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#83 え、王妃様、いたんですか

東から、手紙が届いた。


9月の、2週目の朝だった。


僕は、中庭で、ナギの朝の飛行を見送ったところだった。今日は、500mで落ちた。リーゼが泳いで迎えに行き、王の私室の窓から「おお……」が聞こえた。昨日より、ちょっとだけ明るい「おお……」だった。


そこへ、伝令が走ってきた。


王宛ての手紙だった。


封蝋は、深い緑色。蝋に押された紋は、王家の紋に似ていて、少しだけ違った。


「東の辺境ハイデルンより。王弟殿下から、陛下へ」


——王弟?


王に、弟がいたのか。


それも、初耳だった。


——王は、中庭の石のベンチで、手紙を開いた。


読んだ。


それから、黙り込んだ。


手紙を持った手が、膝の上に、ぱたりと落ちた。


そのまま、動かなかった。


赤褐色の髭が、少しだけ、震えていた。


「陛下?」


王は、答えなかった。


回廊から、アーリアが出てきた。


王の様子を見て、それから、王の手元の手紙を見て、すべて分かったような顔をした。


アーリアは、王の手から手紙をそっと取って、読んだ。


読み終えて、顔を上げた。


「……母の薬草が、今年は採れないそうです」


——僕は、固まった。


「……母?」


アーリアの、お母さん。


「アーリア様の、お母さん?」


「はい。王妃です」


アーリアは、少し不思議そうに首を傾げて、言った。


僕の頭の中で、何かが、ゆっくりと、ひっくり返った。


王妃。


王の、奥さん。


アーリアの、お母さん。


「……え、王妃様、いたんですか!?」


——中庭が、静かになった。


噴水の水の音だけが、した。


洗い物をしていた侍女が、手を止めた。


獣舎の前で、トトが、桶を持ったまま、こっちを見ていた。


トトが、桶を地面に置いた。


両手で、頭を抱えた。


「兄ちゃん……」


「え、だって、誰も、何も」


「兄ちゃん……1年以上、ここにいて……」


「だって!」


アーリアが、少しだけ困った顔で、僕を見ていた。


怒っては、いなかった。


たぶん、呆れていた。


——中庭の隅で、ドーラが、腕を組んでいた。


僕は、厨房の裏口まで歩いていって、小声で聞いた。


「ドーラさん、知ってました?」


「知ってるよ。誰でも知ってるよ」


「……なんで、誰も、話さなかったんですか」


ドーラは、中庭の石のベンチに、視線を向けた。


王が、まだ、座っていた。


手紙を、アーリアに取られたまま、その手を膝の上に置いて。


「あの方の前で、王妃様の話をするとね」


ドーラは、声を落とした。


「泣くんだよ。毎回」


——4年前の春に、王妃は倒れたのだという。


胸の病だった。


ふつうの薬では、治らない。


東の辺境のハイデルンでしか育たない、〈つきしろ草〉という薬草があって、それを煎じて飲むと、病が進むのを抑えられる。


だから王妃は、4年前から、ハイデルンにいる。


王弟の一家のもとで、療養している。


王は、年に何度か、馬車で4日かけて、会いに行く。


帰ってくると、何日か、元気がない。


だから、王宮の誰も、王妃の話をしなくなった。


王が泣くから。


話さないから、僕の耳には、1度も入らなかった。


僕は、1年以上、この王宮にいた。


王の私室にも、何度も入った。


縁談を断ったのも、帰らないと言ったのも、あの部屋だった。


なのに、気づかなかった。


あの部屋の、暖炉の上に、小さな肖像画が掛かっていた。若い女の人の。


アーリアに、少し似ていた。


僕は、それを、ずっと、昔のご先祖様の絵だと思っていた。


「……僕、人の気持ちに、本当に鈍いんだな」


呟いたら、ドーラが、僕の背中を、ばしんと叩いた。


「今さら何言ってんだい」


痛かった。


——少し、落ち込んだ。


獣舎に戻って、アズキの寝床の横に、座り込んだ。


アズキが、寝床から出てきて、僕の膝に、顎をのせた。


赤茶の頭が、ずしりと重い。


温かい。


犬の体温は、人間より2度高い。膝の上だけ、ぽかぽかしてくる。


『ごはん?』


「ごはんじゃない」


『……』


「ちょっと、落ち込んでる」


アズキは、落ち込む、を知らない。


でも、顎を、もっと深く、僕の膝に押しつけてきた。


ぐいぐいと。


——落ち込んでいても、仕方がない。


気づかなかったのは、もう、どうしようもない。


それより、今、できることを考えよう。


薬草が、今年は採れない。


採れないと、王妃の病が、進んでしまう。


——薬草のことなら。


僕は、顔を上げた。


草を食べる子たちがいる。


山羊。牛。鹿。兎。


草のことは、草を食べる子のほうが、人間より、ずっとよく知っている。


聞けば、何か分かるかもしれない。


——僕は、立ち上がった。


アズキが、膝から滑り落ちて、不満そうに鼻を鳴らした。


——王は、まだ、中庭の石のベンチにいた。


アーリアが、隣に座っていた。


僕は、王の前に、しゃがんだ。


「陛下」


王が、ゆっくり、顔を上げた。


目が、赤かった。


「行かせてください。ハイデルンに」


「……綿貫殿」


「薬草のことなら、草を食べる子たちに、聞けるかもしれません。採れない理由が、分かるかもしれません」


王は、僕を見ていた。


「船が出るまで、まだ2ヶ月近くあります。ナギの飛行訓練も、毎日、少しずつなので、まだまだ時間はあります」


王の髭が、また、震えた。


それから、王は、何度も、頷いた。


声は、出ていなかった。


アーリアが、王の背中に、そっと手を置いた。


——その夜、王の私室の前を通った。


扉が、少し開いていた。


覗くつもりはなかった。


中から、王の声が、聞こえてきた。


泣いている声ではなかった。


小さな声で、何か、話しかけていた。


扉の隙間から、見えた。


王が、暖炉の前の床に座り込んでいた。


膝の上に、バウの頭があった。


バウは、王の膝に顎をのせたまま、動かなかった。


耳の聞こえない、16歳の老犬だ。王の声は、聞こえていない。


それでも、動かなかった。


僕は、扉の外から、そっと送った。


『バウ』


『……』


『あのひと、どう?』


少しして、返ってきた。


ゆっくりと。


『かなしい』


それから。


『いる』


——悲しい。


だから、いる。


そばに、いる。


この子は、王が悲しいときは、いつも、こうしてきたのだ。


10年以上、ずっと。


僕は、扉を叩いた。


王が、驚いた顔で、こっちを見た。


「陛下。バウが、そばにいるって言ってます」


それだけ、伝えた。


ほかに、言うことは、なかった。


王は、しばらく、僕を見ていた。


それから、膝の上のバウを、両腕で、抱きしめた。


大きな体を、丸めて。


バウの、白くなった首の毛に、顔を埋めて。


バウは、尻尾を、ゆっくり、2回振った。


僕は、扉を、そっと閉めた。


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