#80 渡り鳥の翼
ナギの翼を、海を渡れるところまで治す。
決めたのはいいが、どうすればいいのかが、分からなかった。
「《癒し》は、折れた骨や、裂けた肉なら、戻せます」
エステルが、ナギの右の翼を、そっと広げながら言った。
白い羽根の下に、エステルの指が沈んでいく。
「ですが、弱った筋は、使わなければ戻りません。癒しで足せるのは、元の形までです。強さは、足せないのです」
「使わないと、戻らない」
「はい」
——僕は、図鑑のことを思い出していた。
小学生のとき、何度も読んだ、渡り鳥のページだ。
渡り鳥は、渡りの前に、体を作る。
たくさん食べて、脂肪を蓄える。それから、毎日、少しずつ長く飛ぶ。10分。20分。1時間。翼の筋を、海を渡れるだけの太さにしていく。
いきなり何千kmも飛べる鳥は、いない。
「……毎日、少しずつ飛ばせばいいんだ」
僕が言うと、エステルが首を傾げた。
「ナギさんは、中庭の端から端までなら、もう飛べますよね」
「はい。でも、それ以上は、飛ばないんです」
——そうなのだ。
ナギは、中庭の端から端までは飛ぶ。低く。屋根より下を。
それより高くも、遠くも、飛ばない。
僕は、中庭の真ん中で、ナギの前にしゃがんだ。
ナギは、首を、少し引いていた。
『ナギ。たかく、とぶ?』
——ナギの羽根が、ぶわっと膨らんだ。
『とぶ、こわい』
『おちる』
——落ちる。
僕は、ナギの右の翼を見た。
この子は、嵐の夜に、海に落ちたのだ。
高いところを飛んでいて、風に叩かれて、翼を痛めて、海の上の岩礁に落ちた。
骨は、治った。
でも、落ちたときのことは、体が覚えている。
ヒバリと、同じだ。
痛みがなくなっても、痛かったことを、体が覚えている。
「……怖いんだね」
ナギは、僕の手の甲に、嘴の先を、こつんと当てた。
返事なのだと思った。
——怖いなら、怖くなくなるまで、待てばいい。
でも、待っていたら、2ヶ月半では間に合わないかもしれない。
僕は、外套のポケットを、上からぽんと叩いた。
もぞもぞと、白い顔が出てきた。
ハネだった。
『ハネ、おねがい』
『いっしょ!』
ハネは、ポケットから飛び出して、ナギの胸の羽根に、すりすりと頬を寄せた。
ハネの《はげまし》は、そばにいる仲間の力を、一段上げる。
体の力だけではない。たぶん、心の力も。
ナギの膨らんでいた羽根が、少しずつ、しぼんでいった。
『バン、おねがい』
足元に、白い雪兎が、ぴょんと跳ねてきた。
『いっしょ!』
バンが、地面を1歩、踏んだ。
足元から、虹色の波紋が、輪になって広がった。
輪が、ナギの脚を伝って、体を伝って、翼の、いちばん端の羽根の先まで、すうっと走っていった。
ハネのはげましが、バンの波紋に乗って、ナギの翼の端まで届いたのだ。
ナギが、右の翼を、ゆっくり広げた。
左の翼も。
翼開長3.5m。中庭の真ん中で、白い翼が、いっぱいに広がった。
『……とぶ』
ナギが、言った。
——走った。
3歩。4歩。
翼が、空気を叩いた。
ナギの体が、浮いた。
中庭の石畳から、30cm。1m。3m。
屋根の高さを、越えた。
「ナギ!」
トトが、獣舎の前で叫んだ。
ナギは、中庭の上を、円を描いて、もっと高く上がっていった。
30m。
王宮の、北の塔の高さだ。
そこから、ナギは、外へ出た。
王宮の外壁を、越えて。
外壁の向こうには、堀がある。王宮をぐるりと囲む、幅の広い、緑色の水の堀だ。
ナギは、堀の上を、まっすぐ飛んでいった。
50m。
100m。
「すげえ! すげえ!」
トトが、外壁の上まで駆け上がって、叫んでいた。
僕も、外壁の階段を、2段飛ばしで上がった。
ナギは、堀の上を、ずっと遠くまで飛んでいた。
200m。
250m。
——300mくらいのところで、翼の動きが、急に遅くなった。
ばさ。
……ばさ。
…………ばさ。
ナギの体が、すうっと、下がっていった。
翼を広げたまま。滑るように。
そして——
ばしゃん、と。
堀の水面に、白い体が、着水した。
「ナギ!」
叫ぶより先に、僕の横を、誰かが走り抜けていった。
リーゼだった。
外壁の階段を、駆け下りて、堀の縁で上着を脱ぎ捨てて、そのまま、頭から飛び込んだ。
迷いが、なかった。
リーゼは、堀の水を、まっすぐ泳いでいった。腕を、大きく回して。
僕とトトが堀の縁にたどり着いたときには、リーゼはもう、ナギの横にいた。
ナギは、水の上に浮いていた。
羽根が、水を弾いている。溺れては、いない。
ただ、翼が重くなって、もう飛べないのだ。
リーゼが、ナギの体の下に腕を回して、片手で泳いで、戻ってきた。
——堀の縁に、ずぶ濡れの騎士と、ずぶ濡れの鳥が、並んで上がってきた。
「……重い」
リーゼが、言った。
「ありがとうございます、リーゼさん」
「鳥のくせに、重い」
ナギは、9kgある。大きな鳥は、見た目より重い。
ナギは、堀の縁の草の上で、ぶるぶるっと体を震わせた。
水しぶきが、リーゼの顔に、まともにかかった。
リーゼは、何も言わなかった。
すでに、全身ずぶ濡れだったからだ。
——ナギが、僕のほうへ、よたよたと歩いてきた。
濡れた羽根が、体にぺったりと張りついていて、いつもの半分くらいの細さに見えた。
怒っているかな、と思った。
怖い思いを、させたから。
ナギは、僕の前で止まった。
それから、長い首を、ゆっくり下ろした。
僕の肩に、頭を、のせた。
濡れた羽根が、首筋に、ひやりと当たった。
冷たかった。
でも、羽根の奥から、鳥の体温が、じわじわと伝わってきた。
海の匂いは、もう、ほとんどしなかった。
代わりに、堀の水の、藻の匂いがした。
『あした』
ナギが、言った。
『また』
——明日、また。
僕は、ナギの濡れた首を、そっと撫でた。
「うん。明日、また飛ぼう」
300m。
落ちたけど、300m飛んだのだ。
昨日まで、中庭の端から端までしか飛ばなかった子が。
——この日から、ナギの飛行訓練は、王宮の朝の名物になった。
毎朝、中庭から飛び立って、堀の上を、昨日より少しだけ遠くまで飛ぶ。
ハネが胸に、バンが足元に。
疲れたら、堀に落ちる。
リーゼが、毎朝、泳いで迎えに行く。
3日目からは、リーゼは最初から、上着を脱いで、堀の縁で待つようになった。
騎竜団の詰所の窓から、騎士たちが賭けをしていた。今日は何m飛べるか。
4日目、トトが「おれも泳ぐ!」と言って、リーゼより先に飛び込んで、リーゼに引き上げられた。
そして、毎朝、王宮の東の窓が、1つだけ開く。
王の私室の窓だ。
王が、窓から、ナギが飛ぶのを見ている。
ナギが堀に落ちるたびに、窓の向こうから、声が聞こえてくる。
「おお……」
心底、残念そうな声だった。
ナギが落ちずに、昨日より遠くまで飛んだ朝は、違う声だった。
「おお……!」
同じ「おお」なのに、ちゃんと聞き分けられる。
王宮じゅうが、その声で、今日のナギの調子を知るようになった。




