#81 踏ん切り
夜、獣舎の屋根に登った。
王宮の東の外れ。去年の冬にも、この夏にも、ギンと並んで座った場所だ。
今夜は、積み藁から、ゆっくり登った。
ギンは、もう、降りるときの跳び方を覚えている。積み藁のほうへ、ちゃんと1歩ずつ下がれる。だから、今夜は、先に屋根の上にいた。
どすん、と僕の隣に、座り直した。
屋根の板が、みしりと鳴った。
9月の夜は、もう、少しだけ涼しい。
ギンの体に寄りかかると、毛の表面が、夜気で冷えていた。その奥に、指を差し込む。手首まで沈む。そこは、いつも、少しひんやりしていて、気持ちがいい。
——海の向こうへ行くと決めてから、ずっと、考えていたことがある。
宝物庫の、花束のことだ。
7月に、帰らないと決めた。
なのに、8月の終わりに、また見に行った。
見て、枯れていなくて、ほっとした。
ほっとして、それが、後ろめたかった。
——帰らないと決めたのに、花束を見に行ってしまう。
それは、たぶん、片足だけ、向こうに残しているのと同じだ。
体はこっちにあって、片足だけ、まだ、あの交差点に置いてある。
その足を、どうにかしないと、海の向こうへは、行けない気がした。
「……ギン」
ギンが、耳だけ、こっちに向けた。
「ここで、踏ん切りをつけないと、だめだよね」
『……』
踏ん切り、は、通じなかった。
当たり前だ。僕だって、うまく説明できない。
僕は、ギンの首に、顔を埋めた。
銀白の毛は、干し草と、雪の匂いがした。夏でも、この子からは、雪の匂いがする。
「宝物庫には、もう、行かない」
声に出して、言ってみた。
言ってみたら、思ったより、ちゃんと声になった。
「花束のことは、ヴィルマさんに見てもらう。それで、教えてもらう」
ギンの尻尾が、屋根の板を、1回だけ、とんと叩いた。
——翌日、書庫へ行って、ヴィルマに頼んだ。
花束のことは、これから、ヴィルマに見てもらいたい。僕は、もう、宝物庫へは行かない。
その代わり、最後に、もう1度だけ、見に行かせてほしい。
ヴィルマは、羽根ペンを置いて、僕の顔を、しばらく見ていた。
「承知しました」
それだけだった。
理由は、聞かれなかった。
——宝物庫を開けるには、王族の立ち会いがいる。
王が、鍵の束を持って来てくれた。
王は、何も聞かなかった。僕の顔を見て、それから、何か言いかけて、口を閉じた。
廊下の先に、扉が3枚ある。
1枚ずつ、開けて。
いちばん奥の、腰ほどの高さの台の上に。
白い花束があった。
トルコキキョウと、名前を知らない小さいのが何種類か。ラッピングのビニールと、花屋のシール。
ヴィルマが、花びらを数えた。
「214枚。変化なし」
——1枚も、枯れていなかった。
僕は、台の前に、膝で立った。
花束の高さに、目を合わせて。
——あの日を思い出して。
あの交差点の、横断歩道の手前の、ガードレール。
そこに白い花を置こうとして、しゃがんだ、あの日。
アスファルトの、昼間の熱がまだ残っていた。
ほんの一瞬だけ、それが、膝に戻ってきた。
——それから、消えた。
ここは、宝物庫の、石の床だった。
ひんやりしていた。
僕は、花束を見た。
心の中で、話しかけた。
母さんと、陽菜に。
———突然いなくなって、ごめんなさい。帰らないと決めて、ごめんなさい。
僕は、大好きなもふもふたちに囲まれて、忙しくも幸せな日々を送っています。
楽しい毎日を手紙に書いて、送れればいいんだけど。
僕のまわりは、超優秀チートなもふもふたちでいっぱいだから、連絡手段を探すことは、諦めていません。
母さんと陽菜の幸せを、遠くから祈ってます。———
——言い終えて、しばらく、そのままでいた。
花束は、何も言わなかった。
当たり前だ。
花は、獣じゃない。念話は、届かない。
白い花びらが、宝物庫の窓のない暗がりの中で、手燭の灯りを、ほんのりと映していた。
214枚。
1枚も、欠けずに。
——立ち上がった。
膝が、少し鳴った。
「ありがとうございました」
ヴィルマと、王に、頭を下げた。
それから、扉のほうへ、歩いた。
1枚目の扉を、出た。
2枚目の扉を、出た。
3枚目の扉を、出た。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、また、足を止めてしまうから。
後ろで、王が、鍵をかける音がした。
かちり、と最後の鍵が鳴った。
——廊下に、ギンがいた。
宝物庫の扉の前の、廊下の真ん中に、きちんと前肢を揃えて、座っていた。
ギンの頭の上に、白い小さなものが乗っていた。
スズリだった。
僕が、宝物庫に入っているあいだ、ずっと、2匹で、ここで待っていたらしい。
スズリが、ギンの頭から、ひょいと跳んで、僕の肩に移ってきた。
それから、動かなくなった。
肩の上で、宝物庫の扉のほうを向いて、じっとしていた。
「スズリ? 行くよ」
『……』
「帰ろう」
スズリは、動かなかった。
扉を、見ていた。
扉の、ずっと奥を。
——スズリの目は、壁の向こうを見る。
《千里眼》。遠くを見る。壁の向こうを見る。
『スズリ。なに、みえる?』
スズリが、小さな鼻を、ひくひくさせた。
『はな』
『みえる』
——花。
見える。
3枚の扉の向こうの、いちばん奥の台の上の、白い花束が。
ここからでも。
書庫からでも。
たぶん、王都のどこからでも。
この子は、壁の向こうを見られるのだ。
僕が、宝物庫に行かなくなっても。
この子が、代わりに、見ていてくれる。
——そう言っているのだと、分かった。
僕は、肩の上のスズリを、手のひらで包んだ。
真っ白な夏毛の奥に、小さな心臓が、とくとくと速く打っていた。
『スズリ、ありがとう』
送った。
スズリが、僕の手のひらの中で、首を傾げた。
それから、はっきり、返してきた。
『ありがとう』
——言葉が、行って、帰ってきた。
ルーセの朝に、初めてこの子が返してくれた言葉。
あの日から、この子は、ちゃんと、この言葉を知っている。
僕は、笑った。
笑ったら、少しだけ、目の奥が熱くなった。
ギンが、立ち上がって、僕の腰に、鼻先を押しつけてきた。
ぐいぐいと。
廊下の先へ。宝物庫と、反対のほうへ。
「……うん。行こう」
ギンに押されて、歩いた。
振り返らなかった。
肩の上で、スズリだけが、ずっと後ろを向いていた。




