【第14話】寺へ向かう者たち
沢の出口に置かれた木札は、夜露を吸って黒ずんでいた。
浄火寺。
粥。
煙。
人増。
瀬川が書いた四つの言葉は、松明の火に照らされ、ゆらゆらと揺れて見えた。
文字が揺れているのではない。
その場にいる者たちの息が、乱れていた。
沢の出口には、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八がいた。
辰五郎もいた。
肩に巻いた布は血で赤黒くなっている。
それでも、本人は座ろうとしなかった。
近くには迅と喜助が控えている。
迅は、まだ浄火寺の湯気を鼻の奥に残していた。
薄い粥。
半分の椀。
子どもの「あったかい」という声。
梅吉の「温かいな」という声。
それから、まだ何も食べられていない者たちの目。
全部が、背中に張りついている。
瀬川が木札を指で押さえた。
「まず、浄火寺の状況だ」
誰も口を挟まない。
沢の水音だけが、暗がりの底で鳴っていた。
「避難民は増える。煤谷村側にも入り始めた。古い炭焼き道を使った者がいる。粥は足りぬ。水場は詰まる。煙は右の林から見える」
瀬川は一度、迅を見た。
「迅の報告だ」
鷹見が目を細める。
「子どもの報告で、軍を動かすのか」
その声は冷たかった。
だが、馬鹿にしているだけではない。
軍監として、その危うさを言っている声だった。
「子どもではありません」
喜助が思わず言った。
言ってから、肩を縮める。
鷹見が喜助を見る。
「では何だ」
「……見てきた者です」
喜助の声は小さかった。
けれど、逃げなかった。
鷹見はしばらく喜助を見たあと、瀬川へ視線を戻した。
「続けよ」
瀬川はうなずいた。
「選ぶ道は三つある」
地面に小枝で線を引く。
一つ目の線。
「一つ、米を追加で浄火寺へ送る」
倉橋の眉が動く。
瀬川は二つ目の線を引いた。
「二つ、浄火寺へ兵を出し、列と門を守る」
坂部が低く唸る。
瀬川は三つ目の線を引いた。
「三つ、米も兵も大きく動かさず、道と人の流れだけを変える」
赤松が鼻を鳴らした。
「どれも足りねえな」
「足りる策などない」
瀬川は言った。
「足りぬ中で、何を先に失わぬかを決める」
倉橋が帳面を開いた。
その音は小さい。
だが、場の空気が変わった。
紙をめくる音は、刀を抜く音に似ている時がある。
「米を追加で出す場合」
倉橋が言った。
「赤土峠へ向かう分から削ることになります。今ある予備米は、兵の二日分には届きませぬ。濡れ米は粥に回せましたが、乾いた米は別です」
「寺で飢えが出れば、道が崩れるぞ」
坂部が言った。
「分かっております」
倉橋の声は硬い。
「ですが、赤土峠へ米が届かなければ、兵が崩れます」
坂部が一歩前に出た。
「兵が崩れる前に、荷駄が止まる。荷駄が止まる前に、人足が潰れる。米を出すなら、誰が背負う。どの道を通す。どの牛を使う。どの時間に送る」
「だからこそ、数字を出しているのです」
「数字だけじゃ、俵は動かねえ」
倉橋と坂部の視線がぶつかった。
迅は息をのんだ。
どちらも間違っていない。
倉橋は、米が何日持つかを見ている。
坂部は、その米が本当に届くかを見ている。
同じ米俵を見ているのに、見ているものが違う。
辰五郎が口を開いた。
「米を出すなら、人足を寝かせてからにしてくれ」
声はかすれている。
肩の傷が痛むのだろう。
「夜通しで動かせば、明日の昼に膝が死ぬ。膝が死ねば、米も火薬も沢に落ちる」
赤松が、そこで初めて顔を上げた。
「火薬を米と並べるな」
辰五郎は赤松を見た。
「並べてねえ。だが、背負う背中は同じだ」
赤松の目が細くなる。
火薬の匂いをまとった男の目だった。
「火薬箱は濡らせぬ。火にも近づけぬ。人混みにも入れぬ。寺へ米を出すなら、火薬箱とは道を分けろ。火薬が人の列に呑まれたら、敵に斬られるより悪い」
迅は赤松の言葉に、胸の奥が冷えた。
火薬箱。
それは、ただ強い武器を入れた箱ではない。
水にも弱い。
火にも危ない。
人が寄っても危ない。
守るための火が、守る者を焼くこともある。
迅は思わず、沢の出口に置かれた水桶を見た。
赤松がそれに気づいた。
「おい」
迅は肩を跳ねさせた。
「はい」
「お前、何を見た」
「……水桶を」
「なぜだ」
「火薬と火の話をしていたので」
「火薬の話で、水を見るのか」
赤松の声は低い。
迅は怒られると思った。
けれど、嘘は言えなかった。
「怖いので」
赤松はしばらく黙った。
それから、短く言った。
「覚えておく」
褒められたのか、目をつけられたのか。
迅には分からなかった。
だが、赤松の目は笑っていなかった。
瀬川が話を戻す。
「二つ目。兵を寺へ出す案」
黒羽が首を横に振った。
「右の林に敵の目がある。寺へ兵を寄せれば、沢の出口が薄くなる。炭焼き道もまだ確かめきれていない」
鷹見が言う。
「兵を出さねば、寺の中で騒ぎが起きる。騒ぎが起きれば、兵を出さぬ責を問われる」
「出しても、問われる」
黒羽が返した。
「どこを空けたのか、と」
鷹見は黒羽を見た。
「物見頭は、敵を見る役だろう」
「敵だけ見ていればいいなら、楽だ」
黒羽の声は静かだった。
「今は、民も道も煙も見る。敵は、その全部を使ってくる」
その言葉で、場が沈んだ。
敵は槍を持って突っ込んでくるだけではない。
煙を使う。
米を使う。
腹を使う。
人の怒りを使う。
寺に集まる者たちを、道を崩す重みに変えようとしている。
瀬川は三つ目の線を指した。
「米も兵も大きく動かさず、人の流れを変える案だ」
坂部が言う。
「それなら荷は動かさずに済む」
倉橋も頷いた。
「米の消耗も抑えられる」
鷹見が冷たく言った。
「ただし、民の不満は抑えられぬ」
誰も反論できなかった。
迅は、梅吉の顔を思い出した。
足りぬ、と。
助かった、と。
両方だ。
そう言っていた。
「道を分けるだけでは、腹は膨れません」
迅は気づくと、口を開いていた。
全員の目が向く。
心臓が跳ねた。
でも、もう言葉は戻せない。
「でも……道が崩れたら、粥も水も届きません」
瀬川は黙って聞いている。
迅は続けた。
「寺の門に、食べる者が全部集まると崩れます。水を汲む者、粥を待つ者、怪我人を運ぶ者、子どもを抱く者が、同じところにいると……たぶん、また押します」
「どう分ける」
瀬川が聞いた。
「寺の門の前に置かず、手前で分けます」
迅は地面に指を置いた。
「沢の出口みたいに。歩ける者。歩けない者。子ども連れ。水を運べる者。粥を待つ者。寺へ入る者と、寺の外で待つ者」
「寺の外で待てと言われた者は怒るぞ」
鷹見が言う。
「怒ります」
迅は言った。
「でも、門の中で怒るよりは、まだ動かせます」
自分で言いながら、怖かった。
門の外で待たせる。
それは、救いから遠ざけることにも見える。
けれど、全員を一度に入れれば、誰かが踏まれる。
椀が倒れる。
鍋が倒れる。
水桶が転ぶ。
そして、誰にも届かない。
喜助が小さく言った。
「水場も分けた方がいいです」
瀬川が目を向ける。
喜助は一度唾を飲んだ。
「飲む水と、洗う水と、火消し水を一緒にすると、みんな寄ります。水桶を置く場所を変えれば、少しは散ります」
赤松が言った。
「火消し水は、火薬箱の近くにもいる」
「でも、火薬箱の近くに人を寄せたら危ないんですよね」
喜助が言った。
赤松は喜助を見た。
「お前も水を見るか」
「水桶ばっかり運んでるので」
赤松は鼻を鳴らした。
「変な奴らだ」
けれど、怒ってはいなかった。
瀬川が小枝を置いた。
「決める」
その声に、全員が黙る。
「浄火寺へ大きな米は送らぬ。ただし、屑米、割れ米、濡れ米の残り、炊き出しに回せるものは倉橋が洗い出す」
倉橋が頷いた。
「承知」
「坂部は、荷駄を崩さずに小荷駄を一つ作れ。大荷ではなく、細く流せる荷だ」
坂部が目を細める。
「小荷駄ですか」
「寺へ見せるためではない。列を崩さぬための荷だ」
「分かりました」
坂部は少しだけ口の端を上げた。
「そういう荷なら、動かしようがある」
「辰五郎」
「へい」
「肩は使うな。口を使え。人足に、無理な荷を背負わせるな」
辰五郎は不満そうに顔をしかめた。
「口だけなら、怪我がなくても俺は達者です」
「なら働け」
「へい」
瀬川は黒羽を見た。
「黒羽。炭焼き道を見る者を出せ。だが、深入りするな」
「承知」
「右の林も捨てるな」
「両方見るには目が足りぬ」
「分かっている」
瀬川は一拍置いた。
「小夜の石包みが来る。村の目も使う」
鷹見がわずかに眉を上げた。
「女子の石を、軍議に入れるのか」
瀬川は鷹見を見る。
「煙を最初に見たのは、その女子だ」
「記録には残す」
鷹見は短く言った。
その声に、迅は少し驚いた。
鷹見は認めたわけではない。
だが、消さなかった。
見た者の名を、無かったことにはしなかった。
瀬川は最後に迅と喜助を見た。
「迅、喜助」
「はい」
「明朝、浄火寺へ戻れ。寺の門ではなく、手前の道を見る。誰がどこで詰まるかを見ろ。子どもだけを見るな。怪我人だけを見るな。歩ける者の不満も見ろ」
迅は頷いた。
「はい」
「喜助は水場だ。飲み水、洗い水、火消し水を分ける場所を蓮昭に伝えろ」
「はい」
瀬川は、木札を一枚取った。
そこに筆で書く。
寺前。
分ける。
水三つ。
炭焼き道。
木札が増える。
それだけで、戦が広がったように見えた。
迅は、胸の奥で思った。
これは、いつか役目の名になる。
まだ誰も、そう呼んではいない。
けれど、米を見る者がいる。
荷を見る者がいる。
道を見る者がいる。
火を見る者がいる。
民を見る者がいる。
今はばらばらの役目が、いつか一つの国の形になる。
その予感だけが、夜の中に細く立っていた。
*
夜明け前。
煤谷村の空は、薄い灰色だった。
小夜は、まだ地面に石を並べていた。
眠っていない。
志乃が何度か休めと言ったが、小夜は首を振った。
「石が動いたら、忘れる」
そう言って、村の裏に置いた小石を見つめていた。
烈は、その横で膝を抱えていた。
手の中には、布に包まれた石がある。
瀬川へ届けるためのものだ。
小夜の石は、ただの石ではなかった。
戻った米。
残した米。
濡れ草の煙。
右の林。
炭焼き道。
村に入った避難民。
戸を閉めた家。
荷をまとめ始めた家。
全部が、小さな石になっていた。
「小夜」
烈が言った。
「これ、全部伝えられるかな」
「伝えなくていい」
「え?」
「見せればいい」
小夜は石を一つ動かした。
「言葉にすると、忘れるところがある。でも、石は場所を忘れない」
烈は布の包みを見た。
軽い。
でも、重い。
昨日もそう思った。
「兄上は、これ見て分かるかな」
「兄上は、人が詰まるところを見る」
小夜は言った。
「瀬川様は、兵が足りないところを見る。黒羽様は、敵が見ているところを見る」
「小夜は?」
烈が聞く。
小夜は少し考えた。
「煙が変なところを見る」
烈は思わず笑いそうになった。
でも、笑わなかった。
小夜の顔が真剣だったからだ。
家の戸が開いた。
志乃が出てくる。
手には握り飯が二つあった。
「烈」
「はい」
「持ちなさい」
「俺は」
「走る者は食べなさい」
志乃は、烈の手に握り飯を押しつけた。
「これは、戦いに行く飯ではありません。戻ってくるための飯です」
烈は握り飯を見た。
小さい。
塩も少ない。
それでも、温かかった。
「母上」
「何」
「兄上にも」
「迅には、迅のところで誰かが渡します」
志乃の声は静かだった。
「母が今渡せるのは、あなたです」
烈は頷いた。
「戻ります」
志乃はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、烈の肩に手を置いた。
小夜が布包みを差し出す。
「崩さないで」
「分かってる」
「走っても、石がぶつからないように」
「分かってるって」
「あと、途中で煙を見たら止まって」
「急ぐんじゃないの?」
「急ぐのと、見ないのは違う」
烈は言葉に詰まった。
それから、真面目に頷いた。
「分かった」
山の方で、鳥が鳴いた。
いつもより少ない気がした。
烈は握り飯を懐に入れ、石包みを両手で抱えた。
そして、走り出した。
戦いに行くのではない。
戻るために。
伝えるために。
*
浄火寺へ向かう道には、朝から人が増えていた。
昨日より多い。
迅は、その数を見ただけで喉が乾いた。
歩ける者。
足を引きずる者。
子を背負う者。
荷を抱える者。
何も持たない者。
それぞれが別の速さで進む。
そして、全員が同じ場所を目指している。
寺の門。
粥。
水。
休める場所。
それだけを見ている。
だから、道が細くなるところで詰まった。
大きな松の根が張り出している場所。
右は林。
左は浅い溝。
子ども連れがそこで止まる。
後ろの男が押す。
前の老人が転びかける。
「押すな!」
誰かが叫ぶ。
「押してねえ!」
「前が止まるんだ!」
「子どもがいるんだ!」
声が重なる。
迅は走った。
「喜助!」
「水はまだ寺の中!」
「違う! ここ!」
迅は道の横を指した。
「ここで分ける!」
喜助が一瞬だけ目を白黒させた。
だが、すぐに分かった顔になった。
「寺の前じゃなくて?」
「寺の前だと遅い!」
迅は木札を取り出した。
瀬川から渡されたものだ。
怪我人。
子ども連れ。
歩ける者。
水を持てる者。
四枚。
迅はそれを松の根元に立てた。
だが、人は木札を見ない。
腹が減った人間は、文字を読まない。
前だけを見る。
「止まってください!」
迅が叫ぶ。
誰も止まらない。
声が飲まれる。
昨日と同じだ。
いや、昨日より悪い。
寺の門が見えている分、人の目が前へ前へと伸びている。
喜助が、近くの石を抱え上げた。
「迅、線!」
「え?」
「線引け! 沢の出口みたいに!」
迅は地面を見た。
泥は湿っている。
木の枝で線が引ける。
迅は枝を拾い、道を横切るように線を引いた。
一本。
二本。
三本。
「ここから先、怪我人と子ども連れ!」
喜助が叫ぶ。
「歩ける人は、右へ! 水を持てる人は左!」
「何で俺たちが後だ!」
男が怒鳴る。
「寺に入れるんじゃないのか!」
「入れます!」
迅は叫んだ。
「でも一度に入ったら、門で詰まります!」
「俺の母親は歩けねえ!」
「なら、こっちです!」
迅は怪我人の木札を指した。
「歩けない人は先です!」
別の女が叫ぶ。
「私は子を抱いてる!」
「こっち!」
喜助が手を振る。
女がそちらへ進む。
その後ろで、梅吉がいた。
腕の中の子は昨日より目を開けている。
だが、まだ顔色は悪い。
梅吉は迅を見つけると、苦い顔をした。
「またお前か」
「はい」
「今日は腹を膨らませてくれるのか」
迅は答えに詰まった。
言いたい言葉はあった。
でも、どれも嘘になる。
「分かりません」
梅吉の眉が動く。
「分からん?」
「足りないと思います」
迅は言った。
「でも、崩れたらもっと届きません」
梅吉は、しばらく迅を見た。
怒鳴るかと思った。
だが、梅吉は子を抱き直し、木札の方へ向かった。
「子の列は、こっちだな」
「はい」
「俺は待つ」
迅は驚いた。
梅吉は横目で迅を見る。
「その代わり、この子の椀は倒すな」
「……はい」
「倒したら怒る」
「はい」
梅吉は鼻を鳴らした。
味方になったわけではない。
信じたわけでもない。
それでも、列に入った。
それだけで、少しだけ道が動いた。
浄火寺の門の前では、蓮昭が僧兵たちに指示を出していた。
昨日より木札が増えている。
水場は二つに分けられていた。
喜助の案だ。
飲み水は井戸の左。
椀を洗う水は右。
火を消す水は、かまどの近くではなく、少し離した場所。
赤松に言われたことを思い出し、迅は火と水の距離を見た。
近すぎても危ない。
遠すぎても間に合わない。
火は便利なものではない。
火は、人が見ていないと、すぐ人を裏切る。
その時だった。
列の後ろから、濁った声が上がった。
「寺の中に米を隠してるぞ!」
迅は振り向いた。
声の主は、痩せた男だった。
名乗ってはいない。
背中に破れたむしろを巻き、頬に泥がついている。
「昨日より煙が少ねえ。火を分けたってことは、奥で炊いてるんだ」
周囲がざわつく。
「本当か?」
「中にあるのか?」
「門の中だけ食わせる気か?」
迅の背中に冷たいものが走った。
煙。
火を分けたこと。
昨日、自分たちが決めたことだ。
煙を大きく見せないために。
敵に人の数を悟らせないために。
だが、それは避難民から見れば、米を隠しているようにも見える。
正しい手が、別の不信を生む。
「違います!」
迅は叫んだ。
「煙を大きくしないために、火を分けただけです!」
「なぜ大きくしない」
男が返す。
「見られるからです!」
「誰に」
「敵に!」
「なら、敵が怖いから、俺たちに隠すのか」
言葉が曲がる。
迅は一瞬、息が止まった。
違う。
そうじゃない。
でも、腹を減らした者の耳には、そう聞こえる。
痩せた男は続けた。
「子どもが先。怪我人が先。歩ける者は待て。そう言って、待たせる。待っている間に、門の中の者が食う」
「違う!」
喜助が叫んだ。
「昨日も半分ずつだった! 誰も腹いっぱいなんか食べてない!」
「お前は食ったのか」
男の目が喜助へ向いた。
喜助は言葉に詰まった。
食っていない。
でも、水は飲んだ。
寺の中で動いていた。
それだけでも、外で待つ者には違って見える。
梅吉が一歩出た。
「おい」
男が梅吉を見る。
「何だ」
「昨日、俺の子は粥をもらった」
「なら、お前はあっち側か」
梅吉の顔が歪んだ。
「あっち側?」
「もらった者は黙る。もらえぬ者だけが待つ」
周囲のざわめきが大きくなる。
迅は、男の顔を見た。
怒っている。
だが、目が違う。
腹を減らした者の目ではある。
でも、それだけではない。
言葉を選んでいる。
人が怒る言葉を、選んで投げている。
「あなたは、どこの人ですか」
迅が聞いた。
男の目が、わずかに動いた。
「焼けた村の者だ」
「村の名は」
「……黒根村だ」
迅は聞いたことがなかった。
だが、知らない村はいくらでもある。
「名前は」
「嘉七」
新しい名だった。
嘉七。
焼けた村の者。
そう名乗る男。
迅は、その名を胸の中に置いた。
敵か。
民か。
それとも、敵に使われた民か。
決められない。
決められないまま、人は動いている。
蓮昭が門から歩いてきた。
「嘉七と申したか」
嘉七は蓮昭を睨んだ。
「坊主は腹が減らんのか」
「減る」
蓮昭は答えた。
「なら米を出せ」
「出せる分は出す」
「出せぬ分は隠すのか」
「出せぬ分は、ない」
蓮昭の声は静かだった。
「ないものは、隠せぬ」
その言葉に、列の一部が黙った。
だが、すべてではない。
ない。
その言葉は、人を安心させない。
むしろ、もっと怖くする。
嘉七が叫んだ。
「なら、なぜ門を分ける!」
迅は息を吸った。
蓮昭より先に、言った。
「門を守るためです」
嘉七が迅を見る。
「寺をか」
「違います」
迅は震えながら言った。
「鍋を倒さないためです。子どもを踏ませないためです。水を汚さないためです。ここで押したら、粥も水もなくなります」
「なら、歩ける者は我慢しろと?」
「はい」
言ってから、迅は自分の言葉の重さに気づいた。
歩ける者は我慢しろ。
それは、ひどい言葉だ。
歩けるから平気なわけではない。
歩ける者も腹が減る。
歩ける者も倒れる。
それでも。
「でも、ずっとじゃありません」
迅は続けた。
「水を運べる人は、水を運んでください。薪を運べる人は、薪を運んでください。怪我人を支えられる人は、支えてください。そうした人から、次に回します」
嘉七が笑った。
「働けば食えると?」
「働かないと食わせない、ではありません」
迅の声はかすれた。
「動ける人に、動いてもらわないと、動けない人まで届かないんです」
蓮昭が迅を見た。
喜助も見た。
梅吉も、黙って見ていた。
迅は怖かった。
自分の言葉が、誰かを遠ざける気がした。
それでも、言わなければならない。
全員を同じ場所へ寄せれば、全員が崩れる。
動ける者に、動いてもらう。
それは助け合いに見える。
だが、命令にも見える。
民を守るとは、優しい言葉だけでは済まないのだと、迅は知った。
蓮昭が杖を立てた。
「聞け」
声が響いた。
「動ける者を軽んじるのではない。動ける者に頼む。水を運べ。薪を運べ。怪我人を支えよ。列を作れ。働いた者を先にするのではない。働けぬ者に届かせるために、働ける者の手を借りる」
人々は黙った。
納得したわけではない。
だが、言葉の向きが少し変わった。
命令ではなく、頼み。
それでも、頼みは重い。
梅吉が腕の子を近くの女に預けた。
「少し見ててくれ」
「え?」
「水桶を運ぶ」
女が驚く。
梅吉は迅を見た。
「俺は歩ける」
迅は頷いた。
「お願いします」
「礼は言うな」
梅吉はぶっきらぼうに言った。
「まだ腹は減ってる」
「はい」
「だが、子の椀を倒されるよりはましだ」
梅吉は水桶へ向かった。
それを見て、数人の男が動いた。
薪を運ぶ者。
怪我人を支える者。
木札の横に立つ者。
少しずつ、列が形を取り始める。
嘉七は、その様子を見ていた。
目が細くなる。
迅は気づいた。
嘉七は、列が整うことを喜んでいない。
腹が減った民なら、少しでも粥に近づく道ができれば喜ぶはずだ。
だが、嘉七の口元は硬かった。
その時、遠くから烈が走ってくるのが見えた。
腕に布包みを抱えている。
「兄上!」
「烈!」
烈は息を切らしながら、迅の前で止まった。
膝に手をつく。
だが、石包みは崩していない。
「小夜から……石です」
迅は布包みを受け取った。
ずしりとした。
中身はただの石のはずなのに、道の重さがあった。
「瀬川様には?」
「これから。でも、途中で煙を見ました」
烈は顔を上げた。
「寺の煙じゃありません。炭焼き道の方。細くて、すぐ消えました」
迅の背中が冷えた。
蓮昭も聞いていた。
黒羽の者がまだ来ていない。
つまり、炭焼き道の方で何かが動いている。
嘉七が、わずかに後ずさった。
迅はそれを見た。
「嘉七さん」
男の足が止まる。
「あなたは、炭焼き道から来ましたか」
嘉七は答えなかった。
周囲の人々が嘉七を見る。
「違う」
少し遅れて、男は言った。
「俺は沢から来た」
迅は、男の足元を見た。
泥が乾いている。
沢を通った泥ではない。
黒い土。
炭の混じったような土。
小夜が石で示していた、村裏の道。
炭焼き道。
迅は叫びそうになった。
だが、叫べなかった。
ここで敵だと決めつければ、列が崩れる。
民が民を疑い始める。
それこそ、敵の狙いかもしれない。
蓮昭が静かに言った。
「嘉七。そなたも水を運べ」
嘉七の目が蓮昭へ向く。
「なぜ俺が」
「歩けるからだ」
「俺は」
「歩ける者には頼む。先ほど、そう言った」
嘉七は歯を食いしばった。
逃げれば疑われる。
残れば水桶を持たされる。
列を崩す言葉を投げるには、手が塞がる。
迅は、蓮昭の横顔を見た。
裁くのではない。
順を作る。
昨日の言葉が胸に戻った。
順は、人を助けるだけではない。
人を暴れさせない鎖にもなる。
嘉七は、渋々水桶へ向かった。
その時だった。
寺の中から、子どもの泣き声が上がった。
高い声。
続いて、女の悲鳴。
「椀が!」
迅は振り向いた。
門の内側で、小さな混乱が起きている。
子どもに渡されるはずだった椀が、一つ、誰かの手に奪われた。
薄い粥がこぼれ、土に白く広がる。
女が倒れかけた子を抱きしめている。
僧兵が走る。
喜助が水桶を置いて駆け出す。
蓮昭の顔が険しくなる。
迅は一瞬、嘉七を見た。
嘉七は水桶の前にいた。
手は空いていない。
なら、奪ったのは別の者だ。
敵か。
民か。
飢えか。
迅の足が動いた。
寺の門へ走る。
背後で、烈が叫ぶ。
「兄上!」
迅は振り返らなかった。
門の中で、粥の匂いが土の匂いに混ざっていた。
一つの椀。
昨日、命をつないだはずの椀。
それが今、誰かの怒りを燃やす火になろうとしていた。
浄火寺の煙は、朝の空へ細く上がっている。
その煙の向こうで、誰かがこちらを見ている気がした。
*
右の林の奥。
岩貫弥惣は、膝をついて土を触っていた。
湿っている。
だが、足跡は読める。
寺へ向かう足。
寺から戻る足。
水を運んだ足。
走った子どもの足。
そして、途中で引き返した足。
鹿部市之助が、薄く笑う。
「崩れましたかね」
「まだだ」
岩貫弥惣は答えた。
「少し、揺れただけだ」
「なら、次は?」
岩貫弥惣は、浄火寺の煙を見た。
昨日より細い。
だが、消えてはいない。
「火を消すには、火を投げるだけでは足りぬ」
鹿部市之助が首を傾げる。
岩貫弥惣は言った。
「火を守る者の手を、別の火で塞げばいい」
風が吹いた。
煙が揺れる。
その先には、寺と民と道がある。
そして、その中で走る少年がいる。
岩貫弥惣は、その姿までは見えていない。
だが、道がまだ崩れきらない理由を、薄々感じ始めていた。
「燧には、妙な目がある」
「物見ですか」
「いや」
岩貫弥惣は立ち上がった。
「物見だけではない。腹を減らした民の中で、道を見ている者がいる」
鹿部市之助の笑みが少し消えた。
「斬りますか」
「まだいい」
岩貫弥惣は、煙から目を離さなかった。
「道を守る者は、道が増えるほど手が足りなくなる」
その声は、低く冷たかった。
「次は、二つ同時に揺らす」
*
浄火寺の門の中で、迅は土にこぼれた粥を見ていた。
白く濁った粥が、泥に吸われていく。
ほんの半椀。
それでも、誰かの一日になったかもしれないもの。
それが、土に消えていく。
迅の耳には、まだ子どもの泣き声が残っていた。
奪った者は、人混みの中へ逃げた。
誰かが追おうとする。
僧兵が怒鳴る。
梅吉が子を抱き寄せる。
嘉七が水桶のそばで固まっている。
喜助はこぼれた椀を拾い、何度も何度も袖で拭いている。
烈は門の外で、石包みを抱えたまま立っている。
蓮昭は、杖を握りしめていた。
その顔には、怒りだけではないものがあった。
悲しみ。
悔しさ。
そして、決めなければならない者の顔。
「迅」
蓮昭が言った。
「はい」
「見たか」
迅は、こぼれた粥から目を逸らせなかった。
「見ました」
「なら、持ち帰れ」
迅は顔を上げた。
「誰が奪ったか、だけではない」
蓮昭の声は静かだった。
「なぜ奪えたかを、持ち帰れ」
迅は、息をのんだ。
なぜ奪えたか。
椀が少なかったから。
列が近かったから。
門の内側にも隙があったから。
腹が減っていたから。
不満があったから。
誰かが言葉で揺らしたから。
敵がいたから。
民がいたから。
全部だった。
迅は拳を握った。
怖かった。
答えが一つではないことが、怖かった。
敵だけを斬れば終わるなら、どれほど楽だろう。
盗んだ者だけを罰すれば済むなら、どれほど簡単だろう。
でも、そうではない。
米も。
水も。
道も。
火も。
人の腹も。
全部がつながって、椀は奪われた。
迅は、土に消えていく粥を見つめた。
昨日、米俵ひとつは命をつないだ。
今日、椀ひとつが道を崩しかけた。
守るとは、届かせることだけではない。
届く前に奪われぬようにすることでもある。
迅は、震える声で答えた。
「持ち帰ります」
蓮昭は頷いた。
「なら、まだ崩れておらぬ」
寺の外では、まだ人が並んでいる。
煙は細く上がっている。
水桶は重い。
椀は足りない。
それでも、列は完全には崩れていない。
誰かが支えている。
誰かが見ている。
誰かが、腹を減らしたまま水を運んでいる。
名もなき者たちの手が、細い火を守っていた。
だが、火を守る手は少なく、風は一つではなかった。




