#82 字を、お読みになりますか
翌朝、書庫の3階へ行った。
ヴィルマは、いつもの卓にいた。
いつもの卓に、いつものように、羊皮紙と、古い本と、冷めた茶。
僕が階段を上がりきる前に、ヴィルマは顔を上げた。
「花束のご報告は、月に1度と、あなたが王都を離れて戻られた日。それでよろしいですか」
先に、言われてしまった。
「……はい。お願いします」
ヴィルマは、頷いて、羊皮紙に何か書きつけた。
たぶん、予定だ。この人は、決めたことは必ず書く。
——僕は、戻らずに、卓の向かいに座った。
肩の上で、スズリが、書庫の煙道のほうを見ていた。自分の家の羊毛の箱が、そこにある。
ずっと、聞けなかったことがあった。
「ヴィルマさん」
「はい」
「毎晩、何を調べてるんですか」
——ヴィルマの羽根ペンが、止まった。
7月に、僕が帰らないと言った日から、この人の書庫の灯りは、1晩も消えていない。
帰還術式は、もう組み上がっている。僕は、それを使わないと決めた。
なのに、この人は、毎晩、何かを調べている。
ヴィルマは、羽根ペンを、卓の上に置いた。
それから、冷めた茶を、ひと口飲んだ。
「7月に、あなたに1つ、お尋ねしましたね」
「母が、字を読むか、ですよね」
「はい」
ヴィルマは、卓の上の羊皮紙を、何枚か、僕のほうへ滑らせた。
細かい字と、図。円がいくつも重なった図。僕には読めない。
「花束が枯れないのは、向こうの時間に触れているからだ、と申し上げました」
「はい。去年の秋に」
「向こうの時間に触れている、ということは、あの花束は、まだ、向こうと、細い糸のようなもので繋がっている、ということです」
ヴィルマは、図の中の、いちばん細い線を、指でなぞった。
「人ひとりを送るには、大きな術式が要ります。あなたが帰るための術式は、それです」
「はい」
「ですが」
ヴィルマは、指を止めた。
「紙1枚くらいなら。花束の糸に沿わせて、向こうへ渡せるかもしれません」
——書庫が、静かになった。
窓の外で、鳩が鳴いていた。
「……紙、1枚」
「まだ、方法は見つかっていません」
ヴィルマは、すぐに言った。
「見つかるかどうかも、分かりません。期待はなさらないでください」
「……」
「ですから、あなたの母上が字をお読みになるか、確かめたかったのです。届いたとして、読めなければ、意味がありませんので」
——僕は、何も言えなかった。
羊皮紙の、細い線を見ていた。
この人は、謝らない。
去年の夏から、1度も、僕に謝ったことがない。
その代わりに、毎晩、書庫にいた。
僕が帰らないと決めたあとも。
帰らない僕のために、まだ、書庫にいたのだ。
「……ありがとうございます」
やっと、それだけ言った。
ヴィルマは、羽根ペンを取った。
「礼は、届いてから伺います」
——その夜、手紙を書いた。
僕は、この世界の字が、1字も書けない。
でも、日本語なら、書ける。
ヴィルマに羊皮紙を3枚もらって、部屋の卓で、羽根ペンにインクをつけた。
羽根ペンで日本語を書くのは、初めてだった。
最初の1行で、インクが垂れて、「母さん」の「母」が黒い丸になった。
もう1度、書き直した。
『母さん、陽菜へ』
——それから、何を書けばいいのか、分からなくなった。
1年以上、何も伝えていない。
突然いなくなった息子が、兄が、最初に何を言えばいいのか。
ごめんなさい、は、宝物庫で言った。
だから、手紙では、別のことを書くことにした。
ナギが、堀に落ちた話。
毎朝、300m、400m、450mと、少しずつ遠くまで飛んで、毎朝、堀に落ちること。リーゼという騎士が、毎朝、泳いで迎えに行くこと。王様が窓から「おお……」と言うこと。
モチの爪切りが、命がけな話。
400kgの熊の腹の下に潜り込んで、鋸で爪を削ること。途中で寝返りを打たれると、本当に死にかけること。それでも、蜂蜜を舐めているときのモチの顔が、とてもいいこと。
トトの力こぶの話。
12歳の獣舎番が、毎朝、腕を曲げて見せに来ること。コナという狐が掘った穴を埋め戻しているうちに、本当に太くなってきたこと。
——書いているうちに、止まらなくなった。
動物の話を始めると、止まらない。
母さんは、それを、よく知っている。
陽菜は、たぶん、2行目あたりで「長い」と言う。
気がついたら、羊皮紙が、3枚とも埋まっていた。
最後の余白に、小さく書いた。
『元気です。悠真』
——書き終えて、困った。
この手紙を、どこにしまえばいいのだろう。
送れない手紙だ。
ヴィルマの方法が見つかるまで、どこかに、とっておかなければならない。
部屋の引き出しに入れておけば、クルミがいつのまにか持っていく。モチが乗れば、潰れる。子イタチたちは、紙の上で寝る。
僕の部屋は、紙をしまっておくのに、まったく向いていない。
——膝の上に、何かが乗ってきた。
クルミだった。
ふさふさの尻尾を、僕の膝に巻きつけて、羊皮紙の束を、じっと見ていた。
前肢を、手紙の端に、ちょこんとのせた。
「……クルミ。これは、だめ。大事なやつ」
『だいじ』
クルミが、言った。
『あのひとの』
『だいじ』
——春に、僕の学校のシャツをしまっていたときと、同じ言葉だった。
僕は、クルミを見た。
クルミも、僕を見ていた。
黒い、丸い目で。
「……しまって、くれるの?」
クルミの頬を、親指で、そっと揉んだ。
ふわっと。
何もない空間に、いくつかのものが、現れた。
青みがかった、つるつるの小石。白い縞の入った小石。銀の匙が1本。干し杏が2つ。
視界の端に、日本語の一覧が浮かぶ。〈小石〉の行。〈どんぐり〉の行。〈干し杏〉の行。
ずらりと並んだ一覧の、ずっと下のほう。いちばん奥のほうに、〈シャツ(白) 1〉がある。
クルミが、空間の奥のほうを、前肢で、ちょいちょいと指した。
小石の列よりも、もっと奥。
コンブと張り合って集めた、自慢の石よりも、奥。
シャツの、隣。
『おねがい』
僕は、送った。
『しまって』
クルミが、ふさふさの尻尾を、ぴんと立てた。
『いっしょ!』
——僕は、羊皮紙の束を、2つに折って、何もない空間へ、そっと差し入れた。
指先が、ふっと、温かい何かに包まれた気がした。
手を引くと、手紙は、もう、なかった。
一覧に、新しい行が増えていた。
〈手紙 1〉
シャツの、すぐ下に。
クルミは、満足そうに、僕の膝の上で、丸くなった。
僕は、クルミの背中を撫でた。
ふさふさの尻尾が、僕の手首に、くるりと巻きついてきた。
「……ありがとう」
『ありがとう』
クルミが、目を閉じたまま、返してきた。
——それから、僕は、時々、手紙を書くようになった。
アズキが、樽に頭をぶつけた日。ソラが、トトの頭に間違えて着地した日。
書くたびに、クルミの頬を揉んで、奥へしまってもらった。
一覧の〈手紙〉の数字が、2になり、3にと、増えていく。
いつか、届く日まで。
届かなくても。




