【第24話】撃つ前に見る者
灰ヶ峰城の北には、小さな射場があった。
城壁の外れ。
風がよく通る場所だ。
朝の土はまだ湿っている。
踏むたびに、草の根元から水がにじんだ。
迅は、その湿った土の上に立っていた。
目の前には、鉄砲がある。
まだ持っていない。
置かれているだけだ。
黒い筒。
木の台。
煤の匂い。
金具の冷たい光。
その横に、赤松弥八が立っていた。
「触るな」
赤松弥八は、最初にそう言った。
迅は伸ばしかけていた手を止めた。
「はい」
「触れと言うまで、触るな。構えろと言うまで、構えるな。撃てと言うまで、撃つな」
「はい」
「返事はいい。目を使え」
赤松弥八は、鉄砲を指さした。
「これは何だ」
「鉄砲です」
「それは誰でも分かる」
赤松弥八の顔が渋くなる。
「何を見る」
迅は、鉄砲を見た。
筒。
木。
火をつけるところ。
台。
口。
どれも知っているようで、知らない。
火薬箱のそばで見た時より、近い。
近いだけで、喉が乾く。
「火をつけるところ」
「火縄だ」
「火縄」
「他は」
「銃口」
「他」
「持つところ」
「床尾だ」
「火薬を入れるところ」
「今日は入れねえ」
赤松弥八は鼻を鳴らした。
「これは空筒だ」
迅は、少しだけ息を吐いた。
撃たない。
その言葉で、肩がほんの少し下がった。
だが、赤松弥八はそれを見逃さなかった。
「安心したな」
「……はい」
「それでいい」
迅は顔を上げた。
「いいんですか?」
「空筒で怖がる奴に、火薬を入れた筒は持たせられねえ。空筒で安心する奴にも、すぐには持たせられねえ」
「どっちですか?」
「どっちもだ」
赤松弥八は面倒くさそうに言った。
「鉄砲は、撃つ前が長い。撃つのは一息だ。だが、その一息の前に見るものがある」
そう言って、射場の向こうを指した。
木の板で作られた的が三つ立っている。
その後ろには土手がある。
土手のさらに向こうには、細い道が見えた。
道の端には、水桶が二つ置いてある。
その横に、荷を担いだ人足が歩いていた。
訓練のために呼ばれた者たちだ。
喜助もいた。
水桶を持たされ、嫌そうな顔をしている。
「なんで俺まで……」
遠くからでも、口の動きが分かった。
迅は少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに消えた。
水桶。
人足。
道。
的。
土手。
銃口。
それらが、全部一つの場所にある。
赤松弥八が言った。
「的だけ見る奴は、的しか撃たねえ」
「はい」
「だが、戦場に的だけ立ってることはねえ」
赤松弥八は、地面に置いた細い棒を拾った。
そして、鉄砲から的までの間に線を引く。
「これが射線だ」
迅は、土に引かれた線を見る。
まっすぐだった。
だが、その線の横には水桶がある。
後ろには道がある。
さらに奥には、荷を持つ人足がいる。
「撃てば、弾が飛ぶ。音が出る。煙が出る。人が動く」
赤松弥八は、線の上に小石を置いた。
「これが敵だとする」
次に、少し横へ別の石を置く。
「これが民だ」
さらに、後ろに枝を置く。
「これが火薬箱だ」
迅の背中が強ばった。
「撃つか」
赤松弥八が問う。
迅はすぐには答えなかった。
敵の石。
民の石。
火薬箱の枝。
まっすぐ撃てば、敵に当たるかもしれない。
外れれば。
音で民が走れば。
火薬箱を担ぐ人足の足が乱れれば。
「撃ちません」
「なぜ」
「敵だけを見ていないからです」
赤松弥八の目が少し細くなった。
「言葉は悪くねえ」
褒めたのか、まだ足りないのか分からない声だった。
その時、横から足音がした。
真下兵庫だった。
鉄砲衆を二人連れている。
昨日より顔が険しい。
迅を見る目にも、まだ迷いがある。
「赤松殿」
「何だ」
「見て覚えさせるだけですか」
「そうだ」
「撃たねば、鉄砲は分かりません」
「撃つ前が分からねえ奴に撃たせると、もっと分からなくなる」
真下兵庫は口を閉じた。
だが、不満が消えたわけではない。
「迅」
真下兵庫が言った。
「はい」
「昨日のような場で、迷い続ければ死ぬ」
迅は答えられなかった。
「撃たぬ判断が必要な時もある。だが、撃たねばならぬ時もある。撃つべき時に撃てぬ者は、守る者ではなく、ただ遅い者になる」
その言葉は、正しい。
迅にも分かった。
見る。
でも、見すぎれば遅れる。
撃たなければ守れない時もある。
撃てば崩れる時もある。
どちらもある。
どちらも持つ。
その重さが、また胸に戻った。
赤松弥八は、真下兵庫を横目で見た。
「だから今日は、撃つ前だけを見る」
「撃つ稽古ではなく?」
「撃つ前の稽古だ」
赤松弥八は、迅に鉄砲を持たせた。
空筒とはいえ、重い。
肩が沈む。
手のひらに木の硬さが食い込む。
迅は思わず息を止めた。
「息を止めすぎるな」
赤松弥八が言う。
「止めれば目も固まる」
迅は息を吐いた。
火薬は入っていない。
火縄も点いていない。
それでも、銃口の先を見るのが怖い。
「構えろ」
迅は鉄砲を上げた。
腕が震える。
情けないほど、すぐに震える。
喜助が遠くで見ていた。
心配そうな顔だ。
迅は、銃口の先を見た。
的。
その横の水桶。
喜助。
その後ろの人足。
道。
風。
草。
土手。
「何が見える」
赤松弥八が問う。
「的」
「他」
「水桶」
「他」
「喜助」
「他」
「人足」
「他」
「道」
「他」
「風が、右から左へ」
「他」
迅は、目を細めた。
的の後ろの草が揺れている。
草の奥に、白いものが見えた。
「布?」
「どこだ」
「的の後ろ。土手の下です」
赤松弥八が鉄砲衆へ顎をしゃくった。
一人が走っていく。
やがて、白い布を拾い上げた。
小さな布包みだった。
中には石が入っていた。
赤松弥八が言った。
「俺が置いた」
迅は息を吐いた。
「試しですか?」
「そうだ」
「撃ったら」
「布に当たるかもしれねえ。布を人だと思えば、撃てねえ。布を罠だと思えば、なお撃てねえ。だが、布を敵の目印だと思えば、撃ちたくなる」
赤松弥八は、迅の手元を見る。
「お前は布を見た。だが、まだ遅い」
「はい」
「遅いが、見ないよりはましだ」
真下兵庫が横から言った。
「実戦なら、敵は待ちません」
赤松弥八が頷く。
「その通りだ」
迅の胸が沈んだ。
正しい。
遅い。
見るだけでは足りない。
「だから、何度もやる」
赤松弥八は言った。
「怖がりが一度でできると思うな」
迅は、なぜか少しだけ救われた。
できないことを、できないまま見る。
藤吉が言っていた。
今はできません。
その言葉を思い出す。
「もう一度だ」
赤松弥八が言った。
迅は、鉄砲を構え直した。
*
昼前、射場に伝令が走り込んできた。
息を切らしている。
顔に泥がついていた。
「煤谷村より知らせ!」
迅の手が強ばった。
赤松弥八が顔を向ける。
「申せ」
「村の外れに、黒根村近くの男が一人。名は言わず。焦げた布、木札、子どもの草履を所持。水は渡し、井戸と火には近づけず、納屋の横で見ているとのこと」
迅は、思わず一歩前に出た。
「烈は」
「知らせを届けた後、村へ戻りました」
少しだけ息が戻る。
小夜。
志乃。
烈。
村はまだ崩れていない。
だが、伝令は続けた。
「また、山の向こうに白い煙。飯の煙にしては低く、一度横へ流れたとの報告」
赤松弥八の顔が変わった。
黒羽の配下、八瀬隼人の名も出た。
「朝に村へ向かわせる予定でしたが、先に煙を見に動いております」
真下兵庫がすぐに言った。
「鉄砲衆を出します」
「待て」
赤松弥八が止めた。
「煙だけで鉄砲衆を出すな」
「しかし、煤谷村に近い」
「だからだ」
赤松弥八は、迅を見た。
「火守の子」
「はい」
「お前も来い」
迅の喉が鳴った。
「鉄砲を持って、ですか?」
「持たねえ」
赤松弥八は短く答えた。
「今日は目を持て」
真下兵庫が眉を寄せる。
「見に行くだけでは遅れます」
「撃ちに行って、村を走らせる方が遅れる」
赤松弥八は鉄砲衆を見た。
「二人だけつける。火縄は伏せろ。音を出すな。煙を見てからだ」
鉄砲衆が頷く。
迅は、空筒を下ろした。
手のひらに汗が残っている。
撃っていないのに、疲れていた。
喜助が水桶を置いて近づいてきた。
「迅」
「何」
「村、大丈夫かな」
「分からない」
「出た」
喜助は顔をしかめた。
だが、すぐに真面目な顔になった。
「水、持ってく?」
迅は一瞬迷った。
赤松弥八が言った。
「一本だけだ。多く持てば、人が水に寄る」
喜助が頷く。
「一本なら」
「お前は来なくていい」
「え?」
「水桶を置く者が、勝手に動くな」
喜助は不満そうにした。
だが、すぐに唇を噛んだ。
「……じゃあ、ここに置いておきます。戻ってきた時に飲めるように」
赤松弥八がちらりと見る。
「水の置き場を見る者か」
喜助は嫌そうな顔をした。
「それ、ほんとに呼び名になるんですか?」
「なるかもしれねえな」
「嫌だなあ」
それでも喜助は、水桶を射場の端へ動かした。
日陰。
道の邪魔にならない場所。
火薬から離れた場所。
でも、遠すぎない場所。
迅は、それを見ていた。
喜助も、もうただ水を置いているわけではない。
赤松弥八が言った。
「行くぞ」
*
煤谷村へ向かう途中、空は薄く曇っていた。
雨は降っていない。
だが、山の湿気が草の匂いを重くしている。
迅は、赤松弥八、真下兵庫、鉄砲衆二人と歩いた。
少し離れて、瀬川も合流した。
黒羽はいない。
別の道を見ているという。
「煙は」
瀬川が問う。
迅は、山の端を見た。
白い筋がある。
薄い。
まっすぐではない。
低く流れている。
風に押されているのか。
湿った草で抑えられているのか。
飯の煙か。
火を見せる煙か。
分からない。
「低いです」
迅は言った。
「でも、黒くはない」
「油か」
赤松弥八が問う。
迅は鼻を動かした。
まだ遠い。
油の匂いはしない。
「分かりません」
「分からないなら、それでいい」
赤松弥八は歩きながら言った。
「分かったふりをするな」
真下兵庫が少し苛立ったように言う。
「分からぬ間に敵が動くこともあります」
「だから見る者と撃つ者を分けている」
赤松弥八は止まらない。
「お前は撃つ時を見ろ。こいつは撃つ前を見ろ」
迅は黙っていた。
撃つ前を見る。
それが、役目になるのか。
まだ分からない。
ただ、今は見なければならない。
道の端に、赤土が少し残っていた。
乾いていない。
草履の跡。
片方だけ深い。
荷を持っていたのか。
片足をかばっていたのか。
迅は足を止めた。
「何だ」
瀬川が聞く。
「赤土です」
「小夜の知らせと同じか」
「たぶん」
「たぶん、か」
「はい」
瀬川は頷いた。
「よい。続けろ」
迅は足跡を見る。
炭焼き道へ向かうもの。
村へ下りるもの。
山側へ戻るもの。
少し乱れている。
一人だけではない。
「二人、かもしれません」
迅は言った。
真下兵庫がすぐに前を見た。
「伏せるか」
赤松弥八が手で止める。
「まだだ」
「足跡が二つなら、敵がいる」
「民も二本足だ」
赤松弥八は低く言った。
迅は、足跡の横を見た。
小さな擦れ跡がある。
荷を引きずったような跡。
だが、重い荷ではない。
枝か。
布か。
草か。
「何かを引きずっています」
「火の材料か」
瀬川が言った。
「分かりません」
迅はまたそう答えた。
分からない。
その言葉を何度も言うのは、怖い。
だが、分かったふりをする方がもっと怖かった。
少し進むと、白い煙が見えやすくなった。
山の中腹。
古い炭窯の跡がある場所だ。
かつて炭焼きが使っていたが、今はほとんど使われない。
小夜の石にも、近い場所があった。
赤松弥八が手を上げた。
一同が止まる。
煙の下に、人影があった。
一人。
いや、二人。
一人はしゃがんでいる。
一人は立っている。
立っている方が、何かを持っている。
真下兵庫が鉄砲衆へ合図した。
鉄砲衆が姿勢を低くする。
火縄はまだ伏せたままだ。
「撃てる距離ではない」
赤松弥八が言う。
「近づけば撃てます」
真下兵庫が返す。
「撃つかどうかは、まだ決めるな」
迅は、人影を見た。
煙。
白い。
低い。
薪の炎は見えない。
湿った草を被せているのか。
煙を上げるためか。
火を消すためか。
しゃがんでいる人影の横に、小さなものが見えた。
桶ではない。
包みか。
子どもか。
迅の喉が鳴る。
真下兵庫が低く言った。
「油布なら危険です」
「見えるか」
赤松弥八が問う。
「布らしきものは」
「油か」
「そこまでは」
「なら、まだ撃つな」
その時、立っている人影がこちらを見た。
気づいた。
次の瞬間、走り出した。
真下兵庫が叫ぶ。
「逃げる!」
鉄砲衆の一人が火縄を上げた。
迅の胸が跳ねた。
撃つべきかもしれない。
一瞬、そう思った。
逃げる背。
煙の下。
村の近く。
もし敵なら。
もし次の火を置く者なら。
今止めなければ、次に誰かが死ぬかもしれない。
迅の手が、無意識に前へ出た。
撃て。
そう言うべきなのかもしれない。
けれど、銃口の先で、煙の下の影が動いた。
しゃがんでいる人影。
その横の小さな包み。
乾いた草。
古い炭窯の割れ目。
迅は叫んだ。
「待って!」
鉄砲衆の手が止まった。
真下兵庫が鋭く見る。
「なぜ止める!」
「煙の下に、もう一人います!」
「敵かもしれん!」
「でも、撃つと下の草に火が散ります!」
迅は、自分でも早口になっているのが分かった。
火縄。
火花。
乾いた草。
炭窯の穴。
白い煙。
逃げる人影。
しゃがむ人影。
小さな包み。
全部が一つに見えた。
「音で村も動きます!」
迅は続けた。
「まだ村に名を言わない男がいます。今撃ったら、村の人が火だと思って走るかもしれません!」
真下兵庫は歯を食いしばった。
逃げる人影は、木の間へ消えかけている。
撃てば、当たるかもしれない。
当てれば、止められるかもしれない。
撃たなければ、逃がす。
迅は、その重さを感じた。
自分が止めた。
また。
撃たなかったことで、誰かを逃がすかもしれない。
赤松弥八が低く言った。
「撃つな」
鉄砲衆が火縄を下ろす。
真下兵庫は、拳を握った。
「追います」
「お前は右を押さえろ。鉄砲は伏せたまま。瀬川、下の人影へ」
「承知」
瀬川が走った。
迅も続きかけた。
赤松弥八に襟を掴まれる。
「お前は煙を見ろ」
「でも」
「見ろ」
迅は足を止めた。
煙。
白い。
匂い。
油ではない。
焦げた藁。
湿った草。
そして少し、飯の匂い。
迅は目を細めた。
煙の下にあるのは、小さな土鍋だった。
割れている。
その横に、濡れた草。
煙を消そうとしたのか。
隠そうとしたのか。
しゃがんでいた人影は、老人だった。
瀬川が支えている。
老人は咳き込んでいた。
その横にあった包みは、子どもではない。
布に包んだ木札と、焦げた握り飯だった。
「火を……消そうとした」
老人が咳の間に言った。
「誰が」
瀬川が問う。
「若い男が……火を置いていった。煙が上がる。村が騒ぐと思って……草を被せた」
赤松弥八が顔をしかめた。
「火を消すために煙を増やしたか」
老人は、苦しそうに頷いた。
「水が、なかった」
迅は、足元を見た。
土鍋。
焦げた飯。
濡れ草。
低い白煙。
火をつけた者。
火を消そうとした者。
逃げた人影。
もし撃っていたら。
老人に当たったかもしれない。
火花で草に移ったかもしれない。
音で村が走ったかもしれない。
でも、撃たなかったから、逃げた者は消えた。
真下兵庫が戻ってきた。
表情は険しい。
「逃げられました」
迅の胸が沈む。
真下兵庫は、手に小さな布切れを持っていた。
黒ずんだ油布の切れ端だった。
その端には、赤土がついている。
「逃げた者が落としたものです」
迅は、それを見た。
喉が詰まった。
油布。
赤土。
やはり、ただの民ではないかもしれない。
撃たなかった。
老人は生きた。
だが、火を置いた者は逃げた。
そして、その者は、また火を置ける。
真下兵庫が言った。
「止めたからだ」
その言葉は、刃のようだった。
瀬川が何か言いかける。
だが、迅は首を振った。
言い訳はできない。
逃げた。
それは事実だ。
「はい」
迅は答えた。
「俺が止めました」
赤松弥八がじっと迅を見る。
「撃っていれば、老人が死んだかもしれねえ」
真下兵庫が言う。
「撃たねば、火を置く者が逃げる」
「その通りだ」
赤松弥八は否定しなかった。
迅は、拳を握った。
どちらもある。
また、両方だ。
守れたもの。
逃がしたもの。
どちらかだけを見れば、楽になる。
だが、それでは同じところで崩れる。
「持て」
瀬川が静かに言った。
迅は顔を上げる。
「昨日、そう答えたな」
両方持つか。
持ちます。
あの言葉が戻る。
迅は、油布の切れ端と老人を交互に見た。
「……はい」
声が少し震えた。
「持ちます」
真下兵庫は、まだ不満そうだった。
だが、鉄砲衆へ怒鳴ることはしなかった。
赤松弥八が老人へ言った。
「火を消すなら、水だ。草を被せりゃ煙が増える」
「すまねえ」
老人は咳き込んだ。
迅は、水桶を思い出した。
喜助が、射場の端に置いた水。
遠すぎず、近すぎず。
ここには水がなかった。
だから、老人は草を被せた。
煙が増えた。
村が不安になった。
火を見る者だけでは足りない。
水を見る者もいる。
道を見る者もいる。
戻る足もいる。
全部がつながっている。
「瀬川様」
迅は言った。
「この場所にも、水が要ります」
瀬川が頷く。
「どこに」
迅は周囲を見た。
炭窯。
乾いた草。
道。
村へ下りる坂。
人が集まりすぎると危ない場所。
火に近すぎると危ない場所。
遠すぎれば間に合わない場所。
「道の曲がり角です。ここから見えて、でも火のそばではないところ」
赤松弥八が、ふっと息を吐いた。
「水桶の小僧に聞かせてやれ」
迅は少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに油布を見る。
黒い布切れ。
赤土。
逃げた男。
笑えるものではなかった。
*
その日の夕方、灰ヶ峰城の小部屋に、また木札が増えた。
鷹見が筆を取っている。
瀬川が報告する。
赤松弥八が腕を組む。
真下兵庫は黙って座っていた。
迅は、部屋の端にいる。
膝の上で、手を握っていた。
鷹見が言った。
「白い煙。古い炭窯の跡。若い男一名逃走。老人一名保護。焦げた布、木札、握り飯。油臭なし。湿草により煙が低く流れる」
筆が走る。
「逃走者、油布の切れ端を落とす。赤土あり」
その文字で、部屋の空気が重くなった。
さらに鷹見が書く。
「鉄砲、撃たず」
真下兵庫の眉が、わずかに動いた。
鷹見は顔を上げる。
「撃たなかった理由は」
赤松弥八が迅を見る。
「言え」
迅は息を吸った。
「煙の下に老人がいました。撃てば当たるかもしれませんでした。火縄の火花で草に移るかもしれませんでした。音で煤谷村が動くかもしれませんでした」
「撃たなかった結果は」
鷹見が問う。
迅は、少しだけ手を握り直した。
「若い男を逃がしました。油布を持っていたかもしれません」
鷹見の筆は止まらない。
撃たぬ判断により、老人を保護。
同時に、逃走者あり。
逃走者、油布所持の疑い。
功過ともに記録。
迅は、その文字を見た。
胸が痛かった。
だが、消されるよりはいい。
撃たなかったことが、軽く褒められない。
逃がしたことも、消されない。
それが、今の自分には必要なのだと思った。
真下兵庫が口を開いた。
「私は、撃つべきだと考えました」
鷹見が筆を止める。
「今もか」
「今も、考えます」
真下兵庫は答えた。
「逃げた者が敵であれば、次に火を置く。次に火を置けば、今日救った老人より多くの者が死ぬかもしれません」
部屋が静まった。
迅は、顔を上げることができなかった。
その通りだった。
真下兵庫は続けた。
「ですが、撃てば老人が死んだかもしれない。それも分かります」
赤松弥八が言った。
「どちらも、間違いではねえ」
「はい」
真下兵庫は、迅を見た。
「私は、撃つために鉄砲衆を置いています。だが、撃つ前に見る者がいなければ、撃つ場所を誤る」
迅は顔を上げた。
真下兵庫は苦い顔をした。
「認めたわけではない」
「はい」
「だが、今日の場では止めた意味があった」
その言葉は短かった。
でも、迅の胸に残った。
赤松弥八が鼻を鳴らす。
「素直じゃねえな」
「赤松殿ほどでは」
「言うようになったな」
少しだけ空気が緩んだ。
鷹見は、木札を一枚取った。
そこに新しく書く。
撃つ前に見る者。
迅は、その文字を見た。
自分の名ではない。
役の名だった。
だが、その役は軽くない。
撃たないことで守る。
撃たないことで逃がす。
撃つ前に見るということは、撃たなかった後まで持つことだった。
瀬川が言った。
「迅」
「はい」
「これは褒美ではない」
「分かっています」
「なら、よい」
赤松弥八が続ける。
「明日も射場へ来い」
迅の肩が少し落ちた。
「はい」
「嫌そうな返事だな」
「嫌です」
赤松弥八は笑った。
「なら、見込みがある」
迅は笑えなかった。
だが、逃げるとも言わなかった。
*
同じ頃、山の奥で、一人の若い男が息を殺していた。
膝に泥がついている。
肩で息をしている。
逃げきったわけではない。
ただ、今は見つかっていないだけだ。
木の陰から、別の男が現れた。
湿った笑みを浮かべている。
鹿部市之助だった。
「撃たれなかったな」
若い男は顔を上げる。
「撃たれると思った」
「俺も少し思った」
鹿部市之助は、楽しそうに言った。
「だが、撃たなかった」
「なぜ」
「見すぎる奴がいたんだろうよ」
若い男は震えていた。
鹿部市之助は、その肩を軽く叩く。
「よく走った」
「老人は」
「置いてきた」
「殺すのでは」
「殺さなくていい。生きていれば、話が増える」
若い男は黙った。
鹿部市之助は、山の下を見た。
煤谷村の方に、薄い煙が上がっている。
飯の煙。
水の煙。
火の煙。
人は、それを見分けようとしている。
「撃たぬ目か」
鹿部市之助は、小さく笑った。
「撃たぬなら、撃たぬことで苦しませる。撃つなら、撃ったことで崩れさせる」
若い男が顔を青くする。
「まだやるのか?」
「やるさ」
鹿部市之助は、山の奥へ歩き出した。
「岩貫弥惣様が喜ぶ。燧の者は、火を見る。道を見る。人を見る。なら、見えるものを増やせばいい」
夕闇が、木々の間に落ちていく。
白い煙は、もう見えなかった。
だが、匂いだけが残っている。
焦げた飯。
湿った草。
そして、人を迷わせる火の匂い。
*
夜、迅は射場の端に戻った。
喜助の置いた水桶が、まだそこにあった。
水は少し減っている。
誰かが飲んだのだろう。
でも、倒れてはいなかった。
迅は柄杓で水をすくった。
冷たい。
一口飲む。
喉を通って、胸の奥へ落ちる。
「火、見てきた?」
後ろから声がした。
喜助だった。
「うん」
「撃った?」
「撃ってない」
「よかった……って言っていいのか分かんないけど」
「俺も分からない」
喜助は、少し困った顔をした。
「また分からないか」
「うん」
「でも、戻ってきた」
「うん」
喜助は水桶を見る。
「これ、役に立った?」
「立った」
「どこで」
「置き場所を考える時」
「俺、行ってないけど」
「でも、見てた」
喜助は黙った。
それから、少しだけ照れたように頭をかいた。
「水桶で人生が変わるの、やっぱ嫌だなあ」
迅は、今度は少し笑った。
「俺も、火で変わるのは嫌だ」
「だよな」
二人は、しばらく黙っていた。
遠くの山は暗い。
煤谷村の方角は見えない。
小夜の石も。
志乃の戻る場所も。
烈の足も。
今は見えない。
それでも、そこにあると知っている。
迅は、自分の手を見た。
鉄砲を持った手。
撃たせなかった手。
逃がしたことを持つ手。
まだ震えている。
でも、逃げてはいない。
撃つ前に見る者。
その名は、まだ重すぎる。
けれど、帳面に書かれた以上、消えない。
迅は、夜の空気を吸った。
火の匂いはしない。
水の匂いがした。
その水の向こうに、まだ見えない火がある。
三日後、火定めが始まる。
けれど、迅にはもう分かっていた。
試しは、始まる前から始まっている。
撃つ者。
撃たぬ者。
撃つ前に見る者。
そのどれもが、戦の中で同じ火を見ていた。




