【第19話】崩れる道
朝から、浄火寺の空は低かった。
雨は降っていない。
だが、雲が山の腹にかかり、煙がまっすぐ上がらない。
粥を炊く火の煙も、細く横へ流れていた。
迅は門の外に立ち、その煙の向きを見ていた。
昨日までなら、煙は敵に見られるかどうかだけを気にしていた。
今は違う。
煙がどちらへ流れるか。
風がどちらへ抜けるか。
火がどこへ移るか。
鉄砲の煙が出た時、誰の目を消すか。
見るものが増えていた。
増えすぎていた。
「迅」
喜助が水桶を置きながら声をかけた。
「顔、怖いよ」
「え?」
「いや、元から余裕ある顔ではないけど」
「余計なこと言うなよ」
喜助は少し笑った。
笑ったあと、すぐに顔を戻す。
門の外では、避難民の列がまた増えていた。
沢道から来る者。
炭焼き道から来る者。
どちらの道か分からない者。
子を抱く者。
肩を貸される者。
荷を捨てられず、まだ背負っている者。
誰もが浄火寺を見ている。
寺の門を。
粥を。
水を。
座れる場所を。
蓮昭は、僧兵たちに木札を置かせていた。
沢道。
炭焼き道。
獣道。
歩ける者。
歩けぬ者。
子ども連れ。
倒れそうな者。
迅は、その木札を見ながら思った。
木札は増えた。
けれど、人の数も増えた。
札が増えれば守れるわけではない。
札を見る者がいなければ、ただの木だ。
「おい」
梅吉が近づいてきた。
子は背中に負っている。
今日は両手を空けていた。
「太助の母親、少し粥を飲めたらしい」
「よかったです」
「よかった、で終われば楽だな」
梅吉は、列の方を見た。
「今度は、あっちの爺さんが倒れそうだ」
迅も見る。
歩ける者の列の中で、老人が腰を曲げている。
隣の男が支えているが、支える男の足も震えていた。
「喜助!」
「はい!」
「倒れそうな者の札へ。水を少し」
「分かった!」
喜助が走る。
梅吉は、それを見て小さく息を吐いた。
「前よりは、早くなったな」
「何がですか」
「倒れてから慌てるんじゃなく、倒れる前に動くようになった」
迅は答えられなかった。
嬉しいことのはずだった。
けれど、倒れそうな者が見えるようになっただけで、助けられるとは限らない。
そんな時だった。
浄火寺の外れで、半鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
間を置いて、三つ。
昨日とは違う間だった。
火ではない。
僧兵がこちらへ走ってくる。
「蓮昭様! 沢の出口より伝令! 炭焼き道から人が増えています!」
蓮昭の顔が険しくなる。
「どれほどだ」
「二十ほど。さらに後ろに影ありとのこと!」
門前がざわつく。
二十。
さらに後ろ。
迅は、炭焼き道の方を見た。
道は細い。
人だけなら通れる。
だが、二十人が続けて出てくれば、沢の出口は詰まる。
そのまま浄火寺へ向かえば、門前も詰まる。
そこへ、別の声が上がった。
「右の林から煙!」
迅の背中が冷えた。
振り向く。
右の林の奥に、細い白煙が立っていた。
黒くはない。
だが、低い。
地面を這うような煙だった。
風は、浄火寺の方へ向いている。
「風下だ」
蓮昭が低く言った。
初めて聞いた言葉ではない。
だが、その意味が今、嫌なほど分かった。
煙がこちらへ流れる。
門前の人々が煙を見る。
見るだけでは済まない。
逃げる者が出る。
押す者が出る。
子を抱えて走る者が出る。
迅は叫んだ。
「門の列を止めないでください! 煙を見る人は、足元も見て!」
無理な言葉だった。
煙が見えれば、人は煙を見る。
それでも言うしかない。
「喜助! 水場を離すな!」
「分かった!」
「梅吉さん、子ども連れを門から離しすぎないで! 走らせないで!」
「言われなくても!」
梅吉が列の横へ出る。
子を負ったまま、両手を広げた。
「走るな! 煙を見ても、足元見ろ! 転んだら後ろの子が潰れるぞ!」
その声は荒かった。
だが、避難民の耳に届いた。
太助も椀洗いの手を止め、門の方を見ていた。
喜助が怒鳴る。
「太助! 椀を奥へ! 煙でみんな走ったら割れる!」
「うん!」
太助が椀を抱え、喜助と一緒に板を奥へ運ぶ。
嘉七は、煙を見ていた。
水桶を持ったまま、動かない。
迅はその横顔に気づいた。
嘉七の顔は、驚いていなかった。
「嘉七さん!」
呼ぶと、嘉七が振り向く。
「右の林の煙、知ってますか!」
嘉七は答えなかった。
「知ってるなら言ってください!」
嘉七は、歯を食いしばった。
「……あれは火事じゃねえ」
「何ですか」
「湿った葉と油布だ」
その言葉を聞いた瞬間、迅は第16話の黒い布を思い出した。
煙を作るための火。
燃やすためではない。
目を奪うための火。
「消せますか」
「火元が近けりゃ消せる。だが、あれは奥だ。消しに行けば、門が空く」
迅は、蓮昭を見る。
蓮昭も同じことを考えていた。
煙を消しに人を出せば、寺の門が薄くなる。
出さなければ、煙が門前に流れる。
そこへ、さらに伝令が駆け込んできた。
「沢の出口より急ぎ! 炭焼き道の人の中に負傷者多数! 担架が足りませぬ!」
迅の胸が締めつけられた。
負傷者。
担架。
煙。
門。
水。
子ども。
全部が同時に来た。
これが、岩貫弥惣の言っていたことだと、迅は知らない。
だが、感じた。
これは偶然ではない。
同時に揺らされている。
*
沢の出口でも、同じ煙が見えていた。
瀬川は、地面に並んだ木札を見下ろしていた。
黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八、真下兵庫がいる。
少し後ろでは、辰五郎が立とうとして坂部に怒鳴られていた。
「座ってろ!」
「座ってたら見えねえ!」
「肩から血を出して何が見える!」
「人足の膝だ!」
そのやり取りすら、今は余裕がない。
炭焼き道の方から、人が出てきていた。
予想より多い。
老人。
女。
子ども。
肩を怪我した男。
足を引きずる若者。
それから、目を伏せている者。
敵か民か、すぐには分からない者たち。
黒羽が言った。
「煙は右の林。人は炭焼き道。二つ同時だ」
鷹見が記録を取りながら言う。
「敵の意図は」
「分かりやすい」
黒羽は答えた。
「こちらの目を二つに割る」
瀬川は三つの選択肢を地面に書いた。
一つ。
煙を消しに行く。
二つ。
炭焼き道から来た者を先に受ける。
三つ。
両方に人を割る。
坂部が苦い顔をした。
「三つ目は、人が足りねえ」
倉橋が言う。
「しかし、炭焼き道の負傷者を放れば、浄火寺へ向かう前に倒れます」
赤松弥八が煙を見る。
「煙を放れば、門前が乱れる。鉄砲衆も射線を失う」
真下兵庫は腕を組んでいた。
「煙の中では撃てませぬ」
「撃たなくてよい」
瀬川が即座に言った。
「撃つ話ではない。見る話だ」
真下兵庫は口を閉じた。
鷹見が低く言う。
「どれを捨てるかですな」
場が沈んだ。
捨てる。
言葉は冷たい。
だが、どこかを薄くしなければならない。
瀬川は坂部を見た。
「担架は」
「足りねえ。板を外せば作れるが、荷台が減る」
「作れ」
坂部は即座に頷いた。
「荷台一つ潰す」
倉橋が眉を動かす。
「荷台が減れば、米の運びが遅れます」
「人が倒れりゃ、米を運ぶ道が詰まる」
坂部は返した。
倉橋は一瞬黙り、頷いた。
「では、米は小袋を優先します。俵は動かさない」
辰五郎が叫んだ。
「担架なら、板だけじゃだめだ! 布を渡せ! 脇を吊らねえと、揺れて落ちる!」
坂部が怒鳴る。
「座ってろと言っただろ!」
「座って言ってる!」
実際、辰五郎は座っていた。
瀬川は短く言った。
「布を出せ」
倉橋が帳面を開く。
「浄火寺へ送る布が減ります」
「今、ここで使う」
瀬川の声は揺れない。
「浄火寺へ届く前に倒れられては、布も粥も届かぬ」
鷹見が記録する。
「荷台一、布を担架へ転用」
赤松弥八が煙を見る。
「煙はどうする」
黒羽が言う。
「消しに行くなら、二人でよい。多く出すと敵の思うつぼだ」
「二人で消せるか」
「火元が小さければ。大きければ戻る」
真下兵庫が言った。
「鉄砲衆から二人出します」
赤松弥八が睨む。
「火を消すのに鉄砲を持ったまま行くな。火縄を置け」
「承知」
瀬川は首を横に振った。
「鉄砲衆は門前から動かすな。煙で民が動いた時、見える位置にいることが牽制になる」
「では誰が」
黒羽が言った。
「私の配下を一人。八瀬隼人を出す。もう一人は、火の扱いを知る者がよい」
赤松弥八が言う。
「火筒の者を一人出す。鉄砲は持たせねえ。水と砂だけだ」
瀬川は頷いた。
「煙は二人で見る。消せるなら消す。無理なら戻る。追うな。深入りするな」
黒羽が八瀬隼人を呼んだ。
若い物見はすぐに膝をつく。
「行け。ただし、奥へ入るな」
「承知」
「見たものを持ち帰れ。消した火より、残した報告を重く見ろ」
八瀬隼人は一瞬だけ顔を引き締めた。
「承知しました」
瀬川は最後に、炭焼き道から来る人の列を見た。
「負傷者は沢の出口で止める。歩ける者は浄火寺へ。だが、煙が門へ流れる間は急がせるな。急がせれば寺で崩れる」
鷹見が言った。
「つまり、ここで詰まる」
「詰まらせる」
瀬川は言った。
「詰まるのではなく、詰まらせる。こちらの手で」
迅がいたら、その言葉を重く受け止めただろう。
人を止める。
助けるために止める。
だが、止められた者には、見捨てられたように見える。
瀬川は木札を一枚取った。
そこに書く。
沢止め。
短い言葉だった。
だが、その重さは、誰にも軽く見えなかった。
*
浄火寺の門前では、煙が少しずつ近づいていた。
白い煙が地面近くを流れてくる。
目にしみるほどではない。
だが、人の不安を煽るには十分だった。
「火事じゃないのか」
「林が燃えてるんじゃ」
「寺に移るぞ」
「逃げた方がいい」
声が出始める。
迅は、門前の木札をつかんだ。
「逃げないでください! 火元は確認中です! 煙は低いです! 林が燃えている煙ではありません!」
自分でも、どこまで確かか分からない。
それでも、言うしかない。
分からないまま黙れば、恐怖が勝手に形を作る。
真下兵庫は、鉄砲衆を林の縁に置いていた。
まだ構えていない。
だが、見える場所にいる。
その存在が、安心にも不安にもなる。
庄吾は門の脇で縛られていた。
その子は、梅吉の子の隣にいる。
嘉七は煙を見ていた。
迅は近づいた。
「嘉七さん。あの煙、火事じゃないんですよね」
「たぶんな」
「みんなに言えますか」
嘉七は顔をしかめた。
「俺が言って信じるのか」
「俺が言うより、信じる人もいます」
「俺を信じる奴なんかいねえ」
「います」
迅は、梅吉を見た。
梅吉は嫌そうな顔をした。
「俺を見るな」
「梅吉さんも、言ってください」
「何を」
「煙だけで走るなって」
梅吉は舌打ちした。
だが、前へ出た。
「聞け! この煙で走るな! 火が来たら俺が先に逃げる! 俺が逃げてねえから、まだ逃げるな!」
避難民の何人かが、思わず梅吉を見た。
乱暴な言い方だった。
けれど、変に効いた。
嘉七も、仕方なさそうに声を出した。
「あの煙は湿った葉の煙だ! 山火事の煙じゃねえ! 走ると転ぶぞ!」
「本当か!」
誰かが叫ぶ。
「本当かどうか、俺も全部は知らねえ!」
嘉七は怒鳴った。
「だが、火事の煙とは違う! 違うものを同じだと思って走るな!」
迅は、その言葉を聞いて驚いた。
分からないことを、分からないまま言う。
それでも、違うものは違うと言う。
嘉七の言葉は、不思議と届いた。
煙は近づいている。
だが、列はまだ崩れていない。
その時、右の方で女の悲鳴が上がった。
「この子が!」
迅は振り向く。
子どもが倒れていた。
煙を見て走ったのではない。
足元の石につまずいたのだ。
母親が抱き起こそうとして、膝をついている。
その後ろから人が押しかける。
「止まって!」
迅は走った。
梅吉も動く。
喜助が水桶を置いて駆け寄る。
「後ろ下がって! 子どもがいる!」
迅が叫ぶ。
だが、後ろの者には見えない。
煙を見ている。
門を見ている。
足元を見ていない。
迅は、とっさに木札を倒した。
倒れる音が、乾いて響く。
人々がそちらを見る。
「木札が倒れた!」
「何だ!」
その一瞬で、梅吉が子どもを抱き上げた。
喜助が母親を支える。
迅は倒した木札を拾い上げた。
胸が痛んだ。
札を倒す。
それは、順を崩すことでもある。
でも、今は目をこちらへ向けるために必要だった。
蓮昭が近づいてきた。
「よく倒した」
「よかったんですか」
「倒すために立てた札ではない。守るために立てた札だ。倒して守れるなら、倒せ」
迅は息を吐いた。
また一つ、覚えることが増えた。
*
炭焼き道の出口では、別の混乱が起きていた。
負傷者が多い。
腕を切った者。
足首を腫らした者。
煙を吸って咳き込む子。
誰もが浄火寺へ向かいたがった。
だが、瀬川は沢の出口で止めた。
止めた瞬間、不満が爆ぜた。
「なぜ止める!」
「寺へ行かせてくれ!」
「ここで死ねっていうのか!」
瀬川は声を張らない。
木札の前に立ち、ただ言った。
「ここで見る」
「見る?」
「歩ける者は浄火寺へ。歩けぬ者は担架。子どもは先に水。だが、今すぐ全員を流せば、寺で潰れる」
「俺たちは邪魔か!」
男が叫んだ。
瀬川は、その男を見る。
「邪魔ではない。だから止めている」
男は言葉を失った。
意味が分からない、という顔だった。
坂部が横から入る。
「走れる奴は右。歩ける奴は中央。担架が要る奴は左。荷を持ってる奴は、荷を置け」
「荷は捨てられねえ!」
「捨てろとは言ってねえ。置けと言ってる。お前が倒れたら、その荷も人も道を塞ぐ」
辰五郎が座ったまま怒鳴る。
「担架は揺らすな! 脇を持て! 足だけ持つな! 落としたら二度と立てねえぞ!」
人足たちが動く。
板と布で作った担架が運ばれる。
粗い作りだ。
だが、ないよりはいい。
倉橋は、担架に使われた布を見ながら帳面に記している。
布。
減。
負傷者。
増。
鷹見は、誰が止め、誰が押し、誰が水を渡したかを記録していた。
黒羽は、炭焼き道から出てくる者の足元を見ている。
その中に、一人だけ、やけに足元のきれいな男がいた。
泥が少ない。
負傷もしていない。
なのに、怪我人の列に紛れようとしている。
黒羽が目を向ける。
男が視線を逸らした。
「止まれ」
黒羽の声は静かだった。
男は止まらない。
「止まれ」
二度目の声で、八瀬隼人が動いた。
男の前に立つ。
「怪我は」
「足が」
「どちらの足」
「……右」
八瀬隼人は、男の左足を見た。
左をかばっている。
嘘だ。
その時、男が走った。
右ではなく、左へ。
沢の出口の横。
荷を置いた場所へ向かって。
「荷だ!」
坂部が叫ぶ。
男の狙いは米ではない。
担架を作るために外された荷台の脇。
そこには、小袋の米が置かれていた。
八瀬隼人が追う。
男は小袋を一つ掴み、投げた。
米が地面に散る。
それを見た避難民の目が変わった。
米。
白い米。
腹が、それを見てしまった。
「拾うな!」
瀬川が叫ぶ。
だが、数人が動いた。
無理もない。
白い米が泥に落ちている。
拾わなければ、泥に消える。
拾えば、誰かが食える。
坂部が人足に叫ぶ。
「布をかけろ!」
人足がすぐに布を投げた。
散った米を隠す。
それだけで、人の足が一瞬止まった。
辰五郎が怒鳴る。
「見せるな! 腹に見せるな!」
倉橋の顔が歪む。
米を隠す。
それは、民には疑いになる。
だが、見せれば崩れる。
瀬川は男の方を見た。
八瀬隼人が男を押さえている。
男は抵抗していたが、すぐに力を失った。
荒砥兵か。
従わされた者か。
まだ分からない。
だが、米を見せるために動いたことだけは確かだった。
瀬川は低く言った。
「こちらも揺らされた」
右の林の煙。
浄火寺の門。
炭焼き道の負傷者。
そして、米。
道は一つではなかった。
崩れる場所も、一つではなかった。
*
右の林の中で、岩貫弥惣は報告を聞いていた。
鹿部市之助が戻っている。
「煙は流れました。寺の門は揺れましたが、崩れきりませぬ」
「沢の出口は」
「米を見せました。少し動きましたが、布で隠されました」
岩貫弥惣は、地面に落ちた葉を拾った。
湿っている。
湿った葉は燃えにくい。
だが、煙は出る。
「燧は、だいぶ覚えたな」
鹿部市之助が眉をひそめる。
「厄介ですか」
「厄介だ」
岩貫弥惣は言った。
「米を見せれば、腹が動く。煙を見せれば、目が動く。子を見せれば、足が動く。そこまでは読める」
「なら、なぜ崩れませぬ」
「それぞれに、見ている者がいる」
岩貫弥惣は、葉を指で砕いた。
「寺には、道を見る小僧。水を見る若いの。腹を知る男。僧兵。沢の出口には、荷を見る者、米を見る者、足跡を見る者」
「一つずつ潰しますか」
「潰せば固まる」
岩貫弥惣は首を横に振った。
「崩すなら、同時にだ」
鹿部市之助は笑った。
「次は、もっと増やしますか」
「いや」
岩貫弥惣の目が細くなる。
「次は、選ばせる」
「選ばせる?」
「助けに行けば、別が崩れる。残れば、目の前が死ぬ」
岩貫弥惣は、浄火寺の煙を見た。
「守る者に、一つを選ばせる」
風が吹いた。
煙が薄く揺れる。
「その時、人は初めて、自分が何を捨てたかを知る」
*
浄火寺では、煙が少しずつ薄れていた。
八瀬隼人と火筒の者が、火元を確認して戻ったという知らせが来る。
小さな火だった。
湿った葉と油布。
燃やす火ではなく、見せる煙。
消せた。
ただし、完全には安心できない。
迅は、その知らせを聞いても、力が抜けなかった。
門前は崩れなかった。
だが、子どもが一人倒れた。
沢の出口では米が散ったという。
負傷者も増えている。
何も失わなかったわけではない。
ただ、大きく崩れなかっただけだ。
蓮昭が門前の木札を立て直していた。
迅が倒した札だ。
「すみません」
「謝ることではない」
蓮昭は言った。
「札は人を守るためにある。札を守るために人が潰れてはならぬ」
迅は頷いた。
梅吉が子を抱えて近づいてきた。
「倒れた子は大丈夫だ。膝を擦っただけだ」
「よかった」
「よかった、か」
梅吉は、迅を見た。
「今日は、よかったで済むのか?」
迅は答えられなかった。
嘉七が水桶を置いた。
「火元は小さかったらしい」
「はい」
「小さな火で、これだけ人が動く」
嘉七の声には、怒りのようなものがあった。
「火をつけた奴は、よく分かってる。俺たちが何を怖がるかを」
迅は、嘉七を見た。
「嘉七さんは、逃げませんでした」
「子の列があったからだ」
「水も運んでいました」
「水桶を置いたら、誰かが走ると思った」
嘉七は顔を背けた。
「それだけだ」
それだけ。
だが、その「それだけ」がなければ、列は崩れていたかもしれない。
迅は、言葉を飲み込んだ。
褒めれば、嘉七は嫌がるだろう。
ただ、覚えた。
太助は、洗った椀を並べていた。
喜助が隣で数えている。
「一、二、三……あれ、数が合わない」
「さっき一つ割れた」
「え、いつ?」
「煙の時」
太助が小さく言う。
「俺が落とした」
喜助は一瞬困った顔をした。
それから、肩をすくめた。
「じゃあ、あとで一緒に謝ろう」
「怒られる?」
「怒られる」
「嫌だ」
「俺も嫌だ」
二人は黙った。
それから、また椀を並べ始めた。
迅は、その姿を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
でも、それもすぐに重さに変わる。
椀一つ。
米一粒。
木札一枚。
水桶一つ。
どれも小さい。
だが、小さいものが崩れる時、道も崩れる。
*
夜の評定は、浄火寺と沢の出口の間で開かれた。
寺の門から少し離れた、古い杉の根元だった。
瀬川、蓮昭、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八、真下兵庫。
そして、迅も呼ばれていた。
喜助は水場に残った。
梅吉も門前に残った。
嘉七は、少し離れた場所で水桶を持ったまま座っている。
呼ばれてはいない。
だが、聞こえる位置にいた。
瀬川が地面に木札を並べた。
煙。
負傷者。
米。
門。
担架。
火元。
水。
倉橋が言った。
「米の小袋一つが散りました。一部は泥に落ち、使えませぬ」
坂部が続ける。
「荷台一つを担架に回した。明日の荷は遅れる」
蓮昭が言う。
「寺では子どもが一人転倒。椀一つ破損。列は崩れず」
黒羽が言う。
「煙の火元は小さい。湿った葉と油布。火を広げるためではなく、目を引くための火」
赤松弥八が言った。
「火薬箱の近くでやられたら危ない。今日の煙は寺へ向けたものだが、次は火薬かもしれねえ」
鷹見が記録を見ながら言った。
「敵は、同時に複数箇所を揺らしている。右の林、炭焼き道、沢の出口、寺の門」
真下兵庫が低く言う。
「鉄砲で牽制できる場所は限られます。煙の中では撃てません」
瀬川は、しばらく黙った。
そして言った。
「今日は、こちらが何を選ぶかを見られた」
誰も声を出さない。
「煙を消すか。負傷者を見るか。門を守るか。米を隠すか。全部を同時に迫られた」
迅の胸が重くなる。
そうだ。
今日は、選ばされた。
すべてに手を伸ばせないことを、見せられた。
蓮昭が言った。
「明日は、さらに来るな」
「来る」
黒羽が答えた。
「敵は、こちらが崩れきらぬことを知った。ならば、次は選ばせる」
瀬川は頷いた。
「こちらも選ぶ準備をする」
迅は思わず顔を上げた。
「選ぶ準備、ですか?」
「そうだ」
瀬川は迅を見る。
「選ばされてから迷えば、遅い。何を先に守るか、あらかじめ決める」
倉橋が言う。
「米か」
坂部が言う。
「荷か」
蓮昭が言う。
「子か」
赤松弥八が言う。
「火薬か」
黒羽が言う。
「道か」
鷹見が静かに言った。
「そして、何を後回しにするか」
その言葉で、空気が冷えた。
迅は、手を握った。
後回し。
見捨てる、ではない。
だが、助ける順が遅れるということだ。
その間に、誰かが倒れるかもしれない。
瀬川は言った。
「明日、敵が二つを同時に揺らした場合。寺の門と火薬箱なら、火薬箱を守る。火薬が失われれば、赤土峠が危うい」
蓮昭は目を伏せた。
反論しない。
だが、痛みはある。
「寺の門と子どもの列なら、子どもの列を守る」
蓮昭が続けた。
「門は閉じられる。子は潰れれば戻らぬ」
坂部が言う。
「荷駄と負傷者なら、負傷者を道から退かすのが先だ。道に倒れられたら、荷も人も止まる」
倉橋が頷いた。
「米を少し失っても、道が残れば次が送れます」
赤松弥八が言った。
「火薬箱に火が寄ったら、何より先に離せ。消すより離す。水をかける前に、人をどけろ」
真下兵庫が頷く。
「鉄砲衆は、撃つより退かすことを優先する場面あり」
鷹見がすべてを記録する。
迅は、その場を見ていた。
これは、未来の軍制の形に見えた。
誰が米を見るか。
誰が荷を見るか。
誰が道を見るか。
誰が火を見るか。
誰が民を見るか。
まだ名はない。
だが、役目はすでに生まれている。
瀬川は最後に迅へ言った。
「明日、お前は浄火寺の門前に残る。だが、門だけを見るな。選ぶ時が来たら、何を見たか言え」
迅の喉が乾いた。
「俺が、選ぶんですか?」
「決めるのは上だ」
瀬川は言った。
「だが、現場で最初に見るのは、お前かもしれぬ」
迅は、返事をするのが怖かった。
けれど、黙る方がもっと怖かった。
「はい」
声は小さかった。
だが、瀬川は頷いた。
*
夜。
浄火寺の火は、いつもより小さかった。
薪を節約している。
煙を抑えている。
それでも、粥は温めなければならない。
迅は、門の外で座っていた。
足が重い。
目も痛い。
けれど、眠れない。
嘉七が近づいてきた。
「明日は、もっと来るな」
迅は顔を上げる。
「そう思いますか」
「今日の煙は、試しだ」
「試し?」
「どこを見れば、お前らが動くか。どこを押せば、誰が出るか。向こうは見てた」
迅は、右の林を見た。
暗い。
何も見えない。
だが、見えない場所から、こちらは見られている。
「嘉七さん」
「何だ」
「もし明日、庄吾さんみたいな人がまた来たら、言ってください。知っていることを」
嘉七は黙った。
「言えば、誰かが向こうで死ぬかもしれない」
「はい」
「言わなければ、こっちで誰かが死ぬかもしれない」
「はい」
「ひでえ話だな」
「はい」
嘉七は、しばらく空を見ていた。
雲が厚く、星は見えない。
「分かった」
短い答えだった。
それだけ言って、嘉七は水場へ戻った。
迅は、胸の奥が少しだけ痛んだ。
誰かに言わせる。
それも、責だ。
太助が椀を並べ終えて、喜助の横で眠りかけている。
梅吉は子を抱いたまま壁にもたれている。
蓮昭は火の前で目を閉じている。
眠っているのか、祈っているのか分からない。
細い火が、風に揺れる。
今日も消えなかった。
だが、明日も消えないとは限らない。
迅は、その火を見ながら思った。
守るとは、火を大きくすることではない。
風の向きを見て、手で囲い、燃え移らぬようにしながら、それでも消さないことだ。
そのために、明日は何を選ばなければならないのか。
考えるだけで、指先が冷えた。
遠く、右の林の奥で、何かが鳴いた。
鳥か。
獣か。
それとも、人の合図か。
迅は目を閉じなかった。
見たいものではない。
見るべきものを。
そう思いながら、夜の暗がりを見続けた。




