第十七話 趙旭、朋友を得る
【三人称視点】
婉児は趙旭が桃剣で指し示した先に、光る文字が浮かび上がるのを見て、心が沸き立った。
趙旭が修仙の不思議な力で自分に手を差し伸べたものだと思えたからだ。
そして、書かれたことを実践していけば、身体が熱を帯びて、こぼれたお茶が浮かび上がる。
ぷかぷかと浮かび上がったお茶の水球を、婉児は趙旭が手助けしてくれているのだと信じた。
夫婦としてやり直せるという確信が、その他の様々な想念を婉児から消し去っていた。
カチャリ
その時、磁器が小さく音を鳴らした。
見れば、美桜が急須の蓋を開けていた。
ああ、この小娘がいるのだ。
その瞬間、婉児の中ですべての辻褄があってしまった。
この時点で言葉としてまとまっていた訳ではないが、婉児が後から振り返った時の感慨はこうである。
趙旭と離縁する前から、不思議なものはすでに見えていた。
この光る文字ほどはっきりしたものではなかったが、目に見えない気配のようなものが見えていた。
それらには朝露のような清明な気配もあれば、淀んだ泥濘のように忌避したい気配もあり、その感覚に従うと不思議と幸運に恵まれ、不運を遠ざけることができていた。
それは離縁の後にとても役に立っていたけれど、なんとなく勘がよくなったくらいの自覚しか持っていなかった。
その正体が趙旭に由来するものであるのは、趙旭と結婚するまではなかったのだから明白であった。
であれば、思い当たるところが一つある。
趙旭と美桜が双修の修行と称していかがわしいことをしていたことだ。
それは正式な夫婦であれば、日々の営みである。
その両者が同じであるならば、婉児は夫婦生活を通じて計らずも修仙修行をしていたことになる。
美桜、この小娘を師姐と呼ぶのは耐えがたい。
直感的に、自分が修仙の側に踏み込めば、美桜と同じ舞台に立つことを理解した。
それでは美桜の風下に立つ。婉児が上にいたのは世俗の序列があったからだ。
ばしゃん
だから、浮かび上がっていたお茶は床に再びこぼれたのである。
「あ、あの……師母……私のせいですか?」
美桜が青褪めた顔で婉児に問いかける。
この小娘は婉児を恋敵として見ていない。それはとても小癪なことだ。
今も自分が余計なことをしたせいで、婉児の『失敗』を招いてしまったのではないかと恐々としているのが美桜である。
そのうろたえている様子はいい気味であったけれど、いっそザマァ見ろという顔をしてくれていたほうが、女としては張り合いがあった。
「……覆水が盆に返るはずがありませんわ」
婉児はそう言い放った。
それは婉児による再度の趙旭との訣別の宣言であり、前回と違い、独占欲からの未練や苛立ちはない。
「婉児、それがそなたの選択であるのだな」
「さて、何のことでしょうか?」
趙旭と美桜の二人に、婉児を恥ずかしめる意図はない。一方で趙旭には婉児への特別な感情もない。
それは婉児にも痛いほどにわかるので、この決断は婉児自身の自尊心の問題である。
であるから、趙旭の助け船を拒絶した婉児の姿には、己の矜持を貫いた、凜とした気品が溢れていた。
「婉児……そなたは美しいな」
「何をおっしゃりますか?」
趙旭はこの時になって、初めて婉児を一人の魅力的な女性として意識した。
趙旭を前にして怯えているばかりであった美桜は可愛らしかったが、しっかりと自分の意思で趙旭を拒絶した婉児は気高いと思えたのだ。
「素直にそう思ったのだ。覆水が盆に返るはずがない。そう言い切ったそなたはとてもが美しいと感じた」
婉児は初めて趙旭の向けてくる視線が熱を持っているのを見た。
もっと早く、その視線を向けてくれていたらと思う。
だが、いまさら、それで婉児の心が揺らぐことはないのである。
「難儀なことですのね」
今になって自分に興味を示されたことで、婉児は趙旭の女性観というものを理解できてしまった。
自分が趙旭に抱いていた感情を振り返る時、どれほどの女たちがこの男の美貌に心を惑乱されてきたことだろう?
惑乱した女たちに囲まれて、まともな人間関係を築けるだろうか?
自分に終始無関心を示してきた趙旭が、今になって興味を示した。
そこに自分でも御すことのできない自身の魅力に翻弄される、趙旭の孤独があった。
「今のそなたになら、頼みたいことがある」
「なんですの? 縒りなら戻しませんよ」
「それは残念だが、頼みは別のことだ」
婉児は冗談めかして言うと、趙旭はどこか嬉しげに笑ってみせた。
「美桜、子供たちを呼んできてくれ」
「かしこまりました、師父」
美桜を見送ると、趙旭は今度は指先で中空に光る文字を書きだした。
『魯国忠烈の臣 魏諫議大夫遺児』
「これは……」
婉児にはやはりその文字が読めた。
読めた上で何のことかと首を捻る。
「美桜に迎えに行ってもらった三人の子供たちだ。婉児に、ひいては舅殿に預かってもらいたい」
「なっ!? ですが……老弱男女を問わずに誅されたと聞きましたわ」
婉児もこの文を読み上げることはしない。
しかし、驚きの声をあげるには十分で、ついで声を潜めて問い返す。
「私たちが助けたのだ。だが、これから先、私の手元で預かるのが難しくなる。婉児や舅殿、王県令であれば預けるのに申し分ない」
「匿いきれないのに、考えなしに助けたのですか?」
「昭霊護国公主からの依頼で、少々、危険な仕事が控えている。その間、大哥の董家荘に匿ってもらうつもりであったが、婉児が頼れるとあらば、話は変わる」
趙旭は詳細を語らないが、後宮の妖魔退治が危険であることを告げる。
「事が終わった後には、彼らには官界に戻るための教育が必要だ。世間知らずの私にはできないし、世慣れている美桜にもできん。私が信頼できる官界の伝手はそなたと舅殿しかおらん」
美桜にもできないこと。
その言葉は婉児には心地のよいものであった。
何よりも趙旭に頼られたのは、これが初めてであった。
趙旭への未練を昇華するために、忠臣の遺児を立派に育て上げるという目標は悪くないと思えた。
「実際に会ってから考えますわ」
婉児は受け入れることをほぼ決めていたが、最終判断は保留したのである。




