【第18話】撃たぬ者
浄火寺の朝は、静かではなかった。
泣き声。
水桶を置く音。
椀を洗う音。
僧兵が列を直す声。
それらが、細い煙の下で重なっていた。
迅は門の脇に立ち、人の流れを見ていた。
昨日よりは、ましだった。
そう思いたかった。
子ども連れの列。
倒れそうな者を見る列。
水を運ぶ者。
椀を洗う者。
粥を受け取った者が抜ける道。
少しずつ、形にはなっている。
だが、形になったものほど、崩れた時の音も大きい。
太助は今日も椀を洗っていた。
喜助が横で見ている。
梅吉は子を抱きながら、子ども連れの列の外側に立っている。
嘉七は水桶を運んでいた。
その顔には、疲れがある。
だが、目はまだ休んでいない。
迅は、その目が気になって仕方がなかった。
「迅」
蓮昭が声をかけた。
「はい」
「今日は、門の外を広く見る」
「門の外、ですか?」
「昨日は、椀が内で奪われた。今日は、外で何かが起きる」
迅は、思わず門の外へ目を向けた。
道がある。
沢の出口へ向かう道。
炭焼き道から流れてくる細い道。
右の林の影。
どれも、人が通れる。
そして、敵も通れる。
「なぜ、そう思うんですか?」
蓮昭は、火を見た。
粥を温める小さな火だ。
「昨日、敵は煙を見せた。椀を奪わせた。火薬箱を揺らした」
「はい」
「同じ手は、続けて使わぬ」
蓮昭は静かに言った。
「次は、こちらが見慣れたものを使う」
「見慣れたもの」
「子。親。水。火。助けを求める声」
迅の喉が鳴った。
そのどれも、すでにこの寺にあるものだった。
守るために見てきたものだった。
それが、敵の手にもなる。
迅は拳を握った。
遠くから、走る足音が聞こえた。
伝令だった。
沢の出口から来た若い兵が、門の前で息を整える。
「蓮昭様! 瀬川様より知らせ!」
「申せ」
「本日、鉄砲衆の一部を浄火寺近くへ置きます。目的は敵小勢への牽制。ただし、寺の門前では撃たせぬとのこと!」
門前の空気が変わった。
鉄砲。
その言葉だけで、人の肩が揺れた。
梅吉が子を抱き直す。
嘉七の目が、ほんの少し細くなる。
太助は椀を洗う手を止めた。
喜助が、慌てて声をかける。
「手、止めるな。椀が冷える」
「鉄砲、来るの?」
太助が小さく聞いた。
「来るけど、ここでは撃たない」
喜助は言った。
だが、その声は少し震えていた。
迅は伝令に聞いた。
「誰が来ますか?」
「赤松弥八様の鉄砲衆です。ただし、赤松弥八様は火薬箱の方へ。こちらへは鉄砲頭代わりとして、真下兵庫殿が参ります」
新しい名だった。
真下兵庫。
迅は、その名を胸に置いた。
蓮昭は眉を動かした。
「鉄砲を寺の近くへ置けば、民は怯える」
「瀬川様も承知の上です。右の林と炭焼き道から小勢が動く気配ありとのこと」
迅は、門の外を見た。
小勢。
敵兵か。
従わされた民か。
それとも、民の中に混じる者か。
伝令は続けた。
「迅殿には、鉄砲衆と寺の列の間を見るようにとの命です」
まただ。
見るものが増える。
迅は、一度だけ息を吸った。
「分かりました」
答えると、背中が重くなった。
鉄砲衆と寺の列の間。
そこに入るということは、撃つ者と撃たれるかもしれない者の間に立つということだった。
*
真下兵庫は、昼前に来た。
背は高くない。
だが、体の芯が硬そうな男だった。
髭は短く、目は鋭い。
鉄砲を持つ手は静かで、無駄な動きがない。
後ろには五人の鉄砲衆がいる。
彼らは寺の門から少し離れた林の縁に立った。
浄火寺の敷地へは入らない。
だが、門から見える。
見えるだけで、避難民はざわついた。
「撃つのか?」
「ここでか?」
「寺に鉄砲を向けるのか?」
「敵が来るんだろう」
「敵って誰だ?」
声が広がる。
迅はすぐに門前へ出た。
「鉄砲は門に向けません!」
声を張る。
「右の林と炭焼き道を見るためです! 寺の中へは入りません!」
それで全員が安心するわけではない。
むしろ、鉄砲がある理由を知ったことで、別の不安が出る。
敵が近いのか。
ここも戦場なのか。
逃げた方がいいのか。
梅吉が迅に近づいた。
「本当に撃たねえんだな」
「門前では撃たせません」
「お前が決めるのか」
「俺が見る役です」
「見るだけで止まるのか」
迅は答えに詰まった。
その時、真下兵庫がこちらへ歩いてきた。
「止めるかどうかは、鉄砲を持つ者が決める」
低い声だった。
迅は振り向いた。
真下兵庫は迅を見下ろす。
「お前が火守の子か」
「はい。火守迅です」
「赤松弥八様から聞いている。怖がりだそうだな」
梅吉が眉を上げた。
迅は、顔が熱くなるのを感じた。
「……はい」
「鉄砲の前に立つ者が、怖がりでは困る」
真下兵庫は言った。
声に悪意はない。
ただ、そういうものだと決めている声だった。
「鉄砲は、迷えば撃ち損じる。撃ち損じれば、味方が死ぬ」
迅はうなずいた。
「はい」
「だが、撃つ場所を誤っても味方が死にます」
真下兵庫の目が細くなった。
「誰に教わった」
「昨日、赤松弥八様に」
「赤松弥八様は、余計なことも教える」
真下兵庫は、鉄砲衆の方へ視線を戻した。
「我らは敵を止める。お前は民を退かせろ。射線に入れさせるな。声が出るなら出せ。足が動くなら動かせ」
「はい」
「ただし、撃つなと言うなら、理由を言え。怖いから、では通らん」
迅は息を飲んだ。
「はい」
真下兵庫は、それだけ言うと林の縁へ戻った。
梅吉が小さく言った。
「嫌な男だな」
「でも、言ってることは分かります」
「それが余計に嫌だ」
迅は苦笑できなかった。
真下兵庫は厳しい。
だが、間違ってはいない。
撃ち損じれば死ぬ。
撃つ場所を誤っても死ぬ。
その間に立つ自分は、何を見ればいいのか。
迅は、鉄砲衆の前に広がる道を見た。
右の林。
寺の門。
避難民の列。
水場。
子ども。
倒れそうな母親。
そして、嘉七の目。
全部が、同じ一枚の中にあった。
*
沢の出口では、瀬川たちが別の評定を開いていた。
地面には、黒羽が持ち帰った黒い灰と、油の染みた布の切れ端が置かれている。
赤松弥八は、その布を枝で動かした。
「火の匂いが残ってる」
黒羽が頷く。
「煙を作るための火だ」
「火薬ではねえ。だが、火薬の近くでこれをやられたら面倒だ」
倉橋が言う。
「火薬箱の第二便は、今日中に動かせますか」
坂部が渋い顔をした。
「動かせる。だが、昨日の人足がまだ戻りきってねえ。膝が笑ってる奴もいる」
座っている辰五郎が言った。
「膝が笑う時は、肩が強がる。強がる肩に荷を乗せると落とす」
「お前は黙ってろ」
坂部が言う。
「口を使えって言われた」
「使いすぎだ」
それでも、坂部は辰五郎の言葉を否定しなかった。
鷹見が記録板を手にしている。
「昨日、発砲なし。火薬箱第一便は中継地点へ到達。だが、右の林から声と小石による妨害あり」
瀬川が頷いた。
「敵は、こちらに撃たせたがっている」
黒羽が言った。
「撃てば、音が出る。煙も出る。民が散る。寺が乱れる。火薬箱も止まる」
「撃たなければ」
鷹見が言う。
「敵が近づく」
沈黙が落ちた。
撃つのも危うい。
撃たぬのも危うい。
赤松弥八は火縄を見ながら言った。
「だから鉄砲は面倒だ」
瀬川は、浄火寺の石を指した。
「敵が寺の近くへ小勢を出すなら、鉄砲衆は必要だ。ただし、寺の門前では撃たせない」
「そのために真下兵庫を出したのですか」
鷹見が聞く。
赤松弥八が答えた。
「真下兵庫は腕は確かだ。だが、撃つ判断が早い」
瀬川が赤松弥八を見る。
「なぜ出した」
「早い奴には、遅く見る者を当てる」
赤松弥八は言った。
「火守の子をつけた」
坂部が鼻を鳴らす。
「また、あの小僧か」
「見える」
赤松弥八は短く言った。
「撃ちたい場所ではなく、撃った後の場所を見る」
倉橋が静かに言う。
「それは、兵糧にも似ています」
坂部が倉橋を見る。
「米を出す場所ではなく、出した後の人を見る、か」
「ええ」
倉橋は帳面を閉じた。
「出せば終わりではない。撃てば終わりでもない」
瀬川は、その言葉を聞いてしばらく黙った。
そして、三つの選択肢を地面に書いた。
一つ。
鉄砲衆を前へ出す。
二つ。
鉄砲衆を下げる。
三つ。
鉄砲衆を見える場所に置き、撃たせない条件を明確にする。
「一つ目は、敵への圧になる」
黒羽が言う。
「だが、民も圧を受ける」
「二つ目は」
鷹見が続ける。
「民は落ち着く。だが、敵は寄る」
「三つ目は、難しい」
赤松弥八が言った。
「鉄砲を持たせて、撃つなと言う。持つ者にとって、一番苛立つ命令だ」
瀬川は頷いた。
「だが、それしかない」
坂部が言った。
「荷駄も同じだ。進める荷に、待てと言う時が一番きつい」
辰五郎が続けた。
「背負ったまま止まると、肩が死ぬ」
瀬川は決めた。
「鉄砲衆は、見える場所に置く。ただし、浄火寺の門前、避難民の列、水場、子ども連れの列へ向かう射線では撃たせぬ。撃つなら、敵の後ろが土手か林で止まる場所のみ」
赤松弥八が頷く。
「真下兵庫に伝える」
鷹見が記す。
「撃つ条件を記録する」
瀬川は最後に言った。
「それでも、現場では迷う。迷った時、誰が何を見たかが決める」
黒羽が静かに言った。
「そのために、目を置く」
瀬川は頷いた。
「そうだ」
*
昼過ぎ。
浄火寺の門前に、妙な一団が現れた。
数は四人。
先頭は、背の曲がった老人。
次に、荷を抱えた女。
その後ろに、痩せた男。
そして、その男の腰にしがみつく小さな子。
迅は門の外で、その一団を見た。
歩き方がおかしい。
老人は本当に疲れている。
女も、荷を抱えている。
子どもも泣いている。
だが、痩せた男だけが違った。
足を引きずっているように見せている。
けれど、足元が乱れていない。
歩ける者が、歩けないふりをしている。
嘉七が少し離れた場所にいた。
その目も、一団を見ている。
「止まってください」
迅は声をかけた。
老人が顔を上げる。
「寺へ……」
「入れます。でも、まず道を聞きます」
痩せた男が口を開いた。
「何でだ。子どもがいる」
「どこから来ましたか」
「沢だ」
迅の胸が少し冷えた。
昨日の嘉七と同じ答え。
「沢のどこですか」
「知らん。逃げてきた」
「炭焼き道は通りましたか」
「知らんと言ってるだろ!」
男の声が急に荒くなった。
その瞬間、腰にしがみついていた子どもが泣き出した。
周囲の避難民が振り向く。
「子が泣いてるぞ」
「早く入れてやれ」
「何を止めてる」
声が広がり始める。
迅は、男の後ろを見た。
右の林の縁。
そこに鉄砲衆がいる。
真下兵庫がこちらを見ていた。
男が一歩、横へずれた。
寺の門ではなく、鉄砲衆の射線へ入る位置だった。
迅は息を止めた。
誘っている。
そう思った。
だが、子どもがいる。
男の腰にしがみついている。
もし男が敵なら、撃つべきなのか。
でも撃てば、子どもに当たるかもしれない。
男の後ろには、寺へ向かう人の列もある。
真下兵庫が鉄砲を構えかけた。
迅は叫んだ。
「撃たないで!」
真下兵庫の目が鋭くなる。
「理由!」
「子どもがいます! 後ろに列があります!」
「男は敵かもしれん!」
「でも、今撃つ場所じゃありません!」
男がその声を聞いて、さらに動いた。
鉄砲の方へ。
子どもが泣く。
周囲がざわつく。
「何だ」
「撃つのか」
「子がいるぞ!」
「逃げろ!」
列が揺れる。
迅は走った。
男へ向かって。
鉄砲の前へ。
「動かないで!」
真下兵庫が叫ぶ。
「迅、退け!」
迅は退かなかった。
退けば、撃つ。
そう感じた。
痩せた男は、目を見開いていた。
逃げる顔ではない。
追い詰められた顔だった。
子どもは男の腰にしがみつき、泣きながら叫んだ。
「父ちゃん、やめて!」
父ちゃん。
その一言で、迅の足が止まる。
この男は、子どもを盾にしている敵ではない。
少なくとも、この子にとっては父だった。
「名前を」
迅は息を切らしながら聞いた。
男は答えない。
「名前を言ってください!」
男の口が震えた。
「……庄吾」
新しい名だった。
庄吾。
敵か、民か。
父か、道案内か。
まだ分からない。
だが、撃ってよい的ではなかった。
真下兵庫が鉄砲を構えたまま言う。
「迅、そこを退け」
「撃たないでください」
「理由は聞いた。だが、あの男が火を持っていればどうする」
迅は庄吾の手を見た。
空いている。
荷はない。
腰に、小さな袋がある。
火か。
刃か。
分からない。
迅は、庄吾へ言った。
「両手を見せてください」
庄吾は動かない。
子どもが泣く。
「両手を!」
迅は叫んだ。
庄吾は、ゆっくり手を上げた。
手には何もない。
迅は腰の袋を見た。
「その袋は」
庄吾の顔が歪む。
「触るな」
「何が入っていますか」
「触るな!」
声が大きくなる。
真下兵庫の指が動いた。
迅は、とっさに叫んだ。
「袋を撃たないで!」
「なぜだ!」
「中身が分かりません! 火なら飛びます!」
真下兵庫の顔が険しくなる。
その一瞬。
梅吉が横から飛び出した。
「子を離せ!」
庄吾の腰にしがみついていた子を、梅吉が引き剥がす。
子どもが泣き叫ぶ。
庄吾が手を伸ばす。
その手を、僧兵が押さえた。
袋が地面に落ちる。
迅は身を固くした。
だが、爆ぜない。
袋から転がったのは、黒い布の切れ端だった。
油の匂いがした。
黒羽が持ち帰ったものと、同じ匂い。
煙を作る布。
迅は息をのんだ。
真下兵庫が低く言った。
「敵だな」
「待ってください!」
迅は叫んだ。
「まだです!」
「煙の布を持っていた」
「でも、子どもが父と呼びました!」
「敵にも子はいる」
真下兵庫の言葉は冷たかった。
正しい。
正しすぎて、迅は苦しくなった。
敵にも子はいる。
だから何だ。
撃たない理由にはならない。
でも、撃ってよい理由にもならない。
庄吾は地面に押さえつけられていた。
子どもが叫ぶ。
「父ちゃんを殺さないで!」
その声に、避難民の列が揺れる。
嘉七が近くまで来ていた。
その目は、庄吾を見ている。
何かを知っている目だった。
「嘉七さん!」
迅は叫んだ。
「この人を知っていますか!」
嘉七は黙った。
「知っているなら言ってください!」
嘉七の喉が動く。
長い沈黙。
そして、低い声。
「……黒根村の隣の者だ」
庄吾が顔を上げた。
「嘉七」
嘉七は歯を食いしばった。
「荒砥に、道を言わされた男だ」
周囲がざわめく。
敵だ。
裏切り者だ。
そんな声が出かける。
嘉七が怒鳴った。
「違う! 言わされたんだ!」
その声は、初めて本当に割れていた。
「子を取られて、村を焼かれて、それで言わされたんだ!」
庄吾は顔を伏せた。
子どもが泣いている。
迅は、膝から力が抜けそうになった。
敵か。
民か。
父か。
従わされた者か。
全部だった。
真下兵庫は鉄砲を下ろさない。
「従わされた者でも、火を持っていた。寺を乱す役なら、敵だ」
「はい」
迅は答えた。
「でも、今撃たないでください」
「理由」
「撃てば、民が見ます。子が見ます。嘉七さんが見ます。従わされた者は、もうこちらへ来られなくなります」
真下兵庫の目が鋭くなる。
「甘いな」
「甘いかもしれません」
「甘さで兵が死ぬ」
「でも、ここで撃てば、道が閉じます」
迅は言った。
「炭焼き道から来る者は、みんな撃たれると思います。従わされた者も、もう逃げて来られません」
言いながら、怖かった。
自分は何を言っているのか。
火を持っていた者を、撃たないでくれと言っている。
もし、次にこの男が火をつけたら。
もし、誰かが死んだら。
それを背負えるのか。
真下兵庫はしばらく迅を見ていた。
そして、ようやく鉄砲を下ろした。
「縛れ」
僧兵が庄吾を縛る。
「殺さぬ。だが、逃がさぬ」
真下兵庫は迅に言った。
「お前の言葉で、今は撃たなかった。後でこいつが火をつければ、お前の責だ」
迅の背中に、氷のような重さが乗った。
「はい」
声は、かすれた。
「持ちます」
嘉七が迅を見た。
何も言わない。
ただ、その目が少しだけ変わっていた。
*
右の林の奥で、鹿部市之助は小さく舌打ちした。
「撃ちませんでした」
岩貫弥惣は、草の間から浄火寺の門前を見ていた。
庄吾が縛られている。
子どもは泣いている。
鉄砲は鳴らなかった。
だが、人の目は大きく揺れた。
「悪くない」
岩貫弥惣が言った。
鹿部市之助が眉を寄せる。
「撃たせられませんでしたが」
「撃たせるだけが目的ではない」
岩貫弥惣は、迅を見た。
「撃たなかった責を、あの小僧に乗せた」
「責?」
「そうだ。次に火が出れば、あの小僧は自分を責める。撃たなかったからだとな」
鹿部市之助は薄く笑った。
「撃っても曇る。撃たなくても曇る」
「鉄砲とは、そういうものだ」
岩貫弥惣は言った。
「人を遠くから倒す。だが、倒れる前に、撃つ者の中で何かが崩れる」
風が吹いた。
林の葉が揺れる。
「次は、火を出す」
鹿部市之助の笑みが深くなる。
「本物を?」
「小さくてよい。消せる火でよい」
岩貫弥惣は、寺の細い煙を見た。
「守る者は、小さな火ほど放っておけぬ」
*
庄吾は、浄火寺の門の脇に縛られた。
僧兵が二人ついている。
庄吾の子は、梅吉の子どもの隣で泣き疲れていた。
梅吉は、何も言わずにその子へ水を渡した。
「飲め」
子どもは、恐る恐る受け取った。
「父ちゃんは」
「今は生きてる」
梅吉は言った。
「それ以上は、俺には分からねえ」
迅は、その言葉を聞いていた。
今は生きている。
それが救いなのか、ただの先延ばしなのか、分からなかった。
蓮昭が庄吾の前に立つ。
「そなたは、火をつけるつもりだったのか」
庄吾は答えない。
「寺を焼くつもりだったのか」
「違う」
声は小さかった。
「煙を出せと言われた」
「誰に」
庄吾は口を閉じる。
嘉七が近づいた。
「言え」
庄吾は嘉七を見る。
「言えば、向こうに残った者が死ぬ」
嘉七の顔が歪んだ。
迅は息を止めた。
向こうに残った者。
人質か。
家族か。
村の者か。
荒砥は、人を使う。
道を使う。
腹を使う。
今度は、残された者を使っている。
蓮昭は目を閉じた。
「ならば、今は言わずともよい」
僧兵が驚いた。
「蓮昭様」
「無理に言わせれば、嘘を言う。嘘の道を示されれば、さらに人が死ぬ」
真下兵庫が近くで聞いていた。
「武士なら、吐かせます」
「寺では吐かせぬ」
蓮昭は言った。
「だが、逃がしもせぬ」
真下兵庫は面白くなさそうに息を吐いた。
「甘い寺だ」
「そう見えるなら、そう見ればよい」
蓮昭の声は静かだった。
「甘さで守れるものもあれば、甘さで失うものもある。厳しさも同じだ」
迅は、その言葉に目を伏せた。
さっき、自分も甘いと言われた。
甘いのか。
必要なのか。
まだ分からない。
真下兵庫が迅に向き直る。
「お前のせいで、こいつは生きている」
迅は頷いた。
「はい」
「それを忘れるな」
「はい」
「俺も忘れん。お前が撃つなと言ったことをな」
真下兵庫の声は冷たい。
だが、憎んでいるわけではない。
記録しているのだ。
鷹見と似た冷たさだった。
迅は、その重さを受け止めるしかなかった。
*
夕方、沢の出口で評定が開かれた。
迅は、庄吾のことを報告した。
瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八が聞いている。
真下兵庫もいた。
腕を組み、表情を変えない。
「煙を作る布を持っていた。嘉七の証言では、黒根村近くの者で、荒砥に道を言わされた男。家族か村人を人質に取られている可能性あり」
鷹見が記録する。
「撃たなかった理由は」
瀬川が迅を見る。
迅は、喉を鳴らした。
「子どもがいました。後ろに避難民の列がありました。袋の中身が火かもしれず、撃てば燃え広がるかもしれませんでした。それと……」
「それと」
「庄吾を撃てば、炭焼き道から逃げてくる従わされた者たちが、もうこちらへ来られなくなると思いました」
場が静まった。
真下兵庫が言った。
「敵を逃がす理屈にもなります」
「はい」
迅は答えた。
「そうだと思います」
赤松弥八が真下兵庫を見る。
「撃てたか」
「撃てました」
「撃つべきだったか」
真下兵庫は少し黙った。
「分かりませぬ」
その答えに、迅は驚いた。
真下兵庫は続けた。
「撃てる場所ではありました。ですが、撃てば子に見せる。民に見せる。袋の中身も不明。撃たなかった判断を誤りとは言い切れませぬ」
赤松弥八は鼻を鳴らした。
「なら、そう言え」
「ただし」
真下兵庫は迅を見た。
「次に庄吾が火をつければ、撃たなかったことの責が残ります」
瀬川が頷いた。
「その通りだ」
迅の胸が重くなる。
倉橋が口を開いた。
「米も同じです」
全員が倉橋を見る。
「今日、米を出せば助かる者がいる。出せば明日足りなくなるかもしれない。出さなければ今日倒れる者がいる。どちらにも責は残ります」
坂部が頷いた。
「荷を進めても、止めても、誰かが苦しむ」
黒羽が言う。
「道を閉じても、開いても、敵と民の両方が動く」
瀬川は、地面に置かれた木札を見た。
「ならば、責が残らぬ道を探すのではない。残る責を、誰が持つかを決める」
その言葉は、重かった。
迅は、俯きそうになった。
だが、瀬川は続けた。
「迅」
「はい」
「今日、撃たなかった責は、お前一人のものではない。現場で言ったのはお前だ。だが、鉄砲を置いたのは我らだ。道を開いたのも我らだ。寺に民を集めたのも我らだ」
迅は顔を上げた。
「一人で背負うな。だが、背負っていない顔もするな」
迅は、息を吸った。
「はい」
鷹見が記録板に書く。
「庄吾、拘束。殺さず。事情未確認。従わされた者の可能性あり。鉄砲発砲なし。現場判断、迅、真下兵庫、蓮昭」
真下兵庫が言った。
「私も入るのですか」
鷹見は淡々と答える。
「鉄砲を下ろしたのは、あなたです」
真下兵庫は黙った。
赤松弥八が少し笑った。
「逃げられねえな、真下兵庫」
「笑い事ではありませぬ」
「笑ってねえよ」
瀬川は評定を締めた。
「庄吾は明日も寺に置く。嘉七から話を聞く。ただし、責め立てるな。炭焼き道と獣道の札を増やす。鉄砲衆は引き続き寺近くに置くが、撃つ条件を再度伝える」
「撃つ条件」
真下兵庫が言う。
「敵が火を持ち、かつ後ろに民がなく、射線が土か林で止まる場所」
赤松弥八が言った。
「それ以外は、撃つ前に見る」
真下兵庫は頷いた。
「承知」
迅は、その言葉を聞いた。
撃つ前に見る。
簡単なようで、難しい。
撃つ者は敵を見る。
だが、撃つ前には、敵以外も見なければならない。
子。
親。
道。
火。
水。
その全部を。
*
夜の浄火寺では、庄吾の子が眠っていた。
梅吉の子の隣だった。
小さな二つの寝息が、薄い布の下で重なっている。
庄吾は門の脇で縛られている。
僧兵が見張っている。
嘉七は、少し離れて座っていた。
迅は、その隣に腰を下ろした。
「怒っていますか」
嘉七は前を向いたまま答えた。
「誰に」
「俺に」
「少しな」
正直な答えだった。
迅は黙った。
「でも、撃たなかった」
嘉七は続けた。
「だから、もっと怒る理由がなくなった」
「庄吾さんは、何をされたんですか」
「子を取られた」
嘉七の声は低い。
「いや、今日いた子じゃねえ。上の子だ。荒砥に連れていかれた。戻したければ、道を言え。煙を出せ。寺を乱せ。そう言われたんだろう」
「だろう?」
「俺も全部は知らねえ」
嘉七は、縛られた庄吾を見た。
「知りたくもなかった」
その声には、悔しさが混じっていた。
「俺も似たようなことを言われた」
迅は息を止めた。
「何を」
「寺は燧の兵を隠してる。米を隠してる。子どもだけ先に食わせて、大人を捨てる。そう言えば、みんな怒るってな」
「誰に」
嘉七は答えなかった。
だが、沈黙が答えだった。
荒砥の者。
あるいは、荒砥に使われた誰か。
「なぜ、言ったんですか」
迅は聞いた。
嘉七は、少しだけ笑った。
「腹が減ってたからだ」
その答えは、あまりにも短かった。
「腹が減ると、聞きたい言葉だけ聞こえる。俺もそうだった。寺が米を隠してるって言葉は、腹に染みた」
迅は蓮昭の言葉を思い出した。
人は、腹が減ると悪になるのではない。
腹が減ると、隠していたものが外へ出る。
嘉七は続けた。
「でも、昨日、梅吉が水を運んだ。太助が椀を洗った。今日、お前が撃つなと言った」
「それで、信じたんですか」
「信じてねえ」
嘉七は即答した。
「でも、全部が嘘でもねえと思った」
迅は、その言葉を胸に置いた。
信じていない。
でも、全部が嘘でもない。
それは、今の浄火寺そのもののようだった。
完全な安心はない。
完全な敵も、まだ見えない。
その間で、火を守っている。
「庄吾さんは、話しますか」
「分からねえ」
「また、分からないですね」
嘉七は少しだけ口の端を上げた。
「お前に似てきたな」
迅は、笑えなかった。
似ていると言われていいのか、悪いのか分からなかった。
夜風が吹く。
浄火寺の火が揺れる。
遠くでは、鉄砲衆が火縄を見ている。
火薬箱は赤土峠へ向かっている。
道は増え続ける。
見るものも増え続ける。
迅は、眠る子どもたちを見た。
今日、鉄砲は鳴らなかった。
だが、鳴らなかった音は、胸の奥に残っている。
いつか鳴る。
その日、自分は何を見るのか。
何を見落とすのか。
迅は、火の揺れから目を逸らさなかった。
怖いなら、見ろ。
赤松弥八の声が、まだ耳に残っていた。




