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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第14話】寺へ向かう者たち

 沢の出口に置かれた木札は、夜露(よつゆ)を吸って黒ずんでいた。


 浄火寺(じょうかじ)


 粥。


 煙。


 人増。


 瀬川が書いた四つの言葉は、松明(たいまつ)の火に照らされ、ゆらゆらと揺れて見えた。


 文字が揺れているのではない。


 その場にいる者たちの息が、乱れていた。


 沢の出口には、瀬川、黒羽、坂部、倉橋、鷹見、赤松弥八がいた。


 辰五郎(たつごろう)もいた。


 肩に巻いた布は血で赤黒くなっている。


 それでも、本人は座ろうとしなかった。


 近くには迅と喜助が控えている。


 迅は、まだ浄火寺(じょうかじ)の湯気を鼻の奥に残していた。


 薄い粥。


 半分の椀。


 子どもの「あったかい」という声。


 梅吉(うめきち)の「温かいな」という声。


 それから、まだ何も食べられていない者たちの目。


 全部が、背中に張りついている。


 瀬川が木札を指で押さえた。


「まず、浄火寺(じょうかじ)の状況だ」


 誰も口を挟まない。


 沢の水音だけが、暗がりの底で鳴っていた。


「避難民は増える。煤谷村(すすたにむら)側にも入り始めた。古い炭焼き道(すみやきみち)を使った者がいる。粥は足りぬ。水場は詰まる。煙は右の林から見える」


 瀬川は一度、迅を見た。


「迅の報告だ」


 鷹見が目を細める。


「子どもの報告で、軍を動かすのか」


 その声は冷たかった。


 だが、馬鹿にしているだけではない。


 軍監として、その危うさを言っている声だった。


「子どもではありません」


 喜助が思わず言った。


 言ってから、肩を縮める。


 鷹見が喜助を見る。


「では何だ」


「……見てきた者です」


 喜助の声は小さかった。


 けれど、逃げなかった。


 鷹見はしばらく喜助を見たあと、瀬川へ視線を戻した。


「続けよ」


 瀬川はうなずいた。


「選ぶ道は三つある」


 地面に小枝で線を引く。


 一つ目の線。


「一つ、米を追加で浄火寺(じょうかじ)へ送る」


 倉橋の眉が動く。


 瀬川は二つ目の線を引いた。


「二つ、浄火寺(じょうかじ)へ兵を出し、列と門を守る」


 坂部が低く唸る。


 瀬川は三つ目の線を引いた。


「三つ、米も兵も大きく動かさず、道と人の流れだけを変える」


 赤松が鼻を鳴らした。


「どれも足りねえな」


「足りる策などない」


 瀬川は言った。


「足りぬ中で、何を先に失わぬかを決める」


 倉橋が帳面を開いた。


 その音は小さい。


 だが、場の空気が変わった。


 紙をめくる音は、刀を抜く音に似ている時がある。


「米を追加で出す場合」


 倉橋が言った。


赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう分から削ることになります。今ある予備米(よびまい)は、兵の二日分には届きませぬ。濡れ米は粥に回せましたが、乾いた米は別です」


「寺で飢えが出れば、道が崩れるぞ」


 坂部が言った。


「分かっております」


 倉橋の声は硬い。


「ですが、赤土峠(あかつちとうげ)へ米が届かなければ、兵が崩れます」


 坂部が一歩前に出た。


「兵が崩れる前に、荷駄が止まる。荷駄が止まる前に、人足が潰れる。米を出すなら、誰が背負う。どの道を通す。どの牛を使う。どの時間に送る」


「だからこそ、数字を出しているのです」


「数字だけじゃ、俵は動かねえ」


 倉橋と坂部の視線がぶつかった。


 迅は息をのんだ。


 どちらも間違っていない。


 倉橋は、米が何日持つかを見ている。


 坂部は、その米が本当に届くかを見ている。


 同じ米俵を見ているのに、見ているものが違う。


 辰五郎(たつごろう)が口を開いた。


「米を出すなら、人足を寝かせてからにしてくれ」


 声はかすれている。


 肩の傷が痛むのだろう。


「夜通しで動かせば、明日の昼に膝が死ぬ。膝が死ねば、米も火薬も沢に落ちる」


 赤松が、そこで初めて顔を上げた。


「火薬を米と並べるな」


 辰五郎(たつごろう)は赤松を見た。


「並べてねえ。だが、背負う背中は同じだ」


 赤松の目が細くなる。


 火薬の匂いをまとった男の目だった。


「火薬箱は濡らせぬ。火にも近づけぬ。人混みにも入れぬ。寺へ米を出すなら、火薬箱とは道を分けろ。火薬が人の列に呑まれたら、敵に斬られるより悪い」


 迅は赤松の言葉に、胸の奥が冷えた。


 火薬箱。


 それは、ただ強い武器を入れた箱ではない。


 水にも弱い。


 火にも危ない。


 人が寄っても危ない。


 守るための火が、守る者を焼くこともある。


 迅は思わず、沢の出口に置かれた水桶を見た。


 赤松がそれに気づいた。


「おい」


 迅は肩を跳ねさせた。


「はい」


「お前、何を見た」


「……水桶を」


「なぜだ」


「火薬と火の話をしていたので」


「火薬の話で、水を見るのか」


 赤松の声は低い。


 迅は怒られると思った。


 けれど、嘘は言えなかった。


「怖いので」


 赤松はしばらく黙った。


 それから、短く言った。


「覚えておく」


 褒められたのか、目をつけられたのか。


 迅には分からなかった。


 だが、赤松の目は笑っていなかった。


 瀬川が話を戻す。


「二つ目。兵を寺へ出す案」


 黒羽が首を横に振った。


「右の林に敵の目がある。寺へ兵を寄せれば、沢の出口が薄くなる。炭焼き道もまだ確かめきれていない」


 鷹見が言う。


「兵を出さねば、寺の中で騒ぎが起きる。騒ぎが起きれば、兵を出さぬ責を問われる」


「出しても、問われる」


 黒羽が返した。


「どこを空けたのか、と」


 鷹見は黒羽を見た。


「物見頭は、敵を見る役だろう」


「敵だけ見ていればいいなら、楽だ」


 黒羽の声は静かだった。


「今は、民も道も煙も見る。敵は、その全部を使ってくる」


 その言葉で、場が沈んだ。


 敵は槍を持って突っ込んでくるだけではない。


 煙を使う。


 米を使う。


 腹を使う。


 人の怒りを使う。


 寺に集まる者たちを、道を崩す重みに変えようとしている。


 瀬川は三つ目の線を指した。


「米も兵も大きく動かさず、人の流れを変える案だ」


 坂部が言う。


「それなら荷は動かさずに済む」


 倉橋も頷いた。


「米の消耗も抑えられる」


 鷹見が冷たく言った。


「ただし、民の不満は抑えられぬ」


 誰も反論できなかった。


 迅は、梅吉(うめきち)の顔を思い出した。


 足りぬ、と。


 助かった、と。


 両方だ。


 そう言っていた。


「道を分けるだけでは、腹は膨れません」


 迅は気づくと、口を開いていた。


 全員の目が向く。


 心臓が跳ねた。


 でも、もう言葉は戻せない。


「でも……道が崩れたら、粥も水も届きません」


 瀬川は黙って聞いている。


 迅は続けた。


「寺の門に、食べる者が全部集まると崩れます。水を汲む者、粥を待つ者、怪我人を運ぶ者、子どもを抱く者が、同じところにいると……たぶん、また押します」


「どう分ける」


 瀬川が聞いた。


「寺の門の前に置かず、手前で分けます」


 迅は地面に指を置いた。


「沢の出口みたいに。歩ける者。歩けない者。子ども連れ。水を運べる者。粥を待つ者。寺へ入る者と、寺の外で待つ者」


「寺の外で待てと言われた者は怒るぞ」


 鷹見が言う。


「怒ります」


 迅は言った。


「でも、門の中で怒るよりは、まだ動かせます」


 自分で言いながら、怖かった。


 門の外で待たせる。


 それは、救いから遠ざけることにも見える。


 けれど、全員を一度に入れれば、誰かが踏まれる。


 椀が倒れる。


 鍋が倒れる。


 水桶が転ぶ。


 そして、誰にも届かない。


 喜助が小さく言った。


「水場も分けた方がいいです」


 瀬川が目を向ける。


 喜助は一度唾を飲んだ。


「飲む水と、洗う水と、火消し水(ひけしみず)を一緒にすると、みんな寄ります。水桶を置く場所を変えれば、少しは散ります」


 赤松が言った。


「火消し水は、火薬箱の近くにもいる」


「でも、火薬箱の近くに人を寄せたら危ないんですよね」


 喜助が言った。


 赤松は喜助を見た。


「お前も水を見るか」


「水桶ばっかり運んでるので」


 赤松は鼻を鳴らした。


「変な奴らだ」


 けれど、怒ってはいなかった。


 瀬川が小枝を置いた。


「決める」


 その声に、全員が黙る。


浄火寺(じょうかじ)へ大きな米は送らぬ。ただし、屑米(くずまい)割れ米(われまい)、濡れ米の残り、炊き出しに回せるものは倉橋が洗い出す」


 倉橋が頷いた。


「承知」


「坂部は、荷駄を崩さずに小荷駄を一つ作れ。大荷(おおに)ではなく、細く流せる荷だ」


 坂部が目を細める。


「小荷駄ですか」


「寺へ見せるためではない。列を崩さぬための荷だ」


「分かりました」


 坂部は少しだけ口の端を上げた。


「そういう荷なら、動かしようがある」


辰五郎(たつごろう)


「へい」


「肩は使うな。口を使え。人足に、無理な荷を背負わせるな」


 辰五郎(たつごろう)は不満そうに顔をしかめた。


「口だけなら、怪我がなくても俺は達者です」


「なら働け」


「へい」


 瀬川は黒羽を見た。


「黒羽。炭焼き道を見る者を出せ。だが、深入りするな」


「承知」


「右の林も捨てるな」


「両方見るには目が足りぬ」


「分かっている」


 瀬川は一拍置いた。


「小夜の石包みが来る。村の目も使う」


 鷹見がわずかに眉を上げた。


「女子の石を、軍議に入れるのか」


 瀬川は鷹見を見る。


「煙を最初に見たのは、その女子だ」


「記録には残す」


 鷹見は短く言った。


 その声に、迅は少し驚いた。


 鷹見は認めたわけではない。


 だが、消さなかった。


 見た者の名を、無かったことにはしなかった。


 瀬川は最後に迅と喜助を見た。


「迅、喜助」


「はい」


「明朝、浄火寺(じょうかじ)へ戻れ。寺の門ではなく、手前の道を見る。誰がどこで詰まるかを見ろ。子どもだけを見るな。怪我人だけを見るな。歩ける者の不満も見ろ」


 迅は頷いた。


「はい」


「喜助は水場だ。飲み水、洗い水、火消し水を分ける場所を蓮昭に伝えろ」


「はい」


 瀬川は、木札を一枚取った。


 そこに筆で書く。


 寺前。


 分ける。


 水三つ。


 炭焼き道。


 木札が増える。


 それだけで、戦が広がったように見えた。


 迅は、胸の奥で思った。


 これは、いつか役目の名になる。


 まだ誰も、そう呼んではいない。


 けれど、米を見る者がいる。


 荷を見る者がいる。


 道を見る者がいる。


 火を見る者がいる。


 民を見る者がいる。


 今はばらばらの役目が、いつか一つの国の形になる。


 その予感だけが、夜の中に細く立っていた。


     *


 夜明け前。


 煤谷村(すすたにむら)の空は、薄い灰色だった。


 小夜は、まだ地面に石を並べていた。


 眠っていない。


 志乃が何度か休めと言ったが、小夜は首を振った。


「石が動いたら、忘れる」


 そう言って、村の裏に置いた小石を見つめていた。


 烈は、その横で膝を抱えていた。


 手の中には、布に包まれた石がある。


 瀬川へ届けるためのものだ。


 小夜の石は、ただの石ではなかった。


 戻った米。


 残した米。


 濡れ草の煙。


 右の林。


 炭焼き道。


 村に入った避難民。


 戸を閉めた家。


 荷をまとめ始めた家。


 全部が、小さな石になっていた。


「小夜」


 烈が言った。


「これ、全部伝えられるかな」


「伝えなくていい」


「え?」


「見せればいい」


 小夜は石を一つ動かした。


「言葉にすると、忘れるところがある。でも、石は場所を忘れない」


 烈は布の包みを見た。


 軽い。


 でも、重い。


 昨日もそう思った。


「兄上は、これ見て分かるかな」


「兄上は、人が詰まるところを見る」


 小夜は言った。


「瀬川様は、兵が足りないところを見る。黒羽様は、敵が見ているところを見る」


「小夜は?」


 烈が聞く。


 小夜は少し考えた。


「煙が変なところを見る」


 烈は思わず笑いそうになった。


 でも、笑わなかった。


 小夜の顔が真剣だったからだ。


 家の戸が開いた。


 志乃が出てくる。


 手には握り飯が二つあった。


「烈」


「はい」


「持ちなさい」


「俺は」


「走る者は食べなさい」


 志乃は、烈の手に握り飯を押しつけた。


「これは、戦いに行く飯ではありません。戻ってくるための飯です」


 烈は握り飯を見た。


 小さい。


 塩も少ない。


 それでも、温かかった。


「母上」


「何」


「兄上にも」


「迅には、迅のところで誰かが渡します」


 志乃の声は静かだった。


「母が今渡せるのは、あなたです」


 烈は頷いた。


「戻ります」


 志乃はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、烈の肩に手を置いた。


 小夜が布包みを差し出す。


「崩さないで」


「分かってる」


「走っても、石がぶつからないように」


「分かってるって」


「あと、途中で煙を見たら止まって」


「急ぐんじゃないの?」


「急ぐのと、見ないのは違う」


 烈は言葉に詰まった。


 それから、真面目に頷いた。


「分かった」


 山の方で、鳥が鳴いた。


 いつもより少ない気がした。


 烈は握り飯を(ふところ)に入れ、石包みを両手で抱えた。


 そして、走り出した。


 戦いに行くのではない。


 戻るために。


 伝えるために。


     *


 浄火寺(じょうかじ)へ向かう道には、朝から人が増えていた。


 昨日より多い。


 迅は、その数を見ただけで喉が乾いた。


 歩ける者。


 足を引きずる者。


 子を背負う者。


 荷を抱える者。


 何も持たない者。


 それぞれが別の速さで進む。


 そして、全員が同じ場所を目指している。


 寺の門。


 粥。


 水。


 休める場所。


 それだけを見ている。


 だから、道が細くなるところで詰まった。


 大きな松の根が張り出している場所。


 右は林。


 左は浅い溝。


 子ども連れがそこで止まる。


 後ろの男が押す。


 前の老人が転びかける。


「押すな!」


 誰かが叫ぶ。


「押してねえ!」


「前が止まるんだ!」


「子どもがいるんだ!」


 声が重なる。


 迅は走った。


「喜助!」


「水はまだ寺の中!」


「違う! ここ!」


 迅は道の横を指した。


「ここで分ける!」


 喜助が一瞬だけ目を白黒させた。


 だが、すぐに分かった顔になった。


「寺の前じゃなくて?」


「寺の前だと遅い!」


 迅は木札を取り出した。


 瀬川から渡されたものだ。


 怪我人。


 子ども連れ。


 歩ける者。


 水を持てる者。


 四枚。


 迅はそれを松の根元に立てた。


 だが、人は木札を見ない。


 腹が減った人間は、文字を読まない。


 前だけを見る。


「止まってください!」


 迅が叫ぶ。


 誰も止まらない。


 声が飲まれる。


 昨日と同じだ。


 いや、昨日より悪い。


 寺の門が見えている分、人の目が前へ前へと伸びている。


 喜助が、近くの石を抱え上げた。


「迅、線!」


「え?」


「線引け! 沢の出口みたいに!」


 迅は地面を見た。


 泥は湿っている。


 木の枝で線が引ける。


 迅は枝を拾い、道を横切るように線を引いた。


 一本。


 二本。


 三本。


「ここから先、怪我人と子ども連れ!」


 喜助が叫ぶ。


「歩ける人は、右へ! 水を持てる人は左!」


「何で俺たちが後だ!」


 男が怒鳴る。


「寺に入れるんじゃないのか!」


「入れます!」


 迅は叫んだ。


「でも一度に入ったら、門で詰まります!」


「俺の母親は歩けねえ!」


「なら、こっちです!」


 迅は怪我人の木札を指した。


「歩けない人は先です!」


 別の女が叫ぶ。


「私は子を抱いてる!」


「こっち!」


 喜助が手を振る。


 女がそちらへ進む。


 その後ろで、梅吉(うめきち)がいた。


 腕の中の子は昨日より目を開けている。


 だが、まだ顔色は悪い。


 梅吉(うめきち)は迅を見つけると、苦い顔をした。


「またお前か」


「はい」


「今日は腹を膨らませてくれるのか」


 迅は答えに詰まった。


 言いたい言葉はあった。


 でも、どれも嘘になる。


「分かりません」


 梅吉(うめきち)の眉が動く。


「分からん?」


「足りないと思います」


 迅は言った。


「でも、崩れたらもっと届きません」


 梅吉(うめきち)は、しばらく迅を見た。


 怒鳴るかと思った。


 だが、梅吉(うめきち)は子を抱き直し、木札の方へ向かった。


「子の列は、こっちだな」


「はい」


「俺は待つ」


 迅は驚いた。


 梅吉(うめきち)は横目で迅を見る。


「その代わり、この子の椀は倒すな」


「……はい」


「倒したら怒る」


「はい」


 梅吉(うめきち)は鼻を鳴らした。


 味方になったわけではない。


 信じたわけでもない。


 それでも、列に入った。


 それだけで、少しだけ道が動いた。


 浄火寺(じょうかじ)の門の前では、蓮昭が僧兵たちに指示を出していた。


 昨日より木札が増えている。


 水場は二つに分けられていた。


 喜助の案だ。


 飲み水は井戸の左。


 椀を洗う水は右。


 火を消す水は、かまどの近くではなく、少し離した場所。


 赤松に言われたことを思い出し、迅は火と水の距離を見た。


 近すぎても危ない。


 遠すぎても間に合わない。


 火は便利なものではない。


 火は、人が見ていないと、すぐ人を裏切る。


 その時だった。


 列の後ろから、濁った声が上がった。


「寺の中に米を隠してるぞ!」


 迅は振り向いた。


 声の主は、痩せた男だった。


 名乗ってはいない。


 背中に破れたむしろを巻き、頬に泥がついている。


「昨日より煙が少ねえ。火を分けたってことは、奥で炊いてるんだ」


 周囲がざわつく。


「本当か?」


「中にあるのか?」


「門の中だけ食わせる気か?」


 迅の背中に冷たいものが走った。


 煙。


 火を分けたこと。


 昨日、自分たちが決めたことだ。


 煙を大きく見せないために。


 敵に人の数を悟らせないために。


 だが、それは避難民から見れば、米を隠しているようにも見える。


 正しい手が、別の不信を生む。


「違います!」


 迅は叫んだ。


「煙を大きくしないために、火を分けただけです!」


「なぜ大きくしない」


 男が返す。


「見られるからです!」


「誰に」


「敵に!」


「なら、敵が怖いから、俺たちに隠すのか」


 言葉が曲がる。


 迅は一瞬、息が止まった。


 違う。


 そうじゃない。


 でも、腹を減らした者の耳には、そう聞こえる。


 痩せた男は続けた。


「子どもが先。怪我人が先。歩ける者は待て。そう言って、待たせる。待っている間に、門の中の者が食う」


「違う!」


 喜助が叫んだ。


「昨日も半分ずつだった! 誰も腹いっぱいなんか食べてない!」


「お前は食ったのか」


 男の目が喜助へ向いた。


 喜助は言葉に詰まった。


 食っていない。


 でも、水は飲んだ。


 寺の中で動いていた。


 それだけでも、外で待つ者には違って見える。


 梅吉(うめきち)が一歩出た。


「おい」


 男が梅吉(うめきち)を見る。


「何だ」


「昨日、俺の子は粥をもらった」


「なら、お前はあっち側か」


 梅吉(うめきち)の顔が歪んだ。


「あっち側?」


「もらった者は黙る。もらえぬ者だけが待つ」


 周囲のざわめきが大きくなる。


 迅は、男の顔を見た。


 怒っている。


 だが、目が違う。


 腹を減らした者の目ではある。


 でも、それだけではない。


 言葉を選んでいる。


 人が怒る言葉を、選んで投げている。


「あなたは、どこの人ですか」


 迅が聞いた。


 男の目が、わずかに動いた。


「焼けた村の者だ」


「村の名は」


「……黒根村(くろねむら)だ」


 迅は聞いたことがなかった。


 だが、知らない村はいくらでもある。


「名前は」


嘉七(かしち)


 新しい名だった。


 嘉七(かしち)


 焼けた村の者。


 そう名乗る男。


 迅は、その名を胸の中に置いた。


 敵か。


 民か。


 それとも、敵に使われた民か。


 決められない。


 決められないまま、人は動いている。


 蓮昭が門から歩いてきた。


嘉七(かしち)と申したか」


 嘉七(かしち)は蓮昭を睨んだ。


「坊主は腹が減らんのか」


「減る」


 蓮昭は答えた。


「なら米を出せ」


「出せる分は出す」


「出せぬ分は隠すのか」


「出せぬ分は、ない」


 蓮昭の声は静かだった。


「ないものは、隠せぬ」


 その言葉に、列の一部が黙った。


 だが、すべてではない。


 ない。


 その言葉は、人を安心させない。


 むしろ、もっと怖くする。


 嘉七(かしち)が叫んだ。


「なら、なぜ門を分ける!」


 迅は息を吸った。


 蓮昭より先に、言った。


「門を守るためです」


 嘉七(かしち)が迅を見る。


「寺をか」


「違います」


 迅は震えながら言った。


「鍋を倒さないためです。子どもを踏ませないためです。水を汚さないためです。ここで押したら、粥も水もなくなります」


「なら、歩ける者は我慢しろと?」


「はい」


 言ってから、迅は自分の言葉の重さに気づいた。


 歩ける者は我慢しろ。


 それは、ひどい言葉だ。


 歩けるから平気なわけではない。


 歩ける者も腹が減る。


 歩ける者も倒れる。


 それでも。


「でも、ずっとじゃありません」


 迅は続けた。


「水を運べる人は、水を運んでください。薪を運べる人は、薪を運んでください。怪我人を支えられる人は、支えてください。そうした人から、次に回します」


 嘉七(かしち)が笑った。


「働けば食えると?」


「働かないと食わせない、ではありません」


 迅の声はかすれた。


「動ける人に、動いてもらわないと、動けない人まで届かないんです」


 蓮昭が迅を見た。


 喜助も見た。


 梅吉(うめきち)も、黙って見ていた。


 迅は怖かった。


 自分の言葉が、誰かを遠ざける気がした。


 それでも、言わなければならない。


 全員を同じ場所へ寄せれば、全員が崩れる。


 動ける者に、動いてもらう。


 それは助け合いに見える。


 だが、命令にも見える。


 民を守るとは、優しい言葉だけでは済まないのだと、迅は知った。


 蓮昭が杖を立てた。


「聞け」


 声が響いた。


「動ける者を軽んじるのではない。動ける者に頼む。水を運べ。薪を運べ。怪我人を支えよ。列を作れ。働いた者を先にするのではない。働けぬ者に届かせるために、働ける者の手を借りる」


 人々は黙った。


 納得したわけではない。


 だが、言葉の向きが少し変わった。


 命令ではなく、頼み。


 それでも、頼みは重い。


 梅吉(うめきち)が腕の子を近くの女に預けた。


「少し見ててくれ」


「え?」


「水桶を運ぶ」


 女が驚く。


 梅吉(うめきち)は迅を見た。


「俺は歩ける」


 迅は頷いた。


「お願いします」


「礼は言うな」


 梅吉(うめきち)はぶっきらぼうに言った。


「まだ腹は減ってる」


「はい」


「だが、子の椀を倒されるよりはましだ」


 梅吉(うめきち)は水桶へ向かった。


 それを見て、数人の男が動いた。


 薪を運ぶ者。


 怪我人を支える者。


 木札の横に立つ者。


 少しずつ、列が形を取り始める。


 嘉七(かしち)は、その様子を見ていた。


 目が細くなる。


 迅は気づいた。


 嘉七(かしち)は、列が整うことを喜んでいない。


 腹が減った民なら、少しでも粥に近づく道ができれば喜ぶはずだ。


 だが、嘉七(かしち)の口元は硬かった。


 その時、遠くから烈が走ってくるのが見えた。


 腕に布包みを抱えている。


「兄上!」


「烈!」


 烈は息を切らしながら、迅の前で止まった。


 膝に手をつく。


 だが、石包みは崩していない。


「小夜から……石です」


 迅は布包みを受け取った。


 ずしりとした。


 中身はただの石のはずなのに、道の重さがあった。


「瀬川様には?」


「これから。でも、途中で煙を見ました」


 烈は顔を上げた。


「寺の煙じゃありません。炭焼き道の方。細くて、すぐ消えました」


 迅の背中が冷えた。


 蓮昭も聞いていた。


 黒羽の者がまだ来ていない。


 つまり、炭焼き道の方で何かが動いている。


 嘉七(かしち)が、わずかに後ずさった。


 迅はそれを見た。


嘉七(かしち)さん」


 男の足が止まる。


「あなたは、炭焼き道から来ましたか」


 嘉七(かしち)は答えなかった。


 周囲の人々が嘉七(かしち)を見る。


「違う」


 少し遅れて、男は言った。


「俺は沢から来た」


 迅は、男の足元を見た。


 泥が乾いている。


 沢を通った泥ではない。


 黒い土。


 炭の混じったような土。


 小夜が石で示していた、村裏の道。


 炭焼き道。


 迅は叫びそうになった。


 だが、叫べなかった。


 ここで敵だと決めつければ、列が崩れる。


 民が民を疑い始める。


 それこそ、敵の狙いかもしれない。


 蓮昭が静かに言った。


嘉七(かしち)。そなたも水を運べ」


 嘉七(かしち)の目が蓮昭へ向く。


「なぜ俺が」


「歩けるからだ」


「俺は」


「歩ける者には頼む。先ほど、そう言った」


 嘉七(かしち)は歯を食いしばった。


 逃げれば疑われる。


 残れば水桶を持たされる。


 列を崩す言葉を投げるには、手が塞がる。


 迅は、蓮昭の横顔を見た。


 裁くのではない。


 順を作る。


 昨日の言葉が胸に戻った。


 順は、人を助けるだけではない。


 人を暴れさせない鎖にもなる。


 嘉七(かしち)は、渋々水桶へ向かった。


 その時だった。


 寺の中から、子どもの泣き声が上がった。


 高い声。


 続いて、女の悲鳴。


「椀が!」


 迅は振り向いた。


 門の内側で、小さな混乱が起きている。


 子どもに渡されるはずだった椀が、一つ、誰かの手に奪われた。


 薄い粥がこぼれ、土に白く広がる。


 女が倒れかけた子を抱きしめている。


 僧兵が走る。


 喜助が水桶を置いて駆け出す。


 蓮昭の顔が険しくなる。


 迅は一瞬、嘉七(かしち)を見た。


 嘉七(かしち)は水桶の前にいた。


 手は空いていない。


 なら、奪ったのは別の者だ。


 敵か。


 民か。


 飢えか。


 迅の足が動いた。


 寺の門へ走る。


 背後で、烈が叫ぶ。


「兄上!」


 迅は振り返らなかった。


 門の中で、粥の匂いが土の匂いに混ざっていた。


 一つの椀。


 昨日、命をつないだはずの椀。


 それが今、誰かの怒りを燃やす火になろうとしていた。


 浄火寺(じょうかじ)の煙は、朝の空へ細く上がっている。


 その煙の向こうで、誰かがこちらを見ている気がした。


     *


 右の林の奥。


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、膝をついて土を触っていた。


 湿っている。


 だが、足跡は読める。


 寺へ向かう足。


 寺から戻る足。


 水を運んだ足。


 走った子どもの足。


 そして、途中で引き返した足。


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が、薄く笑う。


「崩れましたかね」


「まだだ」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は答えた。


「少し、揺れただけだ」


「なら、次は?」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、浄火寺(じょうかじ)の煙を見た。


 昨日より細い。


 だが、消えてはいない。


「火を消すには、火を投げるだけでは足りぬ」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)が首を傾げる。


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は言った。


「火を守る者の手を、別の火で塞げばいい」


 風が吹いた。


 煙が揺れる。


 その先には、寺と民と道がある。


 そして、その中で走る少年がいる。


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、その姿までは見えていない。


 だが、道がまだ崩れきらない理由を、薄々感じ始めていた。


(ひうち)には、妙な目がある」


「物見ですか」


「いや」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は立ち上がった。


「物見だけではない。腹を減らした民の中で、道を見ている者がいる」


 鹿部市之助(ししべいちのすけ)の笑みが少し消えた。


「斬りますか」


「まだいい」


 岩貫弥惣(いわぬきやそう)は、煙から目を離さなかった。


「道を守る者は、道が増えるほど手が足りなくなる」


 その声は、低く冷たかった。


「次は、二つ同時に揺らす」


     *


 浄火寺(じょうかじ)の門の中で、迅は土にこぼれた粥を見ていた。


 白く濁った粥が、泥に吸われていく。


 ほんの半椀。


 それでも、誰かの一日になったかもしれないもの。


 それが、土に消えていく。


 迅の耳には、まだ子どもの泣き声が残っていた。


 奪った者は、人混みの中へ逃げた。


 誰かが追おうとする。


 僧兵が怒鳴る。


 梅吉(うめきち)が子を抱き寄せる。


 嘉七(かしち)が水桶のそばで固まっている。


 喜助はこぼれた椀を拾い、何度も何度も袖で拭いている。


 烈は門の外で、石包みを抱えたまま立っている。


 蓮昭は、杖を握りしめていた。


 その顔には、怒りだけではないものがあった。


 悲しみ。


 悔しさ。


 そして、決めなければならない者の顔。


「迅」


 蓮昭が言った。


「はい」


「見たか」


 迅は、こぼれた粥から目を逸らせなかった。


「見ました」


「なら、持ち帰れ」


 迅は顔を上げた。


「誰が奪ったか、だけではない」


 蓮昭の声は静かだった。


「なぜ奪えたかを、持ち帰れ」


 迅は、息をのんだ。


 なぜ奪えたか。


 椀が少なかったから。


 列が近かったから。


 門の内側にも隙があったから。


 腹が減っていたから。


 不満があったから。


 誰かが言葉で揺らしたから。


 敵がいたから。


 民がいたから。


 全部だった。


 迅は拳を握った。


 怖かった。


 答えが一つではないことが、怖かった。


 敵だけを斬れば終わるなら、どれほど楽だろう。


 盗んだ者だけを罰すれば済むなら、どれほど簡単だろう。


 でも、そうではない。


 米も。


 水も。


 道も。


 火も。


 人の腹も。


 全部がつながって、椀は奪われた。


 迅は、土に消えていく粥を見つめた。


 昨日、米俵ひとつは命をつないだ。


 今日、椀ひとつが道を崩しかけた。


 守るとは、届かせることだけではない。


 届く前に奪われぬようにすることでもある。


 迅は、震える声で答えた。


「持ち帰ります」


 蓮昭は頷いた。


「なら、まだ崩れておらぬ」


 寺の外では、まだ人が並んでいる。


 煙は細く上がっている。


 水桶は重い。


 椀は足りない。


 それでも、列は完全には崩れていない。


 誰かが支えている。


 誰かが見ている。


 誰かが、腹を減らしたまま水を運んでいる。


 名もなき者たちの手が、細い火を守っていた。


 だが、火を守る手は少なく、風は一つではなかった。

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