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86/87

#86 お母様

王妃の部屋は、館の南向きの、日当たりのいい2階にあった。


アーリアが、扉の前で、1度だけ、深く息を吸った。


それから、扉を叩いた。


「どうぞ」


細い声だった。


でも、よく通る声だった。


——部屋の中は、明るかった。


大きな窓が2つ。窓の外に、薬草園が見える。窓辺に、見ただけでふかふかだと分かる、大きな長椅子が置いてあって、そこに、女の人が横になっていた。


膝に、薄い毛布をかけて。


背中に、クッションを3つ重ねて。


痩せていた。


頬が、少しこけていた。顔色が、白かった。毛布の上に置かれた手は、細くて、指の骨の形が分かった。


髪は、アーリアと同じ、金褐色だった。


目も、アーリアと同じ、緑だった。


その目が、扉のところに立つアーリアを見て——。


笑った。


口を大きく開けて。目尻に、しわを寄せて。


——王と、そっくりな笑い方だった。


夫婦は、似る。


たぶん、そういうことなのだと思う。


「アーリア」


「……お母様」


アーリアが、長椅子の前に、膝をついた。


王妃の手を、両手で取った。


何も言わなかった。


王妃も、何も言わなかった。


ただ、もう片方の手で、アーリアの髪を、ゆっくり撫でていた。


——僕は、そっと、扉のほうへ下がった。


親子の時間だ。


僕がいるところではない。


廊下で待とう、と思って、扉の取っ手に手をかけたところで、声がかかった。


「あら。あなたが、ユウマさん?」


振り返った。


王妃が、アーリアの髪を撫でながら、僕を見ていた。


「あ、はい。綿貫悠真です。はじめまして」


「はじめまして。エレオノーラよ」


王妃は、手招きをした。


「こっちへいらして。ほら」


僕は、おそるおそる、長椅子のそばまで行った。


アーリアの隣に、しゃがんだ。


王妃が、僕の顔を、じっと見た。


緑の目が、鋭かった。


体は弱っていても、目は、少しも弱っていなかった。


「夫がね、手紙で、あなたのことばかり書くのよ」


「……陛下が」


「〈綿貫殿は、今日も熊の下敷きになりかけた〉」


王妃は、手紙を読み上げるみたいに、言った。


「〈綿貫殿は、今日も兎に頭を蹴られた〉〈綿貫殿は、今日も狼と屋根から落ちた〉。毎回、そんなことばかり。わたくし、あなたのこと、生傷の絶えない方だと思っていたわ」


「……だいたい、合ってます」


王妃が、また、口を大きく開けて笑った。


アーリアが、小さく、ため息をついた。


——アーリアが、王から預かった包みを、渡した。


王妃は、包みを膝の上で開いた。


中から、手紙が1通と、木の箱が1つ、出てきた。


箱を開けた。


焼き菓子だった。


ドーラの焼き菓子だ。王宮で大人気の、木の実の入ったやつ。


きれいに並べてあった。


縦に3列、横に4列。


その、右の端の列の、いちばん下が、1つだけ、空いていた。


王妃は、その空いたところを、しばらく見ていた。


それから、言った。


「あの人、また1つ、食べたわね」


アーリアが、顔を覆った。


僕は、笑いをこらえるのに、必死だった。


医者に、甘いものを止められている王だ。


夜中に、厨房に忍び込むような王だ。


奥さんに送る菓子箱からも、1つ、食べてしまったのだ。


王妃は、箱の蓋を閉めて、膝の上で、ぽんぽんと叩いた。


「次に来たとき、聞いてみるわ。いくつ入っていたの、って」


——きっと、王は、何も言えなくなる。


アーリアが、昔、それを見るのが好きだったと言っていた。


なんとなく、分かった。


——それから、王妃は、獣の話を聞きたがった。


「熊の下敷きの話。詳しく聞かせて」


僕は、話した。


モチの爪切りの話。400kgの腹の下に潜り込んで、鋸で爪を削ること。途中で寝返りを打たれると、死にかけること。蜂蜜を舐めているときの顔が、すごくいいこと。


王妃は、笑いながら聞いていた。


それから、ギンの話をした。


雪の吹き溜まりで拾ったとき、体長20cm、2.1kgだったこと。上着の内ポケットに入っていたこと。それが今、300kgになって、屋根から降りられなくなったこと。


それから、アズキの話。ソラの話。スズリの話。


止まらなくなった。


動物の話になると、僕は、止まらない。


アーリアが、僕の袖を、くいくいと引いた。


「ユウマさん。母は、まだ」


「あ」


僕は、口を閉じた。


病人の前で、30分も喋っていた。


「す、すみません」


「いいのよ」


王妃は、毛布の上で、手を組んでいた。


さっきより、頬に、少しだけ色が差していた。


「こんなに笑ったのは、久しぶり」


——窓の外で、きれいな声の鳥が鳴いていた。


王妃が、窓の外を見ながら、言った。


「アーリアがお腹にいたころ、毎晩、子守歌を歌ったのよ」


「子守歌、ですか」


「ええ。夫は、笑ったわ。お腹の中の子に歌って、何になるんだって」


王妃は、アーリアの手を、自分の手で包んだ。


「でもね、お腹の子には、歌が聞こえているのよ」


「……聞こえるんですか」


「ええ。わたくしには、分かったの。歌うと、お腹の中で、この子が、ぽこんと動いたから」


王妃は、笑った。


「生まれてきたとき、泣きやまなくてね。誰があやしても、泣きやまなかったのに、わたくしがあの子守歌を歌ったら、ぴたっと止んだの」


アーリアが、少し赤くなっていた。


「お母様。その話は」


「何度でもするわよ」


——夕方になった。


窓の外が、赤くなっていた。


王妃が、ふと、アーリアに聞いた。


「それで。マリネアの王子様は、どんな方?」


アーリアの手が、王妃の手の中で、少しだけ、動いた。


アーリアは、少し、考えていた。


窓の外を見て。


それから、答えた。


「……海の、よく笑う方です」


王妃は、黙って、アーリアの顔を見ていた。


「いい人ですよ」


僕は、付け足した。


本当のことだからだ。


「動物も好きで。船の上のウミカワウソに、ちゃんと名前呼んで話しかけてて。声が大きくて、肩を叩かれると、ちょっと痛いですけど」


王妃が、くすっと、笑った。


それから、娘の顔と、僕の顔を、見比べた。


ゆっくりと。


右へ、左へ。


なぜ笑われたのかは、分からなかった。


僕、何か、変なことを言っただろうか。


アーリアは、窓の外を見ていた。


——翌朝のことを、話す。


朝、王妃の部屋の前を通ったら、侍女が、困った顔をしていた。


「王妃様が、窓の外を気にしておられて」


部屋を覗くと、王妃は、長椅子から少し身を起こして、窓の外を見ていた。


窓の外の、薬草園の、いちばん手前の植え込みのあたりを。


「毎朝、野ウサギが来るのよ」


王妃が、言った。


「茶色の、耳の先だけ黒い子。毎朝、日が昇ってすぐに、あの植え込みの下から出てきて、窓の下で、草を食べるの。この部屋に移ってから、3年、ずっと」


「3年」


「ええ。最初の年は、塔の上の部屋にいたから。……今朝は、来ないの」


王妃は、窓の外を見たまま、言った。


声は、静かだった。


でも、毛布の上の手が、ぎゅっと握られていた。


——僕は、薬草園に降りた。


植え込みのそばに、ゆっくりしゃがんだ。


ススキが、3歩後ろで、止まった。


植え込みの下は、暗かった。蔓草が、低く、絡まり合っていた。


その奥で、何かが、かさりと動いた。


茶色い毛。耳の先だけ、黒い。


僕は、植え込みの奥へ、顔を寄せた。


鼻先が、触れそうなところまで。


そこで、止まった。蔓の奥から、小さな息が、僕の鼻の頭に、ふっ、ふっと当たった。


——声が、届いた。


『あし』


『からまった』


蔓が、後ろ脚に、絡まっていた。


細い、棘のある蔓だった。もがけばもがくほど、締まる。


野ウサギは、もがくのをやめて、じっとしていた。


賢い子だ。


「……ちょっと、ごめんね」


声に出して、言った。


植え込みの中に、そっと手を入れた。


蔓を、1本ずつ、ほどいた。棘が指に刺さった。かまわずに、ほどいた。


最後の1本が、ほどけた。


野ウサギは、跳ねた。


植え込みの奥へ。僕から、まっすぐ離れて。


振り返らずに、消えた。


僕は、指の棘を抜きながら、植え込みの前に、しばらくしゃがんでいた。


——その日の午後、館の庭師に頼んで、植え込みの、棘のある蔓だけを刈ってもらった。


——翌朝。


王妃の部屋の窓の下に、茶色い野ウサギが、いた。


耳の先だけ、黒い。


草を、食べていた。


後ろ脚を、ちゃんと地面について。


2階の窓から、王妃が、それを見ていた。


毛布の上で、両手を、胸の前で組んで。


何も、言わなかった。


ただ、ずっと、見ていた。


3年間、毎朝、そうしてきたように。


侍女が、あとで、こっそり教えてくれた。


王妃は、朝、あの子が来るのを見てから、朝ごはんを召し上がるのです、と。


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