#84 東へ
出発は、3日後の朝になった。
ハイデルンまでは、馬車で4日。
同行は、アーリアと、エステルと、リーゼ。
アーリアは、母に会うため。エステルは、治療のため。リーゼは、護衛だ。
「わたしは、なんで毎回、護衛なんだ」
「リーゼさんが、いちばん強いからです」
「……」
リーゼは、何も言わずに、荷馬車に鞍を積んだ。耳が、少し赤かった。
——獣は、誰を連れていくか、1体ずつ聞いて決めた。
まず、幻獣たち。
僕と、いっしょに力を使ってくれる子たちだ。何が起きているのか分からない場所へ行くなら、この子たちがいてくれると心強い。
スズリとスミ。フデとハネ。アサとバン。コナ。ソラ。クルミ。
ブンとチンは、聞く前から、もう外套のフードの中にいた。
トメだけは、残ることになった。書庫の羊毛の箱で、留守番をしてくれる。『ここ』と言って、箱の中で丸くなったきり、動かなかった。じっと、とどまるのが得意な子なのだ。
それから、ギン。アズキ。ススキ。フク。
ツグミも、連れていくことにした。何かあったとき、王都へ知らせを運んでくれる子がいると心強い。
そして、モチ。
モチには、聞いてみた。
『モチ。とおい。いく?』
『……いく……』
返事は、いつもどおり、遅かった。
でも、迷いはなかった。
残りの子たちは、トトとドーラに預けた。
ナギの飛行訓練は、トトが続けてくれることになった。ハネもバンもいないけれど、ナギは、もう、中庭から怖がらずに飛び立てるようになっている。
「堀に落ちたら、おれが泳ぐ!」
トトは、胸を張った。
それから、腰に、空の樽を縄でくくりつけた。
浮き輪の代わりらしい。
4日目に飛び込んで、リーゼに引き上げられたのを、まだ覚えているのだ。
——出発の朝。
中庭に、馬車が2台と、荷馬車が1台、並んだ。
王が、見送りに来ていた。
王は、アーリアに、包みを1つ渡した。
「エレオノーラに、渡してくれ」
「はい、父上」
包みの中身は、聞かなかった。
王は、それから、僕の手を、両手で握った。
大きな手だった。指輪が、ごつごつしていた。
「綿貫殿。頼む」
「はい」
それだけだった。
——旅は、のんびりしていた。
東への街道は、なだらかな丘の間を、ゆっくり登っていく。
麦の刈り入れが終わった畑。羊のいる牧草地。ところどころに、小さな村。
9月の空は、高かった。
毎朝、出発の合図は、ソラが出した。
宿場の中庭で、皆が馬車に乗り込むころ、ソラが、宿の屋根の上から、ふわりと滑空してくる。
そして、僕の頭に、着地する。
ぽすん、と。
『たかい!』
それが、出発の合図になった。
1日目の朝は、たまたまだった。2日目の朝は、御者が「あの、頭の上のが乗ったら出るんですか」と聞いた。3日目の朝には、御者は、ソラが降りてくるのを待っていた。
——モチは、荷馬車の後ろを、歩いてついてきた。
北へ向かったときは、荷馬車の荷台に乗せてもらって、出発して5分で寝ていた。
でも、今回は視察ではなく、王女の旅だ。王妃様のお見舞いにいくため、派手な出発とはいかないが、クルミに収納してもらって、身軽過ぎるのも良くない。荷馬車は1台きりでも、王妃様への荷物と、皆の荷物が、山のように積んである。400kgの白い熊が寝転がれる隙間は、どこにもなかった。
だから、歩く。
荷馬車の後ろを、のそのそと。
1日目の昼過ぎ、僕は、気づいた。
モチの目が、閉じていた。
歩いている。
ちゃんと、荷馬車の後ろについて、歩いている。
なのに、目が閉じている。
10歩に1回くらい、すう、と、寝息みたいな息が聞こえる。
「……モチ、寝てる?」
『……ねて……ない……』
いや、寝ていた。
前を行く荷馬車の、車輪の音と、馬の匂いを頼りに、ついてきているらしい。
熊は、鼻がいい。犬より、いいくらいだ。目を閉じていても、荷馬車の匂いさえ追えれば、まっすぐ歩ける。
——そのとき、前の馬車から、笑い声が聞こえた。
声を出して、笑っていた。
アーリアだった。
馬車の窓から、身を乗り出して、後ろのモチを見ていた。
モチが、目を閉じたまま、道端の石に、こつんとつまずいて、それでも目を開けずに、また歩き出したところだった。
アーリアは、口元を手で押さえていた。
でも、押さえきれずに、笑っていた。
肩を、震わせて。
——アーリアが、声を出して笑うのを、僕は、初めて聞いた。
いつもは、口元だけで、綺麗に笑う人だ。
こんなふうに、肩を震わせて笑うのは、初めて見た。
アーリアは、僕が見ているのに気づいて、慌てて窓から顔を引っ込めた。
——その夜、宿場の食堂で、アーリアが、母の話を、少しだけした。
「母は、父をからかうのが好きなのです」
「からかう?」
「はい。父が大きな声で何か言うと、母は、静かに、ひと言だけ返すのです。それで、父は、あたふたして何も言えなくなってしまって」
アーリアは、少し笑った。
「……わたくしは、子どものころ、それを見るのが、好きでした」
それから、窓の外を見た。
東の空に、月が出ていた。
アーリアは、それ以上、話さなかった。
僕も、聞かなかった。
——3日目の昼。
街道の脇で、ラバが座り込んでいた。
荷を山ほど積んだ、茶色のラバだった。
持ち主の男が、手綱を引っぱって、困り果てていた。
「おい、立て。立ってくれ。今日じゅうに峠を越えねえと」
ラバは、立たなかった。
脚を折りたたんで、街道の土の上に、どっかりと座ったまま。
耳を、後ろに倒していた。
僕は、馬車を止めてもらって、降りた。
「あの、少しだけ、いいですか」
男は、怪訝な顔をした。
僕は、ラバの前に、ゆっくりしゃがんだ。
目を合わせないように、少しだけ横を向いて。
契約していない子の声は、鼻先が触れるほど近くまで寄らないと、届かない。
ラバが、首を、少しだけ伸ばした。
僕の顔の前に、ラバの鼻先が来た。
触れては、いない。
触れるか、触れないかの、ところ。
息が、僕の頬に、温かく当たった。
——声が、届いた。
『おもい』
『ひだり』
——重い。左。
僕は、立ち上がって、ラバの背中の荷を見た。
麻袋が、左右に振り分けて積んであった。
一見、釣り合っているように見えた。
でも、よく見ると、左の袋のほうが、少しだけ、低い位置に垂れていた。
中身が、偏っているのだ。
「左の袋、何が入ってますか」
「……鉄の、蹄鉄だが」
「右は」
「羊毛だ」
——左は鉄。右は羊毛。
袋の大きさは同じでも、重さは、ぜんぜん違う。
「左の肩が、痛いんだと思います。重さが、左にばかりかかってて」
男は、目を丸くした。
それから、何も言わずに、荷を下ろし始めた。
僕と、リーゼと、男の3人で、荷を積み直した。
蹄鉄を、左右に半分ずつ分けて。羊毛を、その上に。
最後に、男が、ラバの左の肩を、手のひらで、ゆっくりさすった。
ラバが、立ち上がった。
ぶるっと、体を震わせた。
それから、男の胸に、鼻先を、ぐいぐいとこすりつけた。
「……悪かったな。気づかなくて」
男は、ラバの首を抱いて、言った。
それから、僕を見た。
「あんた、何者だ」
「テイマーです」
男は、首を傾げた。
テイマーが何をする人なのか、この国の人は、だいたい、知らない。
——4日目の夕方。
街道が、深い森に入った。
背の高い木が、両側から覆いかぶさって、空が細くなった。
森の匂いが、した。
湿った土と、苔と、落ち葉の匂い。王都の匂いとも、北の雪原の匂いとも、違う。
ギンが、鼻を高く上げて、匂いを嗅いでいた。
アズキが、馬車の横を、尻尾を振りながら、行ったり来たりしていた。
森が、少しだけ、開けた。
その向こうに、館が見えた。
灰色の石の、大きな館だった。
いちばん端に、古い、細い塔が、1本、空に向かって立っていた。
塔の窓に、夕日が当たって、赤く光っていた。
「……あれが、ハイデルンの館です」
アーリアが、馬車の窓から外を見て、言った。
声が、少しだけ、震えていた。




