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80/82

#80 渡り鳥の翼

ナギの翼を、海を渡れるところまで治す。


決めたのはいいが、どうすればいいのかが、分からなかった。


「《癒し》は、折れた骨や、裂けた肉なら、戻せます」


エステルが、ナギの右の翼を、そっと広げながら言った。


白い羽根の下に、エステルの指が沈んでいく。


「ですが、弱った筋は、使わなければ戻りません。癒しで足せるのは、元の形までです。強さは、足せないのです」


「使わないと、戻らない」


「はい」


——僕は、図鑑のことを思い出していた。


小学生のとき、何度も読んだ、渡り鳥のページだ。


渡り鳥は、渡りの前に、体を作る。


たくさん食べて、脂肪を蓄える。それから、毎日、少しずつ長く飛ぶ。10分。20分。1時間。翼の筋を、海を渡れるだけの太さにしていく。


いきなり何千kmも飛べる鳥は、いない。


「……毎日、少しずつ飛ばせばいいんだ」


僕が言うと、エステルが首を傾げた。


「ナギさんは、中庭の端から端までなら、もう飛べますよね」


「はい。でも、それ以上は、飛ばないんです」


——そうなのだ。


ナギは、中庭の端から端までは飛ぶ。低く。屋根より下を。


それより高くも、遠くも、飛ばない。


僕は、中庭の真ん中で、ナギの前にしゃがんだ。


ナギは、首を、少し引いていた。


『ナギ。たかく、とぶ?』


——ナギの羽根が、ぶわっと膨らんだ。


『とぶ、こわい』


『おちる』


——落ちる。


僕は、ナギの右の翼を見た。


この子は、嵐の夜に、海に落ちたのだ。


高いところを飛んでいて、風に叩かれて、翼を痛めて、海の上の岩礁に落ちた。


骨は、治った。


でも、落ちたときのことは、体が覚えている。


ヒバリと、同じだ。


痛みがなくなっても、痛かったことを、体が覚えている。


「……怖いんだね」


ナギは、僕の手の甲に、嘴の先を、こつんと当てた。


返事なのだと思った。


——怖いなら、怖くなくなるまで、待てばいい。


でも、待っていたら、2ヶ月半では間に合わないかもしれない。


僕は、外套のポケットを、上からぽんと叩いた。


もぞもぞと、白い顔が出てきた。


ハネだった。


『ハネ、おねがい』


『いっしょ!』


ハネは、ポケットから飛び出して、ナギの胸の羽根に、すりすりと頬を寄せた。


ハネの《はげまし》は、そばにいる仲間の力を、一段上げる。


体の力だけではない。たぶん、心の力も。


ナギの膨らんでいた羽根が、少しずつ、しぼんでいった。


『バン、おねがい』


足元に、白い雪兎が、ぴょんと跳ねてきた。


『いっしょ!』


バンが、地面を1歩、踏んだ。


足元から、虹色の波紋が、輪になって広がった。


輪が、ナギの脚を伝って、体を伝って、翼の、いちばん端の羽根の先まで、すうっと走っていった。


ハネのはげましが、バンの波紋に乗って、ナギの翼の端まで届いたのだ。


ナギが、右の翼を、ゆっくり広げた。


左の翼も。


翼開長3.5m。中庭の真ん中で、白い翼が、いっぱいに広がった。


『……とぶ』


ナギが、言った。


——走った。


3歩。4歩。


翼が、空気を叩いた。


ナギの体が、浮いた。


中庭の石畳から、30cm。1m。3m。


屋根の高さを、越えた。


「ナギ!」


トトが、獣舎の前で叫んだ。


ナギは、中庭の上を、円を描いて、もっと高く上がっていった。


30m。


王宮の、北の塔の高さだ。


そこから、ナギは、外へ出た。


王宮の外壁を、越えて。


外壁の向こうには、堀がある。王宮をぐるりと囲む、幅の広い、緑色の水の堀だ。


ナギは、堀の上を、まっすぐ飛んでいった。


50m。


100m。


「すげえ! すげえ!」


トトが、外壁の上まで駆け上がって、叫んでいた。


僕も、外壁の階段を、2段飛ばしで上がった。


ナギは、堀の上を、ずっと遠くまで飛んでいた。


200m。


250m。


——300mくらいのところで、翼の動きが、急に遅くなった。


ばさ。


……ばさ。


…………ばさ。


ナギの体が、すうっと、下がっていった。


翼を広げたまま。滑るように。


そして——


ばしゃん、と。


堀の水面に、白い体が、着水した。


「ナギ!」


叫ぶより先に、僕の横を、誰かが走り抜けていった。


リーゼだった。


外壁の階段を、駆け下りて、堀の縁で上着を脱ぎ捨てて、そのまま、頭から飛び込んだ。


迷いが、なかった。


リーゼは、堀の水を、まっすぐ泳いでいった。腕を、大きく回して。


僕とトトが堀の縁にたどり着いたときには、リーゼはもう、ナギの横にいた。


ナギは、水の上に浮いていた。


羽根が、水を弾いている。溺れては、いない。


ただ、翼が重くなって、もう飛べないのだ。


リーゼが、ナギの体の下に腕を回して、片手で泳いで、戻ってきた。


——堀の縁に、ずぶ濡れの騎士と、ずぶ濡れの鳥が、並んで上がってきた。


「……重い」


リーゼが、言った。


「ありがとうございます、リーゼさん」


「鳥のくせに、重い」


ナギは、9kgある。大きな鳥は、見た目より重い。


ナギは、堀の縁の草の上で、ぶるぶるっと体を震わせた。


水しぶきが、リーゼの顔に、まともにかかった。


リーゼは、何も言わなかった。


すでに、全身ずぶ濡れだったからだ。


——ナギが、僕のほうへ、よたよたと歩いてきた。


濡れた羽根が、体にぺったりと張りついていて、いつもの半分くらいの細さに見えた。


怒っているかな、と思った。


怖い思いを、させたから。


ナギは、僕の前で止まった。


それから、長い首を、ゆっくり下ろした。


僕の肩に、頭を、のせた。


濡れた羽根が、首筋に、ひやりと当たった。


冷たかった。


でも、羽根の奥から、鳥の体温が、じわじわと伝わってきた。


海の匂いは、もう、ほとんどしなかった。


代わりに、堀の水の、藻の匂いがした。


『あした』


ナギが、言った。


『また』


——明日、また。


僕は、ナギの濡れた首を、そっと撫でた。


「うん。明日、また飛ぼう」


300m。


落ちたけど、300m飛んだのだ。


昨日まで、中庭の端から端までしか飛ばなかった子が。


——この日から、ナギの飛行訓練は、王宮の朝の名物になった。


毎朝、中庭から飛び立って、堀の上を、昨日より少しだけ遠くまで飛ぶ。


ハネが胸に、バンが足元に。


疲れたら、堀に落ちる。


リーゼが、毎朝、泳いで迎えに行く。


3日目からは、リーゼは最初から、上着を脱いで、堀の縁で待つようになった。


騎竜団の詰所の窓から、騎士たちが賭けをしていた。今日は何m飛べるか。


4日目、トトが「おれも泳ぐ!」と言って、リーゼより先に飛び込んで、リーゼに引き上げられた。


そして、毎朝、王宮の東の窓が、1つだけ開く。


王の私室の窓だ。


王が、窓から、ナギが飛ぶのを見ている。


ナギが堀に落ちるたびに、窓の向こうから、声が聞こえてくる。


「おお……」


心底、残念そうな声だった。


ナギが落ちずに、昨日より遠くまで飛んだ朝は、違う声だった。


「おお……!」


同じ「おお」なのに、ちゃんと聞き分けられる。


王宮じゅうが、その声で、今日のナギの調子を知るようになった。


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