた。


 だが、一度止まった。


 深く息を吸う。


 小夜に言われた通り、変わったところだけを思い出す。


「名を言わない男は、まだ納屋(なや)の横にいます。逃げていません。水は飲みました。火には近づけていません。包みは見えるところに置いています」


 黒羽は頷く。


「続けろ」


「山の煙は、朝より薄いです。でも、小夜は赤い石の横に黒い石を置いたままです」


「理由は」


「飯の煙にしては、低かったからです」


「他」


「男の草履についた赤土と、山の煙の方角が、少し合うかもしれないと言っていました」


 黒羽の目が鋭くなる。


「少し、か」


「はい。小夜は、分からないものを分かったことにしないと言っていました」


 黒羽は、ほんのわずかに口元を動かした。


「よい」


 烈の顔が明るくなる。


 だが、黒羽はすぐに言った。


「喜ぶな。まだ何も分かっていない」


「はい」


「だが、分からぬものを分からぬまま持ち帰った。それはよい」


 烈は、今度は静かに頷いた。


「はい」


 黒羽の後ろには、八瀬隼人(やせはやと)がいた。


 若い物見は、烈の報告を聞いていた。


 八瀬隼人(やせはやと)は、少し悔しそうだった。


 子どもの石の方が、山の煙を残している。


 そう感じたのかもしれない。


 黒羽が八瀬隼人(やせはやと)を見た。


「明朝、村へ行く」


「はっ」


「石を笑うな」


「笑いませぬ」


「なら、石に頼りすぎるな」


 八瀬隼人(やせはやと)は背を正した。


「承知しました」


 烈は、そのやり取りを聞きながら、足の裏の痛みを感じていた。


 戻る役も、軽くない。


 走ればいいだけではない。


 聞く。


 選ぶ。


 覚える。


 崩さず運ぶ。


 そして、また戻る。


 烈は、胸の中で小夜の石を思い出した。


 細い枝。


 折れてはいけない戻る足。


     *


 夕方、火定めの最初の日は終わった。


 広場に残ったのは、足跡と水の跡だった。


 米粒がいくつか落ちている。


 藁くず。


 泥。


 割れなかった椀。


 軽い荷を担いだ男の足跡。


 子どもが食べた粥の跡。


 水桶の周りにできた人の輪。


 どれも、戦の跡ではない。


 けれど、戦に近いものだった。


 鷹見は帳面を閉じなかった。


 まだ墨が乾いていない。


 景胤は、その前に立っている。


 真木、瀬川、倉橋、坂部、黒羽、赤松弥八、蓮昭も集まっていた。


 迅、喜助、烈、辰五郎、藤吉も少し離れて控えている。


 景胤が言った。


「初日は」


 誰もすぐには答えなかった。


 成功です、と言える者はいない。


 失敗です、とも言えない。


 倉橋が口を開く。


「飯を欲しがる者と、役を欲しがる者が混ざりました」


 蓮昭が頷く。


「飢えを見ずに火を見ることはできませぬ」


 坂部が言う。


「荷を持ちたい者ほど、膝を隠します」


 黒羽が続ける。


「分からぬ報告を嫌がる者もおります。分からぬまま持ち帰る役を、軽く見てはなりません」


 赤松弥八が言った。


「撃たぬだけでは足りねえ。撃てる場を作る目がいる」


 瀬川は、最後に言った。


「火定めは、始めただけで人を揺らします」


 景胤は、目を伏せた。


「そうだな」


 その声には、疲れがあった。


 だが、後悔だけではなかった。


「火を見つけるつもりで、腹を見た。膝を見た。恐れを見た。見栄を見た。不服を見た」


 景胤は、広場を見渡した。


「火だけが、見えるわけではないな」


 真木が静かに言う。


「火があれば、影も出ます」


 景胤は頷いた。


「ならば、影も記録せよ」


 鷹見が頭を下げる。


「はっ」


「火定めは、飾りにするな。褒めるためだけに使うな。使い潰すためにも使うな」


 景胤の声が、夕方の広場に落ちた。


「見つけた火を、どこに置くかまで見る」


 迅は、その言葉を聞いていた。


 火を見つけるだけではない。


 火を置く場所。


 水を置く場所。


 人を置く場所。


 名を置く場所。


 それを間違えれば、守るための火も人を焼く。


 喜助が小さく言った。


「……水桶も、置き場所間違えたら揉めるしね」


 迅は頷いた。


「うん」


 辰五郎が藤吉へ言った。


「人も同じだ」


「はい」


「置き場所を間違えると潰れる」


 藤吉は、自分の膝を見た。


「はい」


 烈は、城門の向こうを見る。


 煤谷村(すすたにむら)へ戻る道が、夕闇に沈み始めている。


 あの道の先には、小夜の石がある。


 志乃の戻る場所がある。


 名を言わない男もいる。


 まだ分からない煙もある。


 火定めは、広場で終わっていない。


 むしろ、広場の外で始まっている。


     *


 その夜、山の奥で、火が一つ消された。


 消したのは、鹿部市之助(ししべいちのすけ)だった。


 横には、若い男が座っている。


 逃げた男だ。


 顔色は悪い。


 手にはまだ、煤がついている。


 少し離れた木の根元に、岩貫弥惣(いわぬきやそう)が立っていた。


 夜の中でも、その目は冷たく見えた。


「始めたか」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)が言った。


「はい。火定め、とか」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が答える。


「百姓も人足も女も子どもも、見るそうです」


「よいことだ」


 若い男が驚いたように顔を上げる。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)は笑った。


「よいこと、ですか?」


「見れば、迷う」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は静かに言った。


「見えぬものは斬れる。見えるものは迷う。名がつけば、捨てにくくなる」


 風が、消えた火の灰を揺らした。


「燧は、手を見ると言ったな」


「はい」


「なら、手を汚せ」


 若い男の喉が鳴った。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)の笑みが、少し深くなる。


「手を?」


「水を運んだ手も、椀を渡した手も、戻る足も、一度疑われれば鈍る」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、山の下を見る。


 煤谷村(すすたにむら)の方角は暗い。


 だが、人の暮らしの火が、かすかにある。


「鈍れば、道は詰まる」


 それだけ言った。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)は、笑ったまま頭を下げる。


「承知しました」


 若い男は震えていた。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が、その肩をまた叩く。


「怖がるな。怖がるなら、使われる側だ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、ゆっくりと背を向けた。


「次は、偽り火(いつわりび)では足りぬ」


 その言葉だけを残して、山の奥へ消える。


 夜の森に、火の匂いはなかった。


 だが、消したはずの火が、まだどこかで燻っているようだった。


     *


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の広場では、最後の水桶が片づけられていた。


 喜助が、空になった桶を持ち上げる。


「重い時も嫌だけど、空でも嫌だな」


 迅が言った。


「何が」


「空だと、足りなかった気がする」


 喜助は桶の底を見た。


「でも、余ったら余ったで、置き場所が悪かった気がする」


「水って面倒だな」


「火よりはましでしょ」


 迅はすぐには答えなかった。


 火。


 水。


 どちらも置き場所を間違えれば、人を動かす。


 迅は、夕方に鷹見が書いた木札を思い出した。


 撃つ前に見る者。


 場を整え、撃てる場所を探す。


 その横に、まだ余白があった。


 きっと、そこにはこれから増えていく。


 できたこと。


 できなかったこと。


 守ったもの。


 逃がしたもの。


 怖かったこと。


 またやらなければならないこと。


 喜助が水桶を肩に担ぎ直す。


「明日もあるのかな」


「あると思う」


「嫌だなあ」


「うん」


「でも、今日の子、粥食べられたな」


「うん」


「じゃあ、まあ……明日も置くか」


 喜助は、そう言って歩き出した。


 迅は、その背中を見た。


 水桶を持つ肩。


 嫌がりながらも逃げない背中。


 それも、火定めで見つかった火なのかもしれない。


 けれど、火はきれいなものだけではなかった。


 腹。


 見栄。


 不服。


 怖さ。


 嘘。


 それらも、同じ場所に照らし出す。


 迅は夜の山を見た。


 どこかで、敵もこちらを見ている。


 火定めが始まった。


 名もなき者たちの手を、国が見始めた。


 だが、その手を汚そうとする者もいる。


 守るためには、もっと見なければならない。


 見たいものではなく。


 見るべきものを。


 迅は、自分の手を握った。


 まだ、火の匂いが残っている気がした。


 そして、その火はもう、城の中だけのものではなかった。

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