【第16話】炭焼き道
黒い煙は、夜になっても迅の目の奥に残っていた。
火ではない。
そう見えた。
だが、火でないなら何なのか。
煙は細く、すぐ消えた。
それなのに、人の目だけは確かに奪った。
浄火寺の門前では、朝から続いた列が、ようやく少しだけ静まっている。
水桶は空になりかけていた。
洗われた椀は、板の上に伏せられている。
太助は喜助の横で、赤くなった手をこすっていた。
梅吉は子を抱き直しながら、まだ子ども連れの列を見ている。
嘉七は、水桶のそばにいた。
働いている。
だが、働いている者の目ではない。
迅はそう感じていた。
何かを探している。
誰かを待っている。
それとも、何かが起きるのを見ている。
分からない。
分からないまま、人は並び、椀は配られ、水は減っていく。
そこへ、瀬川の伝令が駆け込んできた。
「迅殿!」
殿、と呼ばれて、迅は一瞬だけ肩をすくめた。
まだ慣れない。
いや、慣れてはいけない気もした。
「瀬川様より、沢の出口へ戻れとのこと。蓮昭様も、寺の状況をまとめてお寄せくだされとの命です」
蓮昭は頷いた。
「よい。行け」
「でも、ここは」
迅は門前を見る。
列はまだ危うい。
椀は足りない。
人の目は、まだ硬い。
「ここには、ここを見る者がいる」
蓮昭が言った。
その視線の先には、梅吉がいた。
梅吉は嫌そうな顔をした。
「おい、坊主。俺は寺の者じゃねえぞ」
「知っておる」
「なら、勝手に見る者にするな」
「もう見ておる」
梅吉は言い返そうとしたが、黙った。
腕の中の子が、梅吉の胸に頬を寄せていた。
蓮昭は続けた。
「喜助は水場。太助は椀。梅吉は子ども連れ。僧兵は門と出口を見る」
迅は、一人ずつを見た。
昨日まで、名もなかった流れに、人の顔がついていく。
けれど、それで安心してよいわけではない。
名がついた分だけ、倒れた時の重さも増す。
「持ち帰れ」
蓮昭が言った。
「黒い煙。奪われた椀。立てぬ母。嘉七の目。小荷駄が届いたこと。そして、まだ足りぬこと」
「はい」
迅は答えた。
そして、嘉七を一度見た。
嘉七は目を逸らさなかった。
笑いもしない。
怒りもしない。
ただ、見ていた。
その目を背に受けながら、迅は浄火寺を出た。
*
沢の出口では、夜の評定が始まっていた。
地面には、小夜の石が並べられている。
右の林。
炭焼き道。
煤谷村。
浄火寺。
沢の出口。
荷駄道。
赤土峠。
小さな石と枝だけで作られた地図は、昼よりも重く見えた。
火のそばには、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八がいた。
少し離れて、辰五郎も座っている。
座らされている、と言った方が近い。
本人は立ちたそうだったが、坂部が睨むたびに口だけ動かしていた。
烈もいた。
膝に手を置き、息を整えている。
迅が戻ると、瀬川が顔を上げた。
「見たものを言え」
いつもの言葉だった。
だが、今夜は少し違った。
迅は、見たものが多すぎた。
「椀を奪ったのは、太助という子でした。母親が倒れそうで、粥を持っていこうとしていました。盗みは止めました。でも、母親は本当に立てませんでした」
倉橋の筆が止まる。
鷹見は目を伏せずに聞いている。
「蓮昭様は、太助に椀を洗わせると決めました。母親には、倒れた者として粥を渡しました。あと、倒れそうな人を見る列を作りました」
坂部が低く言った。
「列を見る列か」
「はい」
「人が増えりゃ、列も増えるな」
皮肉のようで、皮肉だけではなかった。
坂部は、荷が増える時の顔をしていた。
「嘉七は」
瀬川が聞いた。
迅は息を吸った。
「水を運んでいます。でも、列が整うことを喜んでいないように見えます。炭焼き道から来たか聞きましたが、沢から来たと言いました。足元の泥は、沢の泥ではないように見えました」
黒羽の目が細くなった。
「泥の色は」
「黒い土でした。炭が混じったような」
烈が顔を上げた。
「俺が見た煙も、黒っぽかったです」
黒羽は地面の石を一つ動かした。
炭焼き道の石だ。
「炭の道から、炭の煙。分かりやすい。分かりやすすぎる」
鷹見が言う。
「誘いか」
「誘いかもしれぬ。だが、無視できる煙でもない」
黒羽は、石の横に細い枝を置いた。
「ここに古い炭窯がある可能性がある。火を入れれば、黒い煙は立つ。少人数でもできる」
赤松弥八が鼻を鳴らした。
「火を使うなら、火薬箱から離せ」
坂部が答える。
「だから荷駄道とは違う方角を見せてるんだろうが」
「見せているなら、見る目を奪われる」
赤松弥八は言った。
「火は、燃えている場所だけが危ないわけじゃねえ。目を向けた場所と、目を離した場所の両方が危ない」
迅は、その言葉を聞いて胸がざわついた。
火を見る。
水を見る。
人を見る。
でも、どれかを見ると、どれかを見落とす。
岩貫弥惣が言っていたことを、迅は知らない。
けれど、同じ重さがこちらにも迫っていた。
瀬川は、地面に三本の線を引いた。
「選ぶ」
その声で、場が締まった。
「一つ。炭焼き道を塞ぐ」
黒羽が目を上げる。
「塞げば、そこから来る避難民も閉じる」
「二つ。炭焼き道を放置する」
鷹見が即座に言った。
「敵が通れば、誰が責を負う」
「三つ。塞がず、通す。ただし、数え、分け、見張る」
倉橋が帳面を閉じた。
「人を数えるのですか」
「道を数える」
瀬川が言った。
「人に札を付けるのではない。道に札を置く。炭焼き道から来た者を、寺へ直に入れず、沢の出口で一度見る」
鷹見が顎に手を当てた。
「人に札を付ければ、揉める」
「だから道に置く」
瀬川は答えた。
「来た道を責めるのではなく、来た道の危うさを見る」
迅は、その言葉を胸に置いた。
人を疑うのではない。
道を見る。
だが、道を見ることは、そこを通った人を見ることでもある。
簡単ではない。
坂部が言った。
「荷駄は通せねえ道だろうな」
黒羽が頷く。
「牛も馬も無理だ。人だけだ。だからこそ、敵の小勢には向く」
「なら、小荷駄も通すな」
坂部が言う。
「通したくなる。近道だからな。だが、近道ほど荷を落とす」
辰五郎が口を挟んだ。
「足の弱い者も通すな。腐葉土が深い道は、見た目より足を取られる」
黒羽が辰五郎を見た。
「知っているのか」
「昔、炭を背負ったことがある」
辰五郎は肩を動かしかけて、痛みに顔をしかめた。
「炭の道は軽そうに見えるが、背負ったら重い。足場も悪い。逃げ道に使うなら、歩ける者だけだ」
倉橋が言った。
「なら、炭焼き道から来た者を、そのまま浄火寺へ送れば、途中で倒れる者が出ます」
「そうだ」
瀬川は頷いた。
「だから、沢の出口で見る」
鷹見が静かに言った。
「見る者が足りぬ」
沈黙が落ちた。
それが、一番の問題だった。
道は増える。
人は増える。
荷は減らない。
火薬箱も動く。
浄火寺は限界に近い。
沢の出口も薄い。
黒羽は目を伏せた。
「私が行く」
瀬川が首を横に振る。
「物見頭が炭焼き道へ入れば、右の林が薄くなる」
「右の林も捨てぬ。配下を置く」
「足りるのか」
「足りぬ」
黒羽は正直に言った。
「だが、行かねば見えぬ」
その時、烈が身を乗り出した。
「俺も行きます」
場が止まった。
迅が思わず振り向く。
「烈」
「道は、小夜の石で見てます。煙も見ました。俺なら走れます」
瀬川は烈を見た。
「戦いに行くのではない」
「分かっています」
「分かっていても、足は前に出る」
烈は言葉を詰まらせた。
それは志乃と同じ言葉だった。
迅は、弟の横顔を見た。
行きたい顔だ。
役に立ちたい顔だ。
そして、危うい顔だった。
「烈は、戻る役がいいと思います」
迅は言った。
烈が迅を見る。
「兄上」
「道の奥へ入るんじゃなくて、入口と沢の出口を走る。見たものを戻す。小夜にも戻す」
烈は不満そうに唇を噛んだ。
「それじゃ、奥が見えません」
「奥を見る人が戻らなかったら、誰かが知らせないといけない」
迅の声も震えていた。
弟を止めたいだけではない。
でも、止めたい。
その二つが胸の中でぶつかっていた。
黒羽が言った。
「よい。烈は入口の走りだ。奥へは入れぬ」
烈は悔しそうにした。
だが、黒羽の目を見て、頷いた。
「はい」
瀬川は決めた。
「炭焼き道は塞がぬ。だが、沢の出口で見る。木札を置く。道に札を置き、人に札は付けぬ。黒羽は浅く入れ。深入りするな。烈は入口と村を走る。迅は浄火寺へ戻り、門前の流れを守れ」
「はい」
迅と烈の声が重なった。
瀬川は最後に言った。
「道を閉じれば、命を閉じる。道を開けば、敵も通る。ならば、開けたまま見ろ」
その言葉は、夜の沢に沈んだ。
誰もすぐには動かなかった。
全員が、その重さを見ていた。
*
翌朝。
煤谷村の裏手は、湿った土の匂いがした。
小夜は、村の外れにしゃがんでいた。
目の前には、昨日よりも大きく石が並んでいる。
家。
井戸。
納屋。
村裏の坂。
炭焼き道。
そこへ、烈が走って戻ってきた。
「小夜!」
小夜は顔を上げる。
「煙は?」
「昨日と同じ方。黒かった。すぐ消えた」
「匂いは?」
「炭みたいな匂い」
「鳥は?」
烈は一瞬黙った。
それから、眉を寄せた。
「あんまり鳴いてなかった」
小夜は、石を一つ動かした。
「煙が出るところには、人がいる。でも、人が通るところに煙があるとは限らない」
「どういうこと?」
「煙は見せるため。通る道は、見せないため」
小夜は枝を一本、煙の石から少し離れた場所に置いた。
「こっちかも」
「そこ、道ないよ」
「獣道がある」
烈は目を見開いた。
「獣道?」
「前に父上が言ってた。炭焼き道の横に、鹿が下りる細い道があるって」
烈は山の方を見た。
木が茂っている。
人が通れるようには見えない。
だが、小夜は見えている。
道ではなく、通れる場所を見ている。
「それ、黒羽様に言わないと」
「うん」
小夜は、もう一つ石を置いた。
「でも、言う時は、分かるところと分からないところを分けて」
「何で?」
「全部分かるって言うと、間違えた時に全部だめになる」
烈は黙った。
小夜は淡々と言った。
「煙は見た。鳥は少ない。炭の匂い。獣道は、あるかもしれない。これは分ける」
烈は大きく頷いた。
「分かった」
家の戸が開く。
志乃が出てきた。
手には布がある。
「また走るのね」
烈は振り向いた。
「はい」
志乃は、何も言わずに布を渡した。
「汗を拭きなさい。濡れたまま走ると、体が冷えます」
「母上」
「戻るのでしょう」
烈は息を飲んだ。
それから、頷いた。
「戻ります」
志乃は、小夜の石を見た。
「小夜」
「はい」
「分からないものは、分からないと伝えなさい」
小夜は少し驚いた顔をした。
志乃は続けた。
「人は、分かると言われたことにすがります。だから、分からないことも大事です」
小夜は、ゆっくり頷いた。
「はい」
烈は石包みを受け取った。
今度の包みは、昨日より少し細長い。
中には、石と枝が分けて入っている。
小夜が言った。
「走っても、枝を折らないで」
「石より難しいな」
「折れたら、道が変わる」
「分かった」
烈は笑わなかった。
それがただの冗談ではないと、もう知っていた。
*
黒羽は、炭焼き道の入口に立っていた。
傍らには、若い物見が一人いる。
名は八瀬隼人。
細身で、目つきが鋭い。
ただ、黒羽ほど静かではない。
肩に力が入っている。
「黒羽様、本当に浅く見るだけでよろしいのですか」
八瀬隼人が言った。
「奥へ入れば、煙の元まで届きます」
「奥へ入れば、戻るのが遅れる」
「ですが」
「見て戻るのが物見だ。見て消えるのは、ただの死に急ぎだ」
八瀬隼人は口を閉じた。
黒羽は足元を見た。
土は黒い。
炭の粉が混じっている。
踏めば柔らかく沈む場所がある。
腐葉土が深い。
辰五郎の言った通りだった。
「足跡は」
黒羽が聞く。
八瀬隼人はしゃがんだ。
「二人……いや、三人。軽い足です。荷は背負っていない」
「違う」
黒羽が言った。
八瀬隼人は顔を上げる。
「何がです」
「一人は軽い。二人は軽く見せている」
黒羽は、土の端を指した。
「爪先だけ深い。背の荷を途中で下ろした者の足だ。煙を出すものを運んだかもしれぬ」
八瀬隼人の喉が動いた。
「見落としました」
「今、見た」
黒羽は短く言った。
奥へ進む。
道は細い。
右手は藪。
左手は斜面。
人一人なら通れる。
二人並べば、肩が触れる。
荷を背負えば、枝に引っかかる。
確かに荷駄は通れない。
だが、小勢なら通れる。
逃げる民も通れる。
そして、敵も通れる。
少し進むと、古い炭窯の跡があった。
石を積み、土をかぶせた低い窯だった。
半分崩れている。
そこから、黒い煙の匂いがした。
八瀬隼人が指を伸ばす。
「まだ温かい」
「触るな」
黒羽が止める。
「火は消えていても、灰の中に残る」
八瀬隼人は手を引いた。
黒羽は膝をつき、灰を見る。
黒い。
だが、木だけではない。
湿った草。
皮。
それから、油を含んだ布の切れ端。
「炭焼きの火ではないな」
「では」
「煙を作るための火だ」
黒羽は布を拾わず、枝で返した。
布の端に、小さな結び目があった。
荒砥のものか。
それとも、荒砥に従わされた土地のものか。
まだ分からない。
「戻りますか」
八瀬隼人が聞いた。
黒羽は、炭窯の奥を見た。
そこには、道ではない細い抜けがあった。
草が倒れている。
鹿が通るには低い。
人が通るには狭い。
だが、通れないことはない。
「獣道か」
黒羽が呟いた。
その時、後ろから烈の声がした。
「黒羽様!」
八瀬隼人が振り返り、槍に手をかける。
黒羽は手で止めた。
「入口までと言ったはずだ」
烈は息を切らしていた。
「入ってません! 入口です! 声が届くところまでです!」
確かに、烈は道の外に立っていた。
顔だけ必死だった。
「小夜が言ってました。煙があるところが道とは限らないって。炭焼き道の横に、鹿が下りる獣道があるかもしれないって」
黒羽は、草の倒れた細い抜けを見た。
八瀬隼人も見る。
若い物見の顔に、悔しさが浮かんだ。
「女子が、ここまで」
「見たのは女子だ。ここに来たのは我らだ」
黒羽は言った。
「どちらが欠けても、見えぬ」
烈は息を整えながら石包みを差し出した。
「分かることと、分からないことを分けろって」
黒羽は布を開いた。
石と枝が、別々に包まれていた。
煙。
鳥。
炭の匂い。
獣道かもしれないもの。
分かるものと、分からないもの。
黒羽は、わずかに笑った。
「よい目だ」
烈の顔が明るくなる。
「小夜に伝えます!」
「まだだ」
黒羽は、獣道の方を見た。
「見たものを持ち帰ってから言え」
「はい!」
八瀬隼人が低く言った。
「奥はどうします」
「入らぬ」
黒羽は即答した。
「今日はここまでだ」
「しかし、敵の道なら」
「敵の道だとしても、我らが消えれば意味がない」
黒羽は灰の匂いを覚えた。
土の柔らかさを覚えた。
草の倒れ方を覚えた。
それから、若い物見と走る少年を見た。
「戻る」
その言葉に、八瀬隼人はまだ不満そうだった。
だが、従った。
物見は、見て戻る。
その重さを、黒羽は誰より知っていた。
*
浄火寺では、迅が戻った列を見ていた。
昨日より少しだけ、形になっている。
倒れそうな者を見る列。
子ども連れの列。
水を運ぶ者。
椀を洗う者。
粥を受け取った者が抜ける道。
全部がまだぎこちない。
それでも、昨日よりは崩れにくい。
そう思った時だった。
嘉七が近づいてきた。
水桶を持っている。
顔には汗が浮かんでいた。
「お前、炭焼き道を調べさせたな」
迅は身構えた。
「なぜ、そう思うんですか」
「さっき、走る子どもが向こうへ行った」
「烈です」
「弟か」
「はい」
嘉七は、少し笑った。
笑い方が、乾いていた。
「兄弟でよく走るな」
「あなたは、何を見ているんですか」
迅は聞いた。
嘉七の笑みが消える。
「何?」
「働いています。でも、列を見ているというより、列が崩れるかを見ているように見えます」
水桶の水が揺れた。
嘉七の手に力が入ったのだ。
「疑うのか」
「分かりません」
迅は正直に言った。
「だから聞いてます」
「聞けば答えると思うのか」
「答えなくても、見ます」
嘉七の目が細くなる。
「怖くないのか」
「怖いです」
迅は即答した。
「あなたが敵なら怖い。民なら、疑っていることが怖い。どちらか分からないのが、一番怖いです」
嘉七は黙った。
しばらくして、低く言った。
「俺の村は焼けた」
「黒根村ですか」
「そうだ」
「本当に?」
その言葉を言った瞬間、迅は自分でも冷たいと思った。
嘉七の目が怒りに変わる。
「本当に焼けた」
声が震えていた。
「村の名を嘘に使うほど、俺はまだ落ちちゃいねえ」
迅は何も言えなかった。
嘉七は続けた。
「だが、誰に焼かれたかは、言えねえ」
「荒砥ですか」
嘉七は答えない。
「燧ですか」
水桶の水が、また揺れた。
迅の背中が冷えた。
嘉七は笑った。
今度の笑いは、ひどく苦かった。
「戦になると、火の向きなんて誰にも分からねえ。荒砥が焼いたのか、燧が火を広げたのか、逃げる者が倒した火が移ったのか。燃えた後に残るのは、焼けた村だけだ」
迅は、言葉を失った。
敵か民か。
その問いでは、足りない。
嘉七は、水桶を担ぎ直した。
「俺は寺を信じてねえ。武士も信じてねえ。お前も信じてねえ」
「……」
「だが、子どもの椀が倒れたら腹が立つ。水が汚れたら腹が立つ。だから運んでる」
嘉七は去ろうとした。
迅は思わず言った。
「誰かに、何か言われましたか」
嘉七の足が止まる。
「炭焼き道のこと。寺の米のこと。煙のこと」
少しの間。
風が吹いた。
嘉七は振り返らずに言った。
「腹が減った者は、聞きたい言葉だけよく聞こえる」
それだけ言って、歩いていった。
答えではない。
だが、何かに触れた感触があった。
迅は、嘉七の背を見送った。
敵ではないかもしれない。
だが、敵の言葉に触れた者かもしれない。
民であり、危うさでもある。
また、一つに分けられないものが増えた。
*
夕刻。
沢の出口へ、黒羽たちが戻った。
烈も戻っている。
約束通りだった。
瀬川は、戻った者を見てから評定を始めた。
地面に並んだものは、石と枝だけではない。
黒い灰。
油を含んだ布の切れ端。
炭の混じった土。
折れた草。
そして、小夜が包んだ細い枝。
黒羽が報告する。
「黒い煙は、古い炭窯から出されていた。炭焼きの火ではない。煙を作るための火だ」
赤松弥八が布を見た。
「油か」
「少し含ませている」
「燃やすためというより、煙を濃くするためだな」
瀬川が聞く。
「敵の数は」
「確かめられた足跡は三。だが、軽く見せた足がある。荷を一度下ろした跡もあった」
「奥は」
「見ていない」
鷹見が目を上げる。
「なぜ」
「戻るためです」
答えたのは八瀬隼人だった。
黒羽がちらりと見る。
八瀬隼人は、少し耳を赤くしながら続けた。
「奥へ入れば見えたかもしれません。ですが、戻れなければ、ここへ何も残せません」
黒羽は何も言わなかった。
ただ、わずかに頷いた。
瀬川は小夜の枝を手に取った。
「獣道は」
「ある」
黒羽が言った。
「まだ敵が使ったかは分からぬ。だが、使える」
倉橋が低く言った。
「では、避難民もそこから来る可能性がある」
「ある」
「敵も」
「ある」
坂部が息を吐いた。
「道がまた増えたか」
瀬川は、地面に新しい線を引いた。
炭焼き道の横。
獣道。
細い線だった。
だが、細い線ほど怖い。
太い道なら、目で見える。
細い道は、人の背に隠れる。
「選択肢は三つ」
瀬川が言った。
「一つ、獣道を塞ぐ」
黒羽が即座に言った。
「塞げば、敵は塞いだことを知る。別の道を探す」
「二つ、伏せて見張る」
鷹見が言う。
「人が足りぬ」
「三つ、炭焼き道と獣道を一つの道として扱い、入口で分ける」
倉橋が眉を寄せる。
「つまり、道の奥ではなく、出てきた者を見る」
「そうだ」
瀬川は言った。
「奥で捕まえるのではなく、出たところで見る」
赤松弥八が言った。
「火を使われたら?」
「煙に目を奪われるな、と伝える」
瀬川は迅を見た。
「浄火寺で、それをやった者がいる」
迅は背筋を伸ばした。
「でも、ぎりぎりでした」
「ぎりぎりでよいとは言わぬ。だが、崩れなかった」
鷹見が言った。
「記録しておく。煙で列が止まりかけたが、門前は崩れず」
迅は不思議な気持ちになった。
自分がやったことが、木札や帳面の中に入っていく。
それは嬉しさではない。
逃げ場がなくなるような重さだった。
瀬川は決めた。
「炭焼き道は閉じない。獣道も閉じない。だが、沢の出口に札を増やす。炭焼き道、獣道、沢道。来た道ごとに見る。人を分けるのではない。倒れやすさと、敵の紛れやすさを見る」
坂部が言う。
「荷は?」
「通さぬ」
「小荷駄も?」
「通さぬ」
坂部は頷いた。
「それでいい。細道に荷を入れたら、荷も人も死ぬ」
倉橋が言った。
「米は、引き続き小袋で浄火寺へ。俵は見せませぬ」
赤松弥八が言った。
「火薬箱は寺へ近づけぬ。煙が増えるなら、なおさらだ」
瀬川は全員を見た。
「米は隠して運ぶ。道は隠さず見る。火は消さずに分ける。民は疑わずに数える」
言葉が、一つずつ地面に置かれていく。
迅は、そのどれもが難しいと思った。
米を隠せば疑われる。
道を見れば疑っているように見える。
火を分ければ、米を隠していると思われる。
民を数えれば、選別しているように見える。
正しいことが、正しく見えるとは限らない。
だから、言葉がいる。
順がいる。
見ている者がいる。
瀬川は最後に言った。
「この戦、槍だけでは勝てぬ」
誰も笑わなかった。
黒羽は灰を見ていた。
倉橋は帳面を開いた。
坂部は荷の数を数えた。
赤松弥八は火薬箱の方角を見た。
鷹見は記録を残した。
烈は戻る道を見た。
迅は、人の流れを思った。
それぞれが、違うものを見ている。
だが、その全部が欠ければ、道は崩れる。
*
夜。
浄火寺の火は、また二つに分けられていた。
煙は細い。
だが、完全には隠せない。
迅は門前に戻り、今日の変更を蓮昭へ伝えた。
炭焼き道。
獣道。
煙を作る火。
道に札を置くこと。
人に札は付けないこと。
蓮昭は、最後まで黙って聞いていた。
「道に札か」
「はい」
「人に付ければ、傷になる」
「瀬川様も、そう言っていました」
蓮昭は頷いた。
「よい。寺でも同じにする。人を疑うのではない。道を疑う」
その時、嘉七が近くを通った。
水桶を下ろし、こちらを見る。
「道を疑う、か」
迅は振り向いた。
嘉七は続けた。
「人を疑うより、聞こえはいいな」
「聞こえだけにしたくありません」
嘉七は少し笑った。
「できるのか」
「分かりません」
「また、それか」
「分かると言って間違えるよりは、ましです」
嘉七の目が、少しだけ変わった。
怒りではない。
おかしそうでもない。
何かを思い出したような目だった。
「俺の村にもいたよ」
「誰がですか」
「分からんと言える奴がな」
それだけ言って、嘉七は水桶を持ち上げた。
迅は呼び止めなかった。
敵かもしれない。
民かもしれない。
その間にいる者かもしれない。
それでも、今は水を運んでいる。
その事実だけは、見落としてはいけないと思った。
太助は、今日も椀を洗っていた。
喜助が横で見ている。
梅吉は子ども連れの列に立っている。
蓮昭は、火のそばに火消し水を置かせている。
迅は門の外を見た。
道は一本ではない。
増えれば増えるほど、守る手は足りなくなる。
だが、閉じれば誰かが来られなくなる。
夜風が吹く。
細い煙が揺れる。
その向こうに、まだ見えない道がある。
迅は、その暗がりを見つめた。
見たいものではない。
見るべきものを。
そう自分に言い聞かせながら。




