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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第12話】一俵の重さ

 懐を探った。


 火守小夜(ひもりさよ)の布包みがある。


 中の小石は、まだ崩れていない。


 右の林。

 煙。

 沢の出口。

 荷駄道。


 そして、迅が足した二つの石。


 落ちた米俵。

 怪我をした辰五郎(たつごろう)


 全部を守ることはできなかった。


 そのことが、石にするとよく分かった。


 どこかを動かせば、別のどこかが空く。

 誰かを助ければ、別の誰かが危うくなる。


 火守小夜(ひもりさよ)は、こんなふうに見ていたのだろうか。


「起きてるか」


 声がした。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)だった。


 迅は慌てて体を起こした。


「はい」


「評定だ」


 迅は顔をしかめた。


「またですか?」


「まただ」


「俺、沢の出口に行くんじゃ」


「その前に聞くことがある」


「嫌な予感しかしません」


「当たっている」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は、まったく悪びれずに言った。


 迅は、喜助(きすけ)火守烈(ひもりれつ)を見た。


「二人は?」


喜助(きすけ)は沢の出口へ先に行かせる。火守烈(ひもりれつ)は残す」


「烈を?」


「昨日、現場を見ている。火守小夜(ひもりさよ)の知らせを運んだ。水桶も運んだ」


「水桶も評定に入るんですか?」


「入る」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は短く言った。


「戦は水桶でも崩れる」


 迅は何も言えなかった。


 横で火守烈(ひもりれつ)が目を開けた。


「兄上……何かあったのですか?」


「評定だってさ」


 火守烈(ひもりれつ)は一瞬で起き上がった。


「俺も行くのですか?」


「らしい」


 火守烈(ひもりれつ)の顔に、緊張と期待が同時に浮かんだ。


 迅はそれを見て、少しだけ嫌な気持ちになった。


 評定に呼ばれることは、褒められることではない。


 何かを見た者が、その重さを持っていく場所だ。


 それを、火守烈(ひもりれつ)はまだ知らない。


     *


 評定の間には、昨日よりも強い疲れがあった。


 上座には燧景胤(ひうちかげたね)


 その前に、真木重頼(まきしげより)倉橋正継(くらはしまさつぐ)坂部角兵衛(さかべかくべえ)黒羽甚内(くろばじんない)鷹見左近(たかみさこん)赤松弥八(あかまつやはち)が並んでいる。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)も端に座った。


 迅と火守烈(ひもりれつ)は、入口に近いところへ座らされた。


 そして、部屋の端には、肩に厚く布を巻いた辰五郎(たつごろう)がいた。


 顔色は悪い。


 それでも、座っている。


 座っているだけで痛いはずなのに、背中は丸めていない。


 迅が目を向けると、辰五郎(たつごろう)は片目だけでこちらを見た。


「見るな。痛くなる」


「すみません」


「謝るともっと痛い」


「どうすればいいんですか?」


「黙れ」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が低く笑った。


 場の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが、燧景胤(ひうちかげたね)が口を開くと、すぐに静かになった。


「昨日の荷駄道の件を整理する」


 燧景胤(ひうちかげたね)の声は、昨日よりも低かった。


坂部角兵衛(さかべかくべえ)


「はい」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が前へ出る。


「本命の荷駄は、枯れ沢(かれさわ)の手前で煙に巻かれました。濡れ草を燃やした煙です。牛が右へ流れ、先導が道を誤りかけました。敵は林の上から石と矢。数は十ほど。深くは押してきていません」


 黒羽甚内(くろばじんない)が続けた。


「敵は荷駄を奪うより、進路を乱すことを狙ったと見ます。火薬箱を狙える位置にはいましたが、取りには来ていない。見て、乱して、退く。これまでと同じです」


 赤松弥八(あかまつやはち)が顔をしかめた。


「火薬箱が無事だったのは、たまたまか?」


「敵が火薬と知らなかった可能性があります」


 黒羽甚内(くろばじんない)は答えた。


「あるいは、知っていても取りに来なかった。こちらを焦らせる方を選んだのかもしれません」


 鷹見左近(たかみさこん)が低く言った。


「敵の狙いは、荷の破壊ではなく、こちらの判断を乱すことか」


「その可能性が高い」


 真木重頼(まきしげより)が地図を広げた。


 地図の上には、昨日の荷駄の道筋が描かれている。


 沢の出口。

 右の林。

 枯れ沢。

 荷駄道。

 赤土峠(あかつちとうげ)へ向かう道。


 そこに、黒い石がいくつか置かれていた。


 敵がいたと見られる場所。


 そして、白い石が二つ。


 落ちた米俵。


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)は、その白い石をじっと見ていた。


「米俵二つ」


 声は静かだった。


 だが、部屋の中でやけに重く響いた。


「数字だけなら、小さく見えるかもしれません。しかし、今の城では小さくありません。粥にすれば、何十人もの腹をつなげます。赤土峠(あかつちとうげ)へ送れば、半日を支えます」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が腕を組む。


「だが、取りに行けば危ない」


「分かっています」


「敵がそれを待っている可能性がある」


「分かっています」


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)は、坂部角兵衛(さかべかくべえ)を見た。


「それでも、米は戻りません」


 部屋が静まった。


 迅は、白い石を見ていた。


 米俵二つ。


 昨日、落ちたもの。


 拾いに行けば危ない。

 拾いに行かなければ、食べられない人が出るかもしれない。


 火守烈(ひもりれつ)も隣で地図を見ている。


 顔が強張っていた。


 たぶん、思っていた評定とは違うのだろう。


 敵を倒す話ではない。


 米を拾うかどうかの話。


 だが、この場の誰も、それを軽く見ていない。


 真木重頼(まきしげより)が言った。


「選ぶ道は三つだ」


 まただ、と迅は思った。


 評定はいつも、嫌な道を並べる。


「一つ。米俵を捨てる。安全だが、兵糧を失う」


 真木重頼(まきしげより)の指が、地図の白い石を越える。


「二つ。小勢で回収に向かう。速いが、伏せられていれば危ない」


 指が、右の林を指す。


「三つ。米俵を(おとり)として見る。敵が取りに来るか、近づくかを確かめる」


 辰五郎(たつごろう)が、低く言った。


「米を囮にするのですか」


 真木重頼(まきしげより)は、辰五郎(たつごろう)を見た。


「そうだ」


「人が担いだ米です」


「分かっている」


「落としたのは俺たちです」


「責めてはいない」


「責められた方が、まだ楽ですな」


 辰五郎(たつごろう)の声には、怒りよりも苦さがあった。


「米を落としました。怪我も出しました。その米を取りに行くなと言われるのは、荷を運ぶ者にはきつい」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が目を伏せた。


辰五郎(たつごろう)


「分かっております。俺が行ける体ではないことも、敵が待っているかもしれないことも」


 辰五郎(たつごろう)は、痛みに顔を歪めながら続けた。


「だが、米俵二つを、ただ敵にくれてやるのは腹が立つ」


 火守烈(ひもりれつ)が、思わず顔を上げた。


 迅はそれに気づいた。


 火守烈(ひもりれつ)の中で、何かが動いている。


 敵にくれてやるな。

 取り返せ。

 戦え。


 その気持ちは、分かる。


 だが、この場の誰もすぐにそう言わない。


 燧景胤(ひうちかげたね)は、しばらく黙っていた。


 それから、倉橋正継(くらはしまさつぐ)に聞く。


「米俵二つを失った場合、赤土峠(あかつちとうげ)への影響は」


「今日だけなら、他を薄めれば持ちます。ですが、避難民の増加が続けば、三日後に響きます」


「城内は」


「粥はさらに薄くなります。兵より先に民から不満が出るでしょう」


 燧景胤(ひうちかげたね)は、次に黒羽甚内(くろばじんない)を見た。


「米俵の周囲に敵が伏せている可能性は」


「あります」


「どれほど」


「昨日の敵は退き際(ひきぎわ)が速い。足跡も消し方を知っています。米俵をそのままにしたのは、こちらを誘うためかもしれません。逆に、慌てて退いて置いていっただけかもしれません」


「つまり、分からぬか」


「はい」


 黒羽甚内(くろばじんない)は、はっきりと言った。


「分からぬから見ます」


 鷹見左近(たかみさこん)が言う。


「見るために誰を出す」


 部屋の空気が、少し変わった。


 誰を出すか。


 それは、誰を危険に近づけるか、という意味だった。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が口を開いた。


「足軽を二人。物見を一人。荷を担げる人足を一人。合わせて四人で足ります」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が首を横に振った。


「人足を出すなら、うちから出す」


 辰五郎(たつごろう)がすぐに言った。


「俺が」


「お前は座っていろ」


「片腕は動きます」


「邪魔だ」


「荷駄頭殿」


「邪魔だと言った」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)の声が、鋭くなった。


 辰五郎(たつごろう)は黙った。


 悔しそうだった。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、燧景胤(ひうちかげたね)へ向き直る。


「人足は藤吉(とうきち)を出します。昨日、落ちた米俵の位置を見ています。足は速い。荷も担げる」


 新しい名前だった。


 迅は、その名を覚えようとした。


 藤吉(とうきち)


 また、誰かが危ない場所へ行く。


 燧景胤(ひうちかげたね)は、静かに言った。


黒羽甚内(くろばじんない)


「はい」


「回収ではなく確認を第一とする。敵が伏せていれば戻れ。米俵のひとつだけ取れるなら取れ。二つにこだわるな」


「承知」


瀬川源次郎(せがわげんじろう)


「はい」


「沢の出口は崩すな」


「承知」


坂部角兵衛(さかべかくべえ)


「はい」


藤吉(とうきち)には、危険を伝えよ。米を取り戻すためではなく、まず生きて戻るために行かせる」


「承知しました」


 燧景胤(ひうちかげたね)は、そこで火守烈(ひもりれつ)を見た。


 火守烈(ひもりれつ)の背が伸びる。


火守烈(ひもりれつ)


「はい」


「昨日、火守小夜(ひもりさよ)の知らせを運んだと聞いた」


「はい」


「今日も走れるか」


 火守烈(ひもりれつ)の目が光った。


「走れます」


 迅は思わず口を開きかけた。


 だが、燧景胤(ひうちかげたね)は続けた。


「米俵の回収には行かせない」


 火守烈(ひもりれつ)の顔が止まる。


「お前は沢の出口に行け。昨日と同じく、水と子どもを見ろ」


「……はい」


 声に悔しさがにじんだ。


 燧景胤(ひうちかげたね)は、それを責めなかった。


「槍を持って敵へ走る者は多い。だが、水を持って民の間を走れる者も要る」


 火守烈(ひもりれつ)は、唇を噛んだ。


 返事はしなかった。


 代わりに、深く頭を下げた。


 迅は、その横顔を見た。


 火守烈(ひもりれつ)は、まだ納得していない。


 だが、昨日より少しだけ、逃げてはいない顔だった。


 最後に、燧景胤(ひうちかげたね)は迅を見た。


「火守迅」


「はい」


「お前は沢の出口に立て。米俵の知らせが来ても、動くな。火守烈(ひもりれつ)を見ろ。喜助(きすけ)を見ろ。民を見ろ」


「はい」


「ただし、火守小夜(ひもりさよ)のような知らせがあれば、迷わず渡せ」


「はい」


「見たものは、小さくても捨てるな」


 迅は、小さく頭を下げた。


「はい」


     *


 藤吉(とうきち)が荷駄置き場に現れたのは、評定のすぐ後だった。


 藤吉(とうきち)は、辰五郎(たつごろう)よりもずっと若い。


 二十歳を少し過ぎたくらいに見える。


 体は細いが、足首が強そうだった。

 荷を担ぐというより、山道を走る者の足だ。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が声をかける。


藤吉(とうきち)


「はい」


「落ちた米俵を見に行く。取りに行くんじゃない。まず見る」


 藤吉(とうきち)はうなずいた。


「でも、取れそうなら取るんですよね」


「ひとつだけだ」


「二つ見えたら」


「ひとつだけだ」


「もったいない」


「命の方が高い」


 藤吉(とうきち)は少し笑った。


「荷駄頭殿がそれを言うと、重いですね」


「茶化すな。怖いならやめてもいい」


「怖いです」


 藤吉(とうきち)は即答した。


「でも、昨日落とした米のうち、一つは俺が積んだやつです。見てきます」


 辰五郎(たつごろう)が片手を上げた。


藤吉(とうきち)


「はい」


「米俵を見たら、縄の結び目を見ろ」


「結び目?」


「あれは俺が結んだ。切られていたら敵が触った。ほどけていたら、落ちた時に緩んだだけだ」


 藤吉(とうきち)の顔が変わった。


「分かりました」


「あと、濡れていたら無理に担ぐな。水を吸った米俵は、思ったより重い」


「はい」


「お前はすぐ欲張る」


辰五郎(たつごろう)さんに言われたくないです」


「俺はいい」


「ずるい」


 短いやり取りだった。


 だが、迅は見ていた。


 辰五郎(たつごろう)は怪我をしている。

 藤吉(とうきち)が代わりに行く。

 でも、ただ代わるだけではない。


 結び目。

 濡れ米(ぬれごめ)の重さ。

 落ちた時の形。


 荷を知る者にしか見えないものがある。


 迅はまた一つ、知らない戦を見た気がした。


     *


 沢の出口では、いつもと同じように人が来ていた。


 いつもと同じ。


 その言葉が、少し怖かった。


 戦が近づいても、荷駄が襲われても、米俵を取りに行く者がいても、民は逃げてくる。


 怪我人は出る。

 子どもは泣く。

 老人は座り込む。

 水は足りなくなる。


 迅は声を出した。


「怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから浄火寺(じょうかじ)へ!」


 喜助(きすけ)が水桶を運ぶ。


 火守烈(ひもりれつ)もその横を走る。


 昨日より、少しだけ水をこぼさなくなっていた。


「烈、走りすぎるな!」


 迅が叫ぶ。


「こぼしてません!」


「中身じゃなくて、お前が転ぶ!」


「転びません!」


 言った瞬間、火守烈(ひもりれつ)の足が泥に取られた。


 水桶が傾く。


 喜助(きすけ)が横から支えた。


「転ばない人は、だいたい転ぶ!」


「うるさい!」


「水桶は敵より手強いぞ」


「分かってきた!」


 避難民の一人が、疲れた顔で笑った。


 迅はそれを見て、また少しだけ救われた気がした。


 蓮昭(れんしょう)浄火寺(じょうかじ)へ向かう列を見ていた。


 その目は、今日は右の林よりも、民の顔を見ている。


「火守」


 蓮昭(れんしょう)が声をかけた。


「はい」


「あの老人、熱がある」


 迅はすぐに見た。


 確かに、足元がふらついている。


喜助(きすけ)!」


「はい!」


「あの人、右へ!」


 喜助(きすけ)が走る。


 火守烈(ひもりれつ)も続きかけたが、迅が止めた。


「烈は水!」


「でも」


「役目を混ぜるな!」


 火守烈(ひもりれつ)は歯を食いしばった。


 だが、止まった。


 水桶を持って、子ども連れの方へ向かう。


 迅は胸の奥で息を吐いた。


 言っている自分も、まだ分かっていない。


 役目を混ぜるな。

 見たいものを見るな。

 追うな。


 全部、自分が言われてきたことだ。


 それを、今度は火守烈(ひもりれつ)に言っている。


 戦は嫌なものを人に移していくのかもしれない。


 そう思った。


     *


 昼前。


 最初の伝令が来た。


 米俵の回収に向かった小隊からだった。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が受ける。


「報告」


「米俵二つを確認。一つは枯れ沢の脇。もう一つは右の斜面下。周囲に敵影なし。ただし、斜面下の俵には矢が一本刺さっております」


「矢?」


「はい。目印かもしれません」


 迅は、耳だけそちらへ向けていた。


 目印。


 敵が触ったということか。


 それとも、こちらに触らせるためのものか。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が聞く。


藤吉(とうきち)は」


「枯れ沢脇の俵だけ担ぐと申しています。もう一つは危ないと」


「よし。戻らせろ」


「はっ」


 伝令は走っていった。


 迅は、思わず瀬川源次郎(せがわげんじろう)を見た。


「一つだけですか」


「一つだけだ」


「もう一つは」


「捨てる」


 言葉は短かった。


 だが、重かった。


 捨てる。


 米俵を。


 何十人もの腹をつなぐものを。


「取りに行かないんですか?」


「行かない」


「でも」


「矢が刺さっている。敵が触った可能性がある。そこに伏せ場があるかもしれん」


「ただの矢かもしれない」


「そうだ」


「なら」


「ただの矢ではないかもしれない」


 迅は言葉を飲み込んだ。


 分かっている。


 分かっているのに、腹の奥が納得しない。


 米を捨てる。


 怖いから。


 危ないから。


 誰かを守るために、誰かの食べ物を捨てる。


 そんなことがあるのか。


 あるのだ。


 迅は、また知ってしまった。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は、少しだけ声を落とした。


「火守。今、お前が沢の出口を離れても、米俵は戻らん」


「……はい」


「戻るものと、戻らぬものを間違えるな」


 迅は、縄を握った。


 手のひらが痛い。


「はい」


     *


 その頃、枯れ沢の脇で、藤吉(とうきち)は米俵を見ていた。


 足軽二人。

 物見一人。

 そして、藤吉(とうきち)


 四人は、声を潜めている。


 枯れ沢には、水はほとんど流れていない。

 ただ、石が多く、足音が響きやすい。


 米俵は、思ったより泥をかぶっていた。


 ひとつは沢の脇。

 もうひとつは、少し離れた斜面下。


 斜面下の俵には、矢が一本刺さっている。


 まるで、ここだと言っているようだった。


 足軽の一人が小声で言う。


「二つ取れるか」


 藤吉(とうきち)は首を横に振った。


「無理です」


「敵はいない」


「見えないだけです」


 藤吉(とうきち)は、辰五郎(たつごろう)に言われた結び目を見た。


 沢の脇の俵は、縄が泥で汚れている。

 だが、切られてはいない。


 落ちた時に緩んだだけだ。


 斜面下の俵は、遠目にも分かった。


 結び目の向きが変わっている。


 誰かが触っている。


「斜面下はやめます」


「米だぞ」


「知ってます」


「持てば戻れる」


「戻れないかもしれない」


 足軽は黙った。


 藤吉(とうきち)は、自分でも驚くほど声が震えていないことに気づいた。


 怖い。


 足は震えている。


 でも、手は動く。


 米俵に近づき、縄を掴む。


 水を吸っている。


 重い。


 思ったより重い。


「濡れ米は、ほんとに重いな」


 小さくつぶやいた。


 辰五郎(たつごろう)の言った通りだった。


 藤吉(とうきち)は、俵を肩に担いだ。


 肩に食い込む。


 息が詰まる。


 その時、斜面の上で小石が落ちた。


 足軽が槍を構える。


 物見が手を上げる。


 音を立てるな、という合図だった。


 藤吉(とうきち)は、斜面下の米俵を見なかった。


 見れば、欲しくなる。


 欲しくなれば、足がそちらへ向く。


 足が向けば、死ぬかもしれない。


 見ない。


 沢の出口の少年も、昨日そうしたのだろうか。


 見たいものを見ない。


 自分の肩には、ひとつだけ米がある。


 それだけで戻る。


 藤吉(とうきち)は、ゆっくりと足を戻した。


     *


 沢の出口に、二度目の伝令が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 伝令は息を切らしていたが、顔は明るかった。


「米俵一つ、回収。藤吉(とうきち)、無事に戻りました」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)がうなずいた。


「もう一つは」


「斜面下に残しました。矢が刺さっていた俵です。黒羽甚内(くろばじんない)殿が、触るなと」


「分かった」


 迅は、胸の奥で息を吐いた。


 一つ戻った。


 一つ残した。


 喜んでいいのか、悔しがるべきなのか分からない。


 火守烈(ひもりれつ)は水桶を持ったまま、こちらを見ていた。


「兄上」


「何」


「一つは戻ったんですよね」


「ああ」


「もう一つは」


「残した」


「取りに行けないんですか?」


「行かない」


 火守烈(ひもりれつ)は悔しそうに目を伏せた。


「米なのに」


「米だからだ」


「どういう意味ですか?」


「米を取りに行って人が死んだら、もっと失う」


 迅は、自分で言って胸が痛くなった。


 本当にそうなのか。


 言葉としては正しい。


 でも、腹は痛い。


 火守烈(ひもりれつ)はしばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「水桶も、全部は運べません」


 迅は火守烈(ひもりれつ)を見た。


「さっき、子どもに水を渡したら、後ろの人に足りなくなりました」


 火守烈(ひもりれつ)の手は、水桶の取っ手を握っている。


 指が赤くなっていた。


「だから、半分ずつにしました。怒られるかと思いました」


「誰に?」


「兄上に」


「怒らない」


「本当ですか?」


「たぶん」


「たぶんですか?」


「俺も分からないんだよ」


 火守烈(ひもりれつ)は、少しだけ笑った。


 だが、すぐに真顔になった。


「全部は、無理なんですね」


 迅は答えられなかった。


 代わりに、沢の出口を見た。


 人はまだ来る。

 水は限られている。

 米も限られている。

 人手も限られている。


 全部は無理。


 それを認めたくないのに、認めなければ誰かが死ぬ。


「でも」


 迅は言った。


「運べるものを落とすな、って言われた」


「誰にですか?」


辰五郎(たつごろう)さん」


 火守烈(ひもりれつ)はうなずいた。


「それなら、俺は水を落とさないようにします」


「頼む」


「少しはこぼします」


「そこは頑張れ」


「水は揺れるんです」


「知ってる」


 兄弟は、短く笑った。


 それは戦場に似合わない笑いだった。


 でも、その笑いがあったから、次の声が出た。


「怪我人は右! 歩ける人は左! 水は順番です!」


 迅と火守烈(ひもりれつ)の声が、少しだけ重なった。


     *


 夕方、藤吉(とうきち)が戻ってきた米俵は、荷駄置き場に置かれた。


 濡れていた。


 泥もついていた。


 だが、米は米だった。


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)の配下がすぐに中を確認する。


 濡れた部分を分ける。

 使える部分を分ける。

 早く炊くべきものを分ける。


 米俵は、戻った瞬間からまた仕事になった。


 藤吉(とうきち)は、地面に座り込んでいた。


 顔は真っ白だった。


 迅が近づくと、藤吉(とうきち)は顔を上げた。


「沢の出口の火守か」


「はい」


辰五郎(たつごろう)さんが、見てこいって」


「俺を?」


「米を」


「ああ」


 藤吉(とうきち)は苦笑した。


「一つしか持って帰れませんでした」


「一つ戻りました」


「もう一つ、見えてたんです」


「はい」


「見えてるのに、背を向けるのは嫌ですね」


 迅は黙った。


 その言葉は、よく分かった。


 見えているのに、行かない。


 見えているのに、戻る。


 それは、何も見えないよりきつい。


「でも、戻ったんですよね」


 迅は言った。


 藤吉(とうきち)は少しだけ目を伏せた。


「戻りました」


「なら、運べるものは落としてないです」


 藤吉(とうきち)は、しばらく黙っていた。


 それから、小さく笑った。


辰五郎(たつごろう)さんみたいなこと言いますね」


「嫌ですね」


「嫌ですか?」


「はい」


 二人は少しだけ笑った。


 そこへ、辰五郎(たつごろう)が来た。


 肩に布を巻いたまま、ゆっくり歩いている。


「寝てろと言われたんじゃないんですか?」


 迅が言うと、辰五郎(たつごろう)は顔をしかめた。


「お前まで言うな」


 辰五郎(たつごろう)は、濡れた米俵を見た。


「戻ったか」


 藤吉(とうきち)が頭を下げる。


「ひとつだけです」


「上出来だ」


「もうひとつは」


「捨てたんだろ」


「はい」


「なら、それも上出来だ」


 藤吉(とうきち)は顔を上げた。


 辰五郎(たつごろう)は、戻った米俵に手を置いた。


「荷を運ぶ者は、持ちすぎたら死ぬ。死ねば、次の荷が運べねえ」


 声は荒い。


 でも、優しかった。


「今日はこれでいい」


 藤吉(とうきち)は、唇を噛んだ。


「はい」


 迅は、その二人を見ていた。


 米俵一つ。


 戻ったもの。


 戻らなかったもの。


 その違いが、こんなに人の顔を変えるのだと知った。


     *


 夜の評定は、短くは終わらなかった。


 戻った米俵の扱い。

 残した米俵の位置。

 敵が矢を刺した理由。

 明日の荷駄の道。

 沢の出口の人数。

 煤谷村(すすたにむら)から来た火守小夜(ひもりさよ)の知らせ。


 すべてが話に上がった。


 迅と火守烈(ひもりれつ)も、また呼ばれていた。


 火守烈(ひもりれつ)は、朝よりも緊張していなかった。


 代わりに、疲れた顔をしている。


 水桶を運ぶことが、思ったより戦だったのだろう。


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)が、戻った米について報告した。


「濡れた部分は今夜中に炊き出しへ回します。乾いた部分は明日の朝までに使い分けます。赤土峠(あかつちとうげ)へ送るには向きません」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が言う。


「なら、沢の出口へ回せ」


「そのつもりです。濡れた米は長く持ちません。避難民の粥にします」


 燧景胤(ひうちかげたね)がうなずいた。


「戻った米は、民の腹へ」


「はい」


 迅は、その言葉を聞いて、胸の中が少しだけ軽くなった。


 戻った米俵は、誰かの腹へ行く。


 それなら、藤吉(とうきち)が担いだ意味はある。


 真木重頼(まきしげより)が地図を見た。


「残した米俵はどうする」


 黒羽甚内(くろばじんない)が答える。


「夜のうちに物見を置きます。敵が回収に来るか、こちらが来るのを待つかを見る」


「敵が米を奪うなら」


「追いません。数と退き道を見ます」


 火守烈(ひもりれつ)が、思わず口を開いた。


「追わないのですか?」


 部屋の視線が火守烈(ひもりれつ)に向く。


 迅は少し焦った。


 だが、燧景胤(ひうちかげたね)が静かに言った。


「なぜ追いたい」


 火守烈(ひもりれつ)は一瞬詰まり、それでも答えた。


「米を取られるのが悔しいからです」


「そうだな」


 燧景胤(ひうちかげたね)はうなずいた。


「私も悔しい」


 火守烈(ひもりれつ)は驚いた顔をした。


 当主が、悔しいと言うとは思っていなかったのだろう。


 燧景胤(ひうちかげたね)は続けた。


「だが、悔しさで追えば、敵の望む場所へ入ることになる。今は、敵がどこから来てどこへ退くかを知りたい」


 黒羽甚内(くろばじんない)が補足した。


「米俵ひとつで、敵の道が見えるなら安い」


 倉橋正継(くらはしまさつぐ)が苦い顔をした。


「米を安いと言われるのは困りますが」


「言い方の問題です」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)がぼそりと言った。


黒羽甚内(くろばじんない)殿はいつも言い方が悪い」


「事実です」


「そういうところだ」


 場に、わずかな苦笑が広がった。


 だが、すぐに燧景胤(ひうちかげたね)が話を戻す。


火守小夜(ひもりさよ)の知らせについて」


 迅の背が伸びる。


 燧景胤(ひうちかげたね)は迅を見た。


「昨日の煙の位置を、火守小夜(ひもりさよ)は村から見た。今日、その知らせで右の林の濡れ草の跡が見つかった」


「はい」


火守小夜(ひもりさよ)は、村にいるのだな」


「はい」


黒羽甚内(くろばじんない)


「はい」


煤谷村(すすたにむら)周辺の煙、山道、逃げ道についても、村の者から話を聞け。火守小夜(ひもりさよ)だけに背負わせるな」


 迅は、少しだけほっとした。


 火守小夜(ひもりさよ)だけに背負わせるな。


 その言葉がありがたかった。


 火守小夜(ひもりさよ)はよく見る。


 でも、十一歳だ。


 何でも見えてしまうことは、きっと軽くない。


 燧景胤(ひうちかげたね)は続けた。


火守烈(ひもりれつ)


「はい」


「お前は明日、村へ戻る」


 火守烈(ひもりれつ)が顔を上げた。


「戻るのですか?」


火守小夜(ひもりさよ)の知らせを受けた礼を伝えよ。そして、村で見た煙や人の動きを、瀬川源次郎(せがわげんじろう)へ伝える役になれ」


「俺が、ですか?」


「戦う役ではない」


 火守烈(ひもりれつ)の顔に、また悔しさが浮かんだ。


 だが、燧景胤(ひうちかげたね)は静かに言った。


「だが、必要な役だ」


 火守烈(ひもりれつ)は黙った。


 しばらくして、頭を下げた。


「承知しました」


 その声は、朝より少しだけ低かった。


 迅は、火守烈(ひもりれつ)を見た。


 弟は、槍を持って戦うことだけを見ていた。


 だが、今日、水桶を運び、火守小夜(ひもりさよ)の知らせを届け、評定で米俵の話を聞いた。


 その目は、少し変わっていた。


 真木重頼(まきしげより)が最後に言った。


「明日は、赤土峠(あかつちとうげ)へ向ける荷駄をさらに細かく分ける。沢の出口は継続。右の林は見張りを増やす。残した米俵は、敵の動きを見るために使う」


 燧景胤(ひうちかげたね)がうなずく。


「勝ったとは言わぬ」


 部屋が静まる。


「だが、今日、戻った米がある。戻った者がいる。失ったものもある。そのすべてを忘れず、明日に使う」


 迅は、評定の床を見た。


 戻った米。

 戻らなかった米。

 戻った藤吉(とうきち)

 怪我をした辰五郎(たつごろう)

 水をこぼした火守烈(ひもりれつ)

 それでも林に入らなかった子ども。


 全部を明日に使う。


 そんなことができるのだろうか。


 分からない。


 けれど、この場の者たちは、それをしようとしていた。


     *


 その夜、迅は小石を並べ直した。


 火守小夜(ひもりさよ)の布包みの上に、今日の分を足す。


 戻った米俵。

 残した米俵。

 藤吉(とうきち)

 辰五郎(たつごろう)

 水桶を持つ火守烈(ひもりれつ)

 沢の出口。

 浄火寺(じょうかじ)への道。


 小石は増えていく。


 増えるほど、分からなくなる。


 けれど、増えるほど、見えるものもあった。


 ひとりではない。


 自分だけではない。


 火守小夜(ひもりさよ)の目があり、火守烈(ひもりれつ)の足があり、藤吉(とうきち)の肩があり、辰五郎(たつごろう)の結び目があり、倉橋正継(くらはしまさつぐ)の帳面があり、坂部角兵衛(さかべかくべえ)差配(さはい)があり、燧景胤(ひうちかげたね)の判断がある。


 それでも、落ちるものはある。


 戻らないものもある。


 迅は、残した米俵の石を見つめた。


 それを捨てたとは、まだ思えなかった。


 ただ、置いてきた。


 明日のために。


 誰かを死なせないために。


 それが正しいのかは分からない。


 分からないまま、進むしかない。


 隣で、喜助(きすけ)が寝返りを打った。


「迅……水桶……こぼすな……」


 寝言だった。


 迅は思わず笑いそうになった。


 少し離れたところで、火守烈(ひもりれつ)も眠っている。


 その手は、木槍ではなく、水桶の取っ手を握るように丸まっていた。


 迅は小石を一つ直した。


 火守小夜(ひもりさよ)なら、もう少しきれいに並べるのだろう。


 でも、今はこれでいい。


 分かればいい。


 今日、藤吉(とうきち)が言っていた。


 いや、佐平(さへい)も同じようなことを言っていた気がする。


 分かればいい。


 きれいでなくても。

 強くなくても。

 怖くても。


 分かることが、誰かを助けることがある。


 迅は、布包みの端に指を置いた。


 徒火(あだび)


 誰かを守ろうとして灯す火。


 それは、戻った米俵の中にもある。

 戻らなかった米俵のそばにもある。

 見えているのに背を向けた藤吉(とうきち)の足にもある。

 水を半分ずつ分けた火守烈(ひもりれつ)の手にもある。

 米を数える倉橋正継(くらはしまさつぐ)の帳面にもある。

 悔しいと言いながら追わなかった燧景胤(ひうちかげたね)の声にもある。


 全部を守れない。


 それでも、運べるものを落とすな。


 迅は、その言葉を胸の奥で繰り返した。


 遠くで鐘が一つ鳴った。


 民の到着。


 戦は眠らない。


 けれど、迅は目を閉じた。


 明日もまた、落としたものを数える日になるのだろう。


 それでも、戻せるものがあるなら。


 そのために、また立つしかなかった。

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