【第25話】火定め
朝の灰ヶ峰城には、人の声が集まっていた。
戦の前の声ではない。
勝ちを祝う声でもない。
名を呼ばれるかもしれない者の声。
呼ばれたくない者の声。
呼ばれたいのに、それを顔に出せない者の声。
腹が減った者の声。
怖くて笑う者の声。
何かが始まると知りながら、それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、まだ分からない者たちの声だった。
城下の広場には、木札が立てられていた。
米。
荷。
道。
火。
水。
民。
鉄砲。
戻る足。
負傷者。
分からない者。
その横に、鷹見が新しく作らせた役目帳が置かれている。
まだ白い。
白すぎるほどだった。
迅は、その帳面を見て、胸の奥が少し重くなった。
白い紙は、何でも書けそうに見える。
だが、一度書けば、そこに残る。
消せるようで、消えない。
名前も。
役も。
できたことも。
できなかったことも。
逃がしたことも。
救ったことも。
広場の端には、触書が掲げられていた。
火定めは、武士を軽んじるものではない。
百姓を飾るものでもない。
戦の底で国を支える手を見落とさぬために行う。
槍の者は槍を。
米の者は米を。
荷の者は荷を。
道の者は道を。
火の者は火を。
水の者は水を。
民の者は民を。
同じ場に並べるのではない。
同じ火を見る。
その文字の前で、村人たちは足を止めた。
読める者が、読めない者へ声に出して伝える。
伝えるたびに、少しずつ意味が変わっていく。
「つまり、すぐ侍になるわけじゃないってことか?」
「でも、働き次第では扶持も出るんだろう」
「なら、見てもらった方がいいのか?」
「見られたら、逃げられなくなるぞ」
「女衆も見るって、本気か?」
「子どもまで使う気か?」
「いや、使うんじゃない。見るって書いてある」
「見るのと使うのは、何が違うんだ?」
声が重なった。
水のように集まり、濁っていく。
喜助は、その声を聞きながら、水桶を両手で抱えていた。
「……俺、やっぱり帰っていい?」
迅は横を見る。
「駄目だと思う」
「だよなあ」
喜助は、水桶を置こうとして、また持ち上げた。
置く場所を迷っている。
昨日なら、広場の端に置いて終わりだった。
だが、今は違う。
水を置けば、人が寄る。
人が寄れば、道が塞がる。
道が塞がれば、荷が止まる。
荷が止まれば、火薬箱も負傷者も通れない。
水桶は、ただの水桶ではなくなっていた。
「そこに置くのか」
坂部が声をかけた。
喜助はびくりとする。
「いや、置こうと思ったんですけど」
「置けばどうなる」
「人が寄ります」
「寄ると」
「道が詰まります」
「なら、どこだ」
「それを今、考えてるんです」
喜助は半分泣きそうな顔で言った。
坂部は笑わなかった。
「考えろ」
「はい」
「考えて置け」
「はい」
「置いたあとも見ろ」
「それが一番嫌です」
それでも喜助は、水桶を持ったまま広場を見た。
井戸。
日陰。
木札。
米の小袋。
負傷者を寝かせる戸板。
鉄砲衆のいる場所。
子どもが集まりそうな場所。
城門へ抜ける道。
喜助は、ゆっくり歩いた。
そして、水桶を三つに分けた。
一つは井戸のそばではなく、少し離れた木陰。
一つは負傷者の戸板の近く。
ただし、戸板の足元ではない。
一つは広場の端、火を見る場所から少し離れたところ。
迅は、それを見ていた。
「そこ?」
思わず聞いた。
喜助は振り向く。
「たぶん」
「たぶん?」
「飲む水は人が来る。怪我人用は動かせない。火消し用は近すぎると人が触る。遠すぎると間に合わない」
「うん」
「だから、たぶんここ」
喜助は言ってから、少し肩を落とした。
「間違ってたらどうしよう」
迅は答えられなかった。
正しいかどうかなど、始まる前から分からない。
分からないまま置く。
置いてから見る。
そして、間違っていたら動かす。
小夜なら、石を動かすのかもしれない。
喜助は水桶を置いた。
鷹見の筆が動いた。
水の置き場を見る。
置いた後、人の寄りを確認。
まだ仮役。
喜助はその文字を見て、顔をしかめた。
「仮でも嫌だなあ」
迅は、少しだけ笑った。
その時だった。
「おい、こっちも見ろ!」
広場の反対側で、男の声が上がった。
中年の百姓が、腕まくりをして前へ出ている。
「水だの椀だのを見るなら、俺の鍬も見ろ。畑の水の通し方なら、そこらの若い者より分かる」
その後ろで、別の男が言った。
「俺もだ。木を伐れる。炭も焼ける」
「先に俺だ!」
「いや、俺の方が!」
列がわずかに乱れた。
木札の前に人が寄る。
水桶の前にも人が寄る。
喜助の顔が青くなる。
「ほら! 寄った!」
坂部が叫んだ。
「水桶を動かすな。人を動かせ!」
喜助が慌てて手を上げた。
「水は逃げません! 人が一歩下がってください!」
声は少し裏返った。
だが、届いた。
迅も思わず前へ出る。
「道を空けてください!」
瀬川がそれに続く。
「見る順は逃げぬ。詰まれば、誰も見られぬ」
雑踏が、少しずつほどける。
景胤は、その様子を上座から見ていた。
火定めは、まだ始まったばかりだ。
それなのに、もう人を揺らしている。
見られたい者。
見られたくない者。
飯が欲しい者。
役が欲しい者。
名が欲しい者。
名など要らぬが、捨てられたくない者。
それらが、同じ広場にいる。
景胤の顔に、わずかな痛みが浮かんだ。
*
広場の中央では、荷の見定めが始まっていた。
坂部が荷台の前に立つ。
辰五郎は座っていた。
座らされていた、と言った方が近い。
肩に巻いた布はまだ厚い。
片腕は吊ったままだ。
それでも、目だけは忙しく動いている。
藤吉はその隣にいる。
膝を庇っているが、今日は荷を持たない。
見る側に回された。
本人は落ち着かない顔をしている。
「持てる者は前へ」
坂部が言った。
人足たちが数人、前へ出る。
その中には、明らかに無理をしている者もいた。
背を伸ばしすぎている。
顎が上がっている。
腕を大きく見せようとしている。
藤吉が、小さく言った。
「あの人、やめた方がいいです」
坂部が見る。
「どれだ」
「右から二人目」
辰五郎が目を細めた。
「理由は」
「足が前に出すぎています。膝が怖いんだと思います」
その男は、藤吉の声が聞こえたのか顔を赤くした。
「何だと。俺は持てる」
藤吉の肩が少しすくむ。
だが、下がらなかった。
「軽い荷なら、です」
「馬鹿にしてるのか」
「違います」
「なら、持たせろ」
男が荷に手を伸ばす。
坂部が止めた。
「軽い荷からだ」
「そんなものでは見定めにならん」
男は声を荒げた。
「重い荷を持ってこそだろう」
広場の周りから視線が集まる。
火定めを見るために来た者たちは、こういう場面を待っていたのかもしれない。
誰が選ばれるのか。
誰が恥をかくのか。
誰が役につくのか。
雑踏の目は、時に敵より鋭い。
辰五郎が、低く言った。
「見栄で持つ荷は落ちる」
男は辰五郎を睨む。
「座ってる奴に言われたくない」
空気が固まった。
坂部の目が険しくなる。
だが、辰五郎は笑った。
「座ってるから見えるんだよ」
男は言葉に詰まる。
「立ってる時は、自分が強いと思いたくなる。座って見てりゃ、足が嘘ついてるのが分かる」
藤吉が続けた。
「軽い荷を持って、何度か歩いてください。それで膝が大丈夫なら、少し重くできます」
「それでは、俺は弱いと書かれるのか」
男の声には怒りだけではなかった。
怖さがあった。
弱いと書かれる。
それが怖い。
火定めは、役目を見つける。
だが、同時に、できないことも見られる。
その怖さは、藤吉にも分かるのだろう。
藤吉は、少しだけ目を伏せた。
「できないと書かれるのは、嫌です」
男が黙る。
「でも、できると書かれて潰れる方が、もっと嫌です」
辰五郎が、横で小さく頷いた。
坂部は、男に軽い荷を渡した。
「まず歩け」
男はしばらく荷を見ていた。
それから、受け取った。
軽い荷を担ぎ、五歩歩く。
三歩目で、右膝がわずかに揺れた。
藤吉が見た。
辰五郎も見た。
男自身も気づいた。
顔が歪む。
「……重い荷は、今日はやめろ」
坂部が言った。
男は悔しそうに歯を食いしばった。
だが、荷を下ろした。
「次は」
「膝を戻してからだ」
「次は、持てるか」
坂部は藤吉を見る。
藤吉は男の足をもう一度見た。
「軽い荷を二度、崩さず歩けたら」
男は藤吉を見た。
さっきの怒りは、まだ残っている。
だが、少し違うものも混じっていた。
「覚えておけよ」
「はい」
「俺は、持てるようになる」
「はい」
藤吉は頷いた。
鷹見の筆が動く。
重荷は不可。
軽荷より始める。
膝に揺れあり。
見栄強し。
再見定め。
男はその文字を見て、顔をしかめた。
しかし、逃げなかった。
*
広場の西側では、民の流れを見る試しが行われていた。
蓮昭が浄火寺から来ていた。
寺の門前をまるごと動かすわけにはいかない。
だから、広場に仮の門を作った。
縄を張り、二本の柱を立てる。
そこを通る者を、歩ける者、歩けない者、子ども連れ、水が必要な者に分ける。
梅吉が子を抱いている。
その横に太助がいた。
椀を抱えている。
あの時、椀を奪った子だ。
今は、椀を配る側に立たされている。
顔は真剣だった。
ただ、真剣すぎて、少し怖い顔になっている。
「そんな顔で渡すな」
嘉七が横から言った。
太助はむっとする。
「うるさい」
「椀をもらう方が悪いことしてる気分になる」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「知らん」
「知らないのに言うな」
嘉七は肩をすくめた。
そのやり取りを、蓮昭は黙って見ていた。
嘉七は、火を見た者として呼ばれている。
だが、同時に不満を煽った者でもある。
庄吾は、少し離れたところにいた。
縄の内側ではない。
外側でもない。
瀬川の指示で、見える場所に座らされている。
火や油に近づけない。
けれど、耳だけは使わせる。
煙の向き。
人のざわめき。
その変化を聞くためだった。
庄吾は、ずっと下を向いている。
迅はそれを見て、胸が少しざわついた。
生かした男。
撃たなかった男。
だが、安心できる男ではない。
梅吉が、子を抱いたまま列を見ていた。
「子ども連れはこっちだ」
梅吉の声は荒い。
だが、通る。
以前は不満で荒れていた声が、今は人を分ける声になっている。
太助が椀を渡す。
「一つずつ」
小さな子が、もう一つ欲しそうに手を伸ばした。
太助の手が止まる。
自分も、母のために椀を奪った。
欲しい気持ちは分かる。
だから止まる。
嘉七が横から言った。
「渡したら、後ろが崩れるぞ」
太助は唇を噛む。
それから、子に言った。
「あとで、残ったら」
「今ほしい」
「分かる」
太助は、椀を抱える手に力を入れた。
「でも、今は一つ」
子は泣きそうになった。
梅吉がしゃがむ。
「こっちで食べろ。こぼすなよ」
子を少し横へ誘導する。
列は詰まらなかった。
蓮昭が静かに頷く。
「盗ませぬ場を作る」
その言葉を、鷹見が記録する。
太助。
椀を守る。
欲しい者の目を知る。
ただし、情に揺れる。
太助は、その文字を見て少し顔を曇らせた。
「情に揺れるって、悪いのか?」
蓮昭が答えた。
「悪くはない」
「じゃあ、なんで書くんだ?」
「揺れる者を、揺れてはならぬ場所へ一人で置かぬためだ」
太助は黙った。
それから、小さく頷いた。
嘉七がぼそりと言う。
「俺はどこに置かれるんだ」
瀬川が近くで答えた。
「火のそば。ただし、米のそばではない」
嘉七は苦い顔をした。
「信用されてねえな」
「信用しすぎず、疑いすぎずだ」
「便利な言葉だ」
「便利ではない。面倒な言葉だ」
嘉七は、少しだけ笑った。
その時、縄の外で一人の女が声を上げた。
「うちの子も見てください」
腕を引かれている子がいる。
まだ十にもならない。
痩せている。
目が大きい。
「この子は走れます。戻る役でも、水でも、何でもします。見てもらえれば、飯がもらえるのでしょう」
広場が静まった。
子は、母の手を握っている。
何が起きているのか分かっていない顔だった。
女の顔は必死だった。
狼狽ではない。
飢えに追われた必死さだった。
火定めの噂。
見られれば飯が出る。
役につけば扶持が出る。
それが、この女をここへ押し出している。
迅の胸が詰まった。
景胤が立ち上がった。
広場の空気が一瞬で変わる。
女は、殿の姿を見て膝をつこうとした。
景胤が手で止める。
「立っていよ」
女は震えながら立った。
景胤は子を見た。
それから、女を見た。
「火定めは、腹を釣るものではない」
女の顔が白くなる。
「申し訳……」
「責めておらぬ」
景胤の声は静かだった。
「腹が減れば、人はそうする。子を差し出してでも、飯を得ようとする。それを責める国であってはならぬ」
倉橋が、少しだけ顔を伏せた。
米を見る者として、その言葉は重い。
景胤は続ける。
「倉橋」
「はっ」
「火定めの場で、飯を餌にするな。見る者にも、見られぬ者にも、粥を出せ」
倉橋はすぐに答えた。
「承知しました」
「蓮昭」
「はい」
「浄火寺とも分けよ。役を欲しがる者と、飯を欲しがる者を混ぜるな」
「承知」
景胤は、女へ向き直った。
「その子を、今は走らせぬ」
女の顔が崩れかける。
「ですが」
「まず食わせよ」
景胤は言った。
「走るかどうかは、腹が満ちてから見る」
女は、何も言えなかった。
子は、ただ景胤を見ている。
その小さな手を、梅吉がそっと取った。
「こっちだ」
太助が椀を持って走りかける。
蓮昭が止める。
「走るな」
太助は足を止めた。
それから、ゆっくり歩いた。
椀はこぼれなかった。
鷹見の筆が動く。
火定め。
飢えを試しに用いぬこと。
迅は、その文字を見ていた。
火を見つける。
役を見つける。
でも、その前に、人を人として立たせる。
それがなければ、火定めは人を集める罠になる。
景胤の顔は厳しかった。
自分の始めた制度が、もう人を揺らしている。
その痛みを、景胤も見ていた。
*
午後、迅は赤松弥八に呼ばれた。
広場の端に、簡単な鉄砲の場が作られている。
もちろん、撃つわけではない。
今日も空筒だ。
ただし、昨日とは違う。
的の前に、縄が張られている。
縄の向こうに、水桶。
さらに後ろに、戸板。
右手には、荷台。
左手には、仮の門。
人が動いている。
鉄砲を構えるには、あまりにも邪魔なものが多い。
赤松弥八は言った。
「撃てる場所を探せ」
迅は鉄砲を見た。
次に、広場を見る。
的はある。
だが、的の後ろに人が通る。
左には水桶。
右には荷台。
銃口を少し動かせば、誰かの足が入る。
今のままなら、撃てない。
「撃てません」
迅は言った。
真下兵庫がすぐに言う。
「また撃てぬか」
迅は唇を噛んだ。
また。
その言葉は刺さった。
だが、赤松弥八は何も言わない。
迅は、もう一度見た。
撃てない。
それだけで終われば、昨日と同じだ。
撃てないなら、どうすれば撃てるのか。
的を動かすのか。
人を動かすのか。
水桶を動かすのか。
撃つ者が動くのか。
迅は、自分の足元を見た。
少し右に下がれば、荷台が邪魔になる。
左に動けば、水桶に近すぎる。
前に出れば、仮の門の列が射線に入る。
後ろへ下がれば、土手が的の後ろに入る。
「二歩、後ろです」
迅は言った。
赤松弥八の目が動く。
「誰が」
「撃つ者が。二歩後ろへ下がれば、的の後ろが土手になります。水桶も射線から外れます」
「他」
「仮の門の列を少し止める必要があります。でも止めるのは一息だけ。長く止めると、列が詰まります」
真下兵庫が黙った。
迅は続けた。
「水桶は動かさない方がいいです。動かすと、人が水を追います」
赤松弥八が、喜助の方を見た。
喜助は遠くで水桶を抱え、目を丸くしている。
「聞いたか、水桶の小僧」
「聞こえてますけど、その呼び方やめてください!」
少しだけ笑いが起きた。
だが、赤松弥八はすぐに迅へ戻る。
「撃てるように場を作る。撃たぬだけではねえ」
「はい」
「撃たぬ目は、撃つ場も作れ」
迅は、その言葉を胸の中で繰り返した。
撃たぬだけではない。
撃てる場所を作る。
守るために、撃たない。
守るために、撃てるようにもする。
それは、もっと怖かった。
鷹見が、木札に筆を置いた。
撃つ前に見る者。
場を整え、撃てる場所を探す。
迅は、その文字を見た。
胸の奥が詰まった。
その名が、少しずつ自分に近づいてくる。
昨日までは、まだ遠い言葉だった。
今は違う。
帳面に書かれている。
人が見ている。
次も求められる。
撃てないと口にするだけでは、もう足りない。
撃てるように場を整えることまで、求められている。
迅は、息を吸った。
うまく吸えなかった。
真下兵庫が低く言った。
「今の答えなら、遅くはない」
迅は、少し驚いて真下兵庫を見る。
真下兵庫は、視線を逸らした。
「少しは、だ」
赤松弥八が笑う。
「素直に褒めると死ぬのか」
「死にませんが、調子に乗ります」
「こいつは乗らねえよ。怖がりだからな」
迅は何も言えなかった。
調子には乗らない。
怖いから。
ただ、昨日より少しだけ、見る場所が増えた。
*
日が傾き始めた頃、烈が戻ってきた。
朝から煤谷村と城を何度も往復している。
顔は赤い。
息は荒い。
それでも、足は止まっていない。
黒羽が、城門の横で待っていた。
「報告」
烈は、すぐに口を開きかけた。
だが、一度止まった。
深く息を吸う。
小夜に言われた通り、変わったところだけを思い出す。
「名を言わない男は、まだ納屋の横にいます。逃げていません。水は飲みました。火には近づけていません。包みは見えるところに置いています」
黒羽は頷く。
「続けろ」
「山の煙は、朝より薄いです。でも、小夜は赤い石の横に黒い石を置いたままです」
「理由は」
「飯の煙にしては、低かったからです」
「他」
「男の草履についた赤土と、山の煙の方角が、少し合うかもしれないと言っていました」
黒羽の目が鋭くなる。
「少し、か」
「はい。小夜は、分からないものを分かったことにしないと言っていました」
黒羽は、ほんのわずかに口元を動かした。
「よい」
烈の顔が明るくなる。
だが、黒羽はすぐに言った。
「喜ぶな。まだ何も分かっていない」
「はい」
「だが、分からぬものを分からぬまま持ち帰った。それはよい」
烈は、今度は静かに頷いた。
「はい」
黒羽の後ろには、八瀬隼人がいた。
若い物見は、烈の報告を聞いていた。
八瀬隼人は、少し悔しそうだった。
子どもの石の方が、山の煙を残している。
そう感じたのかもしれない。
黒羽が八瀬隼人を見た。
「明朝、村へ行く」
「はっ」
「石を笑うな」
「笑いませぬ」
「なら、石に頼りすぎるな」
八瀬隼人は背を正した。
「承知しました」
烈は、そのやり取りを聞きながら、足の裏の痛みを感じていた。
戻る役も、軽くない。
走ればいいだけではない。
聞く。
選ぶ。
覚える。
崩さず運ぶ。
そして、また戻る。
烈は、胸の中で小夜の石を思い出した。
細い枝。
折れてはいけない戻る足。
*
夕方、火定めの最初の日は終わった。
広場に残ったのは、足跡と水の跡だった。
米粒がいくつか落ちている。
藁くず。
泥。
割れなかった椀。
軽い荷を担いだ男の足跡。
子どもが食べた粥の跡。
水桶の周りにできた人の輪。
どれも、戦の跡ではない。
けれど、戦に近いものだった。
鷹見は帳面を閉じなかった。
まだ墨が乾いていない。
景胤は、その前に立っている。
真木、瀬川、倉橋、坂部、黒羽、赤松弥八、蓮昭も集まっていた。
迅、喜助、烈、辰五郎、藤吉も少し離れて控えている。
景胤が言った。
「初日は」
誰もすぐには答えなかった。
成功です、と言える者はいない。
失敗です、とも言えない。
倉橋が口を開く。
「飯を欲しがる者と、役を欲しがる者が混ざりました」
蓮昭が頷く。
「飢えを見ずに火を見ることはできませぬ」
坂部が言う。
「荷を持ちたい者ほど、膝を隠します」
黒羽が続ける。
「分からぬ報告を嫌がる者もおります。分からぬまま持ち帰る役を、軽く見てはなりません」
赤松弥八が言った。
「撃たぬだけでは足りねえ。撃てる場を作る目がいる」
瀬川は、最後に言った。
「火定めは、始めただけで人を揺らします」
景胤は、目を伏せた。
「そうだな」
その声には、疲れがあった。
だが、後悔だけではなかった。
「火を見つけるつもりで、腹を見た。膝を見た。恐れを見た。見栄を見た。不服を見た」
景胤は、広場を見渡した。
「火だけが、見えるわけではないな」
真木が静かに言う。
「火があれば、影も出ます」
景胤は頷いた。
「ならば、影も記録せよ」
鷹見が頭を下げる。
「はっ」
「火定めは、飾りにするな。褒めるためだけに使うな。使い潰すためにも使うな」
景胤の声が、夕方の広場に落ちた。
「見つけた火を、どこに置くかまで見る」
迅は、その言葉を聞いていた。
火を見つけるだけではない。
火を置く場所。
水を置く場所。
人を置く場所。
名を置く場所。
それを間違えれば、守るための火も人を焼く。
喜助が小さく言った。
「……水桶も、置き場所間違えたら揉めるしね」
迅は頷いた。
「うん」
辰五郎が藤吉へ言った。
「人も同じだ」
「はい」
「置き場所を間違えると潰れる」
藤吉は、自分の膝を見た。
「はい」
烈は、城門の向こうを見る。
煤谷村へ戻る道が、夕闇に沈み始めている。
あの道の先には、小夜の石がある。
志乃の戻る場所がある。
名を言わない男もいる。
まだ分からない煙もある。
火定めは、広場で終わっていない。
むしろ、広場の外で始まっている。
*
その夜、山の奥で、火が一つ消された。
消したのは、鹿部市之助だった。
横には、若い男が座っている。
逃げた男だ。
顔色は悪い。
手にはまだ、煤がついている。
少し離れた木の根元に、岩貫弥惣が立っていた。
夜の中でも、その目は冷たく見えた。
「始めたか」
岩貫弥惣が言った。
「はい。火定め、とか」
鹿部市之助が答える。
「百姓も人足も女も子どもも、見るそうです」
「よいことだ」
若い男が驚いたように顔を上げる。
鹿部市之助は笑った。
「よいこと、ですか?」
「見れば、迷う」
岩貫弥惣は静かに言った。
「見えぬものは斬れる。見えるものは迷う。名がつけば、捨てにくくなる」
風が、消えた火の灰を揺らした。
「燧は、手を見ると言ったな」
「はい」
「なら、手を汚せ」
若い男の喉が鳴った。
鹿部市之助の笑みが、少し深くなる。
「手を?」
「水を運んだ手も、椀を渡した手も、戻る足も、一度疑われれば鈍る」
岩貫弥惣は、山の下を見る。
煤谷村の方角は暗い。
だが、人の暮らしの火が、かすかにある。
「鈍れば、道は詰まる」
それだけ言った。
鹿部市之助は、笑ったまま頭を下げる。
「承知しました」
若い男は震えていた。
鹿部市之助が、その肩をまた叩く。
「怖がるな。怖がるなら、使われる側だ」
岩貫弥惣は、ゆっくりと背を向けた。
「次は、偽り火では足りぬ」
その言葉だけを残して、山の奥へ消える。
夜の森に、火の匂いはなかった。
だが、消したはずの火が、まだどこかで燻っているようだった。
*
灰ヶ峰城の広場では、最後の水桶が片づけられていた。
喜助が、空になった桶を持ち上げる。
「重い時も嫌だけど、空でも嫌だな」
迅が言った。
「何が」
「空だと、足りなかった気がする」
喜助は桶の底を見た。
「でも、余ったら余ったで、置き場所が悪かった気がする」
「水って面倒だな」
「火よりはましでしょ」
迅はすぐには答えなかった。
火。
水。
どちらも置き場所を間違えれば、人を動かす。
迅は、夕方に鷹見が書いた木札を思い出した。
撃つ前に見る者。
場を整え、撃てる場所を探す。
その横に、まだ余白があった。
きっと、そこにはこれから増えていく。
できたこと。
できなかったこと。
守ったもの。
逃がしたもの。
怖かったこと。
またやらなければならないこと。
喜助が水桶を肩に担ぎ直す。
「明日もあるのかな」
「あると思う」
「嫌だなあ」
「うん」
「でも、今日の子、粥食べられたな」
「うん」
「じゃあ、まあ……明日も置くか」
喜助は、そう言って歩き出した。
迅は、その背中を見た。
水桶を持つ肩。
嫌がりながらも逃げない背中。
それも、火定めで見つかった火なのかもしれない。
けれど、火はきれいなものだけではなかった。
腹。
見栄。
不服。
怖さ。
嘘。
それらも、同じ場所に照らし出す。
迅は夜の山を見た。
どこかで、敵もこちらを見ている。
火定めが始まった。
名もなき者たちの手を、国が見始めた。
だが、その手を汚そうとする者もいる。
守るためには、もっと見なければならない。
見たいものではなく。
見るべきものを。
迅は、自分の手を握った。
まだ、火の匂いが残っている気がした。
そして、その火はもう、城の中だけのものではなかった。




