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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第17話】鳴らぬ音

 朝の沢の出口には、濡れた土の匂いが残っていた。


 夜の間に降った細い雨が、道の表面だけを湿らせている。


 足を置けば、泥は浅く沈む。


 けれど、下は硬い。


 迅は、それを足の裏で確かめながら歩いた。


 沢の出口には、昨日よりも木札が増えていた。


 沢道。


 炭焼き道(すみやきみち)


 獣道。


 浄火寺(じょうかじ)


 荷駄道。


 人を分ける札ではない。


 道を分ける札だ。


 瀬川が言った通り、人に札は付けない。


 けれど、人は道から来る。


 道を見れば、人を見ることになる。


 迅は、その難しさを、まだうまく言葉にできなかった。


「迅」


 声をかけられた。


 喜助だった。


 両手には水桶がある。


 桶の縁に、指の跡が赤く残っていた。


浄火寺(じょうかじ)に戻るの?」


「まだ。瀬川様に呼ばれてる」


「俺も?」


「たぶん」


 喜助は肩を落とした。


「水桶ばっかりだな、俺」


「役に立ってる」


「水桶で出世したらどうしよう」


 迅は少しだけ笑いそうになった。


 だが、すぐに笑えなくなった。


 沢の出口の奥。


 荷駄道の方から、木の軋む音が聞こえてきた。


 ぎし。


 ぎし。


 牛が鼻を鳴らす。


 人足が息を合わせる。


 その中に、いつもより低い音が混じっていた。


 重い箱を置き直す音。


 木と木がぶつかる、硬い音。


 迅は思わず振り向いた。


 そこに、火薬箱があった。


 黒い防水布に包まれ、縄で何重にも縛られている。


 周りには鉄砲衆がついていた。


 彼らの顔は、他の荷駄を扱う時よりも険しい。


 荷が重いからではない。


 怖いからだ。


 少なくとも、迅にはそう見えた。


 その火薬箱の前で、赤松弥八が怒鳴っていた。


「その火縄(ひなわ)を近づけるな!」


 鉄砲衆の一人が、慌てて腰の火縄を手で押さえる。


 赤松弥八は歩み寄り、男の胸を指で突いた。


「火薬箱のそばで火を遊ばせる馬鹿があるか」


「申し訳ございませぬ!」


「謝る前に離せ。謝って火が消えるなら、寺の坊主も苦労しねえ」


 喜助が小声で言った。


「怖いな」


「うん」


「赤松様が?」


「火薬箱が」


 喜助は少し驚いた顔をした。


「箱?」


「うん」


 迅は、火薬箱から目を離せなかった。


 ただの箱ではない。


 米俵は、落ちれば失われる。


 火薬箱は、落ち方を間違えれば人を巻き込む。


 濡れれば使えなくなる。


 火が近づけば、味方を焼く。


 敵に奪われれば、こちらに向く。


 守るために運ぶ火。


 だが、守る者を殺すかもしれない火。


 迅は、喉の奥が乾くのを感じた。


 その時、赤松弥八がこちらを見た。


「おい、火守の子」


 迅はびくりとした。


「はい」


「何を見てる」


 まただ。


 赤松弥八は、いつもそれを聞く。


「火薬箱を」


「箱のどこだ」


 迅は答えに詰まった。


 どこ。


 箱のどこ。


 黒い布。


 縄。


 持つ人足の足元。


 火縄の位置。


 水桶。


 風。


 煙。


 全部が見えていた。


 でも、どれを言えばいいのか分からなかった。


「……周りです」


「周り?」


「箱だけ見ても、怖いので」


 赤松弥八の目が細くなった。


「続けろ」


「火縄が近いです。水桶は少し遠いです。でも、水桶を近づけすぎたら、人が寄ります。道は濡れてますけど、下は硬いです。滑りはしないと思います。でも、牛が驚いたら、横へ逃げる場所がないです」


 喜助がぽかんと迅を見ていた。


 赤松弥八は、しばらく黙った。


 そして、鉄砲衆へ言った。


「火縄を後ろへ下げろ。水桶は二つ前、二つ後ろ。牛の右を空けろ」


 鉄砲衆が動く。


 人足も慌てて道を空ける。


 迅は、自分の言葉がそのまま人を動かしたことに、足元が揺れるような気がした。


「怖がるのは悪くねえ」


 赤松弥八が言った。


「だが、怖いだけなら邪魔だ。怖いなら、何が怖いか見ろ」


 迅は頷いた。


「はい」


「あとで来い。鉄砲を見せる」


 迅の胃が、ぎゅっと縮んだ。


「撃つんですか」


「まだ撃たせねえ」


 赤松弥八は鼻で笑った。


「今のお前に撃たせたら、撃つ前に倒れそうだ」


 喜助が変な顔で笑いをこらえた。


 迅は何も言えなかった。


 その通りだった。


     *


 沢の出口の評定は、火薬箱の横で開かれた。


 わざとだった。


 瀬川がそう決めた。


「火薬箱を動かす話を、火薬箱から離れてしても仕方がない」


 その言葉に、誰も反対しなかった。


 地面には、石と木札が並べられている。


 赤土峠(あかつちとうげ)


 荷駄道。


 沢の出口。


 右の林。


 炭焼き道(すみやきみち)


 獣道。


 浄火寺(じょうかじ)


 そして、黒い布に包まれた火薬箱。


 評定にいるのは、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八。


 少し離れて、辰五郎(たつごろう)がいる。


 傷のため、今日も座らされていた。


 それでも、耳だけは鋭い。


 迅と喜助も呼ばれている。


 烈は、煤谷村(すすたにむら)への伝達に出ていた。


 小夜の石を受け取るためだ。


 瀬川が地面に線を引いた。


「火薬箱を赤土峠(あかつちとうげ)へ送る。これは変えられぬ」


 倉橋が頷く。


赤土峠(あかつちとうげ)の守りには、鉄砲と火薬が必要です。米だけ届いても、敵を止められませぬ」


 坂部が火薬箱を見る。


「だが、荷駄道が細い。米俵より扱いが難しい。落とせねえ、濡らせねえ、燃やせねえ。嫌な荷だ」


「嫌で済むなら軽い」


 赤松弥八が言った。


「火薬箱は、味方の腹より短気だ」


 鷹見が眉を動かす。


「冗談に聞こえぬな」


「冗談で言ってねえ」


 赤松弥八は地面の石を一つ動かした。


「湿れば死ぬ。火が寄れば暴れる。人混みに入れば盗まれる。敵に奪われれば、こちらが焼かれる」


 黒羽が右の林の石を指した。


「右の林には、まだ目がある」


 次に、炭焼き道(すみやきみち)の枝を指す。


「黒い煙は、目を奪うための火だった。火薬箱を動かす時に煙を出されれば、荷駄道も沢の出口も見落とす」


 瀬川は三つの線を引いた。


「選ぶ道は三つ」


 一つ目。


「一つ、火薬箱を今すぐ送る。夜になる前に赤土峠(あかつちとうげ)へ近づける」


 二つ目。


「二つ、火薬箱をここに留める。荷駄道の安全を確かめてから出す」


 三つ目。


「三つ、火薬箱を小分けにして送る」


 赤松弥八が即座に言った。


「三つ目は駄目だ」


 瀬川は赤松弥八を見る。


「理由を」


「小分けにすれば、一つ失っても全部は失わねえ。そう考える奴がいる」


 倉橋が頷いた。


「米なら、その理屈はあります」


「火薬は違う」


 赤松弥八は低く言った。


「小さく分ければ、持つ者が増える。持つ者が増えれば、火の近くへ寄る馬鹿も増える。濡らす馬鹿も増える。隠して持ち逃げする馬鹿も出る。管理できぬ火は、敵より先に味方を殺す」


 鷹見が短く言う。


「記録する。火薬の小分けは管理不能の危険あり」


 坂部が腕を組んだ。


「なら、一箱のまま運ぶしかねえ。だが一箱のままなら、狙われた時に終わりだ」


 黒羽が言う。


「敵は箱を燃やすとは限らぬ。箱を守る者の目を奪うかもしれぬ」


「煙か」


 瀬川が言った。


「煙だけではない」


 黒羽は続けた。


浄火寺(じょうかじ)で椀を奪わせたように、人も使う。火薬箱の近くへ民を寄せる。火事だと叫ぶ。子どもがいると叫ぶ。水を寄せる。火薬箱のそばに、水と人を集める」


 喜助が思わず水桶を見た。


 赤松弥八がそれに気づく。


「そうだ。水も使い方を間違えりゃ邪魔だ」


 喜助は小さく頷いた。


「水は、近すぎても駄目なんですね」


「遠すぎても駄目だ」


「面倒ですね」


「火を扱うってのは、そういうことだ」


 瀬川は一つ目の線を指した。


「今すぐ送る案。利は早い。火薬が赤土峠(あかつちとうげ)へ届けば、守りが厚くなる」


 倉橋が言う。


「米と違い、火薬は食えません。しかし、火薬がなければ、米を食う前に峠を抜かれる恐れがあります」


 坂部が二つ目の線を見る。


「留める案。ここで守るなら、沢の出口が重くなる。避難民、米、小荷駄、火薬箱。全部ここに置けば、ここが狙い所になる」


 鷹見が言った。


「つまり、送っても危うい。留めても危うい」


「そうだ」


 瀬川は答えた。


「だから、送る。ただし、見せずに急がず、煙に釣られぬ形で送る」


 赤松弥八が目を細める。


「どう送る」


 瀬川は坂部を見る。


「荷駄道の真ん中を通すな」


 坂部が眉を上げた。


「真ん中を通さずに、どこを通す」


「荷駄道の中で、人の目を外す」


 坂部は少し考えた。


 それから口の端を上げた。


「米俵を前に出すか」


「違う」


 瀬川は言った。


「空俵を見せる」


 迅は第10話を思い出した。


 空俵の列。


 敵の目を動かすための見せ荷駄。


 中身のない俵。


 だが、人足にとっては軽いだけの荷ではなかった。


 坂部が頷く。


「空俵を荷駄道の中央へ見せる。火薬箱は少し後ろ、道の端を通す。牛は使わねえ方がいい。驚いた時に止まらねえ」


 辰五郎(たつごろう)が口を挟んだ。


「担ぎ手を選べ。若いのを使うな。火薬箱は重さより、怖さで足がずれる」


 赤松弥八が辰五郎(たつごろう)を見る。


「人足頭が火薬を語るか」


「背負う奴の膝を語ってるんだ」


 辰五郎(たつごろう)は言い返した。


「怖い荷を持つ時は、肩じゃねえ。膝が先に笑う」


 坂部が頷いた。


「そこは俺も同じだ」


 瀬川は黒羽へ向いた。


「右の林は」


「見張る。ただし、敵影が出ても追わぬ」


炭焼き道(すみやきみち)は」


「入口で見る。奥へは入らぬ」


浄火寺(じょうかじ)は」


 迅が答えた。


「俺が戻ります。煙や火の声が出た時、列が止まらないようにします」


 言ってから、怖くなった。


 また自分で言ってしまった。


 できるのか。


 人が煙を見るのを止められるのか。


 火薬箱のことも、浄火寺(じょうかじ)のことも、同時に見られるのか。


 赤松弥八が迅を見た。


「お前は火薬箱につけ」


 迅は目を見開いた。


「俺がですか」


「さっき、周りを見た」


「でも、浄火寺(じょうかじ)は」


浄火寺(じょうかじ)には、蓮昭がいる。喜助も水場を見ろ」


 喜助が慌てた。


「俺もですか」


「お前は水を見る。水を見る奴がいないと、火は扱えねえ」


 喜助は困った顔をしたが、逃げなかった。


「はい」


 瀬川は少し考えた。


 そして頷いた。


「よい。迅は火薬箱の周りを見る。火薬を見るのではない。人と火と水を見る」


 迅の喉が鳴った。


「はい」


 鷹見が言う。


「記録する。火守迅、火薬箱周辺の人・火・水の確認役」


 その言葉が、迅の背中に乗った。


 重い。


 木札に書かれたわけではない。


 だが、もう逃げられない重さだった。


 瀬川は、最後に小枝を折った。


「決める」


 全員が黙る。


「火薬箱は今日、赤土峠(あかつちとうげ)へ向けて動かす。空俵を中央に見せ、火薬箱は後ろの端を通す。牛は使わぬ。担ぎ手は坂部と辰五郎(たつごろう)が選ぶ。赤松弥八は火縄と火薬箱の距離を見る。黒羽は右の林と炭焼き道(すみやきみち)を浅く見る。喜助は水。迅は周りを見る」


 瀬川は、迅へ視線を向けた。


「怖いなら、怖いものを言え。黙って怖がるな」


 迅は、両手を握った。


「はい」


     *


 赤松弥八は、鉄砲を一丁、迅の前に置いた。


 火薬箱を動かす前の、短い時間だった。


 鉄砲は、迅が思っていたより重そうだった。


 黒い筒。


 木の台。


 火縄をかける場所。


 手に持てば、ただの武器ではないと分かる形をしている。


 人の手で火を抱えるための道具だった。


「持て」


 赤松弥八が言った。


 迅は躊躇した。


「撃つんですか」


「撃たねえ」


「本当に?」


「撃つなと言ってる」


 迅は、恐る恐る鉄砲を持った。


 重い。


 思ったより、ずっと重い。


 槍のように長くはない。


 だが、重さが一点に固まっている。


 腕がすぐに震えた。


 赤松弥八が言う。


「構えろ」


 迅は、見よう見まねで構えた。


 鉄砲の先が揺れる。


「そこから何が見える」


「……前です」


「馬鹿か」


 赤松弥八は即座に言った。


「鉄砲を構えて、前だけ見える奴はすぐ味方を撃つ」


 迅は息を止めた。


「見るのは前だけじゃねえ。横。後ろ。足元。煙。風。火縄。味方の肩。敵の後ろ。撃った後の場所」


 赤松弥八は、鉄砲の筒を軽く叩いた。


「これは、先を向いてる。だから、人の目も先だけ向きたがる」


 迅は、鉄砲を下ろしかけた。


「下ろすな」


 赤松弥八が止める。


「震えたまま持て。震えていることを知れ」


 腕が痛い。


 手のひらに汗が出る。


 鉄砲の重さで、肩が少し下がる。


 筒先が揺れる。


 その揺れの先に、人がいたら。


 そう思った瞬間、迅の腹が冷えた。


「怖いか」


 赤松弥八が聞いた。


「怖いです」


「何が」


「これが……俺の手で人に向くことです」


 赤松弥八は、少しだけ目を細めた。


「なら、忘れるな」


 迅は鉄砲を構えたまま、頷いた。


「鉄砲は、遠くの敵を倒す道具だ。そう思う奴は多い」


 赤松弥八の声は低かった。


「だが、本当は違う。鉄砲は、撃つまでの間に、味方を殺す道具にもなる。撃った後にも、何かを変える。音で馬が跳ねる。煙で味方の目が消える。外せば敵が走る。当てれば人が倒れる」


 迅の腕が、さらに震えた。


「撃てば終わりじゃねえ。撃った後に始まるものがある」


 その言葉は、米俵と似ていた。


 戻せば終わりではない。


 椀にすれば終わりではない。


 撃てば終わりでもない。


 迅は、鉄砲の筒先を見た。


 細い穴の先に、まだ見えない誰かがいる気がした。


「下ろせ」


 赤松弥八が言った。


 迅はようやく鉄砲を下ろした。


 腕が重い。


 息が荒い。


「お前は、まだ撃つな」


 赤松弥八は言った。


「はい」


「だが、持つなとは言わん」


 迅は顔を上げた。


「怖がれる奴は、教えれば持てる。怖がれねえ奴は、教えても危ねえ」


 赤松弥八は鉄砲を取り上げた。


「今日、お前は撃たなくていい。撃つ者の周りを見ろ。撃たせていい場所か、撃たせてはいけねえ場所か。それを見ろ」


 迅は頷いた。


「はい」


 赤松弥八は、火薬箱の方を見た。


「火薬箱を守るってのは、箱を担ぐことじゃねえ。火と人の間に、目を置くことだ」


 その言葉が、迅の胸に残った。


     *


 火薬箱は、昼前に動いた。


 空俵の列が先に出た。


 わざと見えるように、荷駄道の中央を進む。


 人足たちは、軽い俵を重そうに担いでいた。


 その動きは、嘘ではない。


 軽い俵でも、敵の目の下を歩くなら重い。


 少し遅れて、火薬箱が動いた。


 牛は使わない。


 四人の人足が担ぎ、二人が横につく。


 坂部が歩幅を見ている。


 辰五郎(たつごろう)は座ったまま、口だけ出していた。


「右の奴、足が早え! 箱が揺れる!」


 人足が足を合わせる。


「左、肩を入れすぎるな! 箱はお前の力自慢じゃねえ!」


 坂部が苦笑する。


「口だけなら、本当に達者だな」


「肩が使えねえ分、口を二倍使ってる」


 赤松弥八は火縄の位置を見ていた。


 鉄砲衆は火薬箱から距離を置き、前後に散っている。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 喜助は、水桶の位置を見ていた。


 飲み水ではない。


 火消し水だ。


「ここでいいですか!」


 喜助が叫ぶ。


 赤松弥八が見る。


「一つ前! だが箱には寄せるな!」


「はい!」


 迅は、火薬箱の横を歩いた。


 箱は見ない。


 箱の周りを見る。


 赤松弥八に言われた通りに。


 前。


 横。


 後ろ。


 足元。


 水桶。


 火縄。


 人足の膝。


 鉄砲衆の肩。


 空俵を見る者の目。


 右の林の草。


 荷駄道の端。


 風。


 煙。


 多すぎる。


 見れば見るほど、見落としが増える気がした。


 それでも、見ないわけにはいかない。


 火薬箱は、静かに進んだ。


 その静けさが怖かった。


 すると、右の林の方から声が上がった。


「火だ!」


 人足の一人の肩が跳ねる。


 火薬箱がわずかに揺れた。


「止まるな!」


 坂部が叫ぶ。


 迅は右の林を見た。


 煙はない。


 火も見えない。


 だが、声だけが聞こえた。


「火だ! 林が燃えてる!」


 別の声が重なる。


 火薬箱の前にいた鉄砲衆が、一瞬そちらへ目を向ける。


 迅は叫んだ。


「煙がありません!」


 赤松弥八が振り向く。


「何!」


「火なら煙が出ます! 見えません!」


 黒羽の配下が右の林から走ってくる。


「火は見えませぬ! 声だけです!」


 赤松弥八が怒鳴った。


「目を戻せ! 火薬箱から目を離すな!」


 鉄砲衆が向き直る。


 人足の膝が震えている。


 迅は、その足元を見た。


 道の端が少し崩れている。


 昨日の雨で削れたのだ。


 このまま一歩右へずれれば、箱が傾く。


「左へ半歩!」


 迅は叫んだ。


「右の端が崩れてます!」


 坂部がすぐに反応した。


「左半歩! 足を揃えろ!」


 人足たちが体を寄せる。


 箱が少し傾き、すぐに戻った。


 辰五郎(たつごろう)が怒鳴る。


「膝を曲げろ! 肩だけで戻すな!」


 火薬箱は、止まらなかった。


 進む。


 ゆっくりと。


 だが、進む。


 迅の背中に汗が流れた。


 声だけで、これほど揺れる。


 火がなくても、火と言えば、人は火を見る。


 火薬箱のそばでそれをやられれば、箱は揺れる。


 敵は、火を使わなくても火を使える。


 迅は、歯を食いしばった。


 少し先。


 空俵の列に、小石が投げ込まれた。


 一つ。


 二つ。


 人足が足を止めかける。


「止まるな!」


 坂部が叫ぶ。


 迅は小石の来た方を見た。


 右の林ではない。


 左の浅い溝の方。


 子どもほどの高さの草が揺れている。


 敵兵か。


 民か。


 分からない。


 鉄砲衆の一人が構えかける。


 迅はその先を見た。


 草の向こう。


 遠くに、避難民の列がある。


 射線に入る。


「撃たないで!」


 迅は叫んだ。


 鉄砲衆が振り向く。


「何だ!」


「あの先に人がいます!」


 赤松弥八が即座に見た。


 そして怒鳴る。


「撃つな! 構えを下げろ!」


 鉄砲衆が歯を食いしばって鉄砲を下ろす。


 草の中で何かが動いた。


 小さな影。


 逃げていく。


 敵か、子どもか、従わされた者か。


 分からない。


 だが、撃てば、その先の誰かを巻き込んだかもしれない。


 迅の膝が震えた。


 撃たせなかった。


 それでよかったのか。


 もし、あれが敵で、また戻ってきたら。


 もし、次に火をつけたら。


 それでも、今撃てば、別の誰かが死んだかもしれない。


 正しいのか。


 間違いなのか。


 分からない。


 赤松弥八が迅の横に来た。


「よく見た」


「でも」


「迷うなとは言わねえ」


 赤松弥八は低く言った。


「だが、今のは撃たせる場所じゃねえ」


 迅は、ようやく息を吐いた。


 火薬箱は、また進んだ。


 声がしても。


 石が飛んでも。


 煙がなくても。


 人の目が揺れても。


 箱は進んだ。


 そして、荷駄道の曲がり角を越えた。


 そこまで行けば、右の林からの目は少し切れる。


 坂部が深く息を吐いた。


「第一は越えた」


 赤松弥八は迅を見た。


「まだ終わってねえ」


「はい」


「だが、今のを覚えろ。撃たないで守る時もある」


 迅は頷いた。


 その言葉は、鉄砲よりも重かった。


     *


 右の林の奥で、鹿部市之助(ししべいちのすけ)は舌打ちした。


「撃ちませんでしたな」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、草の間から荷駄道を見ていた。


 火薬箱は曲がり角を越えた。


 完全には届かない。


 だが、消えたわけでもない。


「撃たせたかったのですが」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が言った。


「撃てば、避難民の列に当たったかもしれませぬ」


「それが狙いだ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は答えた。


「鉄砲の音が鳴れば、民は散る。誰かが倒れれば、寺も沢も燧の武士を疑う。火薬箱は止まる」


「読まれましたな」


「いや」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、荷駄道の端を見た。


「あの者は、読んだのではない」


「では?」


「怖がった」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)は眉を上げる。


「怖がって、見た。撃てば何が起こるかをな」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は低く笑った。


「厄介だ」


「臆病者がですか」


「臆病者は、放っておけば逃げる。だが、逃げずに見る臆病者は、目が細かい」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)は、少し不満そうだった。


「では、次は斬りますか」


「まだだ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は言った。


「目を潰すには、刃だけでは足りぬ。見たくないものを見せればいい」


 風が吹いた。


 草が揺れる。


 荷駄道の先には、火薬箱を守る者たちが小さく見えていた。


「撃たぬ者に、いつか撃たせる」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)の声は、冷えていた。


「その時、あの目が曇るかどうかだ」


     *


 火薬箱が一つ目の曲がり角を越えた後、沢の出口には遅れて緊張が戻ってきた。


 何かが起きた後の静けさだった。


 人足たちは息を荒くしている。


 鉄砲衆も肩に力を入れたままだ。


 喜助は水桶を抱えたまま、腰を抜かしかけていた。


「俺、何もしてないのに疲れた」


 迅も同じ気持ちだった。


 だが、足はまだ震えている。


 さっきの射線。


 草の揺れ。


 その先の避難民。


 もし見落としていたら。


 もし撃っていたら。


 もし撃たなかったことで、後で誰かが死んだら。


 考えるほど、胸が重くなる。


 赤松弥八が、鉄砲衆を下がらせた。


「火縄を確認しろ。湿ったものは替えろ。勝った顔をするな。まだ荷は峠に着いてねえ」


 鉄砲衆が散る。


 赤松弥八は迅の横へ来た。


「なぜ撃つなと言った」


 迅は答えた。


「射線の先に、人が見えました」


「敵ではないと分かったか」


「分かりません」


「なら、なぜ止めた」


「分からなかったからです」


 赤松弥八は黙った。


 迅は言葉を探した。


「あの草の中にいたのが敵なら、撃たないのは危ないと思いました。でも、その先にいた人たちは、敵じゃないかもしれません。撃てば、そっちに当たるかもしれません」


「だから撃つな、と」


「はい」


「怖かっただけか」


「はい」


 迅は正直に言った。


「怖かったです。撃つのも、撃たないのも」


 赤松弥八は、わずかに息を吐いた。


「覚えとけ」


 迅を見る。


「鉄砲を持つ者は、いつもそれだ。撃つのも怖い。撃たぬのも怖い。怖くなくなったら、もう持つな」


 迅は、何も言えなかった。


 赤松弥八は続けた。


「お前は今日、撃たなかった。だが、守ったものはある」


「……はい」


「ただし、撃たなかったことで逃がしたものもあるかもしれねえ」


 迅の胸が痛む。


「はい」


「両方持て」


 赤松弥八は言った。


 その言葉に、迅は瀬川を思い出した。


 戦と嫌。


 守れたものと、届かなかったもの。


 撃たなかったことで守ったもの。


 撃たなかったことで逃したもの。


 両方持て。


 迅は、ただ頷いた。


     *


 夕方。


 火薬箱の第一便が、赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう中継地点に届いたという伝令が戻った。


 完全に届いたわけではない。


 だが、第一の危険は越えた。


 沢の出口では、小さく息が抜けた。


 倉橋は帳面に記す。


 火薬箱一。


 空俵列。


 右の林、声あり。


 発砲なし。


 荷、揺れるも落下なし。


 鷹見も記録を残していた。


 坂部は人足の肩と膝を見ている。


 辰五郎(たつごろう)は座ったまま、人足に水を飲ませろと怒鳴っていた。


 喜助は水桶を並べ直している。


 赤松弥八は火薬箱が去った道を見ている。


 迅は、少し離れた場所で空を見ていた。


 煙はもうない。


 だが、耳の奥に、まだ鳴っていない鉄砲の音が残っている気がした。


 撃たなかった音。


 鳴らなかったからこそ、残る音。


 そこへ、瀬川が来た。


「報告を聞いた」


「はい」


「撃たせなかったそうだな」


「はい」


「怖かったか」


「怖かったです」


 瀬川は頷いた。


「なら、よく見た」


 迅は顔を上げた。


「怖いと、目を閉じる者が多い。お前は閉じなかった」


「閉じたかったです」


「閉じなかった」


 瀬川は、沢の出口の木札を見た。


「今日のことは、評定に上げる」


 迅の背中に、また重さが乗った。


「俺のことですか」


「お前だけではない。火薬箱をどう動かしたか。空俵をどう使ったか。水をどこに置いたか。撃たなかったこと。撃たせなかった理由。全部だ」


 迅は頷いた。


「はい」


 瀬川は、少しだけ声を低くした。


「この先、鉄砲は増える。火薬も増える。火を扱える者が、戦を変える」


 迅は黙って聞いた。


「だが、火を強さだけで見る者が増えれば、味方も焼く。今日、お前が見たものは、いずれ必要になる」


「俺がですか」


「お前だけではない。だが、お前もだ」


 迅は、手のひらを見た。


 鉄砲を持った時の重さが、まだ残っている気がした。


 撃っていない。


 それでも、重かった。


 瀬川は言った。


浄火寺(じょうかじ)へ戻れ。あちらにも火の声が届いているはずだ」


「はい」


「そして、見ろ。火薬箱のことを、寺の者がどう聞いたか。民がどう受け取ったか」


 迅は息を吐いた。


 また見るものが増えた。


 けれど、逃げられない。


「はい」


     *


 浄火寺(じょうかじ)では、火薬箱が動いたという知らせだけが先に届いていた。


 それは、人々の中で少しずつ形を変えていた。


 火薬が寺へ来る。


 火薬が爆ぜる。


 火薬が赤土峠(あかつちとうげ)へ届かない。


 鉄砲が撃たれる。


 誰かが撃たれた。


 まだ撃たれていない。


 言葉は、煙より早く広がる。


 迅が戻ると、梅吉(うめきち)がすぐに寄ってきた。


「火薬が来るのか」


「来ません。赤土峠(あかつちとうげ)へ向かいました」


「撃ったのか」


「撃ってません」


「本当か」


「はい」


 梅吉(うめきち)は疑うように迅を見た。


 その目が、少しだけ柔らかくなる。


「なら、よかった」


「よかった?」


「鉄砲の音が鳴れば、子どもが泣く」


 梅吉(うめきち)は腕の子を見た。


「火の音と鉄の音は、腹に響く」


 迅は頷いた。


 撃たなかった音。


 それは、ここにも届いていた。


 音が鳴らなかったことで、泣かずに済んだ子がいる。


 そんなことを、迅は考えたこともなかった。


 太助(たすけ)は今日も椀を洗っていた。


 喜助が横で水を替えている。


 嘉七(かしち)は、門の外で人の列を見ていた。


 迅に気づくと、近づいてきた。


「撃たなかったらしいな」


「はい」


「撃てなかったのか」


 迅は少し考えた。


「撃たせませんでした」


 嘉七(かしち)の目が動く。


「強くなったつもりか」


「分かりません」


「また分からないか」


「はい」


 嘉七(かしち)は笑った。


 だが、今日の笑いは、昨日ほど乾いていなかった。


「分からない奴が、撃つなと言ったのか」


「はい」


「危ねえな」


「そう思います」


 嘉七(かしち)は迅をしばらく見た。


「でも、撃たれなかった奴は助かる」


 それだけ言って、列へ戻った。


 迅は、その背を見た。


 敵か。


 民か。


 まだ分からない。


 けれど、その言葉だけは本当のように聞こえた。


 蓮昭が本堂の前に立っている。


 迅は歩み寄った。


「火薬箱は、第一の道を越えました」


「そうか」


「撃っていません」


 蓮昭は頷いた。


「鳴らぬ音にも、意味がある」


 迅は、その言葉に胸を突かれた。


 鳴らぬ音。


 撃たなかった音。


 届かなかった恐怖。


 避けられた泣き声。


 それも、戦の中にある。


 夕暮れの浄火寺(じょうかじ)では、細い火が粥を温めていた。


 火は小さい。


 火薬箱の火とは違う。


 だが、どちらも人の手で扱わなければ、人を傷つける。


 迅は、火を見た。


 火の向こうに、人の顔を見た。


 撃つこと。


 撃たないこと。


 運ぶこと。


 守ること。


 その全部が、同じ戦の中にある。


 迅は、まだ鉄砲を持ちたいとは思わなかった。


 むしろ、持ちたくなかった。


 けれど、持たなければ守れない日が来るのかもしれない。


 そう思った瞬間、火の揺れが少しだけ大きく見えた。

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