第十六話 覆水
「おひさしぶりでございます、仲明様」
趙旭様の離縁した元・奥様の王婉児様。
彼女が、趙旭様の仮寓先である昭霊護国皇祖帝宮にやってきました。
「ああ、そなたも息災そうでなによりだ、婉児よ」
客坊の一室で出迎えた趙旭様はいつもと変わらぬ様子で受け答えしています。
趙旭様からはよくも悪くも婉児様に含むところがあるようには見えません。
「先ほど、皇祖帝宮から立派な身なりの大夫が出ていかれましたが、あれは仲明様のお客様ですかしら?」
「ああ、洛侍郎殿か」
「霊妙清心丹の評判は聞いておりましたが、そのような高官のお方ともお取引があるのですか」
婉児様は名前を聞いて目を見開きます。
洛侍郎の評判は悪いですが、同時に名の知れた大夫でもあります。
そうした顧客がいることは商売の成功を測る基準となりえるでしょう。
「お茶をどうぞ」
私はお茶を淹れて、茶菓子とともにお二人の卓に並べると部屋の隅に控えます。
「商いはいくらかやれるようになった。美桜が言うには皇祖帝宮の客分という肩書きが、都での商売をうまく回してくれているのだそうだ」
「そう、あなたが仲明様を支えているの?」
趙旭様の答えに婉児様は、私に向けてつまらなそうな視線を向けてきます。
「いいえ、師父に素晴らしい実力があればこその肩書きであれば、私のお手伝いなど微々たるものでございます」
「そう、そうよね」
私は謙遜として、趙旭様の名声に乗っかっただけだと強調しておきます。
すると、婉児様はほっと緩んだ表情を見せます。
趙旭様を見直したというご自身の判断を、私が肯定したからでしょう。
「いや、桃剣観も含めて、美桜はよくやってくれている」
趙旭様、空気読んでください!
奥さんと別れてから、別の女のおかげで上手いことやれているって、遠回しに婉児様を貶してますからね?
婉児様を睨むと、私の出したお茶をぐっと飲んでから、ふーっと息をつきました。
「思えば、わたくしは急いてばかりでした。商売が上手くいくには時間がかかると理解していなかったのです」
婉児様は、今度は殊勝な様子で俯いてみせます。
「桃剣観の商売も、ここで売っている霊薬というのも、評判になって名が聞こえてくるにはひと月近くの時が必要でした」
「ああ、そうだな。それでも大分速いのだそうだ」
「そうして、時間はかかっても確かに商いは成功されております」
婉児様も色々と思うところがあったのか、以前よりは商売のことを考えているようです。
「仲明様、わたくしの不明をどうかお許しください。董員外の屋敷を出た時、わたくしは酷い言葉をかけてしまいました」
婉児様は深々と頭を下げるのでした。
「そのように畏まらずともよい。私一人であれば、そなたの指摘は正しかったのだ。私はよい夫ではなかった」
「……今日は商売に成功している仲明様であれば、縒りを戻したいなどと考えながら、やってまいりました」
趙旭様は婉児様を責めたりはしません。
それに居た堪れないのか、婉児様は自分の話を始めました。
「ですが、わたくしは何を驕っていたのでしょう。都で玉帯をつけた高官にも評判が届く霊薬を調合できる実力者を、私はつまらない仕事に追い立てるばかりでした」
そこで、お茶のおかわりを注ごうと近づいた私に視線を向けてきます。
「どうして、そこの弟子のように仲明様の至らぬところを補い、支えることを選ばなかったのでしょう。それこそ、内助の功というもの」
「師母、初めから上手くいくものなど、そうはございませんよ」
常人である婉児様は見た目のとおりの若い女性です。
前世を加算し、修仙者として長寿の私はお茶を注ぐ傍らに、つい歳上目線で慰めの言葉をかけます。
「そう言えるあなただから、妻として仲明様を支えられたのでしょう」
「えっ!? 私は妻の地位を奪うつもりなどありませんよっ!?」
婉児様の言葉に、私を見つめる目に溢れる涙に、私は驚いて思わず急須を取り落としました。
「あっ! 申し訳ありませんっ」
急須がひっくり返ってお茶がこぼれてしまいます。
卓の脇から床まで湯気の立つお茶が流れ落ちていきます。
「師母、お茶はかかってはおりませんか?」
「ええ、こちらにはこぼれていないわ」
婉児様は袖で涙を拭いつつ、卓から少し距離を取ります。
「こぼれたお茶は急須や茶碗には戻らないもの。どうして、そんなこともわからずにここに来てしまったのでしょう」
覆水盆に返らず、という故事はこちらにもあります。
婉児様はこぼれたお茶に、自分の境遇と故事を繋ぎ合わせたのです。
「いや、今の婉児ならば、覆水を盆に返すこともできよう」
「仲明様?」
趙旭様は腰の桃剣を引き抜くと、溢れたお茶の上で切先を動かします。
趙旭様は切先から霊気を発して文字にして、念動力の基本的な修法を書き上げました。
「……これは」
霊気で書いた文字を常人の婉児様には読めないはずです。
なのに、一言呟いた婉児様の視線は確かに文字を追うように動いていました。
「大恩のある大哥の取り持ってくれた縁だ。こぼれた茶を茶碗に戻すように元通りにすることはやぶさかではない」
ここで大哥、董員外の話が出てくるのは、婉児様との婚姻が社会的な人間関係に依拠している証です。
それだけに趙旭様は無茶振りをして、婉児様を困らせようとしている風には見えません。
婉児様には霊気の文字が読めると確信しているのでしょう。
もしや、金丹一品の修仙者たる趙旭様の影響で、婉児様の経脈、霊力を扱う器官が活性化しているのでは?
仮にも夫婦であったお二人です。そういう影響が生じるほどに濃密な接触は当然と言えば当然です。
「今の」婉児様ならば、とはそういうことですか。
「すぅ~はぁ~」
修法を読み終えたのか、婉児様が大きく深呼吸を始めます。
修法の一つ目、呼吸を通じて体内の霊力を認識して、それを巡らせながら丹田に集めます。
「……まさか、本当に?」
婉児様自身も自分の中に巡る霊力を自覚して戸惑っています。
しかし、自分自身の変化を試すように、こぼれたお茶に手をかざしました。
婉児様が真剣な眼差しでこぼれたお茶に向かって意識を集中しているのがわかります。
かざした手のひらから発せられた霊気が、こぼれたお茶に注がれていきます。
丹田にためた霊力と対象を一体化させる。
これが修法の二つ目です。
「ああっ……動く……動きますわ」
修法の三つ目、丹田の霊気と一体化したお茶は、身体の一部のように動かせます。
これが霊力を用いた念動力の術です。
婉児様は浮かび上がったお茶に驚きながら、辿々しくもお茶を急須と高さへと持ち上げていきます。
ああ、覆水が盆に返ろうとしています。
私は感激しながら、急須の蓋をそっと持ち上げました。まだ、急須の小さな注ぎ口から注ぐのは難しいだろうと応援の気持ちで。
その時、婉児様と目が合いました。
婉児様の表情を理解するよりも先に…、
ばしゃん
お茶は急須に返らず、その場で床に落ちたのでした。
覆水盆に返らず。
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