【第11話】小石の知らせ
夜明け前。
灰ヶ峰城の荷駄置き場には、まだ朝の色が届いていなかった。
それでも、人は動いていた。
米俵を数える者。
縄を締める者。
牛の鼻先を撫でる者。
濡れた布を火に近づけ、乾かす者。
昨日の見せ荷駄とは違う。
今度は本物だった。
赤土峠へ送る兵糧。
矢。
火薬を包んだ箱。
傷薬。
縄。
鍋。
予備の草履。
どれも、なくなれば誰かが困るものだった。
坂部角兵衛は、荷の前で腕を組んでいた。
顔はいつも通りだった。
だが、声は少し低い。
「米俵は二十七。火薬箱は三。矢束は十。水桶は五。途中で崩れたら終わりだ。軽く見える荷ほど上に置くな。揺れた時に落ちる」
人足頭の辰五郎が、太い首を縦に振った。
「分かっております」
辰五郎は、城下から来た男だった。
背は高くないが、肩が厚い。
手の甲には古い傷がいくつもある。
荷を運ぶ者の手だった。
坂部角兵衛は、辰五郎の目を見た。
「危ない道だ」
「聞いております」
「昨日の見せ荷駄とは違う。今日は本物だ。失えば峠が困る。だが、お前らの命まで米俵にするつもりはない」
辰五郎は少し笑った。
「荷駄頭殿にそう言われるとは、妙な朝ですな」
「茶化すな。逃げる合図は覚えたか」
「鐘が短く三つ。牛は捨てても、人は引く」
「そうだ」
坂部角兵衛は、荷の列を見た。
「荷はまた積める。死んだ人足は戻らねえ」
その言葉に、周りの人足たちの手が少し止まった。
けれど、すぐにまた動き出す。
言われたから安心したのではない。
危ないと分かったから、手を止められなくなったのだ。
少し離れた場所で、迅はその様子を見ていた。
今日は沢の出口へ出る前に、また呼ばれていた。
理由は聞いていない。
坂部角兵衛は、何でも「見ておけ」で済ませる。
迅は、その言葉が少し嫌いになり始めていた。
見れば、忘れられなくなる。
忘れられなくなると、逃げにくくなる。
「火守」
坂部角兵衛が呼んだ。
「はい」
「お前は沢の出口だ」
「分かってます」
「本命の荷駄が出ても、見に行くな」
「分かってます」
「荷駄道で鐘が鳴っても、見に行くな」
「分かってます」
「分かってる顔じゃねえな」
「分かってる顔って何ですか?」
「瀬川源次郎に聞け」
「嫌です」
坂部角兵衛は少し笑った。
そして、すぐに顔を戻した。
「今日は、見たいものが増える日だ。そういう日は、見るべきものを間違える」
迅は荷駄の列を見た。
本物の米。
本物の火薬。
本物の人足。
昨日の空俵の列とは違う。
空でも重かった。
なら、本物はもっと重い。
「沢の出口を守れば、荷駄も助かるんですか?」
迅が聞くと、坂部角兵衛はすぐには答えなかった。
「助かることもある」
「助からないこともあるんですね」
「ある」
「嫌な答えですね」
「戦だからな」
また、それだった。
迅は黙った。
坂部角兵衛は言った。
「だが、沢の出口が崩れれば、荷駄どころじゃねえ。民が道に溢れる。荷駄道も詰まる。敵はそこを狙う」
「俺が動かなければ、助かる人がいる」
「そうだ」
「俺が動かないせいで、助からない人もいるかもしれない」
坂部角兵衛は、迅を見た。
「それもある」
迅の胸の奥が重くなった。
どちらを選んでも、何かが残る。
何もしないことにも、重さがある。
坂部角兵衛は、低く言った。
「だから、見ろ。迷うなとは言わん。迷ったうえで、足を置く場所を間違えるな」
迅は、小さくうなずいた。
「はい」
*
同じ頃。
煤谷村の朝は、灰色だった。
炭焼き小屋から、いつもの白い煙が上がっている。
だが、火守小夜はその煙を見ていなかった。
村の外れ。
古い栗の木の下。
火守小夜は、土の上に小石を並べていた。
煤谷村。
沢道。
右の林。
浄火寺への道。
灰ヶ峰城。
まだ見たことのない道もある。
けれど、兄たちが出て行った方向、村人が話していた道、逃げてきた女の言葉。
それらをつないで、火守小夜なりに形にしていた。
「また石か」
火守烈が木槍を肩に担いで近づいてきた。
「石じゃないよ。道」
「石だろ」
「道」
「石にしか見えん」
「烈兄の目が槍しか見てないからだよ」
「何だと」
火守烈は少しむっとしたが、すぐに火守小夜の並べた石を見た。
火守小夜は、小枝で右の林のあたりを指した。
「ここ、変」
「何が?」
「昨日の夕方、あっちの空に煙が出てた」
「火事か?」
「火事の煙じゃない。細かった。白くなかった。黒くもなかった。濡れた草を燃やしたみたいな煙」
火守烈は眉を寄せた。
「そんなの分かるのか?」
「炭焼きの煙なら分かる。薪の煙も分かる。昨日のは違った」
火守小夜は小石を一つ動かした。
「たぶん、人に見せる煙じゃない。隠れるための煙」
「煙で隠れる?」
「風が低かったから。沢の方に流れてた。目が痛くなるやつ」
火守烈は、東の山を見た。
火守小夜が言っている場所は、灰ヶ峰城へ向かう道のさらに向こうだ。
自分たちには遠い。
だが、迅はそちらにいる。
「兄上のところか」
「分からない。でも、迅兄は煙を見るの下手そう」
「確かに」
「だから、誰かに言わないと」
火守烈は黙った。
母の火守志乃は、家の方で水を汲んでいる。
昨日から、村にも逃げてきた者が少し入っていた。
煤谷村は安全ではない。
ただ、まだ焼かれていないだけだ。
火守烈は木槍を握った。
「俺が行く」
火守小夜はすぐに首を振った。
「だめ」
「何でだ?」
「烈兄、走って行ったらそのまま戦いそう」
「戦えるなら戦う」
「それがだめ」
「何でだよ」
「届けるのが先」
火守小夜は、小石をもう一つ置いた。
「迅兄に渡して。これと同じに並べて」
「石を持っていけってことか?」
「うん。言葉だと烈兄、途中で怒って忘れそう」
「忘れん」
「じゃあ、煙の色は?」
「……濡れた草」
「風は?」
「低い」
「どっちへ?」
火守烈は少し黙った。
火守小夜がため息をついた。
「ほら」
「今覚えた」
「遅い」
火守小夜は布切れを取り出し、小石をいくつか包んだ。
そこに、炭で短い線を描く。
村。
沢。
右の林。
煙。
文字は少ない。
けれど、火守小夜には分かる。
迅にも、たぶん分かる。
分からなかったら、怒る。
「これを持っていって」
火守小夜は火守烈に渡した。
火守烈は布を受け取る。
いつもの木槍より軽い。
だが、妙に落としにくいものに感じた。
「小夜」
「何?」
「俺は戦いに行くんじゃない」
「うん」
「届けに行く」
「うん」
「でも、兄上が危なかったら戦う」
「それは、いい」
火守小夜は真顔で言った。
「でも、先に届けて」
火守烈はうなずいた。
「分かった」
その時、火守志乃が家の前から二人を見ていた。
声はかけなかった。
ただ、火守烈の手の布包みを見た。
それから、静かに言った。
「烈」
「母上」
「行くなら、戻りなさい」
火守烈は、一瞬だけ言葉に詰まった。
戦に行くな、ではなかった。
行くなら戻れ。
迅にも言ったであろう言葉。
「はい」
火守烈は頭を下げた。
火守小夜は、布包みをもう一度指差した。
「落とさないでね」
「落とさん」
「あと、迅兄に言って」
「何を?」
「小夜の石は雑に置かないで、って」
火守烈は少しだけ笑った。
「分かった」
そして、走り出した。
煤谷村の細い道を抜け、灰ヶ峰城へ向かって。
戦うためではなく。
小石を届けるために。
*
朝の沢の出口は、すでに人でいっぱいだった。
迅は二本の縄を使い、道を分けていた。
怪我人は右。
歩ける者は左。
子ども連れは水を飲ませてから、浄火寺へ。
昨日と同じ。
だが、同じ日はない。
今日は、荷駄道の方が気になる。
本命の荷駄が出る。
敵が見ているかもしれない。
右の林には物見が入っている。
それでも、沢の出口には民が来る。
迅は声を出した。
「荷物をそこに置かないでください! 通れなくなります!」
「水は順番です!」
「子ども連れは、こっちへ!」
喜助が水桶を抱え、走っている。
「今日もこぼしてないぞ!」
「言う前に運べ!」
「言われなくても運んでる!」
「じゃあ言うな!」
避難民の中から、また少しだけ笑いが起きる。
笑いは長く続かない。
でも、一瞬でも人の足は軽くなる。
迅はそれを知り始めていた。
瀬川源次郎は、足軽を二人連れて右の林を見ている。
蓮昭は浄火寺へ向かう列の先頭を整えている。
黒羽甚内の姿は見えない。
見えないところで、何かを見ているのだろう。
そう思うと、少し嫌だった。
「火守」
瀬川源次郎が戻ってきた。
「はい」
「荷駄は出た。今のところ鐘はない」
「分かりました」
「右の林へ民を入れるな」
「はい」
「荷駄道の方で騒ぎがあっても」
「沢の出口を離れません」
「よし」
迅は少しだけ眉を寄せた。
「今、よしって言いました?」
「言った」
「珍しいですね」
「調子に乗るな」
「はい」
瀬川源次郎は短く息を吐いた。
その時、沢道の奥から一人の少年が走ってきた。
木槍を持っている。
息を切らし、泥を跳ね、顔を真っ赤にしている。
迅は目を見開いた。
「烈?」
火守烈は、縄の前で止まりそうになった。
だが、後ろから避難民が来ている。
「そこに立つな!」
迅は反射的に怒鳴った。
火守烈は驚いて横へ飛んだ。
「兄上!」
「何で来た!」
「届け物です!」
「誰の!」
「小夜の!」
その一言で、迅の表情が変わった。
火守烈は懐から布包みを取り出した。
泥で少し汚れている。
でも、中身は落としていない。
「小夜が、煙が変だって。濡れた草の煙。低く流れて、沢の方へ行ったって」
迅は布を開いた。
小石が入っている。
炭で描かれた線。
村。
沢。
右の林。
煙。
雑ではない。
火守小夜らしい並べ方だった。
迅は、急に喉が渇いた。
「いつ見た?」
「昨日の夕方」
「どこから?」
「村の栗の木のところ。東の山の向こう」
「小夜は何て?」
「迅兄は煙を見るのが下手そうだから届けろって」
「余計なこと言いやがって」
迅は布の上の小石を見た。
右の林。
佐平の言っていた尾根道。
昨日の足跡。
敵が見ていた場所。
そこに、煙。
濡れた草の煙。
隠れるための煙。
迅は顔を上げた。
「瀬川殿!」
声が大きく出た。
瀬川源次郎がすぐに来る。
「何だ」
迅は布を見せた。
「小夜が、昨日の夕方に変な煙を見たそうです。濡れた草の煙。右の林の方。低く流れたって」
瀬川源次郎は布の線を見た。
一瞬、ただの子どもの遊びを見るような顔になった。
だが、すぐに変わった。
「誰が描いた」
「小夜です」
「妹か」
「はい」
「黒羽甚内に見せる」
「今、黒羽殿はどこに?」
「右の林の奥だ」
瀬川源次郎は足軽に命じた。
「これを黒羽甚内殿へ。急げ。ただし沢道を塞ぐな」
「はっ」
足軽が布包みを受け取ろうとした。
その時、迅は一瞬だけ手を止めた。
火守小夜の石。
雑に置くなと言っていた。
今はそんなことを気にする時ではない。
けれど、なぜか気になった。
迅は小石の位置を崩さないよう、布ごと足軽に渡した。
「そのまま持っていってください」
「分かった」
足軽が走る。
火守烈は、その背中を見送った。
「兄上、俺も行きます」
「どこへ」
「黒羽甚内殿のところへ」
「行くな」
「でも」
「届けるのが先だったんだろ」
火守烈は黙った。
「届けた。なら次は戻れ」
「俺も戦えます」
「今ここで必要なのは、戦うことじゃない」
迅は、沢の出口を指した。
「水桶を運べ」
火守烈は固まった。
「水桶?」
「そうだ」
「俺は槍を」
「水桶だ」
「兄上!」
「槍を振る場所じゃない。ここは人を流す場所だ」
火守烈は、悔しそうに唇を噛んだ。
迅は、その顔を見て胸が痛くなった。
自分も同じように言われてきた。
向いていなくてもやれ。
見たことを持ち帰れ。
追うな。
道を止めるな。
今、自分が火守烈に同じことを言っている。
嫌だった。
でも、言わなければならなかった。
「烈」
迅は低く言った。
「小夜の知らせは届いた。次は、お前の手が要る」
「……水桶で?」
「水がなきゃ、子どもが倒れる」
火守烈は、少しだけ視線を揺らした。
喜助が横から水桶を一つ差し出した。
「新入り、これ重いぞ」
「誰が新入りだ」
「水桶持ったことないだろ」
「ある」
「じゃあ運べ」
火守烈は水桶を受け取った。
重かった。
思ったより、ずっと重かった。
水は揺れる。
走ればこぼれる。
急げば足を取られる。
槍より扱いにくい。
「くそ」
火守烈は小さく言った。
それでも、水桶を運び始めた。
迅はその背中を見て、少しだけ息を吐いた。
これでいいのかは分からない。
でも、今ここで火守烈を林へ行かせるよりはいい。
そう思いたかった。
*
黒羽甚内が戻ったのは、昼前だった。
その顔は、いつもより少しだけ険しかった。
迅は、沢の出口で声を出しながらも、黒羽甚内の方へ目を向けた。
見たい。
だが、今は列が動いている。
迅は踏みとどまった。
黒羽甚内は、瀬川源次郎へ短く何かを告げた。
瀬川源次郎の顔が変わる。
すぐに、こちらへ来た。
「火守」
「はい」
「火守小夜の知らせは当たりだ」
迅の背中が冷えた。
「煙が?」
「右の林の奥、葦原に濡れた草を燃やした跡があった。煙で沢道側の目を鈍らせるつもりだったらしい」
「敵は?」
「まだ奥にいる可能性がある」
その時だった。
荷駄道の方から鐘が鳴った。
二つ。
敵影。
続けて、短く三つ。
荷駄の異変。
沢の出口が、一瞬でざわついた。
火守烈が水桶を持ったまま顔を上げる。
喜助の顔から血の気が引く。
避難民たちも、何かを感じ取って立ち止まりかける。
迅の足が動いた。
荷駄道へ。
本命の荷駄がいる。
辰五郎がいる。
人足がいる。
坂部角兵衛がいるかもしれない。
行きたい。
見たい。
だが、目の前で子どもが泣き出した。
老人が立ち止まった。
列が詰まり始める。
瀬川源次郎が叫んだ。
「火守!」
迅は歯を食いしばった。
足を止める。
沢の出口へ向き直る。
「道を止めるな!」
声が出た。
自分でも驚くほど大きかった。
「荷駄道じゃない! ここを進んでください! 怪我人は右! 歩ける人は左! 子ども連れは水を飲んでから浄火寺へ!」
喜助がすぐに動いた。
「こっち空いてます! 止まらないで!」
火守烈も水桶を抱えたまま叫んだ。
「水はこっちだ! 走るな!」
声は荒い。
でも、届いた。
蓮昭の僧兵たちも、列を支える。
瀬川源次郎は足軽へ命じる。
「二人は沢の出口に残れ。一人、荷駄道へ。状況だけ見て戻れ!」
足軽が走る。
迅は見送らなかった。
見送ると、目がそちらへ引っ張られる。
今は目の前を見る。
見るべきものを見る。
その時、右の林の方から煙が流れてきた。
低い。
白でも黒でもない、濁った煙。
目が少し痛む。
火守小夜が言っていた煙だ。
避難民の列がまた乱れかける。
「布で口を押さえて!」
迅は叫んだ。
「右の林に逃げないで! 道に戻って!」
だが、煙を嫌がった子どもが、林の方へ走り出した。
母親が悲鳴を上げる。
迅は動きかけた。
その前に、火守烈が走った。
「待て!」
火守烈は水桶を放り出さなかった。
片手で持ち替え、空いた手で子どもの襟を掴む。
勢いが強すぎて、二人とも倒れそうになった。
喜助が飛び込んで、火守烈の背中を支える。
水桶の水が大きく揺れ、半分ほどこぼれた。
「こぼした!」
喜助が叫ぶ。
「今それか!」
火守烈が怒鳴る。
子どもは泣いている。
だが、林には入らなかった。
迅は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「烈! その子を水場へ!」
「分かった!」
「喜助、右の縄を張れ!」
「分かった!」
迅は煙の中で声を出し続けた。
「右へ行かないで! 道に戻って! 歩ける人は左! 子ども連れは水場へ!」
煙が目にしみる。
喉が痛い。
でも、声は止められない。
荷駄道で何が起きているかは分からない。
だが、ここが崩れれば、もっと多くが崩れる。
迅は、そう分かってしまった。
*
荷駄道から戻った足軽は、泥だらけだった。
息が荒い。
額に血がにじんでいる。
瀬川源次郎が支えた。
「報告」
「荷駄、枯れ沢の手前で横道へ誘われかけました。草を燃やした煙で視界が悪く、先導の牛が右へ流れました」
「敵は」
「林の上から石と矢。数は十ほど。坂部角兵衛殿が荷を止め、辰五郎が牛を戻しました。米俵二つを落としましたが、火薬箱は無事です」
「手傷は」
「人足二名。辰五郎が肩をやられました」
迅は、声を出しながらその報告を聞いた。
辰五郎。
朝、荷駄置き場で見た男。
荷はまた積める。
死んだ人足は戻らない。
坂部角兵衛が言っていた。
「辰五郎さんは」
迅は思わず聞いた。
足軽は息を整えながら答えた。
「生きている。怒鳴っている」
迅は、少しだけ力が抜けた。
だが、すぐに戻す。
まだ終わっていない。
「荷駄は」
「進路を戻しています。坂部角兵衛殿より伝令。沢の出口を崩すな、とのこと」
迅は、思わず笑いそうになった。
こんな時まで、それか。
いや、こんな時だからこそ、それなのだろう。
瀬川源次郎が迅を見る。
「聞いたな」
「はい」
「崩すな」
「はい」
迅は息を吸った。
「道を止めるな!」
また声を出す。
それが、今の自分の役目だった。
*
煙が薄くなった頃には、沢の出口は泥だらけになっていた。
水桶は一つひっくり返った。
縄は泥にまみれた。
子どもは泣き疲れて眠りかけている。
避難民の列は乱れたが、完全には崩れなかった。
火守烈は、腕に泥をつけて座り込んでいた。
喜助も隣で息を切らしている。
「水桶、半分こぼした」
火守烈が悔しそうに言った。
喜助が横で笑った。
「俺は初日、一回半こぼした」
「一回半とは何だ」
「俺にも分からん」
「意味が分からん」
「でも、今日はお前の勝ちだ」
火守烈は眉を寄せた。
「何の勝ちだ」
「子どもを林に入れなかった」
火守烈は黙った。
それから、手の泥を見た。
「槍じゃなかった」
「水桶だったな」
「……重かった」
「だろ」
喜助は少しだけ得意そうに言った。
迅は二人を見ていた。
火守烈は、戦いに行きたがっていた。
だが、今日守ったのは、水桶を持った手だった。
火守小夜は、村にいた。
だが、今日荷駄を救ったのは、小石の知らせだった。
喜助は、臆病だった。
だが、今日も逃げなかった。
坂部角兵衛は、荷駄道にいた。
瀬川源次郎は、沢の出口に残った。
黒羽甚内は、見えない敵を見ていた。
誰か一人ではない。
小さな役目がつながって、道が崩れなかった。
迅は、そのことを初めてはっきり感じた。
*
夕方、荷駄は完全ではないが、進んだ。
米俵二つは、一度捨てられた。
後で取り戻せるかは分からない。
人足二人が怪我をした。
辰五郎は肩に矢を受けたが、牛を戻すまで下がらなかったという。
火薬箱は無事。
本命の荷は大きくは失われなかった。
だが、勝ったとは誰も言わなかった。
灰ヶ峰城へ戻った迅は、荷駄置き場の端で辰五郎を見つけた。
肩に布を巻かれている。
顔は青い。
それでも、座ったまま人足たちに怒鳴っていた。
「縄をほどくな! 明日も使う! 米俵を濡らすな!」
迅は近づいた。
「大丈夫ですか?」
辰五郎は迅を見る。
「大丈夫に見えるか」
「見えません」
「なら聞くな」
「すみません」
辰五郎は鼻を鳴らした。
「お前が沢の出口を崩さなかったから、こっちは戻れた」
「俺だけじゃありません」
「知ってる。荷駄も同じだ。ひとりで運べる荷なんか、たかが知れてる」
迅は黙った。
辰五郎は、痛みに顔を歪めながら続けた。
「だが、声を出す奴がいなきゃ、荷は動かねえ。今日はお前も荷を運んだんだろ」
「俺は沢の出口にいただけです」
「そこにいたからだ」
迅は返事ができなかった。
そこにいたから。
追わなかったから。
走らなかったから。
見たいものを見に行かなかったから。
助かったものがある。
でも、米俵二つは失われた。
怪我人も出た。
全部は守れなかった。
辰五郎は、迅の顔を見て言った。
「全部運べると思うな」
迅は顔を上げた。
「荷も、人もだ」
その言葉は、妙に重かった。
「でも、運べるものを落とすな」
辰五郎はそう言って、目を閉じた。
疲れ切っていた。
迅は、黙って頭を下げた。
*
その夜。
煤谷村では、火守小夜が栗の木の下に座っていた。
火守烈はまだ戻らない。
迅も戻らない。
でも、村の方角から見える遠い空に、大きな火は上がっていなかった。
火守小夜は、土の上に並べた小石を見つめた。
ひとつ、位置を変える。
煙の場所。
沢の出口。
右の林。
荷駄道。
その横に、小さな石を二つ置いた。
落ちた米俵。
そして、少し離れた場所に、別の石を置いた。
怪我をした人。
火守小夜は、それをじっと見た。
助かったもの。
助からなかったもの。
守れた道。
こぼれた水。
落ちた米。
火守小夜はまだ、戦を知らない。
だが、石を置けば分かることがあった。
全部の石を、同じ場所には置けない。
「迅兄」
火守小夜は小さくつぶやいた。
「ちゃんと見たかな」
風が吹いた。
炭焼き小屋の煙が、まっすぐ上がっていく。
今日の煙は、いつもの煙だった。
*
迅は、城の壁際で座っていた。
火守烈は少し離れた場所で寝ている。
喜助も寝ている。
二人とも泥だらけだった。
迅の手元には、火守小夜の布包みがあった。
小石は、少し泥で汚れている。
でも、なくなってはいない。
迅はそれを一つずつ並べた。
火守小夜が描いた通りに。
雑に置くなと言われたからだ。
右の林。
煙。
沢の出口。
荷駄道。
そして、迅は迷った末に、小石を二つ置き足した。
落ちた米俵。
怪我をした辰五郎。
全部は守れなかった。
でも、荷駄は進んだ。
火薬は守られた。
子どもは林に入らなかった。
沢の出口は崩れなかった。
迅は、小石を見つめた。
今日、自分がしたことは何だったのか。
走らなかった。
声を出した。
火守烈を水桶へ回した。
火守小夜の知らせを渡した。
沢の出口に立った。
それだけだ。
けれど、その「それだけ」が、誰かの役目とつながっていた。
火守小夜の目。
火守烈の足。
喜助の手。
瀬川源次郎の声。
坂部角兵衛の差配。
黒羽甚内の物見。
辰五郎の肩。
ひとつでも欠ければ、道は違っていたかもしれない。
迅は、胸の奥に小さな火を感じた。
熱いだけではない。
痛い火だった。
徒火。
誰かを守ろうとして灯す火。
それは、ひとりの手にだけ宿るものではない。
小石を並べる妹の指にもある。
槍を持ちたいのに水桶を運ぶ弟の腕にもある。
怖がりながら子どもを支える喜助の背にもある。
矢を受けても牛を戻す人足の肩にもある。
そして、行きたい場所へ行かず、立つべき場所に残った足にもある。
迅は、小石を見つめたまま、長く息を吐いた。
守れたものがある。
守れなかったものもある。
それでも明日、また道は動く。
迅は、小石の一つをそっと直した。
火守小夜に怒られないように。
そして、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、遠くで鐘が一つ鳴った。
民の到着。
戦は、まだ眠らない。




