【第21話】灰ヶ峰の大評定
灰ヶ峰城の石垣は、朝の光を受けても冷たく見えた。
昨夜の雨が、まだ城道の端に残っている。
草の葉から落ちる水が、ぽたり、ぽたりと土を打つ。
迅は、城門へ続く坂を見上げた。
何度か来た場所のはずだった。
けれど、今日は違う。
沢の出口から戻った時より、足が重い。
浄火寺の門前で火を見た時より、喉が乾く。
敵がいるわけではない。
槍を向けられているわけでもない。
それでも、怖かった。
これから、自分が見たものを城の中で話す。
火。
煙。
水桶。
椀。
火薬箱。
門を閉めなかったこと。
撃たなかったこと。
庄吾を生かしたこと。
嘉七の言葉を聞いたこと。
どれも、言葉にすると軽くなりそうだった。
だが、言わなければ残らない。
残らなければ、また同じところで崩れる。
「迅」
横から喜助が声をかけた。
喜助の顔も硬い。
手ぶらなのに、いつものように水桶を持っているような肩をしていた。
「俺、ほんとに中まで行くの?」
「呼ばれてる」
「水桶のことだけで?」
「水桶のことだけじゃない」
「いや、水桶のことしかしてないけど」
迅は首を横に振った。
「水を倒さなかった」
喜助は変な顔をした。
「それ、手柄なの?」
「分からない」
「出た」
喜助は小さく笑った。
でも、すぐに笑いを消した。
「……でも、倒れてたら困ったよな」
「うん」
「じゃあ、言うしかないか」
喜助はそう言って、前を向いた。
その前を、瀬川が歩いている。
黒羽が隣に続く。
坂部と倉橋が少し後ろ。
鷹見は記録板を抱え、無言で歩いていた。
赤松弥八は、城に入る前から何かが気に食わない顔をしている。
その後ろには、真下兵庫もいた。
鉄砲衆の指揮役として、昨日のことを報告するためだ。
さらに、辰五郎が人足に支えられていた。
歩くと言い張ったが、坂部に止められた。
「肩から血を滲ませて評定に出る気か。途中で倒れたら荷が増える」
そう言われ、辰五郎は不満そうにしていた。
だが、支えられながらでも口だけは動く。
「荷が増えるって言い方があるか。俺は荷じゃねえ」
「今のお前は荷に近い」
「言いやがったな」
その後ろを、藤吉が歩いていた。
膝に布を巻いている。
火薬箱が傾いた時、体を入れて支えた膝だ。
藤吉は、あまり顔を上げない。
褒められるのが怖いのか。
叱られるのが怖いのか。
迅には分からなかった。
どちらもあるのかもしれない。
坂の途中で、足音が近づいた。
「兄上!」
烈だった。
息を切らし、胸に布包みを抱えている。
「烈」
「小夜からです。城に持っていけって」
烈は、両手で布包みを差し出した。
中には石と枝が入っている。
煤谷村で、小夜が並べたものだった。
炭焼き道。
獣道。
煙。
村に入った避難民。
水を置く場所。
歩ける者と歩けない者。
志乃と小夜は、村でも人を分け始めていた。
「母上が言ってました」
烈は息を整えながら続けた。
「村にも役目があるなら、城に見せなさいって」
瀬川が振り返った。
「崩していないな」
「はい。崩してません」
「なら、それも評定に入れる」
烈の顔が明るくなった。
だが、すぐに口を引き結ぶ。
「小夜は、自分で行かなくていいのかって言ってました」
迅は少し驚いた。
小夜が城へ来る。
今はまだ想像できなかった。
けれど、石で道を見る妹が、いつか城の中で道を示す日が来るのかもしれない。
黒羽が言った。
「今は石だけでよい」
烈が黒羽を見る。
「なぜですか?」
「目まで城へ呼べば、村の目が減る」
烈は少し考え、それから頷いた。
「小夜に伝えます」
「そうしろ」
黒羽は短く言った。
だが、その声は冷たくなかった。
迅は、小夜の石包みを見た。
ただの石と枝。
でも、それはもう遊びではない。
道を残すものだった。
見たものを崩さず運ぶものだった。
城門が開く。
湿った木の音が、朝の空気に低く響いた。
*
灰ヶ峰城の大広間には、いつもより多くの者が集まっていた。
上座には景胤がいる。
その横に真木。
左右には、燧家の家臣たちが並んでいた。
瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八。
さらに、真下兵庫、辰五郎、藤吉、迅、喜助、烈も広間の端に控えている。
畳の中央には、低い板が置かれていた。
その上に、木札が並ぶ。
浄火寺。
沢の出口。
炭焼き道。
右の林。
火薬箱。
水桶。
椀。
担架。
米。
火。
道。
その横に、黒い灰と油布がある。
割れた椀の破片も置かれている。
火薬箱の縄の切れ端もある。
小夜の石と枝も広げられた。
戦の評定にしては、妙なものばかりだった。
首もない。
敵の旗もない。
奪った武具もない。
あるのは、壊れたもの。
濡れたもの。
泥のついたもの。
落ちかけたもの。
守りきれなかったものと、かろうじて残ったものだった。
広間の奥で、誰かが小さく息を吐いた。
若い家臣の一人が、割れた椀を見て怪訝そうに眉を寄せる。
別の者は、辰五郎や藤吉がいることを不審そうに見ていた。
人足が大評定にいる。
村の少年がいる。
水桶を持っていた若者がいる。
そう思っているのが、目だけで分かった。
景胤は、しばらく中央の品々を見ていた。
そして言った。
「今日の評定は、名ある者だけで行わぬ」
広間が静まった。
「昨日、何が浄火寺を持たせたのか。何が沢の出口を持たせたのか。何が火薬箱を落とさずに済ませたのか。それを聞く」
真木が続ける。
「飾るな。誇るな。隠すな」
その声は低い。
だが、大広間の端まで届いた。
「勝った話として語るな」
迅は、胸の奥が重くなった。
景胤が瀬川を見る。
「まず問う」
「はっ」
「勝ったのか」
短い問いだった。
誰も動かない。
迅は、昨日の火を思い出した。
赤く上がった見せ火。
低く流れた煙。
咳き込む子。
割れた椀。
ひびの入った水桶。
膝を痛めた藤吉。
火は消えた。
門は崩れなかった。
人は踏まれなかった。
でも、勝ったのか。
瀬川は頭を下げたまま答えた。
「勝ってはおりませぬ」
広間に緊張が走った。
「崩れなかっただけにございます」
その言葉は、昨日の煙より静かだった。
だが、重かった。
景胤は目を閉じる。
少しだけ間を置き、言った。
「続けよ」
瀬川は木札を一枚取った。
浄火寺。
「浄火寺では、右の林からの火と煙により、門前の列が崩れかけました。蓮昭殿は門を閉めず、半分だけ開けて流れを細くしました」
木札が一枚、横へ置かれる。
門。
「迅が門の流れを見ました。喜助が水桶を守りました。梅吉が子ども連れの列を押さえました。嘉七が火を見ました。太助が椀を奥へ運びました。庄吾が煙の向きを告げました」
名が一つずつ出るたび、広間の空気がわずかに動いた。
その多くは、武士の名ではない。
避難民。
子ども。
拘束された男。
怪しい男。
水を運んだ若者。
そういう者たちだ。
「嘉七とは」
家臣の一人が口を開いた。
「黒根村の焼け出された男です」
瀬川は答えた。
「初めは浄火寺の米や火について、不満を煽るような言葉を口にしました」
家臣の眉が上がる。
「ならば、なぜその者の名が出る」
「火を見たからです」
瀬川は静かに言った。
「右の林の火が、燃え広がる火ではなく、見せる火であると見抜きました。避難民へも声をかけ、走らせぬよう動きました」
「怪しい者を用いたのか」
別の家臣が言った。
瀬川は否定しなかった。
「怪しい者です」
広間がまた揺れた。
「ですが、火を見たのも事実。水を運んだのも事実。門前で足を止める声を出したのも事実です」
真木が口を開く。
「怪しい者を排せば、安全だったか」
瀬川は、少しだけ顔を上げた。
「火を見られる者を一人失いました」
真木は黙った。
景胤は、鷹見を見る。
鷹見はすでに筆を持っていた。
「嘉七。不満を煽る言葉あり。火勢を見分け、水を運び、門前の列を支える。功過ともに記録」
鷹見の筆は止まらない。
迅は、その文字を見ていた。
嘉七は、どちらか一つではない。
だから記録が難しい。
でも、難しいから消していいわけではない。
景胤が言った。
「功だけでも、過ちだけでもない者か」
「はい」
鷹見が答える。
「今回、そのような者が多くおります」
迅は、庄吾の顔を思い出した。
油布を持っていた男。
煙の向きを知っていた男。
子に父と呼ばれた男。
撃たなかったことで、生きている男。
瀬川は、次の木札を取った。
沢の出口。
「沢の出口では、炭焼き道から下りてきた負傷者を、そのまま浄火寺へ流しませんでした。一度止めました」
「止めた?」
別の家臣が声を出した。
「避難民をか」
「はい」
瀬川は答えた。
「そのまま流せば、寺の門で潰れます。沢の出口で止め、歩ける者、歩けぬ者、担架が要る者を分けました」
坂部が前へ出る。
「荷台を一つ潰して担架にしました」
倉橋が続ける。
「布も出しました。その分、荷の運びは遅れました」
坂部が言った。
「だが、人が道で倒れりゃ、米も火薬も通らねえ」
辰五郎が、端から口を挟んだ。
「負傷者を道に寝かせたら、荷は死にます」
広間が静かになった。
人足頭が大広間で口を開いた。
その事実だけで、空気が少し硬くなる。
辰五郎は、それを気にした様子もなく続けた。
「荷は肩で持ってるように見えます。でも、最後に崩れるのは膝です。膝が死んだ奴に荷を持たせたら、荷も人も一緒に落ちます」
坂部が短く言う。
「こいつは、人足の膝を一番見ている」
辰五郎が坂部を見る。
「褒めるなら、もう少し景気よく言えませんかね」
「これ以上は無理だ」
広間の端に、かすかな笑いが起きた。
だが、すぐに消えた。
景胤は笑わなかった。
ただ、辰五郎を見ていた。
「膝を見る者か」
「そんな大層なもんじゃありません」
辰五郎は頭をかいた。
「歩けるか、歩けねえか。担げるか、担げねえか。嘘ついて担ごうとしてるか。それだけで」
「それだけが、荷を落とさぬ」
景胤は言った。
辰五郎が口を閉じる。
鷹見の筆が動く。
人足の膝を見る者。
迅は、その文字を見て、胸の奥が熱くなった。
名ではない。
だが、役目が残った。
*
赤松弥八は、火薬箱の縄の切れ端を手に取った。
「火薬箱第二便について申し上げます」
景胤が頷く。
「申せ」
「右の林の火に、人足の目が向きました。箱が傾きました」
広間の空気が固まる。
火薬箱が傾く。
その言葉だけで、危うさは伝わった。
「その時、藤吉が箱の下へ入りました」
藤吉の肩が小さく揺れた。
景胤の視線が向く。
「藤吉」
「は、はい」
「命じられたのか」
「いいえ」
「なぜ入った」
藤吉は、口を開いた。
だが、言葉が出ない。
辰五郎が横から小さく言った。
「腹で言え」
藤吉が振り向く。
「腹?」
「頭で言うと詰まる」
藤吉は唇を噛んだ。
それから、顔を上げた。
「落ちると思いました」
「うむ」
「全部は支えられないと思いました。でも、落ちる向きだけなら変えられると思いました」
広間は静かだった。
藤吉の声は細い。
けれど、逃げてはいなかった。
「前に、米俵を一つ戻しました」
「あの米が粥になりました。子どもが食べました。荷は、届いた後があるんだと思いました」
藤吉は、膝に巻かれた布を握った。
「火薬箱も、届いた後があると思いました」
赤松弥八の目がわずかに細くなる。
坂部は腕を組んだまま黙っている。
景胤が問う。
「膝は」
「痛いです」
「もう一度できるか」
藤吉は、すぐには答えなかった。
そして、正直に言った。
「今は、できません」
広間の何人かが眉を動かした。
だが、景胤は頷いた。
「よい」
藤吉が目を上げる。
「できぬ時に、できると言う者は荷を落とす」
その言葉に、坂部が深く頷いた。
「その通りです」
景胤は鷹見へ言った。
「記録せよ。藤吉、火薬箱を支える。ただし膝を痛め、続けての任には耐えず」
鷹見が書く。
できたこと。
できないこと。
その両方が残る。
迅は、それを見ていた。
強くなるとは、できることだけを増やすことではないのかもしれない。
できないことを、できないと言えることも必要なのだ。
赤松弥八は、続けて鉄砲の報告へ移った。
「火薬箱の護送、庄吾の拘束、昨日の火と煙。いずれも、鉄砲は撃っていません」
広間の一部がまた動く。
赤松弥八は気にせず続けた。
「だが、撃たなかったことに意味があります」
景胤は黙って聞いている。
「鉄砲は、撃てば敵を倒せます。ですが、撃てば音が出る。煙が出る。民の列が乱れる。馬も牛も跳ねる。火薬箱のそばなら、人足の足が乱れる。撃つ場所を間違えれば、敵より先に味方を崩します」
真下兵庫が膝を進めた。
「私からも申し上げます」
景胤が視線を向ける。
「申せ」
「庄吾という男を撃つかどうかの場面がありました。煙を作る油布を持っており、敵と見なす材料はありました」
真下兵庫は、迅を一度見た。
「しかし、子がいました。後ろに避難民の列がありました。袋の中身も分からず、撃てば火が散る恐れもありました」
「撃たなかったのは誰の判断だ」
景胤が問う。
「最初に止めたのは、迅です」
広間の視線が、迅へ集まった。
背中が硬くなる。
真下兵庫は続けた。
「最終的に鉄砲を下ろしたのは、私です。ゆえに、責は私にもあります」
赤松弥八が少しだけ口の端を上げた。
だが、何も言わない。
景胤は迅を見た。
「迅」
「はい」
「なぜ撃たせなかった」
何度も聞かれた問いだった。
けれど、ここで聞かれると、重さが違った。
迅は両手を握った。
「子どもがいました。後ろに民の列がありました。撃てば、敵ではない人に当たるかもしれませんでした」
「それだけか」
迅は息を吸う。
「撃てば、炭焼き道から逃げてくる、従わされた人たちが、こちらへ来られなくなると思いました」
広間が静かになる。
「従わされた者も、敵になる時があります。でも、全部を敵として撃てば、もう誰も逃げてこられません」
迅の声は震えていた。
「でも、撃たなかったせいで、後で誰かが死ぬかもしれません。それも、あります」
景胤は、しばらく何も言わなかった。
瀬川も、真木も、赤松弥八も、誰も口を挟まない。
やがて、景胤が言った。
「両方持つか」
迅の胸が鳴った。
瀬川に言われた言葉が戻ってくる。
戦と嫌。
守れたものと、失ったもの。
撃たなかったことで守ったもの。
撃たなかったことで逃したかもしれないもの。
「はい」
迅は答えた。
「持ちます」
景胤は頷いた。
「撃つ者だけでは足りぬ」
その声が、大広間に落ちる。
「撃たぬと決める目もいる」
迅は、顔を上げることができなかった。
褒められた気はしない。
ただ、重さが増えた。
*
評定は、昼を過ぎても続いた。
だが、誰も軽く扱えなかった。
倉橋は米を語った。
濡れ米。
屑米。
割れ米。
小袋。
俵を見せれば、人の腹が動く。
隠せば、疑いが動く。
米は、数だけでは足りない。
どこで見せるか。
どう渡すか。
誰に先に届かせるか。
そこまで見なければならない。
坂部は荷を語った。
荷台。
担架。
人足。
膝。
道の幅。
荷は、進めるだけでは足りない。
いつ止めるか。
誰に担がせるか。
誰には担がせないか。
荷を守るには、人を見る必要がある。
黒羽は道を語った。
炭焼き道。
獣道。
右の林。
尾根道。
道は、味方の道にもなり、敵の道にもなる。
閉じれば民が来られない。
開けば敵も通る。
だから、閉じるか開くかだけでは足りない。
開けたまま見る目がいる。
赤松弥八は火と鉄砲を語った。
火薬箱。
火縄。
煙。
射線。
撃つ場所。
撃たない場所。
火は力であり、危うさでもある。
恐れない者には任せられない。
その言葉を聞いた時、迅は自分の手を見た。
鉄砲を持った時の重さが、まだ残っている気がした。
喜助も呼ばれた。
「喜助」
景胤に名を呼ばれ、喜助は明らかに固まった。
「は、はい」
「水のことを申せ」
「水、ですか?」
「そうだ」
喜助は、助けを求めるように迅を見た。
迅は小さく頷いた。
喜助は息を吸う。
「飲む水と、洗う水と、火を消す水は、同じ場所に置かない方がいいです」
広間の家臣たちが、少し不思議そうな顔をした。
喜助は続けた。
「同じ場所に置くと、みんなそこへ寄ります。飲む水に、椀を洗う手が入ると揉めます。火を消す水に人が集まると、火が来た時に使えません。火薬箱の近くに置きすぎても、人が寄ります」
赤松弥八が頷いた。
「その通りだ」
喜助は驚いた顔をした。
「合ってるんですか?」
「自分で言ったんだろうが」
「いや、俺、水桶を動かしてただけなので」
景胤が言った。
「その水桶をどこへ置くかで、人が動く」
喜助は口を閉じた。
「喜助」
「はい」
「そなたは水を見た」
喜助は、少しだけ顔を赤くした。
「……はい」
「ならば、これからも見よ」
「はい」
「声が小さい」
「はい!」
今度は大きすぎた。
広間に、かすかな笑いが起きた。
それは、喜助を馬鹿にする笑いではなかった。
迅は少しほっとした。
水桶ばかりだと喜助は言っていた。
でも、その水桶は大広間に上がった。
次に、烈が呼ばれた。
烈は石包みを前へ出す。
「小夜からです」
景胤は石包みを見る。
「小夜は来ておらぬのか」
「村に残っています。母上と、村へ来た人たちを分けています」
「村でも分けているのか」
「はい。歩ける人、歩けない人、子ども連れ、水を持てる人です」
黒羽が石と枝を広げた。
小さな煤谷村が、畳の上にできる。
炭焼き道。
獣道。
煙。
水場。
戸を閉めた家。
荷をまとめた家。
避難してきた者。
家臣たちの中には、それをただの子どもの遊びのように見た者もいた。
だが、黒羽が一つずつ説明すると、空気が変わっていく。
「この石は煙。この枝は道。この細い枝は、獣道の可能性。小夜は、見たものと、分からないものを分けて包ませた」
真木が言った。
「分からないものを、分からないと示したのか」
「はい」
黒羽は答えた。
「物見として、よい目です」
その言葉で、広間が静かになった。
女子の石。
子どもの遊び。
そう見ていた者たちの目が変わる。
景胤は烈を見る。
「烈」
「はい」
「そなたは何をした」
烈は一瞬、胸を張りかけた。
だが、すぐに姿勢を直した。
「走って、戻りました」
「戦いには行かなかったか」
「行きたかったです」
その答えに、広間の空気が少し動く。
烈は続けた。
「でも、戻れと言われました。戻って伝えるのが役目だと」
景胤は頷いた。
「戻る足か」
「はい」
「なら、その足を粗末にするな」
「はい!」
烈の返事は、まっすぐだった。
迅は、弟を見ていた。
戦いたがっていた烈が、戻る役を口にした。
それは小さな変化だった。
でも、確かな変化だった。
*
日が傾き始めた頃、景胤は立ち上がった。
大広間の者たちが一斉に姿勢を正す。
中央には、まだ品々が並んでいる。
割れた椀。
黒い灰。
油布。
火薬箱の縄。
小石。
枝。
木札。
どれも、昨日の戦の跡だった。
景胤は言った。
「我らは勝っておらぬ」
誰も声を出さない。
「だが、崩れなかった」
景胤は、鷹見の記録板を見た。
そこには、いくつもの名と役目が書かれている。
名がある者。
名が分からない者。
武士。
人足。
避難民。
子ども。
従わされた者。
「今日の報告で分かった」
景胤の声が、大広間に通る。
「我が燧国には、役目に名が足りぬ」
瀬川が静かに頭を下げる。
景胤は続けた。
「槍を持つ者。弓を引く者。鉄砲を撃つ者。それだけでは足りぬ」
その言葉に、赤松弥八の目が動いた。
「米を見る者。荷を見る者。道を見る者。火を見る者。水を見る者。民を見る者。撃つ前に見る者。退く道を作る者。倒れる前に支える者」
迅は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分一人の話ではない。
喜助。
烈。
小夜。
志乃。
梅吉。
嘉七。
太助。
庄吾。
藤吉。
辰五郎。
名を知らない者たち。
その手が、景胤の言葉の中に入っていく。
「これを、その場限りの働きで終わらせてはならぬ」
景胤は、鷹見へ視線を向けた。
「名が分からぬ者は、役で残せ」
「はっ」
鷹見が頭を下げる。
景胤は、そこでしばらく黙った。
その沈黙は、迷いではなかった。
痛みのように見えた。
「名が分からぬから残せぬ、ではならぬ」
景胤は言った。
「名が分からぬ者ほど、戦の底で国を支えている」
広間の誰も、すぐには答えなかった。
迅は、胸が詰まった。
名前を知らない女がいた。
水を運んだ。
名前を知らない老人がいた。
子を預かった。
名前を知らない男がいた。
煙の中で、倒れそうな者を支えた。
その人たちは、確かにいた。
いなければ、崩れていた。
でも、名を聞く余裕はなかった。
聞かなければ、消えてしまう。
消えたら、次に同じ火が来た時、誰も思い出せない。
景胤は真木を見る。
「真木」
「はっ」
「軍の役目を洗い直す」
広間に緊張が走った。
「倉橋」
「はっ」
「兵糧だけを見るな。米がどこで人を動かすかを見よ」
「承知しました」
「坂部」
「はっ」
「荷駄だけを見るな。人足の膝、荷台、担架、道の幅まで見よ」
「承知」
「黒羽」
「はっ」
「道を閉じるだけでは足りぬ。開けたまま見る仕組みを作れ」
「承知しました」
「赤松」
「はっ」
「鉄砲は撃つ者だけでなく、撃たぬと決める者も育てよ」
赤松弥八は、一瞬だけ迅を見た。
「承知」
景胤は、さらに広間全体を見た。
「近く、火定めを行う」
その言葉に、大広間の空気が大きく揺れた。
火定め。
聞いたことのない名だった。
だが、誰も軽く笑わなかった。
中央に置かれた黒い灰。
割れた椀。
火薬箱の縄。
小夜の石。
そのすべてが、火という言葉を静かに受けていた。
真木が問う。
「武の試しだけではなく、ということですな」
「そうだ」
景胤は答えた。
「槍の強さだけを見るのではない。弓の巧さだけを見るのでもない」
景胤は、割れた椀と黒い灰を見た。
「誰の中に、どの火があるのかを見る」
広間が静まり返る。
「米を見る火。荷を支える火。道を見て戻る火。火を怖がる火。水を守る火。民を崩さぬ火。撃つ前に見る火」
迅は、その言葉を聞いて息を止めた。
火は、燃やすものだけではない。
消えそうで、それでも残るもの。
誰かを生かすために、手の中で守るもの。
景胤は続けた。
「火定めは、武士のためだけに行わぬ」
広間が、また揺れた。
今度の揺れは大きかった。
「殿」
家臣の一人が思わず声を出した。
景胤は、その者を見た。
「武士の子に限らぬ」
その一言で、空気がさらに硬くなる。
「百姓であれ、人足であれ、炭焼きであれ、漁師であれ、鍛冶場の者であれ、寺の者であれ、荷運びであれ、村役であれ、女であれ、若き者であれ、年を重ねた者であれ」
景胤の声は、揺れなかった。
「国を支える火を持つ者ならば、見る」
誰かが息を吸った。
反対の声が出かけた。
だが、真木が静かに目を向けると、その声は飲み込まれた。
「殿。百姓や人足、女衆まで同じ場で見るというのですか」
別の家臣が、声を抑えきれずに言った。
景胤は、その者を見た。
「同じ場で見るのではない」
景胤の声は静かだった。
「同じ火を見るのだ」
家臣は口を閉じた。
景胤は続ける。
「火は、身分を選ばぬ」
その声は低かった。
「ならば、国もまた、火を持つ者を身分で捨ててはならぬ」
迅は、手を握った。
喜助が隣で息を止めているのが分かった。
烈も、石包みを強く抱えていた。
これは、ただの評定ではない。
何かが変わる。
そう感じた。
「火定めで見つけた者は、ただちに武士へ取り立てるわけではない」
景胤は続けた。
「まずは役につける。荷を見る者は荷へ。水を見る者は水へ。道を見る者は道へ。火を見る者は火へ。働きが続けば、登用する」
真木が静かに頷く。
「扶持、名、帯刀も、働き次第ということですな」
「そうだ」
景胤は答えた。
「だが、最初に見るのは家の名ではない。火だ」
その言葉で、広間の空気は完全に変わった。
不安。
驚き。
反発。
期待。
いろいろなものが混じっていた。
けれど、誰ももう、割れた椀や水桶を軽く見てはいなかった。
景胤は最後に言った。
「今年を初めとする」
その声は、大広間の柱に染み込むようだった。
「燧国は、年ごとに火定めを行う。名もなき火を、そのまま闇へ戻さぬ」
誰も、すぐには声を出せなかった。
ただ、鷹見の筆だけが動いた。
火定め。
年ごと。
身分を問わず。
その文字が記録板に刻まれていく。
*
評定が終わった時、外は夕焼けだった。
灰ヶ峰城の石垣が赤く染まっている。
火の色に似ていた。
だが、昨日の火とは違う。
人を走らせる火ではない。
消えなかった火を思い出させる赤だった。
迅は、広間を出たところで立ち止まった。
足が重い。
それでも、昨日とは違う重さだった。
見たものが、城の中で言葉になった。
水桶。
椀。
石。
膝。
火。
米。
道。
それらが、ただの出来事ではなく、役目として見られ始めた。
喜助が横に来る。
「俺、これからも水を見るの?」
「たぶん」
「水桶で人生変わることある?」
「あるかもしれない」
「嫌だなあ」
喜助はそう言った。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
烈は石包みを大事そうに抱えている。
「小夜に伝えます。石が評定に出たって」
「うん」
「母上にも。村で分けることも、役目だって」
「うん」
烈は少し黙った。
それから言った。
「兄上」
「何」
「戻る役も、悪くないかもしれません」
迅は、弟を見る。
「そうだな」
それだけ答えた。
十分だった。
少し離れた場所で、赤松弥八が迅を呼んだ。
「火守の子」
迅は振り向く。
「はい」
「火定めでは、鉄砲も見る」
迅の背中が強ばった。
「撃つんですか?」
「すぐには撃たせねえ」
赤松弥八は、いつものように鼻を鳴らした。
「まずは持て。構えろ。風を見ろ。人を見ろ。撃っていい場所と、撃ってはいけねえ場所を見ろ」
「はい」
「お前の才が鉄砲にあるかは、まだ分からねえ」
赤松弥八は、まっすぐ迅を見た。
「だが、お前の目は、火のそばに置く価値がある」
迅は、何も言えなかった。
嬉しい、とは違った。
火のそばに置く価値がある。
それは、火のそばに立てという意味でもあった。
逃げたい場所へ、近づけと言われたのだ。
その怖さを、迅はもう知っていた。
怖いなら、見ろ。
その言葉が、胸の奥に戻ってくる。
城の外では、夕日が沈みかけていた。
燧国の山々が、赤く染まっている。
その赤は、燃える火にも見えた。
守る火にも見えた。
迅は、自分の手を見た。
槍を握った手。
木札を倒した手。
鉄砲を構えた手。
椀を拾った手ではない。
水桶を守った手でもない。
それでも、何かを見て、何かを止めようとした手だった。
まだ、自分の役目の名は分からない。
だが、今日、国がその名を探し始めた。
迅は、夕焼けの中で小さく息を吐いた。
戦は、まだ終わらない。
けれど、ただ巻き込まれるだけではなくなる。
守るために、何を見るのか。
誰に、どんな役目があるのか。
それを探す日々が、ここから始まる。
灰ヶ峰城の上で、夕風が吹いた。
火の匂いはしない。
それでも迅は、胸の奥に小さな火が残っているのを感じていた。
消えなかった火。
名前を与えられるのを待つ、たくさんの役目の火だった。




