【第15話】奪われた椀
椀を奪った者は、門の奥へ逃げた。
小さな背だった。
大人ではない。
だが、動きは速かった。
僧兵の手をすり抜け、炊き出しの列の脇を抜け、浄火寺の本堂前へ向かって走る。
「待て!」
僧兵が叫んだ。
叫び声に、避難民たちの体が一斉に揺れた。
誰かが前へ出る。
誰かが後ろへ下がる。
子どもが泣く。
椀を持った女が、粥をこぼさぬよう胸に抱え込む。
そのわずかな揺れだけで、列はまた崩れかけた。
「追うな!」
迅は叫んだ。
自分でも驚くほど大きな声だった。
僧兵の一人が振り返る。
「なぜだ!」
「列が崩れます!」
迅は走りながら答えた。
「今、みんなが追ったら、また倒れます!」
僧兵は歯を食いしばった。
だが、足を止めた。
その間に、椀を奪った小さな背は本堂脇へ回った。
迅は後を追う。
足が泥を跳ねる。
息が喉に刺さる。
怖かった。
また人が押すのではないか。
また誰かが転ぶのではないか。
奪った者を捕まえたとしても、その後に何を言えばいいのか。
分からないまま、迅は走った。
喜助も後ろから来る。
「迅! 右!」
本堂の縁の下へ、小さな影が潜ろうとしていた。
迅はとっさに膝をついた。
「待って!」
影が止まった。
いや、止まったのではない。
動けなくなっていた。
奪った椀の中には、もう粥はほとんど残っていない。
走る途中でこぼれたのだ。
残った粥を、小さな手が必死に守っている。
その子は、迅よりずっと幼かった。
十にも届かぬかもしれない。
髪はぼさぼさで、頬は泥と煤で汚れていた。
名を聞くより先に、子どもは椀を抱えて叫んだ。
「取るな!」
声は震えていた。
「これは、おっかあのだ!」
迅の足が止まった。
喜助も止まった。
追ってきた僧兵が、息を荒くして立つ。
「盗んだ椀だ」
僧兵が言った。
子どもは椀を胸に押しつけた。
「盗んでない!」
「見ていた者がいる」
「おっかあが死ぬ!」
その言葉で、場の音が一つ消えた。
迅は、子どもの目を見た。
怒っている。
泣いている。
怯えている。
全部が混ざっていた。
「名前は?」
迅はできるだけ静かに聞いた。
子どもは答えない。
僧兵が一歩出る。
「名乗れ」
子どもはさらに椀を抱えた。
迅は僧兵の前に半歩入った。
「待ってください」
「かばうのか」
「聞きます」
「盗みだぞ」
「分かっています」
迅の声は震えた。
分かっている。
椀一つでも、盗みだ。
粥一口でも、誰かの命だ。
奪われた子は泣いている。
その母親も泣いている。
それでも、目の前の子も必死だった。
どちらも、間違いではない。
だから怖い。
「名前を教えて」
迅はもう一度言った。
子どもは唇を噛んだ。
「……太助」
「太助」
迅は、その名を繰り返した。
新しい名だった。
椀を奪った子。
だが、それだけではない。
母を死なせたくなくて、椀を抱えて逃げた子。
「お母さんはどこ?」
太助は本堂の裏手を見た。
僧兵が目を細める。
「そちらは怪我人の置き場ではない」
「入れてくれなかった」
太助が言った。
「歩ける者は待てって。おっかあ、歩けるって言われた。でも、立てねえんだ」
迅は眉を寄せた。
「どこにいるの?」
太助は一瞬迷った。
だが、椀を抱えたまま、縁の下から這い出た。
「こっち」
迅はついていった。
本堂の裏には、古い鐘楼があった。
その影に、女が倒れるように座っていた。
年は若い。
だが、顔は土気色だった。
膝を抱え、腹を押さえている。
目は開いているが、焦点が合っていない。
「おっかあ」
太助が駆け寄る。
女は顔を上げようとした。
だが、力が入らない。
「……太助」
「持ってきた。粥」
太助は椀を差し出した。
椀の中には、底に薄く残った粥しかなかった。
女はそれを見て、泣きそうな顔をした。
けれど、首を横に振った。
「返しなさい」
「でも」
「返しなさい」
声は弱い。
だが、はっきりしていた。
太助の顔が歪んだ。
「おっかあ、死ぬ」
「盗んだもので、生きてもらいたくない」
「でも!」
太助が叫ぶ。
「誰もくれない!」
その叫びは、本堂裏の空気を裂いた。
迅は何も言えなかった。
僧兵も黙った。
喜助は、汚れた椀を見ていた。
椀の縁には泥がついている。
こぼれた粥が固まりかけている。
もう誰かに渡せるものではなかった。
それでも、太助はそれを命のように抱えていた。
蓮昭が来た。
杖の音が、石の上で短く鳴る。
「その女を運べ」
蓮昭が僧兵に言った。
「庫裏の横へ」
僧兵が驚く。
「ですが、怪我人の列はもう」
「怪我人でなくとも、倒れる者は倒れる」
蓮昭の声は低かった。
「立てぬ者を、歩ける者の列へ戻すな」
僧兵は頭を下げた。
「はっ」
女を支える。
太助が椀を抱えたままついていこうとした。
蓮昭が声をかける。
「太助」
子どもの体がびくりと震える。
「その椀は返せ」
「……」
「母を助けることと、椀を奪うことは同じではない」
太助はうつむいた。
椀を差し出す手が震えている。
喜助がそっと受け取った。
その椀を見て、喜助の顔が歪んだ。
「これ、洗っても……」
「使える」
蓮昭が言った。
「だが、今すぐではない」
喜助は頷いた。
「洗います」
太助が小さく言った。
「俺が洗う」
喜助が顔を上げる。
「え?」
「俺がやる。俺が汚した」
太助の声はかすれていた。
迅は、その声を聞いて胸が痛んだ。
罰を受ける顔ではない。
働くことで、少しでも許されようとする顔だった。
蓮昭は少し黙った。
そして言った。
「なら、洗え。ただし、一人ではない。喜助と洗え」
喜助は一瞬だけ困った顔をした。
それから、椀を抱え直した。
「分かった。こっち」
太助は母の方を見た。
母は僧兵に支えられながら、かすかに頷いた。
「行きなさい」
太助は歯を食いしばり、喜助についていった。
迅は、その背を見ていた。
盗んだ子。
母を守ろうとした子。
椀を洗う子。
一つの名に、一つの言葉だけを貼ることはできなかった。
蓮昭が迅を見る。
「持ち帰るものが増えたな」
「はい」
「盗みがあった、だけでは足りぬ」
「はい」
「誰が盗んだか。なぜ盗んだか。どこで止められたか。誰を見落としたか。すべてだ」
迅は頷いた。
「はい」
返事をしながら、迅は本堂裏の鐘楼を見た。
鐘は鳴っていない。
だが、胸の奥では何かがずっと鳴っていた。
*
浄火寺の門前には、人の声が戻っていた。
椀が奪われたことは、すぐに広まった。
広まれば、形を変える。
子どもが盗んだ。
親が盗ませた。
寺が隠した。
門の内側だけ食っている。
外で待つ者は、後回しにされる。
声は、声を食って大きくなる。
迅が門へ戻ると、梅吉が水桶を地面に置いていた。
肩で息をしている。
「捕まえたか」
「子どもでした」
「知ってる」
「知ってる?」
「見た。小せえ背だった」
梅吉は顎で本堂の方を示した。
「親は?」
「倒れてました。歩ける者の列に入っていたけど、立てなくなってました」
梅吉は舌打ちした。
「そりゃ盗む」
迅は顔を上げた。
「盗んでいいわけじゃありません」
「分かってる」
梅吉は低く言った。
「でも、そりゃ盗む」
迅は黙った。
その二つは、同時にある。
盗んではいけない。
でも、盗む理由はあった。
梅吉は空の水桶を見た。
「俺だって、昨日この子が食えなかったら、何をしたか分からねえ」
その言葉は、重かった。
怒りではない。
正直な怖さだった。
「だから、決めろ」
梅吉が言った。
「何をですか」
「盗んだ奴をどうするかだ。何もしなけりゃ、次も出る。きつく罰すりゃ、皆が怖がる。だが、腹は減ったままだ」
迅は喉を鳴らした。
「俺が決めることじゃ」
「じゃあ誰が決める」
梅吉の目が迅を捉えた。
「寺か。武士か。腹が減ってねえ奴か」
「……」
「お前は見たんだろ。なら、言え」
迅は答えられなかった。
自分が決める立場ではない。
でも、見た者には、持ち帰る役目がある。
持ち帰るだけでは済まない時もある。
その時、門の近くでまた声が上がった。
「あの子だけ助けるのか!」
迅と梅吉が振り向く。
歩ける者の列にいた男が、僧兵に詰め寄っていた。
「あの子の母親は中へ入れて、俺の親父は外か!」
「順を待て」
僧兵が言う。
「順、順って、そればっかりだ!」
「押すな!」
「押してねえ!」
声がまた重なった。
迅は走った。
梅吉も水桶を置いてついてきた。
「待ってください!」
迅が間に入る。
男が睨む。
「またお前か」
「順を変えます」
迅は言った。
自分でも、言ってから驚いた。
僧兵が目を見開く。
「勝手に何を」
「勝手じゃありません。見落としがありました」
迅は息を整える。
「歩ける者の列にも、立てない人がいます。子ども連れの列にも、親が倒れそうな人がいます。怪我人の列だけ見ても足りません」
「なら、どうする」
男が言う。
「見直します」
「誰が」
迅は一瞬詰まった。
だが、すぐに周囲を見た。
「歩ける人の中から、二人。怪我人を見られる人。子ども連れの中から、一人。水を運んでいる人から、一人。僧兵だけじゃ足りません」
僧兵が眉をひそめる。
「民に列を見せるのか」
「はい」
「混ざれば、もっと揉める」
「見えないままよりはいいです」
迅の声は震えていた。
「中に入った人だけが助かると思われたら、また奪われます。外にいる人にも、見ている人が必要です」
男が黙った。
梅吉が一歩出た。
「俺が見る」
迅は驚いた。
「梅吉さん」
「子ども連れの列だ。俺も子を抱いてる。倒れそうな親くらいは見る」
別の老人が言った。
「わしは怪我人を見よう。足は悪いが、目はまだ使える」
水を運んでいた女が手を上げた。
「水場の近くなら、私が見る」
少しずつ、声が出た。
それは頼もしい声ではなかった。
腹も減っている。
不満もある。
それでも、誰かが見なければ、自分たちの椀も倒れる。
それを、みなが少しずつ分かり始めていた。
蓮昭が門の前に立った。
「よい」
僧兵たちが蓮昭を見る。
「民にも列を見せる。ただし、決めるのは寺と武士だけではない。見た者が申せ。倒れそうな者。水が必要な者。子が泣き止まぬ者。押しそうな者。隠すな」
蓮昭の声は、朝の空に通った。
「盗みを許すのではない。盗ませぬ場を作る」
その言葉に、迅の胸が震えた。
盗ませぬ場。
それは罰より難しい。
米がいる。
水がいる。
人手がいる。
見ている者がいる。
それでも、そうしなければ、次の椀も奪われる。
嘉七は、少し離れたところで水桶を持っていた。
何も言わない。
ただ、目だけが動いていた。
*
沢の出口に、烈は石包みを届けた。
息を切らし、額に汗を浮かべている。
瀬川は、その布を地面に広げた。
小夜の石が、朝の光の中に並ぶ。
戻った米。
残した米。
右の林。
炭焼き道。
煙。
村に入った避難民。
戸を閉めた家。
荷をまとめる家。
瀬川の周りには、黒羽、倉橋、坂部、鷹見、赤松弥八がいた。
辰五郎は少し離れて座らされている。
本人は不満そうだが、立つなと坂部に怒鳴られたらしい。
瀬川は石を見た。
「よく崩さず持った」
烈は胸を張った。
「小夜に、崩すなと言われました」
「なら、小夜にも伝えよ。役に立ったと」
烈の顔が明るくなる。
だが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「途中で煙を見ました。浄火寺の煙じゃありません。炭焼き道の方です。細くて、すぐ消えました」
黒羽が石を一つ動かした。
「ここか」
「たぶん、そこです」
「たぶんでよい。見て、迷ったことも言え」
烈は頷いた。
「煙は白くありませんでした。細くて、黒っぽかったです。薪じゃなくて、炭みたいな匂いでした」
黒羽の目が細くなる。
「炭焼き道で黒い煙か」
坂部が言う。
「避難民が火を使っただけじゃねえのか」
「その可能性もある」
黒羽は答えた。
「だが、すぐ消えたのが気に入らん」
鷹見が腕を組む。
「敵の合図か」
「合図か、目隠しか、あるいは誘いか」
黒羽は小夜の石を見た。
「右の林と炭焼き道。二つを見るには目が足りぬ」
瀬川は顔を上げた。
「分けるしかない」
「分ければ薄くなる」
黒羽が言った。
「分けねば見えぬ」
瀬川は短く返した。
評定の空気が重くなる。
倉橋が帳面を開いた。
「米を動かすなら、昼を過ぎる前です。夕刻には道が悪くなる。夜は避けるべきです」
坂部が頷く。
「小荷駄なら出せる。だが、寺の列が崩れてるなら近づけねえ。荷を見せた途端、人が寄る」
「なら、寺より手前で下ろすか」
瀬川が言う。
「下ろせば奪われます」
倉橋が即座に返す。
「俵が人の目に入れば、列は崩れる」
赤松弥八が低く言った。
「火薬箱も同じだ。見えるところに置くな。人混みから離せ」
鷹見が瀬川を見る。
「つまり、米も火薬も道も、見える場所を間違えれば敵の手になる」
「そうだ」
瀬川は頷いた。
「寺へ送る荷は、小荷駄。量は少なく、見せぬ。寺へ入れる前に、列を作れるかを見る。炭焼き道は黒羽が見る。右の林は捨てない。沢の出口は薄くしすぎない」
鷹見が言った。
「全部を守る策に聞こえる」
「違う」
瀬川は言った。
「全部を失わぬために、少しずつ薄く守る策だ」
鷹見は目を細めた。
「薄く守れば、破られる」
「厚く一つを守れば、別が破られる」
黒羽が言った。
沈黙が落ちた。
その時、辰五郎が座ったまま口を開いた。
「小荷駄に、若いのを使うな」
坂部が眉を寄せる。
「黙ってろと言っただろ」
「口は使えって言われた」
辰五郎は悪びれない。
「若いのは走れる。だが、腹が減ってる列に荷を見せた時、目に負ける。荷を守るなら、足より腹の据わった奴を使え」
瀬川が聞く。
「誰ならよい」
「藤吉はだめだ。昨日の疲れが残ってる」
坂部が少し驚いた顔をする。
辰五郎は続けた。
「俺もだめだ。肩が使えねえ。使えば邪魔になる」
「珍しく分かってるじゃねえか」
坂部がぼそりと言った。
辰五郎は無視した。
「水を運んでる連中の中に、荷を隠して運べる奴がいる。桶の下に袋を入れろ。米俵じゃなく、小袋だ。粥にする分だけ」
倉橋が顔を上げる。
「米を小袋に分けるのか」
「俵で見せるなって話だ」
辰五郎の声はかすれていたが、はっきりしていた。
「腹を減らした目に、俵はでかすぎる」
瀬川は木札を取った。
そこに書く。
小袋。
水桶。
見せぬ荷。
迅がいれば、きっとこう思うだろう。
これもまた、いつか役目の名になる。
だが今は、ただの苦肉の策だった。
「決める」
瀬川が言った。
「坂部は小袋を作れ。倉橋は出せる屑米、割れ米を選べ。辰五郎は人足を選ぶ。黒羽は炭焼き道。烈は戻る。小夜へ伝えろ。黒い煙、すぐ消える煙を見たら、必ず知らせよ」
烈は背筋を伸ばした。
「はい!」
瀬川は続けた。
「ただし、戻れ。必ずだ」
烈の顔が一瞬だけ固まる。
志乃の言葉と同じだった。
戻りなさい。
「はい。戻ります」
瀬川は頷いた。
「走る者は、戻って初めて役を果たす」
烈はその言葉を胸に刻んだ。
*
浄火寺では、椀を奪った騒ぎが少しずつ収まり始めていた。
だが、収まっただけだ。
消えたわけではない。
列の中には、まだ硬い目がある。
疑う目。
怒る目。
羨む目。
そして、見ていないふりをして、すべてを見ている目。
嘉七は、水桶を運びながら周囲を見ていた。
迅はそれに気づいていた。
だが、まだ何もできない。
証がない。
声を上げれば、民を疑うことになる。
疑いが広がれば、敵の思うつぼだ。
蓮昭が、門の脇で小さな評定を開いた。
蓮昭、迅、喜助、梅吉、僧兵二人、そして水を運ぶ女と、怪我人を見る老人がいた。
武士はいない。
寺の中で起きたことを、寺と民で決めるためだった。
蓮昭は地面に杖で円を描いた。
「盗みを許せば、次が出る」
誰も反論しない。
蓮昭は続けた。
「だが、盗んだ子を打てば、腹の減った者は寺を恐れる。恐れれば隠す。隠せば、次は見えぬところで起きる」
僧兵が言った。
「では、どう罰します」
梅吉が口を挟む。
「罰だけで済むのか」
僧兵が睨む。
「盗みを許す気か」
「許すとは言ってねえ」
梅吉は腕を組んだ。
「だが、あの子だけ罰して、倒れた親を見落とした方はどうする」
水を運ぶ女が小さく頷く。
「歩ける者の列にも、倒れそうな人はいます」
怪我人を見る老人も言った。
「怪我と腹減りは違う。だが、倒れる時は同じじゃ」
迅は、その言葉を胸に置いた。
怪我と腹減りは違う。
だが、倒れる時は同じ。
蓮昭は迅を見た。
「迅。そなたはどう見る」
迅は息を止めた。
まただ。
見た者に、問われる。
「俺は……」
言葉が詰まる。
太助の手。
奪われた子の泣き声。
泥に消えた粥。
倒れていた母。
嘉七の目。
全部が浮かんだ。
「盗みは、止めないといけません」
迅は言った。
「でも、太助だけが悪いと言ったら、次を止められないと思います」
「なぜ」
「また、同じことが起きるからです」
迅は地面を見た。
「倒れそうな人を、早く見つける人が必要です。椀を渡す場所も、もっと離した方がいいです。受け取る人と、待つ人が近すぎます。あと、椀を持ったまま走れる隙がありました」
僧兵が顔をしかめる。
「寺の守りが甘いと言うのか」
「はい」
迅は答えた。
僧兵の目が鋭くなる。
迅はすぐに続けた。
「でも、俺たちの見方も甘かったです。外の列を見ていたから、中の隙を見ていませんでした」
喜助が小さく言った。
「俺も、椀を洗う場所ばっかり見てた」
蓮昭は頷いた。
「では、罰はどうする」
迅は、太助が椀を洗う姿を見た。
小さな背中が、水場で喜助と並んでいる。
手は冷たい水で赤くなっていた。
「椀を洗わせます」
迅は言った。
「今日だけじゃなくて、明日も。自分が奪った椀だけじゃなく、みんなの椀を洗わせます。でも、その母親には粥を渡してください」
僧兵が口を開きかける。
蓮昭が手で止めた。
「続けよ」
「母親に粥を渡さないと、太助はまた盗むかもしれません。でも、太助だけ得をしたと思われると、みんな怒ります。だから、倒れそうな人を見つける列を作って、そこに入れます」
水を運ぶ女が頷いた。
「それなら、他の者も言いやすい」
老人も言った。
「倒れそうだと、言える場が要る」
梅吉が迅を見る。
「お前、罰を軽くしたいのか、重くしたいのか分かんねえな」
迅は苦笑しそうになった。
けれど、笑えなかった。
「俺も、分かりません」
正直に言った。
「ただ、次に椀が奪われないようにしたいです」
蓮昭はしばらく目を閉じた。
そして言った。
「決める」
その声で、場が静まる。
「太助は、今日と明日、椀洗いを手伝う。逃げれば、寺の列には戻さぬ」
僧兵が頷く。
「太助の母には、倒れた者として粥を渡す。ただし、特別扱いではない。倒れそうな者を見つける列を作り、そこに入れる」
水を運ぶ女が頷く。
「椀を渡す場所は、今より奥へ。待つ列とは離す。受け取った者は、右から抜ける。戻る道と待つ道を重ねぬ」
迅は地面に線を引いた。
蓮昭はそれを見て、うなずいた。
「僧兵は椀を守るだけでなく、列の出口を見る。入口だけ見れば、また奪われる」
僧兵たちは頭を下げた。
「はっ」
評定は短かった。
だが、軽くはなかった。
椀一つのために、人の流れが変わる。
子ども一人のために、寺の守りが変わる。
そして、その変化はまた別の不満を生む。
迅は、それを分かり始めていた。
何かを守るたびに、別の場所が薄くなる。
岩貫弥惣が遠くでそう考えていることを、迅はまだ知らない。
*
水場で、太助は椀を洗っていた。
冷たい水に手を入れ、泥をこすり落とす。
喜助が横で見ている。
「強くこすりすぎると、割れる」
「……うん」
「そこ、まだ粥ついてる」
「うん」
「あと、洗った椀と汚い椀を混ぜるな。怒られる」
「うん」
太助は、ほとんど「うん」しか言わなかった。
喜助は困った顔で頭をかく。
「お前、いくつ?」
「九つ」
「九つで、よく走ったな」
「走らないと、おっかあが死ぬと思った」
喜助は黙った。
桶の中で、水が揺れる。
「俺もさ」
喜助が言った。
「怖いと、変なことする」
太助が顔を上げる。
「俺は、昨日、水こぼした」
「怒られた?」
「いや。役に立った」
「水こぼして?」
「うん。変だろ」
太助は少しだけ目を丸くした。
喜助は小さく笑った。
「だから、椀洗いも、たぶん何かにはなる」
太助は椀を見た。
「俺、盗んだ」
「うん」
「悪いことした」
「うん」
「でも、おっかあを助けたかった」
「うん」
「どうすればよかった」
喜助は答えられなかった。
少し考えて、言った。
「今度は、盗む前に叫べ」
「叫ぶ?」
「おっかあが倒れるって。誰も聞かなかったら、もっとでかく叫べ。俺も聞く。迅も聞く。たぶん」
「たぶん?」
「迅は、だいたい聞く。聞きすぎて困ってる」
太助は、ほんの少しだけ笑った。
それは、笑いと呼ぶには弱すぎた。
でも、喜助は見逃さなかった。
「ほら、そこ。まだ汚い」
「うん」
二人はまた椀を洗った。
水は冷たい。
手は赤い。
それでも、椀は一つずつ白さを取り戻していった。
*
夕方近く。
小荷駄が浄火寺へ向かった。
俵ではない。
小袋だった。
水桶を運ぶ列に混ぜられ、外からは米と分からない。
坂部の差配だった。
倉橋が選んだ屑米と割れ米が、小さく分けられている。
辰五郎が選んだ人足たちは、派手に動かなかった。
急がない。
目立たない。
水桶の重さに見せかけて、米を運ぶ。
迅はその列を見ていた。
米は、見せれば人を集める。
隠せば疑われる。
見せずに届けるしかない時もある。
その難しさに、胸が重くなる。
梅吉が近づいてきた。
「何を見てる」
「小荷駄です」
「あれ、米か」
迅は一瞬迷った。
梅吉は鼻で笑う。
「言わなくていい。顔に出てる」
「……すみません」
「謝るな。隠すなら、もっと上手く隠せ」
迅は何も言えなかった。
梅吉は続けた。
「でも、あれでいい。俵で来たら、みんな寄る」
「分かりますか」
「腹が減ってるからな」
梅吉は遠くの列を見た。
「腹が減ってると、米の形がでかく見える。小袋なら、まだ我慢できる」
迅は、その言葉を覚えた。
腹が減っていると、米の形がでかく見える。
倉橋なら帳面に書くだろうか。
坂部なら荷の大きさを変えるだろうか。
黒羽なら人の目の動きを見るだろうか。
迅は、その全部を持ち帰らなければならないと思った。
その時、寺の奥で半鐘が鳴った。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
半鐘の音は、薄い夕空に硬く響いた。
人々が顔を上げる。
水桶を持つ者が止まる。
僧兵が走る。
蓮昭が本堂前へ出る。
迅の背中に冷たい汗が流れた。
「火か?」
梅吉が言った。
火。
その言葉で、迅は赤松弥八の顔を思い出した。
火薬箱。
火消し水。
火は、人が見ていないと裏切る。
だが、寺の方では煙は上がっていない。
迅は空を見た。
右の林。
炭焼き道。
夕暮れの木々の間に、細い煙が一本立っていた。
白くはない。
黒い。
すぐに消えそうで、また立つ。
烈が見た煙と同じ方角だった。
迅は声を出した。
「炭焼き道です!」
蓮昭が振り向く。
「何」
「寺じゃありません! 炭焼き道の方!」
人々が一斉にそちらを見る。
その瞬間、門前の列が止まった。
止まれば、後ろが詰まる。
詰まれば、押す。
押せば、崩れる。
迅は叫んだ。
「見ないで! 列を動かして!」
自分でも無茶だと思った。
煙を見たい。
誰だって見る。
危険があれば、そちらを見る。
でも、全員が同じ方を見れば、足元が見えなくなる。
「喜助、水場!」
「分かった!」
「梅吉さん、子ども連れの列を!」
「分かってる!」
「僧兵の方、門を空けてください! 止めないで、流してください!」
僧兵が一瞬迷う。
蓮昭が叫んだ。
「迅の言う通りにせよ!」
門が開く。
列が少しずつ動く。
小荷駄の水桶も、止まらず進む。
黒い煙は、林の向こうで揺れていた。
迅はそれを横目で見ながら、人の足元を見た。
ここで転ぶ者が出れば、煙に関係なく崩れる。
敵が火を使ったのか。
民が火を焚いたのか。
合図なのか。
罠なのか。
分からない。
分からないまま、目の前の列を守るしかない。
迅は歯を食いしばった。
風が吹く。
煙が細く曲がる。
まるで、遠くの誰かが笑っているようだった。
*
右の林の奥で、岩貫弥惣は黒い煙を見ていた。
鹿部市之助が隣で笑う。
「二つ目、揺れましたな」
「まだ揺れただけだ」
岩貫弥惣は言った。
「だが、目は向いた」
「寺の方は?」
「崩れぬ」
「またですか」
鹿部市之助の声に、不満が混じる。
岩貫弥惣は、林の隙間から浄火寺の門を見た。
遠い。
だが、人の流れは見える。
止まりかけ、また動いた。
煙に目を奪われながら、足元を見ている者がいる。
あの場に、道を見ている者がいる。
「面倒だな」
岩貫弥惣が低く言った。
「斬りますか」
鹿部市之助はまた同じことを言う。
岩貫弥惣は首を横に振った。
「斬れば、敵になる。敵になれば、守りが固まる」
「では」
「民の中に置く」
岩貫弥惣は、黒い煙から目を離した。
「道を見る者に、見るものを増やせ。米。水。火。子。親。煙。盗み。疑い。全部を見せろ」
鹿部市之助が薄く笑った。
「見すぎれば、目が潰れる」
「そうだ」
岩貫弥惣は、浄火寺の細い煙を見た。
「あの火は、まだ消えぬ。なら、煙で囲め」
*
浄火寺の門前で、迅は息を切らしていた。
黒い煙は、やがて消えた。
何が燃えたのかは、まだ分からない。
だが、列は崩れなかった。
完全には。
椀は奪われた。
粥はこぼれた。
太助は罰として椀を洗っている。
嘉七はまだ水桶を運んでいる。
小荷駄は、寺の中へ入った。
倒れそうな者を見つける列も、まだぎこちなく動いている。
全部が危うい。
全部が足りない。
それでも、まだ続いている。
蓮昭が迅の横に立った。
「よく見た」
迅は首を振った。
「見えてないものだらけです」
「それを知る者は、次を見る」
蓮昭は黒い煙の消えた方角を見た。
「持ち帰れ。椀のこと。母のこと。太助のこと。嘉七のこと。煙のこと。小荷駄のこと。列が止まりかけたこと」
「はい」
「そして、もう一つ」
迅は蓮昭を見る。
「人は、腹が減ると悪になるのではない。腹が減ると、隠していたものが外へ出る」
蓮昭の声は低かった。
「そこを敵に触らせるな」
迅は、返事ができなかった。
重すぎた。
けれど、忘れてはいけない言葉だった。
夕暮れの浄火寺に、細い煙が残っている。
粥の煙。
水に濡れた薪の匂い。
泥に消えた半椀の白さ。
洗われた椀が、木の板の上に伏せられている。
その一つ一つが、まだ小さく温みを残していた。
風は強くなっている。
それでも、誰かが手を添えている限り、火はすぐには消えない。




