#86 お母様
王妃の部屋は、館の南向きの、日当たりのいい2階にあった。
アーリアが、扉の前で、1度だけ、深く息を吸った。
それから、扉を叩いた。
「どうぞ」
細い声だった。
でも、よく通る声だった。
——部屋の中は、明るかった。
大きな窓が2つ。窓の外に、薬草園が見える。窓辺に、見ただけでふかふかだと分かる、大きな長椅子が置いてあって、そこに、女の人が横になっていた。
膝に、薄い毛布をかけて。
背中に、クッションを3つ重ねて。
痩せていた。
頬が、少しこけていた。顔色が、白かった。毛布の上に置かれた手は、細くて、指の骨の形が分かった。
髪は、アーリアと同じ、金褐色だった。
目も、アーリアと同じ、緑だった。
その目が、扉のところに立つアーリアを見て——。
笑った。
口を大きく開けて。目尻に、しわを寄せて。
——王と、そっくりな笑い方だった。
夫婦は、似る。
たぶん、そういうことなのだと思う。
「アーリア」
「……お母様」
アーリアが、長椅子の前に、膝をついた。
王妃の手を、両手で取った。
何も言わなかった。
王妃も、何も言わなかった。
ただ、もう片方の手で、アーリアの髪を、ゆっくり撫でていた。
——僕は、そっと、扉のほうへ下がった。
親子の時間だ。
僕がいるところではない。
廊下で待とう、と思って、扉の取っ手に手をかけたところで、声がかかった。
「あら。あなたが、ユウマさん?」
振り返った。
王妃が、アーリアの髪を撫でながら、僕を見ていた。
「あ、はい。綿貫悠真です。はじめまして」
「はじめまして。エレオノーラよ」
王妃は、手招きをした。
「こっちへいらして。ほら」
僕は、おそるおそる、長椅子のそばまで行った。
アーリアの隣に、しゃがんだ。
王妃が、僕の顔を、じっと見た。
緑の目が、鋭かった。
体は弱っていても、目は、少しも弱っていなかった。
「夫がね、手紙で、あなたのことばかり書くのよ」
「……陛下が」
「〈綿貫殿は、今日も熊の下敷きになりかけた〉」
王妃は、手紙を読み上げるみたいに、言った。
「〈綿貫殿は、今日も兎に頭を蹴られた〉〈綿貫殿は、今日も狼と屋根から落ちた〉。毎回、そんなことばかり。わたくし、あなたのこと、生傷の絶えない方だと思っていたわ」
「……だいたい、合ってます」
王妃が、また、口を大きく開けて笑った。
アーリアが、小さく、ため息をついた。
——アーリアが、王から預かった包みを、渡した。
王妃は、包みを膝の上で開いた。
中から、手紙が1通と、木の箱が1つ、出てきた。
箱を開けた。
焼き菓子だった。
ドーラの焼き菓子だ。王宮で大人気の、木の実の入ったやつ。
きれいに並べてあった。
縦に3列、横に4列。
その、右の端の列の、いちばん下が、1つだけ、空いていた。
王妃は、その空いたところを、しばらく見ていた。
それから、言った。
「あの人、また1つ、食べたわね」
アーリアが、顔を覆った。
僕は、笑いをこらえるのに、必死だった。
医者に、甘いものを止められている王だ。
夜中に、厨房に忍び込むような王だ。
奥さんに送る菓子箱からも、1つ、食べてしまったのだ。
王妃は、箱の蓋を閉めて、膝の上で、ぽんぽんと叩いた。
「次に来たとき、聞いてみるわ。いくつ入っていたの、って」
——きっと、王は、何も言えなくなる。
アーリアが、昔、それを見るのが好きだったと言っていた。
なんとなく、分かった。
——それから、王妃は、獣の話を聞きたがった。
「熊の下敷きの話。詳しく聞かせて」
僕は、話した。
モチの爪切りの話。400kgの腹の下に潜り込んで、鋸で爪を削ること。途中で寝返りを打たれると、死にかけること。蜂蜜を舐めているときの顔が、すごくいいこと。
王妃は、笑いながら聞いていた。
それから、ギンの話をした。
雪の吹き溜まりで拾ったとき、体長20cm、2.1kgだったこと。上着の内ポケットに入っていたこと。それが今、300kgになって、屋根から降りられなくなったこと。
それから、アズキの話。ソラの話。スズリの話。
止まらなくなった。
動物の話になると、僕は、止まらない。
アーリアが、僕の袖を、くいくいと引いた。
「ユウマさん。母は、まだ」
「あ」
僕は、口を閉じた。
病人の前で、30分も喋っていた。
「す、すみません」
「いいのよ」
王妃は、毛布の上で、手を組んでいた。
さっきより、頬に、少しだけ色が差していた。
「こんなに笑ったのは、久しぶり」
——窓の外で、きれいな声の鳥が鳴いていた。
王妃が、窓の外を見ながら、言った。
「アーリアがお腹にいたころ、毎晩、子守歌を歌ったのよ」
「子守歌、ですか」
「ええ。夫は、笑ったわ。お腹の中の子に歌って、何になるんだって」
王妃は、アーリアの手を、自分の手で包んだ。
「でもね、お腹の子には、歌が聞こえているのよ」
「……聞こえるんですか」
「ええ。わたくしには、分かったの。歌うと、お腹の中で、この子が、ぽこんと動いたから」
王妃は、笑った。
「生まれてきたとき、泣きやまなくてね。誰があやしても、泣きやまなかったのに、わたくしがあの子守歌を歌ったら、ぴたっと止んだの」
アーリアが、少し赤くなっていた。
「お母様。その話は」
「何度でもするわよ」
——夕方になった。
窓の外が、赤くなっていた。
王妃が、ふと、アーリアに聞いた。
「それで。マリネアの王子様は、どんな方?」
アーリアの手が、王妃の手の中で、少しだけ、動いた。
アーリアは、少し、考えていた。
窓の外を見て。
それから、答えた。
「……海の、よく笑う方です」
王妃は、黙って、アーリアの顔を見ていた。
「いい人ですよ」
僕は、付け足した。
本当のことだからだ。
「動物も好きで。船の上のウミカワウソに、ちゃんと名前呼んで話しかけてて。声が大きくて、肩を叩かれると、ちょっと痛いですけど」
王妃が、くすっと、笑った。
それから、娘の顔と、僕の顔を、見比べた。
ゆっくりと。
右へ、左へ。
なぜ笑われたのかは、分からなかった。
僕、何か、変なことを言っただろうか。
アーリアは、窓の外を見ていた。
——翌朝のことを、話す。
朝、王妃の部屋の前を通ったら、侍女が、困った顔をしていた。
「王妃様が、窓の外を気にしておられて」
部屋を覗くと、王妃は、長椅子から少し身を起こして、窓の外を見ていた。
窓の外の、薬草園の、いちばん手前の植え込みのあたりを。
「毎朝、野ウサギが来るのよ」
王妃が、言った。
「茶色の、耳の先だけ黒い子。毎朝、日が昇ってすぐに、あの植え込みの下から出てきて、窓の下で、草を食べるの。この部屋に移ってから、3年、ずっと」
「3年」
「ええ。最初の年は、塔の上の部屋にいたから。……今朝は、来ないの」
王妃は、窓の外を見たまま、言った。
声は、静かだった。
でも、毛布の上の手が、ぎゅっと握られていた。
——僕は、薬草園に降りた。
植え込みのそばに、ゆっくりしゃがんだ。
ススキが、3歩後ろで、止まった。
植え込みの下は、暗かった。蔓草が、低く、絡まり合っていた。
その奥で、何かが、かさりと動いた。
茶色い毛。耳の先だけ、黒い。
僕は、植え込みの奥へ、顔を寄せた。
鼻先が、触れそうなところまで。
そこで、止まった。蔓の奥から、小さな息が、僕の鼻の頭に、ふっ、ふっと当たった。
——声が、届いた。
『あし』
『からまった』
蔓が、後ろ脚に、絡まっていた。
細い、棘のある蔓だった。もがけばもがくほど、締まる。
野ウサギは、もがくのをやめて、じっとしていた。
賢い子だ。
「……ちょっと、ごめんね」
声に出して、言った。
植え込みの中に、そっと手を入れた。
蔓を、1本ずつ、ほどいた。棘が指に刺さった。かまわずに、ほどいた。
最後の1本が、ほどけた。
野ウサギは、跳ねた。
植え込みの奥へ。僕から、まっすぐ離れて。
振り返らずに、消えた。
僕は、指の棘を抜きながら、植え込みの前に、しばらくしゃがんでいた。
——その日の午後、館の庭師に頼んで、植え込みの、棘のある蔓だけを刈ってもらった。
——翌朝。
王妃の部屋の窓の下に、茶色い野ウサギが、いた。
耳の先だけ、黒い。
草を、食べていた。
後ろ脚を、ちゃんと地面について。
2階の窓から、王妃が、それを見ていた。
毛布の上で、両手を、胸の前で組んで。
何も、言わなかった。
ただ、ずっと、見ていた。
3年間、毎朝、そうしてきたように。
侍女が、あとで、こっそり教えてくれた。
王妃は、朝、あの子が来るのを見てから、朝ごはんを召し上がるのです、と。




