【第23話】石を並べる村
夜が明けても、煤谷村の庭には石が残っていた。
小夜は、戸口の前にしゃがんでいる。
膝の下の土は冷たい。
昨夜置いた石は、夜露を吸って少し黒く見えた。
白い石。
黒い石。
赤い石。
細い枝。
折れた木の皮。
割れた椀の欠片。
それらが、庭の土の上に小さな村を作っている。
井戸。
家。
水場。
炭焼き道。
獣道。
浄火寺へ向かう道。
灰ヶ峰城へ戻る道。
歩ける者。
歩けない者。
水を運べる者。
子ども連れ。
分からない者。
そして、家の前に置かれた小さな石。
戻る場所。
小夜は、その石を指で軽く押した。
動かない。
少しだけ土に沈んでいた。
「小夜」
後ろから志乃の声がした。
「朝餉の前に、手を洗いなさい」
「うん」
小夜は返事をしたが、まだ動かなかった。
志乃は戸口に立ったまま、石を見下ろしている。
その顔には、叱る色はない。
だが、何かを確かめる目だった。
「夜の間に、何か変わった?」
「赤い石が少し動いた」
「風?」
「たぶん、猫」
「猫まで役目に入れるの?」
「入れない」
小夜は小さく首を振った。
「でも、動いたことは覚えておく」
志乃は、少しだけ息を吐いた。
「全部を覚えようとすると、疲れるよ」
「全部じゃない」
「では、何を覚えるの?」
小夜は、庭の石を見た。
すぐには答えなかった。
白い石が三つ。
黒い石が二つ。
赤い石が一つ。
枝が四本。
椀の欠片が一つ。
それぞれに意味を持たせた。
けれど、意味を持たせるほど、分からないものが増えていく。
「変わったもの」
小夜は言った。
「それと、変わってないもの」
志乃は黙った。
「戻る場所は、動いてない」
小夜は、家の前の石を指した。
「だから、いい」
志乃の目が、わずかに細くなる。
それは笑ったのか、泣きそうになったのか、小夜には分からなかった。
「なら、手を洗いなさい」
「うん」
小夜は立ち上がった。
その時、外から足音が聞こえた。
軽い足音。
走ってきた足音ではない。
迷いながら近づく足音だった。
小夜は、戸口の外を見た。
村の女が一人、門の前に立っていた。
腕に幼い子を抱いている。
後ろには、年を取った男が一人。
さらに少し離れて、二人の若者が立っている。
みな、庭の石を見ていた。
「志乃さん」
女が声をかけた。
「少し、聞いてもいいかい?」
志乃は、桶を地面に置いた。
「何を」
「城のことだよ」
女は、子を抱き直した。
「火定めっていうのは、本当に村の者まで見るのかい?」
小夜は、手を洗うのをやめた。
志乃はすぐには答えなかった。
昨日、烈が持ち帰った言葉。
火定め。
城が、村も見る。
水の置き場も、人を分ける手も見る。
その言葉は、夜のうちに村の中へ広がっていた。
だが、広がる間に、形が変わっていた。
百姓が城へ取られる。
女も評定に呼ばれる。
子どもでも役にされる。
水を運べば侍になる。
侍になれなければ笑われる。
噂は、村の朝より早かった。
「すぐに誰かを取る話ではない」
志乃は静かに言った。
「まず、見るだけだと聞いている」
「見るだけっていうのが怖いんだよ」
女は言った。
「見られたら、断れなくなるんじゃないかい?」
その声に、後ろの若者が頷いた。
「俺も聞いた。人足が刀を差すらしいって」
「水桶を持つだけで扶持が出るとも聞いた」
年を取った男が鼻を鳴らす。
「そんなうまい話があるか。どうせ、働ける者を城へ集める口実だ」
志乃は、誰も責めなかった。
怖がるのは当然だった。
戦は、いつも城から来る。
徴兵も。
兵糧の供出も。
命も。
火定めだけが優しく来るとは、誰も信じられない。
小夜は、庭の石を見た。
白い石。
黒い石。
赤い石。
どれにも、まだ名前はない。
でも、人が集まれば石の意味は変わる。
水場の石の周りに、みなが目を向けている。
井戸の前へ行く道が、もう人で塞がりかけていた。
「そこに立つと、桶が通れない」
小夜は言った。
若者の一人が、小夜を見る。
「え?」
「そこ。井戸から水を運ぶ人が通る」
小夜は、庭の土を指した。
「今は話してるだけでも、火が出た時にその立ち方だと、水が遅れる」
若者は一瞬むっとした顔をした。
だが、足元を見た。
たしかに、門の前から井戸へ向かう細い道に立っていた。
志乃が言った。
「少し横へ」
若者たちは、黙って動いた。
道が空く。
そこを、別の女が水桶を持って通った。
桶の水が揺れた。
こぼれなかった。
小夜は、その揺れを見た。
「火定めって、こういうのも見るの?」
子を抱いた女が言った。
小夜は答えようとして、志乃を見た。
志乃は、小さく頷いた。
「たぶん」
小夜は言った。
「でも、城の人が来る前に、自分たちで見た方がいい」
「自分たちで?」
「うん」
小夜は、庭へ戻り、石を一つ動かした。
井戸の石の横に、小さな枝を置く。
「水が通る道」
次に、黒い石を一つ、門の前から少し離して置いた。
「立ってはいけない場所」
白い石を三つ、家の横へ置く。
「待つ場所」
女は、石を見つめていた。
「そんなこと、石で分かるのかい?」
「石で全部は分からない」
小夜は言った。
「でも、どこが詰まるかは少し分かる」
年を取った男が腕を組んだ。
「子どもの遊びに見えるがな」
烈が、家の横から顔を出した。
水を汲みに行っていたらしい。
手に小さな桶を持っている。
「遊びじゃありません」
「烈」
志乃が少しだけ強く呼んだ。
烈は口を閉じかけた。
だが、踏みとどまった。
「城の評定にも出ました。小夜の石は」
男の眉が動いた。
「城に?」
「はい。黒羽様が見ました。物見としてよい目だって」
小夜が烈を睨んだ。
「余計なこと言わないで」
「余計じゃないだろ」
「そういう言い方すると、石が偉くなる」
「偉くなっちゃ駄目なのか?」
「偉くなると、見えなくなる」
烈は言い返せなかった。
志乃は、そのやり取りを聞きながら、村人たちを見ていた。
不安は、まだ消えていない。
むしろ、小夜の石が城に出たと聞いて、不安が増した者もいる。
城が村を見ている。
そう感じたからだ。
志乃は、濡れた手を布で拭いた。
「見るなら、こちらも見ましょう」
女が志乃を見る。
「こちらも?」
「城に見られるだけでは、怖いままです。私たちも、自分たちの村を見ておけばいい」
志乃は、庭の石を指した。
「水を運べる人。子を抱いている人。歩ける人。歩けない人。火が来たら動ける人。動かしてはいけない人」
年を取った男が言った。
「それを城へ出すのか」
「すぐには出しません」
志乃は答えた。
「まず、村が崩れないために使います」
男は黙った。
それなら、少しだけ聞ける。
そういう沈黙だった。
*
昼前には、庭先の石は倍に増えていた。
小夜一人では足りなくなった。
烈が走って小石を集める。
志乃が、意味を決める前に増やしすぎるなと止める。
子どもたちは、きれいな石を持ってきたがる。
小夜は、それを一つずつ見て、使う石と使わない石に分けた。
「これは?」
小さな子が、丸い白石を差し出す。
「子ども連れ」
「これは?」
「歩ける人」
「これは?」
「それは似てるから、混ざる」
「じゃあ、これは?」
「それは水」
「なんで?」
「冷たそうだから」
子どもは、分かったような分からないような顔をした。
でも、嬉しそうに石を置いた。
志乃は、その様子を見ながら、時々声をかけた。
「子どもが石を置くところは、井戸の道から離して」
「なぜ?」
「遊んでいるうちに、通り道を塞ぐから」
「遊びじゃないって言った」
「遊びでなくても、塞ぐものは塞ぐ」
小夜は少し不満そうにしたが、石を動かした。
村の井戸端には、いつもより人が多かった。
火定めの話を聞きたい者。
見られるのを怖がる者。
自分も役に立てるのかと、口には出さずに期待している者。
その期待を見られたくなくて、わざと文句を言う者。
人の顔は、石よりずっと難しかった。
「女まで見るというのは、本当か」
別の男が言った。
薪を割る手を止め、志乃を見ている。
「聞いた話では」
志乃は答えた。
「女だから退けることはしない、と」
「なら、うちの娘も連れていかれるのか」
「連れていくとは聞いていません」
「だが、見られるのだろう」
「見られるかもしれません」
「それが嫌だと言っている」
男の声が荒くなった。
志乃は、目を逸らさない。
「嫌なら、嫌だと言っていい」
男は黙った。
「ただ、何を嫌がっているのかは、見た方がいい」
「何だと」
「娘を取られるのが嫌なのか。娘の働きが人に知られるのが嫌なのか。娘が、自分の知らない役目を持っているかもしれないのが嫌なのか」
男は顔を赤くした。
烈が息を飲む。
小夜も手を止めた。
志乃の声は荒くなかった。
それが、かえって重かった。
「戦は、男だけを連れていくものではありません」
志乃は言った。
「残された者にも、役目を押しつける。なら、残る者が何を見て、何を支えているのか、知られないままでいいとは思いません」
男は何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
志乃は、小夜の石へ視線を落とした。
「ただし、城に見せる前に、村で守る」
小夜は、その言葉を聞いて、赤い石を一つ動かした。
「火?」
烈が聞いた。
「違う」
「じゃあ何」
「嫌な気持ち」
烈は変な顔をした。
「それも石にするのか?」
「しないと、踏む」
小夜は言った。
「踏むと、怒る」
男は、何も言わなかった。
だが、さっきより少しだけ下を向いていた。
志乃は、男に水を差し出した。
「飲みますか」
男は迷った。
それから、受け取った。
「……もらう」
小夜は赤い石をそのまま置いた。
嫌な気持ち。
それは消えていない。
でも、どこにあるかは見えた。
*
昼過ぎ、炭焼き道の方から、一人の男が下りてきた。
最初に気づいたのは小夜だった。
足音が変だった。
重いのに、急いでいない。
逃げている足ではない。
だが、迷っている足でもない。
道を知っている者の足に似ていた。
「烈」
小夜は小さく呼んだ。
「何」
「人」
烈はすぐに立ち上がった。
戦いに行こうとしたのではない。
まず、志乃を見た。
志乃は頷いた。
「近づきすぎない」
「はい」
男は、村の外れで止まった。
服は泥で汚れている。
肩に小さな包みを背負っている。
顔は疲れていた。
だが、倒れそうではない。
村の若者たちが、男の前に出る。
「どこの者だ」
男は、すぐには答えなかった。
喉が乾いているのか、唇を舐める。
「……水を」
「先に名を言え」
「水を、少し」
若者の一人が、警戒して木の棒を構えた。
槍ではない。
だが、人を遠ざけるには十分だった。
小夜は、男の足元を見た。
泥。
葉。
黒い煤。
それから、左の草履の端に、赤土が少しついている。
炭焼き道だけではない。
別の道を通っている。
「井戸に近づけないで」
小夜は言った。
若者が振り向く。
「分かってる」
「違う。水を渡さないんじゃない。井戸に近づけない」
志乃が、すぐに桶を取った。
井戸ではなく、横に置いてある小さな水桶から、椀に水を入れる。
その椀を、烈に渡した。
「置いてきなさい」
「はい」
烈は椀を持って進んだ。
男の前まで行かない。
少し手前の石の上に椀を置く。
そして下がる。
男は、椀を見た。
それから、ゆっくり手を伸ばして取った。
一息で飲んだ。
「名は」
若者がもう一度聞く。
男は、椀を下ろした。
「黒根村の近くだ」
村人たちがざわついた。
黒根村。
嘉七や庄吾の名と一緒に聞いた場所だ。
焼けた村。
荒砥に使われたかもしれない者たちのいた場所。
「近く、とは何だ」
若者が問う。
「村ではない。山側の小屋だ」
「なぜここへ来た」
「人が流れていると聞いた」
「誰から」
男は答えない。
若者の顔が険しくなる。
「追い返した方がいい」
小夜は、思わずそう言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
村人たちも、小夜を見た。
男も、小夜を見る。
小夜は黒い石を握っていた。
分からない人。
でも、分からないから怖い。
怖いものは、外へ出したくなる。
その方が村は楽になる。
井戸も、火も、子どもも守りやすい。
小夜はそう思った。
思ってしまった。
志乃が、小夜の手元を見た。
「小夜」
「……何」
「その石は、何の石?」
「分からない人」
「敵の石?」
小夜は答えられなかった。
握った黒い石が、手の中で冷たい。
男の包みが、少し揺れた。
小夜は、それを見た。
布の端から、小さな草履が見えていた。
子どもの草履。
片方だけ。
小夜の指が止まった。
志乃は、男に向き直った。
「包みの中は」
男は、包みを少し庇った。
それだけで、周囲の空気が張る。
烈も身構えた。
だが、小夜はもう、包みを守る手を見ていた。
武器を隠す手ではない。
取られたくないものを抱く手に見えた。
「開けて」
小夜が言った。
さっきより、声は小さかった。
男は小夜を見る。
「子どもに言われる筋合いはない」
「開けないなら、分からないまま」
男は眉を寄せた。
「何だ、それは」
小夜は、手の中の黒い石を見せた。
「味方か、敵か、逃げてきた人か、まだ分からない人」
「俺を石にする気か?」
「石にしないと、みんな勝手に決める」
男は黙った。
その言葉が届いたのか、ただ疲れていただけなのかは分からない。
男は、包みを解いた。
中に入っていたのは、布だった。
油布ではない。
焦げた布。
小さな木札。
それから、子どもの草履が片方。
志乃の顔が変わった。
「誰のもの」
男は、低く答えた。
「弟の子だ」
「その子は」
「分からない」
声が、そこで少し折れた。
「火の後で、いなくなった」
誰も、すぐには言わなかった。
疑いは消えない。
だが、疑いだけでもなくなった。
小夜は、握っていた黒い石を見た。
追い返す石。
そうしようとした石。
でも、今は違う。
小夜は、黒い石を村の外れに置いた。
井戸の近くでも、家の中でもない。
でも、道の外でもない。
その横に白い石を一つ。
水を渡した。
赤い石を少し離して置く。
火に関わるもの。
そして、小さな草履の形に似た石を、さらに離して置いた。
烈が聞いた。
「それは?」
「探すもの」
男が、小夜を見た。
小夜は男を見返さない。
石を見ている。
「この人は、まだ入れない」
小夜は言った。
「でも、追い出さない」
若者が言った。
「危なかったらどうする」
小夜は、すぐには答えられなかった。
危なかったら。
その時、誰が責任を持つのか。
追い出さなかったせいで、村が傷つくかもしれない。
水を渡したせいで、火が入るかもしれない。
小夜の口が止まる。
志乃が言った。
「だから、井戸に近づけない。火にも近づけない。人が多いところにも入れない。見えるところにいてもらう」
小夜は、志乃を見た。
志乃は続ける。
「決めるのは、もう少し見てからでいい」
その言葉で、小夜の胸が少し軽くなった。
決めないことも、役目になる。
そう知った気がした。
志乃は男へ向き直った。
「納屋の横に座ってもらいます。水は渡す。火は渡さない。包みは預からない。ただ、見えるところに置いてもらう」
男は何か言おうとした。
だが、疲れたように頷いた。
「それでいい」
「名は」
志乃が聞いた。
男は、少しだけ逡巡した。
「……まだ、言わない」
若者が怒りかけた。
しかし、志乃が手で止めた。
「では、今は名なし」
小夜が黒い石を置いた。
「名なしの分からない人」
「ひどい呼び方だな」
男が言った。
「でも、敵とは書いてない」
小夜は答えた。
男は、少しだけ苦い顔をした。
「そうか」
烈は、男を納屋の横へ案内した。
近すぎず。
遠すぎず。
見える場所へ。
その背中を見ながら、志乃は小夜に言った。
「城へ知らせるべきね」
「今すぐ?」
「すぐ。ただし、騒がせないように」
烈が戻ってきた。
「俺が行きます」
「待ちなさい」
志乃は止めた。
「走る前に、何を伝えるか決める」
烈は、ぐっと口を閉じた。
戻る役。
走るだけではない。
何を持って戻るか。
それを間違えれば、知らせではなく騒ぎになる。
小夜は、石を指差した。
「黒根村の近くの男。名はまだ言わない。焦げた布と木札と子どもの草履を持っている。水は飲んだ。井戸と火には近づけてない。今は納屋の横。追い出してない」
烈は、必死に覚えようとした。
「多い」
「多いから大事」
志乃が言った。
「烈、繰り返して」
烈は息を吸った。
「黒根村の近くの男。名はまだ言わない。焦げた布、木札、子どもの草履を持っている。水は飲んだ。井戸と火には近づけていない。納屋の横。追い出していない」
「それに」
小夜が言った。
「赤土が草履についてた」
「赤土?」
「炭焼き道だけじゃないかもしれない」
志乃の目が鋭くなった。
「それも伝えなさい」
烈は頷いた。
「分かりました」
今度こそ、走り出した。
だが、村の出口で一度だけ振り返る。
小夜が石の前にいる。
志乃が納屋の方を見ている。
村人たちは、まだ不安そうに集まっている。
それでも、誰も男を殴っていない。
誰も井戸へ走らせていない。
誰も火を渡していない。
村は、まだ崩れていない。
烈は前を向いた。
戻る足が、道を蹴った。
*
夕暮れが近づく頃、煤谷村の庭には、さらに石が増えていた。
小夜は、石の前に座ったまま、何度も配置を変えている。
志乃は、男の様子を見に行った。
若者たちは、交代で少し離れた場所に立っている。
見張りというほどではない。
だが、見ている。
井戸の横には、飲む水。
少し離れて、洗う水。
さらに離れて、火を消す水。
喜助が聞いたら、変な顔をして喜ぶかもしれない。
いや、嫌がるかもしれない。
水桶で人生が変わるのは嫌だ、と言いそうだった。
小夜は、赤い石を見た。
まだ、分からない火。
その横に、黒い石がある。
名を言わない男。
その横に、小さな草履の石。
探すもの。
小夜は、指で土に線を引いた。
黒根村。
山側の小屋。
赤土。
炭焼き道。
浄火寺。
灰ヶ峰城。
線は、すぐにいっぱいになった。
どこかで繋がっている。
でも、まだ見えない。
「小夜」
志乃が戻ってきた。
「あの人、眠りかけている」
「逃げない?」
「今は」
「今は、ね」
志乃は、小夜の横に座った。
土の上の石を見つめる。
「増えたね」
「増やしすぎた」
「分からなくなった?」
「少し」
「なら、減らす?」
小夜は首を振った。
「減らす前に、分ける」
小夜は石を動かした。
人の石。
道の石。
水の石。
火の石。
分からない石。
探す石。
戻る石。
それぞれを少しずつ離す。
近すぎると、意味が混ざる。
離しすぎると、関係が見えない。
小夜は、何度も動かした。
志乃は、それを急かさなかった。
「城の帳面は、こういうことをしているのかもしれないね」
志乃が言った。
「帳面?」
「名を残すために、分けているのでしょう」
「石の方が動かせる」
「帳面は動かしにくい?」
「たぶん」
小夜は、黒い石を少し動かした。
「だから、間違えると怖い」
志乃は頷いた。
「石なら、動かせる」
「うん」
「人は?」
小夜の手が止まった。
志乃は静かに続けた。
「一度、敵だと決めた人を、後で動かせる?」
小夜は、黒い石を見た。
名を言わない男。
水は飲んだ。
火には近づけていない。
子どもの草履を持っている。
赤土がついている。
敵かもしれない。
逃げてきた人かもしれない。
誰かを探しているだけかもしれない。
「動かせるように、黒い石にしてる」
小夜は答えた。
「まだ、敵の石にしない」
「そう」
志乃は、小夜の頭に手を置いた。
「それは、怖いことだよ」
「うん」
「間違えたら、村が傷つく」
「うん」
「でも、早く決めすぎても、人が傷つく」
「うん」
小夜は、黒い石から手を離した。
「だから、見てる」
志乃は頷いた。
「なら、続けなさい」
遠くで、鳥が鳴いた。
山の上には、薄い炊煙が上がっている。
白い煙。
まっすぐ上がり、少しだけ西へ流れている。
小夜は顔を上げた。
「飯の煙」
「そう見える?」
「たぶん」
「たぶん?」
「近くで見ないと分からない」
志乃は、何も言わなかった。
小夜は赤い石を、少しだけ白い煙の線の方へ寄せた。
火。
でも、燃やす火ではないかもしれない。
食べるための火かもしれない。
誰かを誘う火かもしれない。
人を走らせる火かもしれない。
まだ、分からない。
*
夜が降りる前に、烈は戻ってきた。
息を切らしている。
だが、転んではいない。
泥は跳ねていたが、膝は破れていなかった。
「伝えた?」
小夜が聞く。
「伝えた」
「誰に?」
「瀬川様に。途中で会った」
「全部?」
「全部」
「赤土も?」
「言った」
「草履も?」
「言った」
「追い出してないことも?」
「言った」
小夜は頷いた。
烈は、息を整えながら続けた。
「瀬川様が言ってた。今夜は村で見て、明朝に黒羽様の配下が来るって」
「八瀬隼人?」
「たぶん。名前までは聞いてない」
「聞いて」
「次は聞く」
烈は素直に言った。
以前なら言い返していた。
小夜は少しだけ目を細めた。
「戻る役、少し上手くなった」
「少し?」
「少し」
「まあ、いい」
烈は庭の石を見た。
増えている。
朝よりずっと。
だが、ぐちゃぐちゃではない。
小夜なりに分けてある。
「これ、城に持っていくの?」
「持っていけない」
「じゃあ、どうする?」
「覚えてもらう」
「誰に?」
小夜は烈を見た。
「烈に」
「俺?」
「戻る役でしょ」
烈は固まった。
小夜は石を一つずつ指した。
「これは人。これは道。これは水。これは火。これは分からない人。これは探すもの。これは戻る場所」
「多い」
「多いから、分ける」
「俺、全部覚えるの?」
「全部じゃない。変わったところ」
烈は、朝の小夜と同じことを言われているとは気づかなかった。
志乃は、それを見て小さく笑った。
烈は、石の前にしゃがんだ。
「じゃあ、今変わったのは?」
小夜は黒い石を指した。
「名を言わない男が来た」
赤い石を指す。
「火に関わるものを持ってる。でも油布じゃない」
小さな石を指す。
「子どもの草履」
線を指す。
「赤土」
水の石を指す。
「水は飲んだ」
納屋の石を指す。
「井戸と火には近づけてない」
戻る石を指す。
「村はまだ崩れてない」
烈は、ゆっくり繰り返した。
「名を言わない男。火に関わるもの。でも油布じゃない。子どもの草履。赤土。水は飲んだ。井戸と火には近づけてない。村はまだ崩れてない」
「うん」
小夜は頷いた。
「それを忘れないで」
烈は、真剣に頷いた。
「分かった」
志乃が、家の前の石を少し動かした。
烈と小夜が同時に見る。
「母上?」
「戻る場所を、少し広げる」
志乃は言った。
家の前の石の横に、もう一つ小さな石を置く。
「村に来た者が、まだ敵でも味方でもないなら、立たせる場所がいる」
小夜は、その石を見た。
「戻る場所じゃなくて、留める場所?」
「そう」
烈が聞く。
「入れるんですか?」
「入れない。でも、追い出さない」
志乃は、昼間の小夜の言葉をそのまま使った。
小夜は少しだけ嬉しそうにした。
それを見て、烈が言った。
「母上も石、上手いですね」
志乃は、少し困ったように笑った。
「褒められている気がしないね」
「褒めてます」
小夜は真面目に言った。
夜の風が吹いた。
庭の石は、もう薄暗い中に沈み始めている。
それでも、形は見えた。
人。
道。
水。
火。
分からない者。
探すもの。
戻る場所。
留める場所。
城では、帳面に名を残そうとしている。
村では、石が役目を探している。
どちらも、まだ頼りない。
紙は破れる。
石は蹴られれば崩れる。
人は忘れる。
それでも、何も残さないよりはいい。
小夜は、最後に赤い石を一つ、村の外れに置いた。
烈が聞いた。
「また火?」
「うん」
「今度はどこの火?」
小夜は、山の方を見た。
薄い煙は、もう夜に混じって見えなくなっている。
「まだ、分からない」
「またそれ?」
「分からないものを、分かったことにしない」
烈は黙った。
その言葉は、少し重かった。
志乃が戸口に立つ。
「二人とも、中へ入りなさい。夜は石も見えなくなる」
「見えなくなったら?」
烈が聞いた。
志乃は答えた。
「明日の朝、崩れていないか見る」
小夜は頷いた。
「崩れてたら、直す」
「直せる?」
「石なら」
小夜は、黒い石を見た。
人は、石ほど簡単には直せない。
だから、崩れる前に見なければならない。
その時だった。
山の向こうで、白い煙が一度だけ横に流れた。
小夜は、足を止めた。
志乃も振り返る。
烈も、山を見る。
飯の煙にしては、低かった。
風のせいかもしれない。
誰かが薪を足しただけかもしれない。
けれど、小夜は庭へ戻った。
赤い石の横に、黒い石を一つ置く。
「小夜」
志乃が呼んだ。
「まだ、分からない」
小夜は言った。
その声は、昼よりも少し硬かった。
志乃は、止めなかった。
「なら、そこに置いておきなさい」
小夜は頷いた。
赤い石。
黒い石。
火と、分からないもの。
夜が近づいていた。
けれど、庭の石はまだ見えた。
煤谷村は、石を並べて夜を迎えた。
三日後に始まるはずの火定めは、城より先に、村の土の上で静かに息をし始めていた。
そして、その石の端には、まだ名のない煙が一つ、置かれていた。




