【第22話】帳面に載らぬ手
朝の灰ヶ峰城は、紙の匂いがした。
昨日まで、大広間には泥と灰と濡れた縄が置かれていた。
割れた椀。
黒い灰。
火薬箱の縄。
小夜の石。
どれも、戦の跡だった。
だが、今朝の城の奥にある小部屋には、それらとは違うものが並んでいた。
白い紙。
細い筆。
乾いた墨。
古い帳面。
役目の名が書かれた木札。
兵の数。
米の数。
怪我人の数。
馬の数。
火薬箱の数。
数字は、きれいに並んでいた。
けれど、そこに昨日の手は入っていなかった。
「……入らぬ」
鷹見が、低く言った。
声に怒りはない。
ただ、疲れがあった。
目の前の帳面には、細かな線が引かれている。
左から、名。
村。
役。
働き。
功。
過ち。
負傷。
次の任。
それだけで紙はいっぱいだった。
鷹見は、筆を持ったまま動かない。
倉橋が横から覗き込む。
「何が入らぬ」
「すべてです」
鷹見は答えた。
「名も、役も、働きも、危うさも、次に使えるかどうかも。紙一枚には入りませぬ」
坂部が腕を組んで笑った。
「紙も荷台と同じだな」
「何がですか?」
「積めると思ったら積めねえ」
辰五郎がいれば、そこで文句を言ったかもしれない。
だが、今ここに辰五郎はいない。
傷を休ませろと坂部に言われ、城の外れの小屋で肩を縛られている。
それでも、あの男の声だけは部屋の中に残っている気がした。
荷は肩で持つように見える。
だが、最後に崩れるのは膝。
鷹見は、帳面の余白に小さく書いた。
人足の膝を見る者。
その横に、筆が止まった。
「これは、役なのか」
倉橋が言った。
「人足頭では不足か」
「不足です」
鷹見は即座に答えた。
「人足頭と書けば、荷をまとめる者に見える。だが、辰五郎が見たのは荷ではなく、人の崩れ際です」
坂部が鼻を鳴らした。
「本人に聞かせてやりてえな。調子に乗るぞ」
「調子に乗られても、記録せねばなりませぬ」
鷹見は墨を含ませた。
だが、また筆は止まる。
「人の崩れ際を見る者」
その言葉を口にして、鷹見自身が少し眉を寄せた。
「長いな」
坂部が言った。
「帳面に向かぬ」
「では、何と」
「知らん」
倉橋が、古い帳面を一冊開いた。
そこには、過去の戦で働いた者の名が並んでいた。
槍働き。
敵首。
矢傷。
馬上働き。
物見。
荷駄。
兵糧。
城普請。
言葉はあった。
だが、昨日のことをそのまま入れる言葉は少なかった。
水を倒さなかった者。
椀を奥へ運んだ子。
門を閉めさせなかった者。
撃たなかった者。
煙の向きを告げた拘束者。
石と枝で道を示した女の子。
歩ける者と歩けない者を村で分けた母。
どれも、古い帳面の中には居場所がない。
瀬川は、部屋の隅でそのやり取りを聞いていた。
夜明け前から呼ばれている。
大広間で語ったことを、今度は紙に直すためだった。
評定で口にするより、紙に残す方が難しい。
瀬川は、そう思った。
言葉は、その場の息で重さを持つ。
だが、紙に落とすと、すぐに軽くなる。
嘉七。
火を見た。
水を運んだ。
不満を煽った。
たったそれだけでは、あの男の危うさも、役立ちも残らない。
庄吾。
煙の向きを告げた。
油布を持っていた。
子がいた。
これも同じだ。
敵か。
民か。
役に立つ者か。
危うい者か。
どれか一つに丸をつけた瞬間に、昨日見たものが消える。
「瀬川」
鷹見が呼んだ。
「はい」
「そなたが報告した者たちを、どう分ける」
「分けられませぬ」
部屋の中が静かになった。
坂部が片眉を上げる。
倉橋も、帳面から顔を上げた。
鷹見は怒らなかった。
「分けられぬものを、どう残す」
瀬川は、少し黙った。
窓の外で、桶に水を注ぐ音がした。
誰かが朝の水を運んでいる。
ごぼり、と水が揺れる。
その音で、喜助の顔が浮かんだ。
水桶のことしかしていない、と言っていた顔。
けれど、その水桶を置く場所で人が動いた。
瀬川は言った。
「分けるのではなく、重ねて残すべきかと」
「重ねる?」
「はい」
瀬川は、一歩前に出た。
「例えば、嘉七は不満を煽った者です。同時に、火を見た者です。さらに、水を運んだ者でもあります」
鷹見の筆が止まったまま、瀬川を見ている。
「一つに定めれば、嘘になります」
瀬川は続けた。
「不満だけを書けば、火を見たことが消えます。火を見たことだけを書けば、不満を煽った危うさが消えます」
倉橋が言った。
「ならば、功過を併記する」
「それだけでは足りませぬ」
「なぜだ」
「次にどこへ置くかが分かりませぬ」
瀬川は、昨日の門前を思い出した。
嘉七の声。
梅吉の手。
太助の小さな背。
庄吾の横顔。
「嘉七を米のそばに置けば、不満が広がる恐れがあります。ですが、火を見る場に置けば役に立つ。水場に置いても、言葉を選ばねば人を乱します」
坂部が腕をほどいた。
「荷と同じだな」
瀬川が頷く。
「置き場所で、役にも害にもなります」
鷹見は、やっと筆を動かした。
名。
村。
危うさ。
見たもの。
置き場所。
次に試す役。
新しい欄が、帳面の端に増えた。
鷹見は、それを見て小さく息を吐く。
「欄が足りぬ」
「紙を増やしましょう」
倉橋が言った。
「紙もただではない」
鷹見が返す。
「米よりは軽い」
坂部が言う。
「軽いが、増えりゃ荷になる」
倉橋がぴしゃりと言った。
「紙代は兵糧から出さぬぞ」
「誰も米で紙を食うとは言ってねえ」
少しだけ部屋の空気が緩んだ。
だが、すぐに戻る。
笑えることではない。
紙を増やすということは、記録する者を増やすということだ。
記録する者を増やすには、見られる者も増える。
見られる者が増えれば、反発も増える。
瀬川は、それを分かっていた。
城の中だけなら、火定めは美しい言葉で済む。
だが、村に降りれば違う。
百姓は疑う。
人足は身構える。
武士は嫉む。
火を持つ者を見つけるということは、火を持たぬ者の顔も照らす。
*
昼前、城の南の長屋に、数人が呼ばれた。
喜助は、部屋に入るなり顔をしかめた。
「また城の中?」
迅は隣で小さく言った。
「声が大きい」
「いや、だって昨日で終わりじゃないの?」
「終わってない」
「嫌な言い方するなあ」
喜助は肩を落とした。
長屋の中には、瀬川、鷹見、坂部、倉橋がいる。
その横には、木札がいくつも積まれていた。
水。
米。
荷。
火。
道。
民。
撃つ。
撃たぬ。
戻る。
分ける。
新しい木札もある。
役目を見る。
役目を残す。
迅はそれを見て、胸の奥が少しざわついた。
火定め。
昨日、景胤が言った言葉。
その言葉が、もう木札になっている。
木札になると、急に逃げられないものに見えた。
「喜助」
瀬川が言った。
「はい」
「昨日、水の置き場を申したな」
「はい。言いました」
「もう一度言え」
「え、またですか?」
「今度は、帳面に残す」
喜助は露骨に嫌そうな顔をした。
「俺、そんな大したこと言ってませんよ」
鷹見が筆を持った。
「大したことかどうかは、こちらで見る」
「それが怖いんですけど」
坂部が笑った。
「水桶で人生が変わるかもしれねえぞ」
「本当に嫌です」
迅は、少しだけ笑いそうになった。
だが、喜助の顔は半分本気だった。
戦で名を上げたい者なら、嬉しいのかもしれない。
でも、喜助は違う。
水桶を運んだだけのつもりだった。
それが突然、城の帳面に載る。
怖いに決まっている。
喜助は、渋々口を開いた。
「飲む水と、洗う水と、火を消す水は、同じ場所に置かない方がいいです」
鷹見の筆が動く。
「理由は」
「人が集まるからです。飲む水のところに椀を洗う人が来ると揉めます。火消しの水のところに子どもが来ると、火が来た時に使えません。火薬箱の近くに置きすぎても、人が寄ります。でも、遠すぎると間に合いません」
「どれくらい離す」
「え?」
喜助が固まった。
「どれくらい離すのがよい」
「それは……場所によります」
鷹見の筆が止まる。
喜助は慌てた。
「あ、逃げてるわけじゃなくて。門の近くなら、すぐ取りに行けるけど人が詰まります。井戸の近くなら汲みやすいけど、そこに人が集まります。火薬箱の近くなら近すぎると危ないし、遠すぎると火が出た時に遅いし」
喜助は、自分で言いながらどんどん困った顔になる。
「つまり、決まってないです」
「決まっていないことを見たのか」
瀬川が問う。
喜助は眉を寄せた。
「……はい」
「なら、それを書けばよい」
鷹見は、ゆっくりと筆を動かした。
水の置き場を見る者。
場所に応じて、人の寄りと火の近さを見る。
喜助は、その文字を覗き込んだ。
「それ、俺ですか?」
「今はな」
「今は?」
「続くかどうかは、これから見る」
「怖い言い方するなあ」
瀬川は、喜助を見た。
「喜助」
「はい」
「役目に名がつくと、逃げにくくなる」
喜助の顔から、少し笑いが消えた。
「はい」
「だが、名がつかねば、次に同じことが起きた時、誰も水を見ない」
喜助は黙った。
昨日の門前。
水桶の前に集まった手。
飲み水を求める声。
火を消す水を勝手に使おうとした者。
椀を洗う子。
その全部を、喜助も見ていた。
「……俺が見るんですか?」
「まずはな」
「ずっと?」
「それは、そなた次第だ」
喜助は困ったように頭をかいた。
「水桶、重いんだよなあ」
坂部が言った。
「重いから役目になる」
喜助は、少しだけ口を尖らせた。
「軽い役目とかないんですか?」
「軽ければ、誰かが勝手にやる」
倉橋が言った。
「重いから、名をつけねばならぬ」
喜助は、今度は黙った。
迅は、その横顔を見た。
喜助は笑っているようで、笑っていなかった。
自分の手が、ただの手ではなくなる。
それは、嬉しいだけではない。
*
次に呼ばれたのは、藤吉だった。
膝に巻いた布は、昨日より厚くなっている。
歩き方はぎこちない。
だが、誰かに支えられるのを嫌がり、自分で部屋に入ってきた。
辰五郎も来た。
来るなと言われたのに来た。
肩に布を巻き、片腕を吊っている。
坂部が顔をしかめた。
「休めと言ったはずだ」
「休んでます」
「どこがだ」
「肩は休んでます」
「足が動いている」
「足は無事です」
坂部はため息をついた。
「お前は荷より面倒だ」
「荷は文句を言いませんからね」
辰五郎はそう言って、藤吉の後ろに座った。
藤吉は、居心地が悪そうに目を伏せている。
鷹見が問う。
「藤吉」
「はい」
「火薬箱を支えた時、どこを見た」
藤吉は、すぐには答えなかった。
膝の布を見た。
それから、ゆっくり言う。
「箱の下です」
「箱の下?」
「はい。落ちると思ったので」
「人ではなく、箱か」
「最初は箱です。でも、その後ろに人足がいました。箱が真下に落ちたら、足が潰れると思いました」
鷹見の筆が動く。
火薬箱の落ちる向きを見る。
藤吉は、顔を上げた。
「違います」
鷹見の筆が止まった。
部屋の空気が少し変わる。
藤吉は、慌てたように首を振った。
「あ、違うというか……それだけじゃなくて」
辰五郎が横から言った。
「腹で言え」
「またですか?」
「頭で言うと転ぶ」
藤吉は、息を吸った。
「箱だけ見たら、たぶん支えに入ってました。でも、人の足を見たら、落ちる場所を変えないといけないと思いました」
「つまり」
瀬川が促す。
「支えるんじゃなくて、逃がす場所を作る感じです」
坂部が、わずかに目を細めた。
倉橋も顔を上げた。
鷹見は、さっき書いた文字の上に線を引かず、横に続けた。
落ちる荷の向きを変え、人の足を逃がす。
辰五郎が低く笑った。
「若いくせに、生意気な目をしやがる」
藤吉は顔を赤くした。
「生意気ですか?」
「褒めてる」
「分かりにくいです」
「分かりやすい褒め言葉は高い」
坂部が辰五郎を睨んだ。
「お前は黙れ」
「はいはい」
だが、辰五郎は黙らない顔をしていた。
鷹見は、藤吉を見た。
「もう一度できるか」
「今はできません」
藤吉は、昨日より少し早く答えた。
鷹見の筆が動く。
続けての任には耐えず。
藤吉は、その文字を見て少し肩を落とした。
瀬川は言った。
「できぬと書かれるのが嫌か」
「……少し」
「だが、できると書かれて、次に潰れる方が悪い」
藤吉は、顔を上げた。
辰五郎が頷く。
「荷は見栄で持つな。見栄で持つ荷は、だいたい落ちる」
藤吉は小さく頷いた。
鷹見は続けて、辰五郎を見る。
「辰五郎」
「へい」
「そなたは、人足の膝を見る者と記録されている」
辰五郎は、変な顔をした。
「膝だけですか?」
「不満か」
「いや、肩も見ますし、腰も見ますし、顔色も見ますし、嘘も見ます」
坂部が言った。
「ほら、面倒だろう」
鷹見は、珍しく少しだけ目を細めた。
「では、何と書く」
辰五郎は、急に黙った。
部屋の中で、外の風の音が聞こえた。
肩の布が、少し揺れる。
辰五郎は、しばらく考えた。
「……荷を持つ前の人を見る者、ですかね」
坂部の顔から、ふざけた色が消えた。
藤吉も辰五郎を見る。
辰五郎は、照れたように鼻をこすった。
「持ってからじゃ遅いんで。持つ前に分かる時があります。こいつは強がってるなとか、こいつは今日はやめとけとか、こいつは軽い荷なら持てるとか」
鷹見が書く。
荷を持つ前の人を見る者。
坂部が言った。
「長い」
「短くしたら嘘になります」
辰五郎は、珍しく真面目な声で返した。
「荷駄頭なら、荷を見ます。人足頭なら、人足をまとめます。でも、俺が本当に見てるのは、荷を持つ前の顔です」
鷹見は、筆を止めなかった。
「ならば、そのまま残す」
辰五郎は、少しだけ目を伏せた。
「……へい」
迅は、その様子を黙って見ていた。
昨日、広間で聞いた時よりも、胸に近かった。
役目に名をつける。
それは、誰かを褒めることだけではない。
その人が何を見ていたのかを、もう一度本人に問うことだった。
問われた者は、自分の手を見る。
自分が何をしてしまったのか。
何をできなかったのか。
次に何を背負うのか。
それを見る。
迅は、自分の手を握った。
自分も、いずれ問われる。
撃たなかった手。
止めた手。
見た手。
その名を。
*
城下には、昼を過ぎる頃から噂が落ち始めた。
最初は、米の量の話だった。
次に、火薬箱の話。
その次に、昨日の大広間に人足や村の少年が上がったという話。
そして、夕刻前には別の形になっていた。
百姓も武士になるらしい。
女も城に上がるらしい。
水桶を持てば扶持が出るらしい。
人足が刀を差すらしい。
寺の者まで兵にされるらしい。
噂は、煙より早い。
しかも、煙より形が悪い。
瀬川が城門近くへ出た時、そこには数人の下級武士が集まっていた。
声は抑えている。
だが、耳を澄ませずとも聞こえた。
「馬鹿な話だ」
「火を見る? 水を見る? そんなものまで役にするのか」
「我らは何のために槍を習ってきた」
「人足と並べて見られるなど、御免だ」
瀬川は足を止めた。
声の主の一人が、瀬川に気づいた。
若い武士だった。
瀬川より少し年下かもしれない。
目に、不満がある。
その不満は、敵に向いたものではなかった。
「瀬川殿」
若い武士は、わざと丁寧に頭を下げた。
「大広間では、よいお働きで」
瀬川は、礼だけ返した。
「何か用か」
「用というほどでは。ただ、聞きたいのです」
若い武士は顔を上げる。
「これからは、水桶を運ぶ者も、我らと同じに扱われるのですか」
周囲の空気が固まる。
瀬川は、相手の目を見た。
「同じではない」
若い武士の口元が少し緩んだ。
だが、瀬川は続けた。
「だが、軽くもない」
口元の緩みが消える。
「水桶が倒れれば、門前は崩れる。門前が崩れれば、槍を持つ者も動けぬ」
「それは分かります。ですが、それは雑事です」
「雑事で崩れるのが戦だ」
瀬川の声は強くなかった。
だが、逃げなかった。
「槍が届く前に、人が詰まる。腹が減る。水で揉める。煙で走る。荷が落ちる。道が塞がる。そこを見ずに槍だけ振っても、国は守れぬ」
若い武士の顔が赤くなった。
「では、我らの槍は不要と?」
「誰もそうは言っていない」
「ならば、なぜ人足や百姓まで」
「槍だけでは足りぬからだ」
瀬川は、昨日の景胤の声を思い出した。
撃つ者だけでは足りぬ。
撃たぬと決める目もいる。
「そなたの槍が不要なのではない。そなたの槍が届く場所まで、道を崩さぬ者が必要なのだ」
若い武士は言葉に詰まった。
それでも、引かない。
「ですが、働き次第で扶持も名も帯刀もあると聞きました」
「ああ」
「それでは、武士の家に生まれた意味は」
その問いは、瀬川の胸にも刺さった。
瀬川も武士だ。
下級とはいえ、武士として生まれた。
槍を持つ意味。
名を持つ意味。
それを、何度も教えられてきた。
だが、沢の出口で見た。
槍を持たぬ手が、道を支えていた。
水桶を持つ手。
椀を洗う手。
子を抱く手。
米を担ぐ手。
撃たせないために震えた手。
それらがなければ、武士の槍は届かない。
瀬川は答えた。
「意味は、これから示せ」
若い武士が眉を寄せる。
「何を」
「武士として生まれたなら、ただ名に座るな」
瀬川は静かに言った。
「名もなき手を使い潰すのではなく、見つけ、置き、守る。それも武士の役目になる」
「百姓の肩を持つのですか」
「国の底を見ている」
若い武士は黙った。
瀬川の言葉は、きれいではなかった。
自分でも、そう思った。
まだ、うまく言えない。
だが、言わなければならなかった。
火定めは、景胤の言葉だけでは動かない。
こういう場所で、何度もぶつかる。
何度も歪む。
何度も疑われる。
そのたびに、誰かが言葉にしなければならない。
若い武士は、最後に低く言った。
「不服は、あります」
「あるだろう」
「消えませぬ」
「消さずに持て」
瀬川は言った。
「ただし、見ろ。水桶を。荷を。道を。火を。見たうえで、なお不服なら、評定で言え」
若い武士は、何も言わずに頭を下げた。
納得した顔ではない。
だが、逃げる顔でもなかった。
瀬川は歩き出す。
城門の外から、土の匂いがした。
雨は止んでいる。
だが、道はまだ湿っていた。
*
夕方、灰ヶ峰城の奥で、景胤は一枚の紙を見ていた。
鷹見が書いたものだった。
横には真木。
その後ろに瀬川、倉橋、坂部、黒羽、赤松弥八が控えている。
紙には、まだ墨が乾ききっていない。
景胤はゆっくり読んだ。
一、火定めは武の試しのみにあらず。
一、米、荷、道、火、水、民、鉄砲、退路、負傷者の扱いを見る。
一、身分、年、男女、家の名のみで退けぬ。
一、ただちに取り立てるにあらず。まず役につけ、働きを重ねて見る。
一、功のみを記さず、過ちのみを記さず。置き場所、危うさ、次に試す役も記す。
一、名が分からぬ者は、役で残す。
景胤は最後の一文で目を止めた。
「役で残す」
その声は小さい。
だが、部屋にいる者たちには届いた。
鷹見が頭を下げる。
「名を聞けなかった者が多くおります。昨日の混乱では、なおさら」
「責めているのではない」
景胤は紙から目を離さない。
「名を聞けぬほどの場で働いた者ほど、消えやすい」
真木が言った。
「布告にしますか」
景胤は少し考えた。
「堅すぎれば、民は怯える。軽すぎれば、武士が侮る」
倉橋が口を開く。
「米の配り方と同じですな」
景胤が倉橋を見る。
「隠せば疑い、見せすぎれば奪い合う」
「はい」
坂部が続けた。
「荷も同じです。全部持てと言えば潰れる。持つなと言えば届かない」
黒羽が言った。
「道も同じ。閉じれば民が来られず、開ければ敵も来る」
赤松弥八が鼻を鳴らす。
「火もだ。近づけすぎりゃ焼ける。遠ざけすぎりゃ使えねえ」
景胤は、一人ずつ見た。
そして、瀬川へ視線を向けた。
「瀬川」
「はっ」
「城下の声は」
「反発があります」
瀬川は隠さなかった。
「特に若い武士の間で、人足や百姓と並べて見られることへの不満が出ています」
「そうか」
「ただ、見たうえで申せと伝えました」
景胤は、わずかに頷いた。
「よい」
瀬川は頭を下げた。
景胤は、紙を机に置く。
「火定めは、火を見つけるだけでは済まぬな」
真木が答える。
「火を見つければ、影も濃くなります」
「うむ」
景胤の指が、紙の上を軽く押さえた。
「身分を問わぬと言えば、身分を持つ者が揺れる。役を与えると言えば、役を奪われると思う者が出る。名を残すと言えば、名を持たぬ者は怯え、名を持つ者は警戒する」
景胤は、静かに息を吐いた。
「それでも行う」
誰も、止めなかった。
止めれば、昨日見たものをなかったことにする。
割れた椀。
黒い灰。
火薬箱の縄。
小夜の石。
それらがまた、名前もなく消える。
景胤は言った。
「布告を出す」
鷹見が顔を上げる。
「はっ」
「ただし、こう書け」
景胤は、言葉を選ぶように続けた。
「火定めは、武士を軽んじるものではない。百姓を飾るものでもない。戦の底で国を支える手を見落とさぬために行う」
鷹見の筆が走る。
「槍の者は槍を。米の者は米を。荷の者は荷を。道の者は道を。火の者は火を。水の者は水を。民の者は民を。それぞれの場で見る」
景胤は、そこで一度止まった。
「同じ場に並べるのではない。同じ火を見る」
昨日と同じ言葉。
だが、今は布告の言葉になっていく。
瀬川は、その瞬間を見ていた。
大広間の熱が、紙に移る。
ただし、紙になれば冷える。
冷えた言葉を、もう一度現場で温めなければならない。
それが、自分たちの仕事になる。
景胤は最後に言った。
「第一の火定めは、三日後より始める」
部屋の空気が変わった。
坂部が眉を上げる。
「早いですな」
「遅ければ、昨日の火が噂になる。噂になれば形が崩れる」
黒羽が頷く。
「見たものが残っているうちに、見るべきです」
赤松弥八が言った。
「鉄砲はまだ撃たせませんぞ」
「分かっている」
景胤は答えた。
「まずは持たせ、構えさせ、見させよ。火を怖がれるかを見る」
赤松弥八は、不満そうでありながら、どこか満足そうに頭を下げた。
「承知」
景胤は、瀬川へ言った。
「迅たちにも伝えよ」
「迅たち、ですか」
「迅だけではない」
景胤の声が静かに落ちる。
「喜助、烈、小夜、志乃。辰五郎、藤吉。梅吉、嘉七、太助、庄吾。名を知る者も、まだ知らぬ者も」
瀬川は頭を下げた。
「はっ」
「ただし、無理に引きずり出すな。村の目を失えば、また道が崩れる」
「承知しました」
黒羽がわずかに頷いた。
景胤は紙を見下ろした。
「役目は、城だけにあるのではない」
その言葉で、部屋の全員が静かになった。
*
日が沈む頃、迅は城の外れで瀬川から話を聞いた。
喜助もいる。
藤吉も、膝を庇いながら座っている。
辰五郎は、また来るなと言われたのに来ている。
烈は、煤谷村へ戻るために布包みを抱えていた。
「三日後から?」
喜助が声を上げた。
「早くないですか?」
「早い」
瀬川は認めた。
「だが、遅ければ噂が勝手に火定めを作る」
「噂の火定めって何ですか」
「水桶を持てば侍になれる、などだ」
「嫌すぎる」
喜助が本気で顔をしかめる。
辰五郎が笑った。
「お前、侍になったら水桶差して歩け」
「刀みたいに言わないでください」
藤吉が少し笑った。
その笑いで、場が少しだけ和らいだ。
瀬川は続ける。
「火定めは、誰かをすぐに侍にするものではない。まず見る。役につける。続くかどうかを見る」
迅は黙って聞いていた。
火のそばに置く価値がある。
赤松弥八の言葉が、まだ耳に残っている。
三日後。
早い。
怖い。
でも、遠ざけられなかった。
烈が言った。
「小夜も来るんですか?」
「まだ分からぬ」
瀬川は答えた。
「黒羽殿は、村の目を減らすなと言っている。小夜は村に残したまま、石と枝を送らせることもある」
烈は少し残念そうにした。
だが、すぐに頷いた。
「伝えます」
「志乃殿にも伝えよ。村で人を分けること、水の場所を決めること、それも見ると」
烈の顔つきが変わった。
「母上も、ですか?」
「そうだ」
「母上は、戦に出ません」
「戦に出ぬ者が、戦を支えることもある」
烈は、布包みを抱え直した。
「分かりました」
迅は、弟の横顔を見た。
烈はもう、ただ戦いたいと言うだけの顔ではなかった。
戻る役。
伝える役。
村に火を持ち帰る役。
その足が、少しずつ変わっている。
瀬川は、最後に迅を見た。
「迅」
「はい」
「そなたは、赤松殿のところへ行く」
迅の背中が固まった。
「鉄砲ですか?」
「まずは見るだけだ」
「見るだけ」
「そうだ」
瀬川は、少しだけ間を置いた。
「ただし、火のそばで見る」
迅は、喉が乾いた。
火。
煙。
油布。
火薬箱。
庄吾を撃たなかった時の音のなさ。
火縄の匂い。
全部が胸に戻ってくる。
「怖いか」
瀬川が問う。
迅は、すぐに答えられなかった。
喜助が横でこちらを見る。
烈も見る。
藤吉も、辰五郎も、何も言わない。
迅は、自分の手を見た。
まだ震えていない。
でも、震えそうだった。
「怖いです」
正直に言った。
瀬川は頷いた。
「なら、よい」
「よいんですか?」
「恐れぬ者は、火のそばに置けぬ」
赤松弥八と似たことを、瀬川も言った。
迅は息を吐く。
怖いなら、見ろ。
その言葉は、逃げ道ではなかった。
怖いまま、近づけということだった。
「迅」
喜助が小さく言った。
「俺、水見るからさ」
「うん」
「火、見てきて」
軽い言い方だった。
だが、軽くなかった。
迅は頷いた。
「うん」
藤吉が言った。
「俺は、今は持てません」
辰五郎がすぐ言う。
「持つな」
「はい。でも、見ます。誰が持てるか」
辰五郎は、少し驚いたように藤吉を見た。
それから、にやりと笑った。
「膝だけじゃなく、顔も見ろ」
「はい」
「見栄張ってる奴は、だいたい顎が上がる」
「辰五郎さんもですか?」
「俺は別だ」
「別なんですか?」
「俺は人に言う側だ」
坂部がいれば怒鳴っていたかもしれない。
だが、ここにはいない。
その代わり、瀬川が小さく咳払いした。
辰五郎は黙った。
夕風が吹いた。
灰ヶ峰城の石垣が赤く染まっている。
昨日と同じ夕焼け。
だが、迅の目には少し違って見えた。
昨日は、火の名がついた。
今日は、その火を紙に残そうとしている。
紙に残すだけでは足りない。
人に戻さなければならない。
水を見る者へ。
荷を見る者へ。
道を見る者へ。
火を見る者へ。
戻る足へ。
村で分ける手へ。
撃つ前に見る目へ。
烈が、布包みを抱えて立ち上がった。
「兄上」
「何」
「伝えてきます」
「うん」
「小夜に、石を崩すなって言えばいいですか?」
迅は少し考えた。
小夜の石。
城の畳の上に並べられた小さな村。
煙と道。
水場と戸口。
分からないものまで分けてあった石。
「崩すな、じゃない」
迅は言った。
「増やしておけって」
烈は目を丸くした。
「増やす?」
「うん。城が見るなら、村ももっと見ておいた方がいい」
烈は、少しだけ笑った。
「分かりました」
そう言って、坂道を下り始めた。
夕焼けの中で、烈の背中が小さくなっていく。
その胸には、城の言葉が入っている。
火定め。
村で分ける手。
石を増やせ。
迅は、その背中を見送った。
*
煤谷村に着いた頃、空はもう薄紫に変わっていた。
山の端だけが、かすかに赤い。
炊き煙が細く上がっている。
火の匂いではない。
飯の匂いだった。
それでも烈は、一瞬だけ足を止めた。
煙を見る癖がついていた。
高いか。
低いか。
白いか。
黒いか。
まっすぐか。
流れているか。
「烈」
声がした。
志乃だった。
家の前に立っている。
手には濡れた布がある。
水を運び、誰かの足を拭いた後なのだろう。
小夜は、庭先にしゃがんでいた。
石を並べている。
その横には、枝と木の皮と、割れた小さな椀の欠片があった。
烈は息を整えた。
「戻りました」
「おかえり」
志乃は短く言った。
だが、その目は烈の顔を確かめていた。
怪我はないか。
怖いものを見ていないか。
無理をしていないか。
言葉にしなくても、分かった。
小夜が顔を上げる。
「石、どうだった?」
「評定に出た」
小夜の目が少し開いた。
「全部?」
「全部。黒羽様が説明してた」
「崩してなかった?」
「崩してなかった」
小夜は、ほっとしたように石へ目を落とした。
烈は、城で聞いたことを順に話した。
火定めのこと。
三日後から始まること。
武士だけではないこと。
水を見る者。
荷を見る者。
道を見る者。
火を見る者。
民を見る者。
戻る足。
村で分ける手。
志乃は、黙って聞いていた。
途中で一度だけ、布を絞った。
水が土に落ちる。
ぽたり、ぽたりと。
それは、城道の朝の音に少し似ていた。
「母上のことも言ってました」
烈が言った。
志乃の手が止まる。
「私?」
「村で人を分けること。水の場所を決めること。それも見るって」
志乃は、すぐには答えなかった。
小夜も、石から顔を上げた。
母を見る。
志乃は、濡れた布を桶の縁にかけた。
「……私は、戦に出ていない」
「瀬川様もそう言ってました。でも、戦に出ない人が、戦を支えることもあるって」
志乃の目が、少しだけ揺れた。
夫を戦で失った人の目だった。
戦に出る者だけが傷つくわけではない。
それを知っている目だった。
「そう」
志乃はそれだけ言った。
小夜が、小さな石を一つ持ち上げた。
「じゃあ、城は、村も見るの?」
烈は頷いた。
「見るって」
「ここも?」
「うん」
「水をどこに置くかも?」
「うん」
「歩ける人と、歩けない人を分けることも?」
「うん」
小夜は、石を一つ置いた。
家の前。
もう一つ置いた。
井戸のそば。
細い枝を、道の端に置いた。
それから、黒い石を少し離れた場所に置いた。
「これは?」
烈が聞いた。
「分からない人」
「分からない人?」
「味方か、敵か、逃げてきた人か、まだ分からない人」
烈は黙った。
小夜は、さらに白い石を三つ並べた。
「これは、歩ける人」
丸い石を二つ。
「これは、歩けない人」
細長い枝を一本。
「これは、水を運べる人」
小さな椀の欠片を、少し離して置く。
「これは、先に渡す椀」
志乃が、静かにその石を見ていた。
「小夜」
「何」
「石を増やしすぎると、分からなくなる」
「うん」
小夜は頷いた。
「だから、分からない石も作る」
志乃は、少しだけ息を吐いた。
叱らなかった。
小夜は、庭の土に指で線を引いた。
城へ向かう道。
浄火寺へ向かう道。
炭焼き道。
獣道。
沢の出口。
水場。
村の戸口。
そして、石を置く。
烈は、その横にしゃがんだ。
「兄上が言ってた」
「何て?」
「崩すな、じゃなくて、増やしておけって」
小夜は、一瞬だけ手を止めた。
それから、ほんの少し笑った。
「兄上、少し分かってきたね」
「上から言うなよ」
「烈よりは分かってる」
「俺だって戻る役なんだからな」
「知ってる」
小夜は、細い枝を烈の前に置いた。
「これは烈」
「俺、枝?」
「走るから」
「もっと強そうなのがいい」
「戻る役は、折れちゃだめ」
烈は言い返そうとして、やめた。
折れてはいけない。
戻る役。
それは、思ったより重い。
志乃が、二人の前に膝をついた。
そして、小さな石を一つ、家の前に置いた。
「これは?」
小夜が聞く。
志乃は答えた。
「戻る場所」
小夜も烈も、黙った。
志乃は、石から手を離す。
「役目が増えても、戻る場所を忘れてはいけない」
夜の風が、庭を通った。
山の向こうに、薄い煙が流れている。
小夜はそれを見た。
烈も見た。
志乃も見た。
誰も、すぐには何も言わなかった。
城では、帳面に手を残そうとしている。
村では、石が増えていく。
名のない手。
まだ役と呼ばれていない手。
誰かを支えたことすら、自分では気づいていない手。
それらを、消さないために。
小夜は、最後に一つだけ、小さな赤い石を置いた。
烈が聞いた。
「それは?」
「火」
「どこの火?」
小夜は、少し考えた。
そして言った。
「まだ、分からない」
志乃が静かに頷いた。
「なら、そこに置いておきなさい」
小夜は、赤い石を動かさなかった。
夜が近づいていた。
けれど、庭の石はまだ見えた。
城の帳面には載らないものが、村の土の上に並んでいる。
消えないように。
崩れないように。
次に誰かが見る時、そこにあったと分かるように。
烈は、その石をじっと見ていた。
三日後、火定めが始まる。
だが、火はもう城だけにあるのではない。
煤谷村の土の上にも、小さく置かれていた。




