【第30話】腹に入る言葉
薄い粥の翌朝、赤土峠には、まだ昨日の匂いが残っていた。
米の匂いではない。
山菜の青い匂い。
濡れた縄の匂い。
空になった椀の匂い。
そして、誰かが言いかけて飲み込んだ言葉の匂いだった。
迅は、峠の道を見ていた。
東へ続く道は細い。
右は岩。
左は斜面。
荷台が一つ曲がるだけでも、人は足を止める。
そこへ不満が寄れば、道はもっと細くなる。
峠番の安蔵は、飯桶の前に立っていた。
昨日より早く起き、粥の量を見ている。
椀の数。
夜番の数。
負傷者の数。
人足の数。
見張りの数。
そして、まだ腹に余裕のない者の顔。
「米は足りるか」
迅が聞く。
安蔵は、飯桶を見たまま答えた。
「今日の朝はな」
「昼は」
「昼は、昼になるまで分からん」
それは答えになっていない。
だが、嘘でもなかった。
腹は、帳面の数字より早く減る。
それを昨日、迅は見た。
火定めは、火を見つけるために始まった。
けれど、今は腹を見ている。
水を見ている。
足を見ている。
荷を見ている。
半刻の遅れが、まだ人の中に残っている。
その時、峠の下から声が上がった。
「浄火寺からだ!」
安蔵が顔を上げる。
細い道を、二人の僧兵が上がってきた。
その後ろに、蓮昭がいる。
さらに後ろには、小さな荷を背負った者たちが数人。
米俵ではない。
大きな荷でもない。
布袋。
干し菜。
塩。
薬草。
粥を増やすほどではないが、薄い粥を少しだけ腹に残すものだった。
「蓮昭様」
安蔵が頭を下げる。
蓮昭は、飯桶の前で足を止めた。
「施粥の残りを分けます。寺も余っているわけではありませんが」
「助かります」
「ただし」
蓮昭の目が鋭くなる。
「寺の門前で、妙な言葉が流れています」
迅は顔を上げた。
「妙な言葉?」
蓮昭は頷く。
「峠には米がある。寺は隠している。城は火定めに選ばれた者へだけ飯を渡す。そういう言葉です」
安蔵の顔が険しくなる。
「誰が言った」
「それが分かれば苦労はしません」
蓮昭は静かに言った。
「ただ、腹を空かせた者の耳に入っています」
迅の胸が沈んだ。
腹に入る言葉。
岩貫弥惣の影が、見えた気がした。
米を奪わない。
荷を焼かない。
ただ遅らせる。
薄くする。
そして、薄くなった腹に言葉を入れる。
蓮昭は続けた。
「寺の者だけで止めれば、寺が隠しているように見えます。城だけが言えば、城が言い訳をしているように聞こえます」
「では、どうします」
迅が聞いた。
蓮昭は、迅を見た。
「同じ椀で見せるのです」
「同じ椀?」
「寺の粥。峠の粥。城の粥。どれも薄いなら、薄いと見せる。厚いところがあるなら、なぜ厚いのかを言う」
安蔵が苦い顔をした。
「薄い粥を見せろと」
「隠せば、もっと薄く見えます」
蓮昭の言葉は静かだった。
だが、重かった。
安蔵は、しばらく黙る。
そして、飯桶の蓋を開けた。
「なら、見るか」
蓮昭は頷いた。
「見ます」
その時だった。
飯桶の周りにいた兵の一人が、低く呟いた。
「見せる桶だけ薄くしてるんじゃないのか」
小さな声だった。
だが、腹を空かせた者の耳は、そういう声だけをよく拾う。
ざわめきが広がった。
「蔵はどうなんだ」
「峠の奥に米を隠してるって聞いたぞ」
「選ばれた奴だけ先に食ってるんじゃないのか」
数人が、飯桶ではなく峠の奥へ目を向けた。
そこには、米を置く小さな蔵がある。
兵糧蔵。
大きな蔵ではない。
だが、腹を空かせた者には、木戸一枚の向こうに山ほどの米があるように思えてしまう。
兼太が、椀を持ったまま立ち上がった。
「蔵を見せろよ」
安蔵の声が飛んだ。
「止まれ!」
兼太だけではない。
二人、三人が、半歩だけ蔵の方へ動いていた。
半歩。
それだけだった。
だが、峠では半歩が道を塞ぐ。
迅は、その半歩を見た。
腹に入った言葉が、足を動かした瞬間だった。
*
灰ヶ峰城では、朝の評定が始まっていた。
広間ではない。
いつもの小部屋だ。
だが、卓の上には昨日より多くのものが置かれていた。
米の帳面。
荷の帳面。
火定めの役目帳。
赤土峠からの報告。
浄火寺からの知らせ。
そして、小夜から届いた石の配置を写した木の板。
鷹見が筆を持ち、倉橋が米の数を読み上げる。
「赤土峠、朝は足りる。昼は薄くなる恐れあり」
坂部が言う。
「荷は今朝の分、遅れなし。ただし道がぬかるんでいる」
黒羽が続ける。
「浄火寺門前に流言。城が米を隠している、火定めで選ばれた者だけ飯を得る、とのこと」
景胤は目を伏せた。
「来たか」
真木が問う。
「敵の言葉と見ますか」
「見ぬ理由がない」
景胤は答えた。
「だが、敵が言ったとしても、信じる腹がある。それを敵だけのせいにはできぬ」
誰も口を開かなかった。
その通りだった。
腹が満ちていれば、言葉は入らない。
腹が薄ければ、言葉は沈む。
倉橋が、苦い顔で言った。
「米を増やせればよいのですが」
「増えぬ米を、増えたように言うな」
景胤は静かに言った。
「薄いなら薄いと言え。ただし、なぜ薄いかも言え」
鷹見が筆を置く。
「布告にしますか」
「布告だけでは遅い」
景胤は、卓の上を見た。
「言葉が腹へ入ったなら、こちらも腹へ届くところで言わねばならぬ」
瀬川が顔を上げる。
「寺、峠、村、それぞれで同じことを伝える必要があります」
「誰が伝える」
景胤が問う。
瀬川は少し考えた。
「城では倉橋殿。米の帳面を持つ者が言うべきです」
倉橋の顔がわずかに強ばった。
「私が、民の前で」
「米を隠していると言われております」
瀬川は答えた。
「なら、米を見る者が出ねば、疑いは残ります」
倉橋は黙った。
景胤が言う。
「倉橋」
「はっ」
「米の数だけでなく、米が足りぬ顔も見よ」
倉橋は頭を下げる。
「承知しました」
黒羽が言った。
「峠には安蔵と蓮昭がいます。迅もおります」
赤松弥八が鼻を鳴らした。
「あの小僧、今度は腹を見るのか」
「撃つ前に見る者だ」
景胤は言った。
「腹が崩れれば、撃つ前に戦は崩れる」
赤松弥八は少しだけ黙り、それから頷いた。
「違いねえ」
坂部が言った。
「荷の道には、辰五郎を出します」
真木が眉を寄せる。
「肩は」
「使わせません。口だけです」
「口だけでも、あの男は重いぞ」
坂部は少し笑った。
「だから使えます」
景胤は、木の板に写された小夜の石を見る。
水。
火。
戻る場所。
留める場所。
腹に入る疑い。
そこに、黒い石が一つ増えていた。
「村は」
瀬川が答える。
「烈が戻っています。小夜と志乃殿が見るでしょう」
「なら、三つで同じことをする」
景胤は言った。
「城は帳面で見せる。峠は椀で見せる。村は石で見せる」
鷹見の筆が止まった。
景胤は続けた。
「隠すな。ただし、晒しものにするな。足りぬことを責め合う場にするな。次にどう動かすかを示せ」
瀬川が深く頭を下げた。
「承知しました」
*
煤谷村では、小夜が庭の石を前にしていた。
烈は、城から戻ったばかりだ。
息を整えてから、言葉を出す。
それが癖になっている。
「寺で噂が出た」
小夜は、黒い石を一つ手に取った。
「どんな?」
「城が米を隠してる。火定めで選ばれた人だけ飯がもらえる。寺も隠してるって」
志乃は、井戸のそばで水を汲む手を止めた。
「腹に入る噂だね」
小夜は頷いた。
黒い石を、腹の石の横に置く。
その隣に、白い石を一つ置いた。
烈が聞く。
「白は?」
「本当の椀」
「本当の椀?」
「どこにどれくらいあるかを見る椀」
小夜は、石を三つに分けた。
城。
寺。
峠。
それぞれの横に、小さな椀の欠片を置く。
「城の椀。寺の椀。峠の椀」
烈は、首をかしげる。
「椀を持ってくるの?」
「持ってこない」
「じゃあ、どう見るんだよ」
「同じように言う」
小夜は言った。
「城も薄い。寺も薄い。峠も薄い。でも、誰に先に渡すかを決める。隠してるんじゃなくて、分けてるって」
志乃が静かに頷く。
「それを、村でも言わなければならないね」
烈が顔をしかめた。
「誰に?」
志乃は村の道を見る。
井戸端に、すでに数人が集まっていた。
米の話は、煙より早い。
小夜は、黒い石をもう一つ置く。
「聞く前から怒ってる人」
烈が言う。
「誰だよ」
「まだ分からない」
「またか」
「分からないものは、分かったことにしない」
烈は言い返さなかった。
その言葉が、最近は少し重く聞こえるようになっていた。
その時、井戸端から声がした。
「志乃さん!」
村の女だった。
前にも火定めのことを聞きに来た女だ。
腕には子を抱いている。
「寺に米があるって本当かい? 城が隠してるって聞いたんだけど」
烈がすぐに顔を上げる。
「誰から聞いたんですか?」
女は困った顔をした。
「誰って……井戸で」
「井戸で誰が」
「分からないよ。みんな言ってたんだ」
小夜は、黒い石を一つ転がした。
井戸の石のそば。
そこに置く。
「井戸に言葉が来た」
志乃は、水桶を置いた。
声を荒げなかった。
「米が足りていないのは本当です」
女の顔が不安に変わる。
「やっぱり」
「でも、隠しているとは聞いていません」
「でも、寺に」
「寺にも腹を空かせた人がいます。峠にもいます。城にも、負傷者がいます」
志乃は、庭の石を指した。
「ここに、椀を三つ置きます。城の椀。寺の椀。峠の椀」
村人たちは石を見る。
小夜が、椀の欠片をそれぞれの場所に置いた。
「どこか一つだけ満たせば、そこは静かになる。でも、他が騒ぐ」
志乃が言う。
「だから、薄くても分ける。先に渡す者を決める。子ども、怪我人、夜番、歩けない者」
年を取った男が不満そうに言った。
「働ける者は後か」
「働ける者を倒さない分は残します」
志乃は答えた。
「でも、先に渡す人を決めなければ、強い者が取ります」
男は黙った。
けれど、別の若い男が言った。
「城の椀なんて、ここから見えないだろ」
その声に、数人が頷く。
「見えないものを、どう信じる」
「見せられないから、隠してるんじゃないのか」
烈が言い返しかけた。
志乃が手で止める。
小夜は、城の椀の石を見た。
見えない椀。
遠い椀。
でも、見えないからといって、隠していると決めれば、黒い石になる。
志乃は、若い男を見た。
「見えないものを、隠していると決めないでください」
若い男は口を閉じた。
志乃は続ける。
「見えないなら、見た者の言葉を待つ。烈が戻る。瀬川様が知らせる。城の帳面も届く。届くまでは、黒い石のまま置く」
小夜は、黒い石を城の椀の横に置いた。
「まだ見えない椀」
烈が小さく言う。
「それも石か」
「石にしないと、勝手に敵になる」
若い男は、何も言わなかった。
小夜は、赤い石を一つ置いた。
「これは、怒る腹」
烈が小さく言う。
「また変な石」
「変じゃない。怒る腹を置かないと、怒った人が道を塞ぐ」
志乃は、小夜を見た。
叱らなかった。
むしろ、少しだけ悲しそうに頷いた。
「そうだね」
女は、石を見ていた。
「じゃあ、うちの子は」
「先に食べる側」
小夜が言った。
女の目に、少し水が浮かんだ。
「でも、あなたは」
志乃が言う。
「その子が食べたあと、椀を洗う側に回ってください」
女は驚いた。
「私が?」
「はい。食べるだけだと、次の子の椀が遅れます」
女は子を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「やるよ」
小夜は、白い石の横に小さな石を置いた。
食べたあとの手。
烈はそれを見て、少し笑った。
「石、また増えたな」
「増えたら、分ける」
「俺、覚えるの大変なんだけど」
「戻る役でしょ」
「分かってる」
*
赤土峠では、三つの椀が並べられた。
一つは峠の粥。
一つは浄火寺から来た粥。
一つは城から届いた干し飯を湯で戻したもの。
どれも多くはない。
どれも豪華ではない。
ただ、隠しているようには見えなかった。
安蔵が兵たちを集める。
兼太もいる。
嘉助は、少し後ろで山菜を刻んでいた。
藤吉は、その横に立っている。
迅は、三つの椀のそばにいた。
蓮昭が口を開く。
「寺にも、米は山ほどありません」
ざわめきが少し起きる。
蓮昭は続けた。
「峠にもありません。城にも、無限にはありません。だから、隠しているかどうかを見るのではなく、どう分けているかを見てください」
兼太が言った。
「見せられた椀だけ薄くしてるかもしれない」
空気が固まる。
安蔵が怒鳴りかけた。
だが、迅が先に兼太を見た。
「そう思うなら、蔵も見た方がいい」
安蔵が迅を見る。
「蔵を?」
迅は頷いた。
「見せないと、隠していると思われます。でも、全部見せると奪い合いになります」
安蔵の目が険しくなる。
「見せて、人が寄ったらどうする」
「寄ります」
迅は答えた。
「だから、一人で見せません。疑う人、疑われた人、寺の人、峠の人。目を分けます」
「それでも、蔵の前へ人が動けば」
「止める人も置きます」
迅は、蔵の方へ半歩動いた兵たちを見た。
「見る場所を間違えたら、奪い合いになります。だから、見せるものと、見せる人数と、見たあとに言う人を決めます」
声が少し震えていた。
でも、逃げなかった。
「隠していると思われたままよりは、まだいいと思います」
蓮昭が静かに言う。
「なら、代表を選ぶ」
安蔵は、少し考えた。
そして、兼太を指した。
「お前が見ろ」
兼太は目を丸くした。
「俺が?」
「疑うなら、自分の目で見ろ。ただし、一人ではない」
蓮昭が言った。
「私の僧兵を一人つけます」
藤吉が言う。
「嘉助さんも」
嘉助が手を止める。
「俺?」
藤吉は頷いた。
「疑われた手も、一緒に見る方がいいです」
兼太が顔をしかめる。
「こいつと?」
嘉助は何も言えない。
迅が言った。
「嫌なら、見た後も疑いが残ります」
兼太は、舌打ちした。
「分かったよ」
安蔵は言った。
「蔵を見る。米の数を見る。ただし、触るな。持ち出すな。見たことを、戻って言え」
兼太は、渋々頷いた。
「分かった」
嘉助も、深く頷いた。
「見ます」
迅は、それを見ていた。
疑う者。
疑われた者。
その二人が同じ蔵を見る。
危うい。
けれど、離しておけば、もっと疑いは育つ。
添え手は、守るための目だ。
だが、時には、疑う者と疑われる者を同じ場所に立たせることでもある。
それは、怖いことだった。
*
兵糧蔵の中は、思ったより小さかった。
兼太は、入ってすぐに黙った。
米俵はある。
だが、山ほどではない。
隙間もある。
空の棚もある。
縄で括られた袋には、行き先が書かれている。
夜番。
負傷者。
人足。
浄火寺。
戻り荷。
予備。
予備と書かれた袋は、思っていたより少なかった。
「これだけか」
兼太が言った。
声が小さくなっていた。
安蔵が答える。
「これだけだ」
「隠してないのか」
「隠すほどない」
兼太は、黙って俵を見る。
嘉助も見ていた。
自分の手で運んだ米。
それが、ここで少なく見える。
運んでいる時は重かった。
だが、蔵に置けば少ない。
米とは、そういうものなのかもしれない。
兼太が、嘉助を見た。
「昨日、疑って悪かった」
そこで言葉を切った。
それから、顔をしかめる。
「……と言いたいけど、まだ腹は減ってる」
嘉助は、すぐには答えられなかった。
「分かる」
「疑いも、全部消えたわけじゃない」
「それも、分かる」
嘉助は、自分の手を見た。
「俺も、自分で全部分かってるわけじゃない。荷札を信じて、見なかった。だから、疑われるところは残ってる」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「次、見る」
嘉助は、自分の手を握った。
「俺も、荷札だけじゃなくて、縄目を見る」
兼太は、少しだけ顔を逸らした。
「俺も、見てから言う」
安蔵は、その二人を見ていた。
蓮昭の僧兵も、何も言わない。
迅は、蔵の入り口からそれを見ていた。
腹は、すぐには満ちない。
疑いも、すぐには消えない。
でも、手は動き始めた。
それで、今は足りるのかもしれない。
足りると思いたかった。
*
夕方、三つの場所から同じ報告が届いた。
城では、倉橋が米の帳面を開いて見せた。
隠していないと怒鳴るのではなく、どこに送ったかを読んだ。
浄火寺では、蓮昭の僧兵が粥の釜を見せた。
寺にも薄い粥しかないと、門前の者たちは見た。
赤土峠では、兼太と嘉助が蔵を見たことを話した。
誰も完全には納得しなかった。
だが、誰も米蔵へ押し入らなかった。
誰も嘉助を殴らなかった。
誰も寺へ石を投げなかった。
崩れなかった。
ただ、それだけだった。
その報告を聞いて、景胤は深く息を吐いた。
勝った顔ではない。
むしろ、苦い顔だった。
「崩れぬようにするだけで、これほど手が要るか」
真木が答える。
「崩す方は、一言で足ります」
瀬川が続けた。
「支える方は、何人もの手が要ります」
景胤は、窓の外を見た。
夕暮れの灰ヶ峰城。
城下の火が、一つずつ灯り始めている。
「火定めは、火を見つけた」
景胤は言った。
「だが、その火を支える手を、さらに見つけねばならぬ」
鷹見が筆を持った。
景胤は続ける。
「米を見る者に、米を見せる手を置け。水を見る者に、水を分ける手を置け。荷を見る者に、荷を通す手を置け。戻る足に、言葉を整える手を置け」
瀬川が言う。
「役目が増えます」
「増える」
景胤は頷いた。
「だが、増やさねば、敵の一言に負ける」
その言葉は、部屋の中に重く残った。
*
山の奥で、鹿部市之助は報告していた。
「蔵前まで、足は動きました」
岩貫弥惣は、木にもたれたまま聞いている。
「だが、入らなかった」
「はい。代表を選ばれました」
「誰を」
「疑った兵と、疑われた人足。それに寺の目を一つ」
鹿部市之助は、楽しそうに笑った。
「燧は、面倒なことをします」
「面倒なことは、崩れにくい」
岩貫弥惣は、静かに言った。
若い男が顔を上げる。
「では、失敗ですか?」
「違う」
岩貫弥惣は、足元の小石を一つ蹴った。
小石は落ち葉の中に消えた。
「蔵前まで動いた。十分だ」
「ですが、止まりました」
「一度動いた足は、次も動きやすい」
鹿部市之助の笑みが薄くなる。
岩貫弥惣は、赤土峠の方角を見ていた。
「手を守るなら、腹を揺らせ。腹を守るなら、言葉を薄く混ぜる。濃すぎる毒は吐かれる。薄い毒は、粥と一緒に入る」
若い男は、黙った。
「次は、誰に入れますか」
鹿部市之助が問う。
岩貫弥惣は答えなかった。
ただ、暗い山の下を見ていた。
「腹は、道より広い」
夜の風が吹いた。
火はまだ点いていない。
それでも、煙の匂いがする気がした。
*
夜、迅は灰ヶ峰城の広場に戻った。
足は重かった。
だが、眠れる気がしなかった。
広場には、もう人が少ない。
水桶も片づけられている。
荷場の縄だけが、軒下に干されていた。
そこに、喜助がいた。
「遅かったね」
「うん」
「峠、どうだった?」
「腹が鳴ってた」
「何それ」
「本当に」
喜助は少し笑った。
だが、迅の顔を見て、笑いを引っ込めた。
「まずかった?」
「蔵前まで、人が動きかけた」
喜助の手が止まる。
「え」
「でも、止まった」
「それ、勝ち?」
迅はすぐには答えなかった。
勝ち。
その言葉は、まだ遠い。
峠の粥は薄い。
蔵の米は少ない。
敵はまだいる。
岩貫弥惣は、きっと次の言葉を用意している。
「勝ちじゃないと思う」
迅は言った。
「じゃあ、何」
「崩れなかった」
喜助は水桶の内側を指でこすった。
「またそれか」
「うん」
「でも、蔵に入らなかったなら、大事か」
「うん」
「入ってたら?」
「たぶん、みんな誰かのせいにした」
「嫌だな」
「うん」
喜助は桶を逆さにした。
水が落ちる。
土に吸われる。
「水もさ」
「うん」
「一気に止めると困る。でも、流しっぱなしでもなくなる」
「うん」
「ちょっとずつ、いるところへ回す」
迅は喜助を見る。
喜助は、少し照れたように顔を逸らした。
「何だよ」
「いや」
「俺、いいこと言った?」
「たぶん」
「そこは、はいでいいだろ」
迅は少し笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
夜の山は暗い。
そこに敵がいる。
見えない場所から、言葉を投げてくる。
火ではない。
矢でもない。
ただの言葉。
だが、それは腹に入る。
手を止める。
足を鈍らせる。
荷を遅らせる。
水を疑わせる。
迅は、自分の手を見た。
撃つ前に見る者。
見なければならないものが、また増えた。
火。
水。
足。
荷。
腹。
そして、言葉。
見たいものではなく、見るべきものを。
その言葉が、胸の奥でまた燃えた。
火定めは、まだ始まったばかりだった。
だが、その火はもう、腹の底まで届き始めていた。




