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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第20話】消えぬ火

 夜明け前、浄火寺(じょうかじ)の火は細かった。


 消えかけているように見える。


 だが、消えてはいない。


 濡れた薪の端が赤く残り、灰の下で小さく息をしていた。


 迅は、その火を見ていた。


 眠っていない。


 眠ろうとはした。


 けれど、目を閉じるたびに、昨日の煙が浮かんだ。


 右の林から流れた白い煙。


 倒れた子。


 散った米。


 倒された木札。


 そして、岩貫弥惣(いわぬきやそう)が言ったわけでもないのに、胸の奥に残っている言葉。


 次は、選ばせる。


 迅は火から目を離し、門の外を見た。


 まだ暗い。


 だが、人の気配はあった。


 避難民は、夜でも完全には眠らない。


 子の咳。


 誰かの寝返り。


 僧兵が砂利を踏む音。


 水桶の板がきしむ音。


 それらが、薄い闇の中で重なっている。


「迅」


 喜助が声をかけた。


 目の下に影がある。


 手には水桶を持っていた。


「少しは寝た?」


「喜助こそ」


「俺は椀の夢見た」


「椀?」


「洗っても洗っても、増える夢」


 喜助は笑おうとした。


 だが、笑いきれなかった。


 迅も同じだった。


 笑えるはずのことが、今は重い。


 椀が増えるということは、人が増えるということだ。


 人が増えるということは、守るものが増えるということだ。


 門の脇では、太助(たすけ)が丸くなって眠っていた。


 昨日遅くまで椀を並べていたせいで、手は赤いままだった。


 その横で、梅吉(うめきち)が子を抱いて座っている。


 寝ているように見えたが、目は開いていた。


 嘉七(かしち)は、門から少し離れた場所にいる。


 水桶のそばだ。


 腕を組み、右の林を見ていた。


 庄吾(しょうご)は門の脇に縛られている。


 その子は、梅吉(うめきち)の子の隣で眠っていた。


 父を見れば泣く。


 見えなければ、探して泣く。


 だから、眠れる時は眠らせている。


 蓮昭は本堂前に立っていた。


 眠っていないはずなのに、背はまっすぐだった。


「火を大きくせよ」


 蓮昭が僧兵に言った。


「朝の粥を遅らせてはならぬ」


 僧兵が小さく頷く。


 その時、迅は遠くの音を聞いた。


 鳥ではない。


 人の足音でもない。


 山の腹を叩くような、低い音。


 どん。


 間を置いて、また一つ。


 どん。


 迅の背中が冷えた。


「半鐘じゃない」


 喜助が言った。


 蓮昭も顔を上げた。


 右の林の奥。


 薄い闇の中で、赤いものが一つ揺れた。


 火だった。


 小さい。


 けれど、煙が上がっている。


 白くない。


 黒い。


「右の林!」


 僧兵が叫んだ。


 同時に、門の反対側から伝令が走ってきた。


「沢の出口より急ぎ! 炭焼き道(すみやきみち)に火! 負傷者が下りています! さらに赤土峠(あかつちとうげ)方面より、火薬箱第二便の通過を急ぐとのこと!」


 迅は一瞬、言葉を失った。


 火。


 負傷者。


 火薬箱。


 寺の門。


 全部が同時に来た。


 蓮昭が迅を見た。


 その目に、迷いはあった。


 だが、止まってはいない。


「迅。門を見る」


「はい」


「喜助。水を見る」


「はい!」


「僧兵二人、右の林を見る。ただし、追うな。火勢(かせい)を見るだけだ」


 火勢。


 火の勢い。


 初めて聞いた言葉ではない。


 だが、今はその二文字が、やけに重く響いた。


 火が強いか。


 弱いか。


 消せるか。


 消せないか。


 見誤れば、人が焼ける。


 迅は門へ走った。


 外には、すでに人が動き始めていた。


「火だ!」


「林が燃えてる!」


「寺に来るぞ!」


「逃げろ!」


 昨日と同じ声。


 いや、昨日より悪い。


 今日は火が見えている。


 煙だけではない。


 赤い光が見える。


 人は赤を見ると、足が勝手に動く。


「走らないでください!」


 迅は叫んだ。


「火はまだ林の奥です! 門を押さないでください!」


 声は届いている。


 でも、足は止まらない。


 子を抱いた女が前へ出る。


 老人が杖を落とす。


 男が荷を背負い直し、門とは逆へ逃げようとする。


 その逃げる先には、水桶がある。


 水桶が倒れれば、火消し水が失われる。


「喜助!」


「分かってる!」


 喜助が水桶の前に立つ。


「ここは水! 逃げ道じゃない! こっちに来たら水が倒れる!」


 男が怒鳴る。


「水なんかどうでもいい!」


「どうでもよくない!」


 喜助も怒鳴り返した。


「火が来たら、この水で消すんだよ!」


 男の足が止まった。


 その一瞬で、梅吉(うめきち)が横から入り、男の荷を掴んだ。


「逃げるなら、子どもの列を踏むな!」


「離せ!」


「離さねえ! 踏んだら殺すぞ!」


 乱暴な声だった。


 だが、効いた。


 梅吉(うめきち)は腕の子を女に預けていた。


 両手が空いている。


 その両手で、門前の人を押し返している。


 嘉七(かしち)は右の林を見ていた。


 顔色が悪い。


 火を知っている顔だった。


 焼けた村を知る顔だった。


嘉七(かしち)さん!」


 迅は叫んだ。


「あの火、広がりますか!」


 嘉七(かしち)は即答しなかった。


 火を見ている。


 煙を見ている。


 木の揺れを見ている。


「燃やす火じゃねえ」


「本当ですか!」


「たぶんだ!」


 嘉七(かしち)が怒鳴った。


「木の上に上がってねえ! 下草だ! 湿った葉と油布、それに乾いた枝を少し混ぜてる!」


「消せますか!」


「近づけば消せる! でも、近づいた奴を見られる!」


 迅は理解した。


 火を消しに行けば、人が出る。


 人が出れば、門が薄くなる。


 そこを狙われる。


 昨日と同じだ。


 だが、昨日より赤い。


 赤いものは、人を動かす。


 迅は木札を掴んだ。


 昨日、倒した木札だ。


 今日は倒さない。


 立てる。


「子ども連れは門の内側へ! 歩ける人は右へ! 水を持てる人は水場へ! 逃げる人は、走らないで道を空けて!」


 声が重なる。


 完全には届かない。


 それでも、少しずつ人が動く。


 太助(たすけ)が目を覚ました。


 火を見て、顔を青くする。


「火……」


 喜助が叫ぶ。


太助(たすけ)! 椀!」


「うん!」


 太助(たすけ)は泣きそうな顔のまま、椀を抱えた。


 小さな手で、割れ物を守る。


 それも、今は役目だった。


     *


 沢の出口では、瀬川が退路(たいろ)を地面に描いていた。


 退路。


 退く道。


 逃げる道ではない。


 崩れずに下がるための道だ。


 瀬川の周りには、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八、真下兵庫(ましたひょうご)がいた。


 辰五郎(たつごろう)は座っている。


 だが、目だけは誰より動いていた。


 八瀬隼人(やせはやと)が、火元を見に出ている。


 烈も、煤谷村(すすたにむら)と沢の出口の間を走っている。


 黒羽が報告した。


「右の林の火は小さい。だが、三か所だ」


「三か所」


 瀬川が繰り返す。


炭焼き道(すみやきみち)の出口、右の林、寺の脇。すべて小火。消せる火だ。だが、同時に見せている」


 鷹見が記録する。


「目的は火災ではなく、人の分散」


 赤松弥八が低く言う。


「火薬箱第二便が通る時にこれか。狙いは火薬箱か、寺か、どっちだ」


 坂部が吐き捨てた。


「どっちもだろう」


 倉橋が帳面を押さえながら言った。


「米の小袋も出ています。火と火薬に目を奪われれば、米を見せられる」


 辰五郎(たつごろう)が叫んだ。


「人足を走らせるな! 火を見て走る奴は、荷を落とす! 膝を見ろ、膝を!」


 坂部が頷く。


「聞いたな! 走るな! 歩幅を合わせろ!」


 赤松弥八は火薬箱の方を見た。


 黒い布に包まれた箱が、荷駄道の曲がりへ向かっている。


 昨日よりも人足の顔が硬い。


 火が見えるからだ。


 声だけではない。


 赤い光が目に入る。


真下兵庫(ましたひょうご)


 赤松弥八が呼んだ。


「鉄砲衆は撃つな。火元に人影が出ても、射線の奥を見ろ」


「承知」


 真下兵庫(ましたひょうご)の声も硬い。


 昨日、撃たなかった責がまだ残っている。


 だが、その分、目は昨日より慎重だった。


 瀬川は三つの木札を置いた。


 寺。


 火薬箱。


 負傷者。


「選ぶ」


 その声に、全員が瀬川を見る。


「寺の門が崩れれば、民が死ぬ。火薬箱が焼ければ、赤土峠(あかつちとうげ)が危うい。負傷者を放れば、道が詰まる」


 誰も口を挟まない。


「全部を同時には守れぬ」


 その言葉は、昨日から分かっていた。


 だが、今、目の前で言われると、別の重さがあった。


「第一。火薬箱は止めない。止めれば狙われる。赤松弥八、坂部、辰五郎(たつごろう)、火薬箱を進めろ」


「承知」


 赤松弥八と坂部が同時に答えた。


 辰五郎(たつごろう)は座ったまま叫ぶ。


「人足は肩じゃねえ! 足を揃えろ!」


「第二。負傷者は沢の出口で止める。浄火寺(じょうかじ)へ急がせるな。担架を先に作れ」


 倉橋が頷く。


「布をさらに出します」


 鷹見が記録する。


「布、再転用」


「第三。寺には、今いる者で持たせる」


 その言葉で、空気が冷えた。


 寺には、今いる者で持たせる。


 つまり、すぐには援軍を出さない。


 瀬川の顔は変わらない。


 だが、その判断の痛みは、全員に分かった。


 黒羽が言った。


「寺に追加を出さぬのですか」


「出せば、火薬箱か沢が崩れる」


「迅がいます」


 鷹見が言った。


「蓮昭もいる。喜助も、梅吉(うめきち)も、嘉七(かしち)も」


 瀬川は低く答えた。


「名を知らぬ者たちもいる」


 坂部が苦い顔をした。


「任せるしかねえ、か」


「任せる」


 瀬川は言った。


「見捨てるのではない。今そこにいる者を、役目として見る」


 赤松弥八が火薬箱の方へ走りながら言った。


「聞こえはいいが、きついな」


「きつくとも、決めねばならぬ」


 瀬川は浄火寺(じょうかじ)の方角を見た。


 煙が上がっている。


 低く、横へ流れている。


「迅。見ろ」


 そこにいない少年へ向けて、瀬川は小さく言った。


     *


 浄火寺(じょうかじ)の門前で、迅は瀬川の判断を知らなかった。


 ただ、人が来ないことだけを知った。


 沢の出口から、追加の僧兵も兵も来ない。


 来られないのだ。


 迅は、それを理解した。


 胸が冷えた。


 でも、怒りはなかった。


 今、どこかで誰かが、別の火を見ている。


 別の荷を守っている。


 別の倒れそうな人を支えている。


 ここだけが戦場ではない。


 だから、ここはここで持たせるしかない。


「門を閉めますか?」


 僧兵が蓮昭に聞いた。


 避難民たちの顔が凍る。


 門を閉める。


 それは、外の者から見れば見捨てられることだった。


 蓮昭は門を見た。


 火を見た。


 子ども連れの列を見た。


 庄吾(しょうご)の子を見た。


 そして、迅を見た。


「迅」


「はい」


「どう見る」


 また問われた。


 迅は、喉が乾いた。


 門を閉めれば、中の者は守れる。


 外の者は押す。


 門を開け続ければ、外の者も入れる。


 だが、中で潰れるかもしれない。


 火は右の林。


 煙は低い。


 門前は揺れている。


 子ども連れは動かせる。


 水場は喜助が守っている。


 梅吉(うめきち)が押し返している。


 嘉七(かしち)が火を見ている。


 太助(たすけ)が椀を守っている。


 庄吾(しょうご)は縛られている。


 その目が、ずっと右の林を見ていた。


 迅は、庄吾(しょうご)の目に気づいた。


 恐怖ではない。


 知っている目だ。


庄吾(しょうご)さん!」


 迅は叫んだ。


 庄吾(しょうご)が顔を上げる。


「あの火、どこへ向かいますか!」


 僧兵が驚く。


「何を聞く!」


「知ってるかもしれません!」


 庄吾(しょうご)は口を閉じた。


 嘉七(かしち)が怒鳴る。


「言え! お前の子がここにいる!」


 庄吾(しょうご)の顔が歪んだ。


 子どもが父を見る。


「父ちゃん」


 その声で、庄吾(しょうご)の口が震えた。


「……右には来ねえ」


「本当ですか!」


「火は見せ火だ。下草だけ。だが、左に煙が回る。門を押すためだ」


「左?」


 迅は門の左を見た。


 そこには、子ども連れの列があった。


 煙が回れば、子どもが咳き込む。


 親が抱えて動く。


 列が崩れる。


 庄吾(しょうご)は続けた。


「林の奥に、もう一つある。赤い火じゃねえ。煙だけだ。そっちが来る」


 蓮昭が僧兵を見る。


「左の列を動かす」


 迅は叫んだ。


「門は閉めないでください!」


 蓮昭が迅を見る。


「理由は」


「閉めたら、外が押します! 左の子ども連れを内側へずらして、歩ける人を外へ広げます! 門は半分だけ空けて、流れを細くします!」


 自分で言いながら、これが正しいか分からない。


 だが、今は決めるしかない。


「喜助! 水桶を左へ二つ!」


「分かった!」


梅吉(うめきち)さん、子ども連れを内側へ!」


「おう!」


嘉七(かしち)さん、歩ける人を外へ広げてください! 走らせないで!」


「俺に言うな!」


「お願いします!」


 嘉七(かしち)は舌打ちした。


 だが、すぐに動いた。


「歩ける奴は右へ広がれ! 子を抱いた奴の横に立つな! 煙を見たら膝を曲げろ! 咳が出ても走るな!」


 太助(たすけ)が椀を抱えて叫ぶ。


「椀は奥! こっちに置く!」


 小さな声だった。


 でも、近くの子どもたちがそれを手伝った。


 椀が少しずつ奥へ動く。


 喜助が水桶を引きずる。


 水が少しこぼれる。


 だが、倒れない。


 梅吉(うめきち)が子ども連れを押し込む。


 強い言葉で、でも潰さないように。


 蓮昭が門を半分だけ開かせた。


「門は閉めぬ! だが、一度に入るな! 一人ずつ、子を先に!」


 煙が来た。


 庄吾(しょうご)の言った通り、左から低く流れてきた。


 子どもが咳き込む。


 母親が悲鳴を上げる。


 だが、列は動いていた。


 止まっていない。


 細く、曲がりながら、それでも動いていた。


 迅は木札を持ったまま、門の横に立つ。


 足元を見る。


 子を見る。


 煙を見る。


 火を見る。


 水を見る。


 全部は見えない。


 それでも見る。


 その時、右の林の奥で、火が一瞬大きく上がった。


 避難民が一斉にそちらを見る。


 迅も見そうになった。


 だが、嘉七(かしち)が叫んだ。


「見るな! あれは見せる火だ!」


 その声で、迅は我に返った。


 見るべきもの。


 今は火ではない。


 足元だ。


 子どもの列だ。


 水桶だ。


「足元を見てください!」


 迅は叫んだ。


「火は見ている人がいます! 今は足元を!」


 その言葉を、誰が聞いたか分からない。


 だが、何人かは足元を見た。


 何人かは子を抱え直した。


 何人かは、水桶を避けた。


 それだけで、道は完全には崩れなかった。


     *


 火薬箱第二便は、荷駄道の曲がりに差しかかっていた。


 右の林の火が見える。


 人足の肩が揺れる。


 赤松弥八が怒鳴る。


「火を見るな! 足を見ろ!」


 坂部が続ける。


「箱を揺らすな! 怖いなら声を出せ!」


 辰五郎(たつごろう)が座ったまま叫ぶ。


「膝を曲げろ! 火を見て背伸びするな!」


 火薬箱が、少し傾いた。


 人足の一人が、煙を見て足を滑らせたのだ。


 赤松弥八が走る。


 坂部も支える。


 火薬箱の端が、荷台の角に当たりかける。


 その瞬間、藤吉(とうきち)が飛び込んだ。


 昨日から疲れが残っているはずの若い人足だった。


 使うなと言われていた。


 それでも、そこにいた。


「下!」


 藤吉(とうきち)は、自分の背を箱の下へ入れた。


 完全に担いだわけではない。


 落ちる角度を変えただけだ。


 箱が道へ戻る。


 藤吉(とうきち)は膝をつき、顔を歪めた。


 坂部が怒鳴る。


「馬鹿野郎! お前は使うなと言っただろ!」


 藤吉(とうきち)は息を切らしながら笑った。


「使われてません。勝手に入りました」


「もっと悪い!」


 赤松弥八が箱を確認する。


「布は破れてねえ。濡れてもねえ。進める」


 藤吉(とうきち)は立とうとした。


 膝が笑っている。


 辰五郎(たつごろう)が叫んだ。


「座れ! お前の膝はもう終わりだ!」


「でも」


「戻った米を見ただろうが! 戻れねえ奴に荷は運べねえ!」


 藤吉(とうきち)は歯を食いしばり、座った。


 坂部は一瞬だけ藤吉(とうきち)を見た。


 それから、別の人足を指した。


「代われ! 箱を止めるな!」


 火薬箱は進む。


 小さな火に目を奪われながら。


 それでも進む。


 赤松弥八は、遠くに浄火寺(じょうかじ)の煙を見た。


「そっちも持てよ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


     *


 右の林の奥で、岩貫弥惣(いわぬきやそう)は目を細めていた。


 報告が重なる。


「寺、崩れませぬ」


「火薬箱、進みます」


「沢の出口、負傷者を止めています」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が苛立った声を出した。


「なぜです。全部、同時に揺らしたはずです」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、遠くの煙を見ていた。


 煙は低い。


 火は小さい。


 こちらの手は悪くない。


 それでも、崩れきらない。


「手がある」


「手?」


「武士の手だけではない」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は言った。


「水を持つ手。椀を持つ手。荷を支える手。火を見る手。子を押さえる手。道を示す手」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が鼻を鳴らす。


「名もない手です」


「だから厄介だ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は低く言った。


「名のある者を斬れば、首が取れる。名もない手は、どこを斬ればよいか分からぬ」


「なら、もっと火を」


「引く」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が驚いた。


「今ですか」


「今だ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、浄火寺(じょうかじ)の門を見た。


「これ以上押せば、寺も武士も敵として固まる。今日は、見た。十分だ」


「しかし」


燧国(ひうちのくに)は、まだ勝っていない」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は冷たく笑った。


「崩れなかっただけだ」


 その言葉を残し、岩貫弥惣(いわぬきやそう)は林の奥へ下がった。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)も渋々従う。


 火は、消せる程度に残していく。


 消せる火ほど、人は消しに行く。


 その間に、荒砥の小勢は音もなく退いた。


     *


 昼過ぎ。


 浄火寺(じょうかじ)の門前は、ようやく落ち着き始めていた。


 火は消えた。


 煙も薄くなった。


 完全に無傷ではない。


 子どもが二人、煙で咳き込んだ。


 老人が一人、転んで腕を擦った。


 椀が三つ割れた。


 水桶が一つ、ひび割れた。


 粥は薄くなった。


 それでも、門は崩れなかった。


 人は踏まれなかった。


 火は寺へ届かなかった。


 迅は、地面に膝をついた。


 足に力が入らなかった。


 喜助が隣に座り込む。


「生きてる?」


「たぶん」


「俺もたぶん」


 太助(たすけ)が割れた椀の破片を抱えてきた。


「これ、直る?」


 喜助が破片を見る。


「無理だな」


 太助(たすけ)の顔が曇る。


「怒られる?」


「怒られるけど、今日はたぶん俺も一緒に怒られる」


「また?」


「また」


 迅は、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 梅吉(うめきち)が来た。


 額に汗を浮かべている。


「子どもの列は無事だ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。腹は減ってる」


「はい」


 梅吉(うめきち)は、迅の横に座った。


「でも、今日は少し分かった」


「何がですか」


「俺たちは、逃げるだけじゃなかった」


 梅吉(うめきち)は、子ども連れの列を見た。


「押さえた。運んだ。止めた。腹は減ってるが、ただ待ってるだけじゃなかった」


 その言葉は、迅の胸に残った。


 避難民。


 守られる者。


 そう呼ぶのは簡単だ。


 だが、今日は違った。


 梅吉(うめきち)は子ども連れを守った。


 嘉七(かしち)は火を見た。


 太助(たすけ)は椀を守った。


 喜助は水を守った。


 蓮昭は門を閉めなかった。


 庄吾(しょうご)は煙の向きを言った。


 誰も、ただ守られていただけではなかった。


 迅は、門の脇に縛られている庄吾(しょうご)を見た。


 庄吾(しょうご)は顔を伏せている。


 その子が近くに寄り、父の手に触れた。


 僧兵は止めなかった。


 蓮昭がそう命じたのだろう。


 嘉七(かしち)が近づいてきた。


 火を見ていたせいか、目が赤い。


「お前、門を閉めなかったな」


「閉めた方がよかったですか」


「分からねえ」


 嘉七(かしち)は言った。


「でも、閉められてたら、外の奴らは押した」


「はい」


「開けてたら、中が潰れたかもしれねえ」


「はい」


「ひどいな」


「はい」


 嘉七(かしち)は、短く息を吐いた。


「でも、今日は潰れなかった」


 それだけ言うと、嘉七(かしち)は水桶を持って歩いていった。


 迅は、その背を見ていた。


 信じたわけではない。


 疑いが消えたわけでもない。


 それでも、同じ火を見た。


 同じ水を運んだ。


 それは、何かの始まりなのかもしれなかった。


     *


 夕方、沢の出口で大きな評定が開かれた。


 浄火寺(じょうかじ)から蓮昭が来た。


 迅も呼ばれた。


 喜助は水場に残りたがったが、瀬川に呼ばれ、しぶしぶ来た。


 烈も戻っていた。


 服の裾は泥だらけだ。


 小夜の石包みを抱えている。


 小夜自身は煤谷村(すすたにむら)に残っていた。


 志乃とともに、村へ入った者を分けているという。


 評定の場には、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八、真下兵庫(ましたひょうご)がいた。


 辰五郎(たつごろう)は座っている。


 藤吉(とうきち)はその横で、膝を布で巻かれていた。


 顔色は悪いが、目は開いている。


 八瀬隼人(やせはやと)も戻っていた。


 灰と油布を持っている。


 木札が並ぶ。


 寺。


 火薬箱。


 負傷者。


 米。


 水。


 火。


 道。


 子。


 そして、名のない札が一枚。


 瀬川はそれを見ていた。


「今日、何を失った」


 倉橋が答える。


「米の小袋一部。布。椀三つ。水桶一つ。荷台一つ。人足の膝を一人分」


 藤吉(とうきち)が小さく頭を下げる。


 坂部が言った。


「命は失ってねえ」


 蓮昭が静かに言う。


「それだけで、勝ちとは言えぬ」


「分かっている」


 瀬川は答えた。


「だが、失わずに済んだ命がある」


 鷹見が記録板を開いた。


「火薬箱第二便、通過。発砲なし。浄火寺(じょうかじ)門前、崩壊なし。炭焼き道(すみやきみち)負傷者、沢止め。敵小勢、退いた気配あり」


 黒羽が頷く。


「右の林に残る足跡は、奥へ引いている。追うなら今だが」


「追わぬ」


 瀬川が言った。


 即答だった。


 黒羽も頷いた。


「同意です。追えば、また道を選ばされる」


 赤松弥八が火薬箱の方向を見る。


「火薬箱を守る目も減る」


 坂部が言った。


「荷もこれ以上動かせねえ」


 倉橋が帳面を閉じた。


「米も余裕はありません」


 瀬川は頷いた。


「なら、今日は追わぬ。勝ったのではない。崩れなかった。それを誤るな」


 その言葉に、迅は岩貫弥惣(いわぬきやそう)の声を聞いたわけではないのに、同じ響きを感じた。


 崩れなかっただけ。


 だが、その「だけ」の中に、どれだけの手があったのか。


 瀬川は一人ずつを見た。


「今日、寺を持たせたのは誰だ」


 誰もすぐに答えない。


 瀬川は迅を見る。


 迅は少し迷い、答えた。


「俺だけではありません」


「分かっている」


「蓮昭様が門を閉めませんでした。喜助が水を守りました。梅吉(うめきち)さんが子ども連れを押さえました。嘉七(かしち)さんが火を見ました。太助(たすけ)が椀を守りました。庄吾(しょうご)さんが煙の向きを言いました。僧兵の人たちも、避難民の人たちも……」


 言いながら、迅は言葉に詰まった。


 名を知らない人が多すぎる。


 水を運んだ女。


 子を預かった老婆。


 煙の中で老人を支えた男。


 割れた椀を拾った子。


 名前を知らない。


 でも、いた。


 確かにいた。


「名前は分かりません。でも、いました」


 迅は言った。


「いなかったら、崩れていました」


 瀬川は頷いた。


「鷹見」


 鷹見が筆を持つ。


「記録しろ。名を知る者は名で。知らぬ者は、役で」


 鷹見は少しだけ眉を動かした。


 だが、すぐに書いた。


 水を運ぶ女。


 子を預かる老婆。


 老人を支えた男。


 椀を拾う子。


 門を押さえる僧兵。


 名もなき者たち。


 倉橋が小さく言った。


「帳面に載らぬ働きが、多すぎますな」


 坂部が答える。


「荷札にも書けねえ」


 黒羽が言う。


「だが、見なければまた失う」


 赤松弥八が迅を見た。


「火も同じだ。見えない火種が、一番危ねえ」


 瀬川は、静かに言った。


「この国は、役目に名が足りぬ」


 場が静まった。


 瀬川は続ける。


「米を見る者。荷を見る者。道を見る者。火を見る者。水を見る者。民を見る者。今は、その場の誰かが抱えている。だから、毎度崩れかける」


 鷹見の筆が止まる。


 倉橋が顔を上げる。


 坂部も黙った。


 迅は、その言葉の先に何かを感じた。


 まだ形にはなっていない。


 けれど、今日見たものは、いつか国の形になる。


 その予感だった。


 瀬川は、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の方角を見た。


「景胤様へ上げる」


 評定の場が、さらに重くなる。


燧国(ひうちのくに)は、戦の守り方を改めねばならぬ。槍と弓だけではない。米、荷、道、火、水、民。そのすべてに役を置く」


 赤松弥八が言った。


「鉄砲もだ」


「もちろんだ」


 瀬川は頷いた。


「撃つ者だけでは足りぬ。撃たぬと決める目もいる」


 迅は、思わず息を止めた。


 撃たぬと決める目。


 それは、自分のことだけではない。


 真下兵庫(ましたひょうご)も、昨日鉄砲を下ろした。


 赤松弥八も、撃つ前を見ると言った。


 鉄砲は、撃つためだけのものではない。


 守るために、撃たない時もある。


 蓮昭が口を開いた。


「寺もまた、役を改めねばならぬ」


 瀬川が蓮昭を見る。


「寺がですか」


「民はこれからも来る。寺は門を開ける。だが、門を開けるだけでは守れぬ。水を見る者、子を見る者、倒れそうな者を見る者を、寺の中にも置く」


 梅吉(うめきち)がいれば、嫌な顔をしただろう。


 だが、迅は思った。


 きっと梅吉(うめきち)は、文句を言いながら見る。


 嘉七(かしち)は、信じていないと言いながら火を見る。


 太助(たすけ)は、怒られるのを嫌がりながら椀を洗う。


 それでいいのかもしれない。


 最初から立派でなくていい。


 守る手は、泥と不満の中からでも生まれる。


     *


 夜。


 浄火寺(じょうかじ)へ戻る道は、静かだった。


 火は消えた。


 煙もない。


 だが、匂いは残っている。


 焦げた草。


 湿った葉。


 油布。


 汗。


 水。


 粥。


 迅は、門の前で立ち止まった。


 今日、ここは崩れかけた。


 でも、崩れなかった。


 その理由は、どこか一つにはない。


 蓮昭の声。


 喜助の水桶。


 梅吉(うめきち)の腕。


 嘉七(かしち)の火を見る目。


 太助(たすけ)の小さな手。


 庄吾(しょうご)の震える声。


 名を知らない者たちの足。


 その全部が、少しずつ支えた。


 門の中では、粥の火がまた小さく燃えていた。


 太助(たすけ)が眠りながら、割れた椀の破片を手元に置いている。


 喜助がその横で水桶にもたれ、半分眠っている。


 梅吉(うめきち)は子を抱き、目を閉じていた。


 嘉七(かしち)は火のそばに座っている。


 火を見ているのか、火に見られているのか、分からない顔だった。


 庄吾(しょうご)は縛られたままだ。


 だが、その子は父の近くで眠っている。


 蓮昭が、火の前にいた。


「戻ったか」


「はい」


「評定は」


燧国(ひうちのくに)は、守り方を改めるべきだと」


 蓮昭は静かに頷いた。


「そうか」


 迅は火を見た。


「今日は、勝ったんでしょうか?」


 蓮昭はすぐには答えなかった。


 火がぱちりと鳴る。


「勝ってはおらぬ」


 蓮昭は言った。


「だが、消えなんだ」


 迅は、その言葉を胸に入れた。


 勝ってはいない。


 でも、消えなかった。


 それが今日のすべてだった。


 嘉七(かしち)が、火を見たまま言った。


「消えなかった火は、また煙を出すぞ」


「はい」


 迅は答えた。


「でも、温めることもできます」


 嘉七(かしち)は鼻で笑った。


「きれいごとだな」


「そうかもしれません」


「でも、今日は少し温かった」


 それだけ言って、嘉七(かしち)は黙った。


 迅は、火のそばに腰を下ろした。


 手をかざす。


 熱いほどではない。


 けれど、冷えた指先には十分だった。


 守るために戦う。


 戦うことで、守れるものを増やす。


 その言葉を、迅はまだ知らない。


 けれど、今日、その形だけは見た。


 名のある武士だけではない。


 米を数える者。


 荷を担ぐ者。


 水を運ぶ者。


 火を見張る者。


 道を走る者。


 椀を洗う子。


 疑いながらも火を見る男。


 従わされながらも煙の向きを告げた父。


 誰かを守る手は、思っていたより多かった。


 そして、その手は、どれも傷ついていた。


 迅は、火を見つめた。


 この火は、すぐ消えそうだ。


 強い炎ではない。


 誰かが手を添えなければ、風に負ける。


 でも、今日は消えなかった。


 名もなき者たちが守った、小さな火。


 迅は、その火の名を、ようやく胸の奥で知った気がした。


 徒火(あだび)


 誰かに誇るためではなく。


 誰かを焼くためでもなく。


 名もなき者たちが、誰かを生かすために灯す火。


 夜の底で、その火はまだ揺れていた。


 消えそうで。


 それでも、消えなかった。

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