#85 腹の出ていない王様
館の門の前で、王が、出迎えている。
——と、僕は思った。
同じ顔だった。
赤褐色の髭。大きな鼻。太い眉。同じ声で、大きさで、豪快に笑っていた。
「よう来た! よう来た!」
両腕を、いっぱいに広げて。
僕は、馬車から降りながら、首を傾げた。
王は、王都にいるはずだ。4日前に、中庭で見送ってくれた。
なのに、なぜ、ここに。
——それから、気づいた。
腹が、出ていなかった。
王の腹は、出ている。
立っていると、ベルトの上に、ぽこんと乗っている。座ると、もう1段乗る。
この人の腹は、まっすぐだった。
胸から、ベルトまで、まっすぐ。
「……叔父上」
アーリアが、馬車から降りて、礼をした。
叔父上。
王の、弟だ。
「アーリア! 大きくなったな! いや、去年も会ったか! 去年より大きくなった!」
「なっておりません、叔父上」
「なった! わしには分かる!」
王弟は、アーリアを抱きしめた。
それから、くるりと僕のほうを向いた。
「兄上から手紙が来ておる! そなたが、獣と話す客人か!」
「あ、はい。綿貫悠真です」
「ヘルムートだ! この辺境を預かっておる!」
言い終わる前に、抱きしめられていた。
太い腕だった。
背中の骨が、ぽき、と鳴った。
「よう来てくれた。兄上の手紙には、そなたのことばかり書いてあるのだ。獣の話ばかりして、熊の下敷きになりかけて、それでも笑っておる若者だと」
ぼき、ともう1度鳴った。
「叔父上。ユウマさんの骨が」
アーリアが、王弟の袖を引いた。
——王弟ヘルムートは、王より、5つ年下なのだという。
顔も、声も、笑い方も、王とそっくりだった。
違うのは、腹だけだ。
毎朝、館の周りを走って、剣を振って、薪を割っているのだそうだ。
「兄上も、走ればよいのだ。わしは、ずっとそう言っておる」
「陛下は、走らないんですか」
「走らん! 菓子を食う!」
王弟は、大声で笑った。
それから、急に、目を潤ませた。
「……兄上は、菓子でも食わんと、やっておれんのだ。義姉上が、ここにおるからな」
すぐ泣くところも、そっくりだった。
——館の奥から、人が、次々に出てきた。
最初は、背の高い、落ち着いた女の人だった。
「カタリナと申します。ようこそ、ハイデルンへ」
王弟の奥さんだ。公妃カタリナ。
濃い茶色の髪を、きっちりとまとめて、薬草の匂いがした。手が、土で少し汚れていた。薬草園から、そのまま出てきたらしい。
それから、子どもたちが4人。
いちばん上は、21歳の長男ルドルフ。王弟より背が高くて、口数が少なかった。僕に、黙って、深く頭を下げた。それだけだった。
次が、17歳の次男フェリクス。
「地図、持ってきた?」
最初のひと言が、それだった。
「え、地図?」
「王都から来たんだろ? 王都の新しい地図。あと、南の海の海図。マリネアの王子様と知り合いなんだろ? 海図、もらってない?」
「もらってないです」
「そっかぁ」
フェリクスは、少しだけ、しょんぼりした。
それから、すぐに顔を上げて、ここから王都までの道の話を、5分くらい、ひとりで喋り続けた。
3人目が、14歳の長女ロッテだった。
ロッテは、何も喋らなかった。
僕の後ろの、荷馬車の後ろ、白い山を、見ていた。
モチだ。
ロッテの目が、まん丸になっていた。
それから——。
「きゃあああああああ!」
歓喜の叫びだった。
歓声を上げながら、ロッテは、まっすぐ、モチのほうへ走っていった。
逃げるのではなく。
向かって。
両腕を、広げて。
「ロッテ!」
カタリナの声は、間に合わなかった。
ロッテは、400kgの白い熊の、胸の毛の中に、頭から飛び込んだ。
もふっ、と、音がした。
モチは、目を閉じたまま、歩きながら寝ていたところだった。
『……?』
モチが、薄く、目を開けた。
胸の毛の中に、知らない女の子が埋まっていた。
モチは、しばらく、それを見下ろしていた。
それから、もう1度、目を閉じた。
『……ねる……』
寝た。
ロッテは、モチの胸の毛に顔を埋めたまま、動かなかった。
「……ロッテ様は、動物が」
「好きすぎるのです」
カタリナが、額を押さえていた。
——4人目は、9歳の末っ子パウルだった。
パウルは、ギンを見ていた。
正確には、ギンの尻尾を見ていた。
銀白の、太くて長い、ふさふさの尻尾。ギンが座ると、地面の上で、ゆっくり左右に揺れる。
パウルが、そろり、と動いた。
僕の後ろへ回り込んで。
ギンの尻尾の、真後ろへ。
両手を、伸ばした。
——ぶら下がるつもりだ。
僕が振り向くより先に、パウルの襟が、後ろから、くいっと引かれた。
ススキだった。
僕の3歩後ろ。いつもの場所。
パウルが回り込んだのは、ちょうど、ススキのいる場所だった。
ススキは、パウルの襟を、牙の先で、そっと咥えていた。
噛んではいない。
ただ、それ以上、前へ進めないように。
パウルが、首だけ振り向いて、ススキを見た。
ススキは、パウルを見ていなかった。
僕の背中を、見ていた。
「……放せよ」
ススキは、放さなかった。
パウルが、伸ばしていた手を、下ろした。
ススキが、襟を放した。
それから、何もなかったみたいに、元の3歩後ろへ戻った。
パウルは、しばらく、ぽかんとしていた。
それから、叫んだ。
「かっこいい!」
——館の門は、石の門だった。
古い、頑丈な、アーチの門。幅が、1mくらいしかなかった。
モチの肩幅は、1.4m。
王宮の、僕の部屋の扉は、幅1.2m。モチは毎晩、そこを、壊さずに通ってくる。
でも、ここは、1mだ。
モチが、門の前で、止まった。
ロッテは、もう、胸の毛から出ていた。カタリナに引きはがされたのだ。
モチは、門を、見上げた。
左右の、石の柱を見た。
それから、僕を見た。
『……せまい……』
「うん。狭いね」
館の人たちが、皆、門の前に集まってきていた。
王弟も、カタリナも、子どもたちも。使用人たちも。
「門を、通るのか、その熊は」
王弟が、腕を組んで、言った。
「通れると思います。たぶん」
「その肩幅でか」
「熊には、鎖骨がないんです」
僕は、言った。
「肩の骨が、体に固定されてないので、片方ずつ、ずらせるんです。肩さえ抜ければ、だいたい、どこでも通れます」
「……ほう」
王弟は、顎をさすった。
「だが、無理をさせることはない。裏に、荷馬車を入れる大きな門がある。そっちへ回ればいい。館を、ぐるっと半周することになるがな」
僕は、それを、モチに伝えた。
モチは、館の裏へと続く道を、ちらりと見た。
それから、僕を見た。ギンを見た。アズキを見た。ススキを見た。
皆、これから、この門をくぐるのだ。
『……モチ……いっしょ』
ひとりだけ、遠回りするのは、いやなのだ。
「皆といっしょがいいそうです」
王弟は、目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「そうか。なら、見せてもらおう」
——モチが、門に、頭を入れた。
それから、右の肩を、すっと前へ、ずらした。
片方が、門を抜けた。
左の肩を、ずらした。
抜けた。
「おお……」
使用人たちが、声を上げた。
モチの胴体が、門の中に、ずるずると入っていった。
400kgの白い体が、1mの門を、通っていく。
——お尻で、止まった。
ぴたり、と。
門の中に、モチの上半分。
門の外に、モチの下半分。
白い、丸い、大きなお尻が、門の外に、取り残されていた。
腰の骨は、ずらせない。
だから、お尻で、止まる。
いつものことだった。
モチが、お尻を、振り始めた。
ぷりっ。
ぷりっ。
ぷりぷりぷりぷり。
左右に、小刻みに。
短い尻尾が、いっしょに揺れていた。
門の外で、ロッテとパウルが、しゃがみ込んで、それを見ていた。
息を、止めて。
ぷりぷりぷりぷりぷり——。
ぽんっ。
モチが、抜けた。
門の中に、転がるように、入っていった。
——ロッテとパウルが、立ち上がって、拍手をした。
それにつられて、使用人たちも、拍手をした。
カタリナも、少しだけ、手を叩いていた。
ルドルフは、拍手はしなかったが、口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
王弟は、大声で笑いすぎて、門の柱に手をついていた。
モチは、門の内側の芝生の上で、仰向けになって、寝ていた。
——館の裏手から、犬の吠え声が聞こえてきたのは、そのあとだった。
館の猟犬たちだった。
裏手の犬舎に、8頭。大きな、茶色と黒の、耳の垂れた犬たちだ。
吠えていた。
ずっと。
僕らが門をくぐってから、ひと時も止まずに。
「すまんな。普段は、大人しいのだが」
王弟が、困った顔で言った。
僕は、犬舎のほうへ歩いていった。
柵の前に、ゆっくりしゃがんだ。
目を、合わせないように。
いちばん前で吠えていた、年かさの犬が、柵の隙間から、鼻を突き出してきた。
僕の鼻先の、すぐ前に。
僕の鼻まで、指1本ぶんのところで、止まった。
声が、届いた。
『しらない』
『くる』
『こわい』
——知らない。来る。怖い。
僕は、振り返った。
館の前庭に、僕の獣たちがいた。
フェンリルが1頭。熊が1頭。犬が1頭。森狼が1頭。それに、小さな子たちが、ぞろぞろと。
この犬たちにとっては、知らない大きな獣が、いきなり、大勢で、自分たちの家にやってきたのだ。
ここは、自分たちが守る家なのに。
取られると、思ったのだ。
『ギン』
僕は、送った。
『きて。ここ』
ギンが、前庭から、ゆっくり歩いてきた。
体長2.4m。300kg。
犬たちの吠え声が、いっそう大きくなった。
『ギン。ふせ、して』
——ギンが、柵の前で、伏せた。
前肢を、まっすぐ前に投げ出して。
お腹を、地面につけて。
顎を、前肢の上に、のせて。
フェンリルが、猟犬の犬舎の前で、伏せた。
——吠え声が、止まった。
8頭とも。
ぴたりと。
犬たちが、顔を見合わせていた。
それから、年かさの犬が、柵の隙間から、もっと鼻を突き出した。
ギンの、鼻先に向かって。
ギンは、動かなかった。
顎を前肢にのせたまま、目だけで、犬を見ていた。
年かさの犬の鼻が、ギンの鼻に、触れた。
ちょん、と。
それから、隣の犬が。
その隣の犬が。
1頭ずつ、柵の隙間から、ギンの鼻に、鼻をつけに来た。
8頭ぶん。
最後の1頭が鼻をつけたとき、ギンの尻尾が、地面の上で、1回だけ、ぱたりと揺れた。
犬たちの尻尾も、揺れていた。
——王弟が、僕の後ろで、腕を組んでいた。
「……兄上の手紙は、大げさではなかったのだな」
それから、急に、目を潤ませた。
本当に、すぐ泣く人だった。




