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ADABI — 徒火 —  作者: ありをりはべりいまそかり


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【第11話】小石の知らせ

 夜明け前。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)の荷駄置き場には、まだ朝の色が届いていなかった。


 それでも、人は動いていた。


 米俵を数える者。

 縄を締める者。

 牛の鼻先を撫でる者。

 濡れた布を火に近づけ、乾かす者。


 昨日の見せ荷駄とは違う。


 今度は本物だった。


 赤土峠(あかつちとうげ)へ送る兵糧。

 矢。

 火薬を包んだ箱。

 傷薬。

 縄。

 鍋。

 予備の草履。


 どれも、なくなれば誰かが困るものだった。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、荷の前で腕を組んでいた。


 顔はいつも通りだった。

 だが、声は少し低い。


「米俵は二十七。火薬箱は三。矢束は十。水桶は五。途中で崩れたら終わりだ。軽く見える荷ほど上に置くな。揺れた時に落ちる」


 人足頭の辰五郎(たつごろう)が、太い首を縦に振った。


「分かっております」


 辰五郎(たつごろう)は、城下から来た男だった。

 背は高くないが、肩が厚い。

 手の甲には古い傷がいくつもある。


 荷を運ぶ者の手だった。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、辰五郎(たつごろう)の目を見た。


「危ない道だ」


「聞いております」


「昨日の見せ荷駄とは違う。今日は本物だ。失えば峠が困る。だが、お前らの命まで米俵にするつもりはない」


 辰五郎(たつごろう)は少し笑った。


「荷駄頭殿にそう言われるとは、妙な朝ですな」


「茶化すな。逃げる合図は覚えたか」


「鐘が短く三つ。牛は捨てても、人は引く」


「そうだ」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、荷の列を見た。


「荷はまた積める。死んだ人足は戻らねえ」


 その言葉に、周りの人足たちの手が少し止まった。


 けれど、すぐにまた動き出す。


 言われたから安心したのではない。


 危ないと分かったから、手を止められなくなったのだ。


 少し離れた場所で、迅はその様子を見ていた。


 今日は沢の出口へ出る前に、また呼ばれていた。


 理由は聞いていない。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、何でも「見ておけ」で済ませる。


 迅は、その言葉が少し嫌いになり始めていた。


 見れば、忘れられなくなる。


 忘れられなくなると、逃げにくくなる。


「火守」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が呼んだ。


「はい」


「お前は沢の出口だ」


「分かってます」


「本命の荷駄が出ても、見に行くな」


「分かってます」


「荷駄道で鐘が鳴っても、見に行くな」


「分かってます」


「分かってる顔じゃねえな」


「分かってる顔って何ですか?」


瀬川源次郎(せがわげんじろう)に聞け」


「嫌です」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は少し笑った。


 そして、すぐに顔を戻した。


「今日は、見たいものが増える日だ。そういう日は、見るべきものを間違える」


 迅は荷駄の列を見た。


 本物の米。

 本物の火薬。

 本物の人足。


 昨日の空俵の列とは違う。


 空でも重かった。


 なら、本物はもっと重い。


「沢の出口を守れば、荷駄も助かるんですか?」


 迅が聞くと、坂部角兵衛(さかべかくべえ)はすぐには答えなかった。


「助かることもある」


「助からないこともあるんですね」


「ある」


「嫌な答えですね」


「戦だからな」


 また、それだった。


 迅は黙った。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は言った。


「だが、沢の出口が崩れれば、荷駄どころじゃねえ。民が道に溢れる。荷駄道も詰まる。敵はそこを狙う」


「俺が動かなければ、助かる人がいる」


「そうだ」


「俺が動かないせいで、助からない人もいるかもしれない」


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、迅を見た。


「それもある」


 迅の胸の奥が重くなった。


 どちらを選んでも、何かが残る。


 何もしないことにも、重さがある。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、低く言った。


「だから、見ろ。迷うなとは言わん。迷ったうえで、足を置く場所を間違えるな」


 迅は、小さくうなずいた。


「はい」


     *


 同じ頃。


 煤谷村(すすたにむら)の朝は、灰色だった。


 炭焼き小屋から、いつもの白い煙が上がっている。


 だが、火守小夜(ひもりさよ)はその煙を見ていなかった。


 村の外れ。

 古い栗の木の下。


 火守小夜(ひもりさよ)は、土の上に小石を並べていた。


 煤谷村(すすたにむら)

 沢道。

 右の林。

 浄火寺(じょうかじ)への道。

 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)


 まだ見たことのない道もある。


 けれど、兄たちが出て行った方向、村人が話していた道、逃げてきた女の言葉。


 それらをつないで、火守小夜(ひもりさよ)なりに形にしていた。


「また石か」


 火守烈(ひもりれつ)が木槍を肩に担いで近づいてきた。


「石じゃないよ。道」


「石だろ」


「道」


「石にしか見えん」


「烈兄の目が槍しか見てないからだよ」


「何だと」


 火守烈(ひもりれつ)は少しむっとしたが、すぐに火守小夜(ひもりさよ)の並べた石を見た。


 火守小夜(ひもりさよ)は、小枝で右の林のあたりを指した。


「ここ、変」


「何が?」


「昨日の夕方、あっちの空に煙が出てた」


「火事か?」


「火事の煙じゃない。細かった。白くなかった。黒くもなかった。濡れた草を燃やしたみたいな煙」


 火守烈(ひもりれつ)は眉を寄せた。


「そんなの分かるのか?」


「炭焼きの煙なら分かる。薪の煙も分かる。昨日のは違った」


 火守小夜(ひもりさよ)は小石を一つ動かした。


「たぶん、人に見せる煙じゃない。隠れるための煙」


「煙で隠れる?」


「風が低かったから。沢の方に流れてた。目が痛くなるやつ」


 火守烈(ひもりれつ)は、東の山を見た。


 火守小夜(ひもりさよ)が言っている場所は、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ向かう道のさらに向こうだ。


 自分たちには遠い。


 だが、迅はそちらにいる。


「兄上のところか」


「分からない。でも、迅兄は煙を見るの下手そう」


「確かに」


「だから、誰かに言わないと」


 火守烈(ひもりれつ)は黙った。


 母の火守志乃(ひもりしの)は、家の方で水を汲んでいる。


 昨日から、村にも逃げてきた者が少し入っていた。

 煤谷村(すすたにむら)は安全ではない。

 ただ、まだ焼かれていないだけだ。


 火守烈(ひもりれつ)は木槍を握った。


「俺が行く」


 火守小夜(ひもりさよ)はすぐに首を振った。


「だめ」


「何でだ?」


「烈兄、走って行ったらそのまま戦いそう」


「戦えるなら戦う」


「それがだめ」


「何でだよ」


「届けるのが先」


 火守小夜(ひもりさよ)は、小石をもう一つ置いた。


「迅兄に渡して。これと同じに並べて」


「石を持っていけってことか?」


「うん。言葉だと烈兄、途中で怒って忘れそう」


「忘れん」


「じゃあ、煙の色は?」


「……濡れた草」


「風は?」


「低い」


「どっちへ?」


 火守烈(ひもりれつ)は少し黙った。


 火守小夜(ひもりさよ)がため息をついた。


「ほら」


「今覚えた」


「遅い」


 火守小夜(ひもりさよ)は布切れを取り出し、小石をいくつか包んだ。


 そこに、炭で短い線を描く。


 村。

 沢。

 右の林。

 煙。


 文字は少ない。


 けれど、火守小夜(ひもりさよ)には分かる。


 迅にも、たぶん分かる。


 分からなかったら、怒る。


「これを持っていって」


 火守小夜(ひもりさよ)火守烈(ひもりれつ)に渡した。


 火守烈(ひもりれつ)は布を受け取る。


 いつもの木槍より軽い。


 だが、妙に落としにくいものに感じた。


「小夜」


「何?」


「俺は戦いに行くんじゃない」


「うん」


「届けに行く」


「うん」


「でも、兄上が危なかったら戦う」


「それは、いい」


 火守小夜(ひもりさよ)は真顔で言った。


「でも、先に届けて」


 火守烈(ひもりれつ)はうなずいた。


「分かった」


 その時、火守志乃(ひもりしの)が家の前から二人を見ていた。


 声はかけなかった。


 ただ、火守烈(ひもりれつ)の手の布包みを見た。


 それから、静かに言った。


「烈」


「母上」


「行くなら、戻りなさい」


 火守烈(ひもりれつ)は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 戦に行くな、ではなかった。


 行くなら戻れ。


 迅にも言ったであろう言葉。


「はい」


 火守烈(ひもりれつ)は頭を下げた。


 火守小夜(ひもりさよ)は、布包みをもう一度指差した。


「落とさないでね」


「落とさん」


「あと、迅兄に言って」


「何を?」


「小夜の石は雑に置かないで、って」


 火守烈(ひもりれつ)は少しだけ笑った。


「分かった」


 そして、走り出した。


 煤谷村(すすたにむら)の細い道を抜け、灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ向かって。


 戦うためではなく。


 小石を届けるために。


     *


 朝の沢の出口は、すでに人でいっぱいだった。


 迅は二本の縄を使い、道を分けていた。


 怪我人は右。

 歩ける者は左。

 子ども連れは水を飲ませてから、浄火寺(じょうかじ)へ。


 昨日と同じ。


 だが、同じ日はない。


 今日は、荷駄道の方が気になる。


 本命の荷駄が出る。

 敵が見ているかもしれない。

 右の林には物見が入っている。


 それでも、沢の出口には民が来る。


 迅は声を出した。


「荷物をそこに置かないでください! 通れなくなります!」


「水は順番です!」


「子ども連れは、こっちへ!」


 喜助(きすけ)が水桶を抱え、走っている。


「今日もこぼしてないぞ!」


「言う前に運べ!」


「言われなくても運んでる!」


「じゃあ言うな!」


 避難民の中から、また少しだけ笑いが起きる。


 笑いは長く続かない。


 でも、一瞬でも人の足は軽くなる。


 迅はそれを知り始めていた。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は、足軽を二人連れて右の林を見ている。

 蓮昭(れんしょう)浄火寺(じょうかじ)へ向かう列の先頭を整えている。

 黒羽甚内(くろばじんない)の姿は見えない。


 見えないところで、何かを見ているのだろう。


 そう思うと、少し嫌だった。


「火守」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が戻ってきた。


「はい」


「荷駄は出た。今のところ鐘はない」


「分かりました」


「右の林へ民を入れるな」


「はい」


「荷駄道の方で騒ぎがあっても」


「沢の出口を離れません」


「よし」


 迅は少しだけ眉を寄せた。


「今、よしって言いました?」


「言った」


「珍しいですね」


「調子に乗るな」


「はい」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は短く息を吐いた。


 その時、沢道の奥から一人の少年が走ってきた。


 木槍を持っている。


 息を切らし、泥を跳ね、顔を真っ赤にしている。


 迅は目を見開いた。


「烈?」


 火守烈(ひもりれつ)は、縄の前で止まりそうになった。


 だが、後ろから避難民が来ている。


「そこに立つな!」


 迅は反射的に怒鳴った。


 火守烈(ひもりれつ)は驚いて横へ飛んだ。


「兄上!」


「何で来た!」


「届け物です!」


「誰の!」


「小夜の!」


 その一言で、迅の表情が変わった。


 火守烈(ひもりれつ)は懐から布包みを取り出した。


 泥で少し汚れている。


 でも、中身は落としていない。


「小夜が、煙が変だって。濡れた草の煙。低く流れて、沢の方へ行ったって」


 迅は布を開いた。


 小石が入っている。


 炭で描かれた線。


 村。

 沢。

 右の林。

 煙。


 雑ではない。


 火守小夜(ひもりさよ)らしい並べ方だった。


 迅は、急に喉が渇いた。


「いつ見た?」


「昨日の夕方」


「どこから?」


「村の栗の木のところ。東の山の向こう」


「小夜は何て?」


「迅兄は煙を見るのが下手そうだから届けろって」


「余計なこと言いやがって」


 迅は布の上の小石を見た。


 右の林。


 佐平(さへい)の言っていた尾根道。

 昨日の足跡。

 敵が見ていた場所。


 そこに、煙。


 濡れた草の煙。


 隠れるための煙。


 迅は顔を上げた。


「瀬川殿!」


 声が大きく出た。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)がすぐに来る。


「何だ」


 迅は布を見せた。


「小夜が、昨日の夕方に変な煙を見たそうです。濡れた草の煙。右の林の方。低く流れたって」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は布の線を見た。


 一瞬、ただの子どもの遊びを見るような顔になった。


 だが、すぐに変わった。


「誰が描いた」


「小夜です」


「妹か」


「はい」


黒羽甚内(くろばじんない)に見せる」


「今、黒羽殿はどこに?」


「右の林の奥だ」


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は足軽に命じた。


「これを黒羽甚内(くろばじんない)殿へ。急げ。ただし沢道を塞ぐな」


「はっ」


 足軽が布包みを受け取ろうとした。


 その時、迅は一瞬だけ手を止めた。


 火守小夜(ひもりさよ)の石。


 雑に置くなと言っていた。


 今はそんなことを気にする時ではない。


 けれど、なぜか気になった。


 迅は小石の位置を崩さないよう、布ごと足軽に渡した。


「そのまま持っていってください」


「分かった」


 足軽が走る。


 火守烈(ひもりれつ)は、その背中を見送った。


「兄上、俺も行きます」


「どこへ」


黒羽甚内(くろばじんない)殿のところへ」


「行くな」


「でも」


「届けるのが先だったんだろ」


 火守烈(ひもりれつ)は黙った。


「届けた。なら次は戻れ」


「俺も戦えます」


「今ここで必要なのは、戦うことじゃない」


 迅は、沢の出口を指した。


「水桶を運べ」


 火守烈(ひもりれつ)は固まった。


「水桶?」


「そうだ」


「俺は槍を」


「水桶だ」


「兄上!」


「槍を振る場所じゃない。ここは人を流す場所だ」


 火守烈(ひもりれつ)は、悔しそうに唇を噛んだ。


 迅は、その顔を見て胸が痛くなった。


 自分も同じように言われてきた。


 向いていなくてもやれ。

 見たことを持ち帰れ。

 追うな。

 道を止めるな。


 今、自分が火守烈(ひもりれつ)に同じことを言っている。


 嫌だった。


 でも、言わなければならなかった。


「烈」


 迅は低く言った。


「小夜の知らせは届いた。次は、お前の手が要る」


「……水桶で?」


「水がなきゃ、子どもが倒れる」


 火守烈(ひもりれつ)は、少しだけ視線を揺らした。


 喜助(きすけ)が横から水桶を一つ差し出した。


「新入り、これ重いぞ」


「誰が新入りだ」


「水桶持ったことないだろ」


「ある」


「じゃあ運べ」


 火守烈(ひもりれつ)は水桶を受け取った。


 重かった。


 思ったより、ずっと重かった。


 水は揺れる。

 走ればこぼれる。

 急げば足を取られる。


 槍より扱いにくい。


「くそ」


 火守烈(ひもりれつ)は小さく言った。


 それでも、水桶を運び始めた。


 迅はその背中を見て、少しだけ息を吐いた。


 これでいいのかは分からない。


 でも、今ここで火守烈(ひもりれつ)を林へ行かせるよりはいい。


 そう思いたかった。


     *


 黒羽甚内(くろばじんない)が戻ったのは、昼前だった。


 その顔は、いつもより少しだけ険しかった。


 迅は、沢の出口で声を出しながらも、黒羽甚内(くろばじんない)の方へ目を向けた。


 見たい。


 だが、今は列が動いている。


 迅は踏みとどまった。


 黒羽甚内(くろばじんない)は、瀬川源次郎(せがわげんじろう)へ短く何かを告げた。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)の顔が変わる。


 すぐに、こちらへ来た。


「火守」


「はい」


火守小夜(ひもりさよ)の知らせは当たりだ」


 迅の背中が冷えた。


「煙が?」


「右の林の奥、葦原(あしはら)に濡れた草を燃やした跡があった。煙で沢道側の目を鈍らせるつもりだったらしい」


「敵は?」


「まだ奥にいる可能性がある」


 その時だった。


 荷駄道の方から鐘が鳴った。


 二つ。


 敵影。


 続けて、短く三つ。


 荷駄の異変。


 沢の出口が、一瞬でざわついた。


 火守烈(ひもりれつ)が水桶を持ったまま顔を上げる。


 喜助(きすけ)の顔から血の気が引く。


 避難民たちも、何かを感じ取って立ち止まりかける。


 迅の足が動いた。


 荷駄道へ。


 本命の荷駄がいる。

 辰五郎(たつごろう)がいる。

 人足がいる。

 坂部角兵衛(さかべかくべえ)がいるかもしれない。


 行きたい。


 見たい。


 だが、目の前で子どもが泣き出した。


 老人が立ち止まった。


 列が詰まり始める。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が叫んだ。


「火守!」


 迅は歯を食いしばった。


 足を止める。


 沢の出口へ向き直る。


「道を止めるな!」


 声が出た。


 自分でも驚くほど大きかった。


「荷駄道じゃない! ここを進んでください! 怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから浄火寺(じょうかじ)へ!」


 喜助(きすけ)がすぐに動いた。


「こっち空いてます! 止まらないで!」


 火守烈(ひもりれつ)も水桶を抱えたまま叫んだ。


「水はこっちだ! 走るな!」


 声は荒い。

 でも、届いた。


 蓮昭(れんしょう)の僧兵たちも、列を支える。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は足軽へ命じる。


「二人は沢の出口に残れ。一人、荷駄道へ。状況だけ見て戻れ!」


 足軽が走る。


 迅は見送らなかった。


 見送ると、目がそちらへ引っ張られる。


 今は目の前を見る。


 見るべきものを見る。


 その時、右の林の方から煙が流れてきた。


 低い。


 白でも黒でもない、濁った煙。


 目が少し痛む。


 火守小夜(ひもりさよ)が言っていた煙だ。


 避難民の列がまた乱れかける。


「布で口を押さえて!」


 迅は叫んだ。


「右の林に逃げないで! 道に戻って!」


 だが、煙を嫌がった子どもが、林の方へ走り出した。


 母親が悲鳴を上げる。


 迅は動きかけた。


 その前に、火守烈(ひもりれつ)が走った。


「待て!」


 火守烈(ひもりれつ)は水桶を放り出さなかった。


 片手で持ち替え、空いた手で子どもの襟を掴む。


 勢いが強すぎて、二人とも倒れそうになった。


 喜助(きすけ)が飛び込んで、火守烈(ひもりれつ)の背中を支える。


 水桶の水が大きく揺れ、半分ほどこぼれた。


「こぼした!」


 喜助(きすけ)が叫ぶ。


「今それか!」


 火守烈(ひもりれつ)が怒鳴る。


 子どもは泣いている。


 だが、林には入らなかった。


 迅は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「烈! その子を水場へ!」


「分かった!」


「喜助、右の縄を張れ!」


「分かった!」


 迅は煙の中で声を出し続けた。


「右へ行かないで! 道に戻って! 歩ける人は左! 子ども連れは水場へ!」


 煙が目にしみる。


 喉が痛い。


 でも、声は止められない。


 荷駄道で何が起きているかは分からない。


 だが、ここが崩れれば、もっと多くが崩れる。


 迅は、そう分かってしまった。


     *


 荷駄道から戻った足軽は、泥だらけだった。


 息が荒い。


 額に血がにじんでいる。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が支えた。


「報告」


「荷駄、枯れ沢の手前で横道(よこみち)へ誘われかけました。草を燃やした煙で視界が悪く、先導の牛が右へ流れました」


「敵は」


「林の上から石と矢。数は十ほど。坂部角兵衛(さかべかくべえ)殿が荷を止め、辰五郎(たつごろう)が牛を戻しました。米俵二つを落としましたが、火薬箱は無事です」


手傷(てきず)は」


「人足二名。辰五郎(たつごろう)が肩をやられました」


 迅は、声を出しながらその報告を聞いた。


 辰五郎(たつごろう)


 朝、荷駄置き場で見た男。


 荷はまた積める。

 死んだ人足は戻らない。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)が言っていた。


辰五郎(たつごろう)さんは」


 迅は思わず聞いた。


 足軽は息を整えながら答えた。


「生きている。怒鳴っている」


 迅は、少しだけ力が抜けた。


 だが、すぐに戻す。


 まだ終わっていない。


「荷駄は」


「進路を戻しています。坂部角兵衛(さかべかくべえ)殿より伝令。沢の出口を崩すな、とのこと」


 迅は、思わず笑いそうになった。


 こんな時まで、それか。


 いや、こんな時だからこそ、それなのだろう。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)が迅を見る。


「聞いたな」


「はい」


「崩すな」


「はい」


 迅は息を吸った。


「道を止めるな!」


 また声を出す。


 それが、今の自分の役目だった。


     *


 煙が薄くなった頃には、沢の出口は泥だらけになっていた。


 水桶は一つひっくり返った。

 縄は泥にまみれた。

 子どもは泣き疲れて眠りかけている。

 避難民の列は乱れたが、完全には崩れなかった。


 火守烈(ひもりれつ)は、腕に泥をつけて座り込んでいた。


 喜助(きすけ)も隣で息を切らしている。


「水桶、半分こぼした」


 火守烈(ひもりれつ)が悔しそうに言った。


 喜助(きすけ)が横で笑った。


「俺は初日、一回半こぼした」


「一回半とは何だ」


「俺にも分からん」


「意味が分からん」


「でも、今日はお前の勝ちだ」


 火守烈(ひもりれつ)は眉を寄せた。


「何の勝ちだ」


「子どもを林に入れなかった」


 火守烈(ひもりれつ)は黙った。


 それから、手の泥を見た。


「槍じゃなかった」


「水桶だったな」


「……重かった」


「だろ」


 喜助(きすけ)は少しだけ得意そうに言った。


 迅は二人を見ていた。


 火守烈(ひもりれつ)は、戦いに行きたがっていた。


 だが、今日守ったのは、水桶を持った手だった。


 火守小夜(ひもりさよ)は、村にいた。


 だが、今日荷駄を救ったのは、小石の知らせだった。


 喜助(きすけ)は、臆病だった。


 だが、今日も逃げなかった。


 坂部角兵衛(さかべかくべえ)は、荷駄道にいた。


 瀬川源次郎(せがわげんじろう)は、沢の出口に残った。


 黒羽甚内(くろばじんない)は、見えない敵を見ていた。


 誰か一人ではない。


 小さな役目がつながって、道が崩れなかった。


 迅は、そのことを初めてはっきり感じた。


     *


 夕方、荷駄は完全ではないが、進んだ。


 米俵二つは、一度捨てられた。

 後で取り戻せるかは分からない。


 人足二人が怪我をした。

 辰五郎(たつごろう)は肩に矢を受けたが、牛を戻すまで下がらなかったという。


 火薬箱は無事。

 本命の荷は大きくは失われなかった。


 だが、勝ったとは誰も言わなかった。


 灰ヶ峰城(はいがみねじょう)へ戻った迅は、荷駄置き場の端で辰五郎(たつごろう)を見つけた。


 肩に布を巻かれている。


 顔は青い。


 それでも、座ったまま人足たちに怒鳴っていた。


「縄をほどくな! 明日も使う! 米俵を濡らすな!」


 迅は近づいた。


「大丈夫ですか?」


 辰五郎(たつごろう)は迅を見る。


「大丈夫に見えるか」


「見えません」


「なら聞くな」


「すみません」


 辰五郎(たつごろう)は鼻を鳴らした。


「お前が沢の出口を崩さなかったから、こっちは戻れた」


「俺だけじゃありません」


「知ってる。荷駄も同じだ。ひとりで運べる荷なんか、たかが知れてる」


 迅は黙った。


 辰五郎(たつごろう)は、痛みに顔を歪めながら続けた。


「だが、声を出す奴がいなきゃ、荷は動かねえ。今日はお前も荷を運んだんだろ」


「俺は沢の出口にいただけです」


「そこにいたからだ」


 迅は返事ができなかった。


 そこにいたから。


 追わなかったから。

 走らなかったから。

 見たいものを見に行かなかったから。


 助かったものがある。


 でも、米俵二つは失われた。

 怪我人も出た。


 全部は守れなかった。


 辰五郎(たつごろう)は、迅の顔を見て言った。


「全部運べると思うな」


 迅は顔を上げた。


「荷も、人もだ」


 その言葉は、妙に重かった。


「でも、運べるものを落とすな」


 辰五郎(たつごろう)はそう言って、目を閉じた。


 疲れ切っていた。


 迅は、黙って頭を下げた。


     *


 その夜。


 煤谷村(すすたにむら)では、火守小夜(ひもりさよ)が栗の木の下に座っていた。


 火守烈(ひもりれつ)はまだ戻らない。


 迅も戻らない。


 でも、村の方角から見える遠い空に、大きな火は上がっていなかった。


 火守小夜(ひもりさよ)は、土の上に並べた小石を見つめた。


 ひとつ、位置を変える。


 煙の場所。

 沢の出口。

 右の林。

 荷駄道。


 その横に、小さな石を二つ置いた。


 落ちた米俵。


 そして、少し離れた場所に、別の石を置いた。


 怪我をした人。


 火守小夜(ひもりさよ)は、それをじっと見た。


 助かったもの。

 助からなかったもの。

 守れた道。

 こぼれた水。

 落ちた米。


 火守小夜(ひもりさよ)はまだ、戦を知らない。


 だが、石を置けば分かることがあった。


 全部の石を、同じ場所には置けない。


「迅兄」


 火守小夜(ひもりさよ)は小さくつぶやいた。


「ちゃんと見たかな」


 風が吹いた。


 炭焼き小屋の煙が、まっすぐ上がっていく。


 今日の煙は、いつもの煙だった。


     *


 迅は、城の壁際で座っていた。


 火守烈(ひもりれつ)は少し離れた場所で寝ている。


 喜助(きすけ)も寝ている。


 二人とも泥だらけだった。


 迅の手元には、火守小夜(ひもりさよ)の布包みがあった。


 小石は、少し泥で汚れている。


 でも、なくなってはいない。


 迅はそれを一つずつ並べた。


 火守小夜(ひもりさよ)が描いた通りに。


 雑に置くなと言われたからだ。


 右の林。

 煙。

 沢の出口。

 荷駄道。


 そして、迅は迷った末に、小石を二つ置き足した。


 落ちた米俵。

 怪我をした辰五郎(たつごろう)


 全部は守れなかった。


 でも、荷駄は進んだ。

 火薬は守られた。

 子どもは林に入らなかった。

 沢の出口は崩れなかった。


 迅は、小石を見つめた。


 今日、自分がしたことは何だったのか。


 走らなかった。

 声を出した。

 火守烈(ひもりれつ)を水桶へ回した。

 火守小夜(ひもりさよ)の知らせを渡した。

 沢の出口に立った。


 それだけだ。


 けれど、その「それだけ」が、誰かの役目とつながっていた。


 火守小夜(ひもりさよ)の目。

 火守烈(ひもりれつ)の足。

 喜助(きすけ)の手。

 瀬川源次郎(せがわげんじろう)の声。

 坂部角兵衛(さかべかくべえ)差配(さはい)

 黒羽甚内(くろばじんない)の物見。

 辰五郎(たつごろう)の肩。


 ひとつでも欠ければ、道は違っていたかもしれない。


 迅は、胸の奥に小さな火を感じた。


 熱いだけではない。


 痛い火だった。


 徒火(あだび)


 誰かを守ろうとして灯す火。


 それは、ひとりの手にだけ宿るものではない。


 小石を並べる妹の指にもある。

 槍を持ちたいのに水桶を運ぶ弟の腕にもある。

 怖がりながら子どもを支える喜助(きすけ)の背にもある。

 矢を受けても牛を戻す人足の肩にもある。

 そして、行きたい場所へ行かず、立つべき場所に残った足にもある。


 迅は、小石を見つめたまま、長く息を吐いた。


 守れたものがある。


 守れなかったものもある。


 それでも明日、また道は動く。


 迅は、小石の一つをそっと直した。


 火守小夜(ひもりさよ)に怒られないように。


 そして、目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、遠くで鐘が一つ鳴った。


 民の到着。


 戦は、まだ眠らない。

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