#87 大鹿の通り道
〈つきしろ草〉は、薬草園では育たない。
カタリナが、そう教えてくれた。
館の裏の薬草園には、何十種類もの薬草が、畑の列ごとに、きっちり植えてあった。名札が立っていて、カタリナの字で、名前と、植えた日と、摘む日が書いてある。
その中に、〈つきしろ草〉の名札は、ない。
「何度も、種から育てようとしたのです。森から株ごと移したことも、あります。でも、ここでは、芽が出ないの」
カタリナは、土で汚れた手を、前掛けで拭いた。
「つきしろ草は、森の、決まった道にだけ生えるのです」
「決まった道?」
「森の奥を、ぐるりと回る、細い道。獣道のような。村の人たちが、毎年、秋にそこを歩いて、摘んでくるのです。銀色の、小さな、細い葉の草」
カタリナは、森のほうを見た。
「なぜ、そこにだけ生えるのか。誰も、知らないの」
「今年は?」
「1本も」
——その道に、今年は、1本も生えていなかった。
村の人たちが、何度、歩いても。
去年まで、道の両側に、銀色の葉が、点々と続いていたのに。
——僕は、少し考えた。
草を食べる子に聞こう、と思って、ここへ来た。
でも、これは、草を食べる子の話では、ないかもしれない。
決まった道に、だけ、生える草。
道。
誰かが、通る道だ。
「その道は、誰が通る道なんですか」
カタリナが、首を傾げた。
「村の人が、摘みに……」
「村の人が通る前から、道は、あったんですよね」
——カタリナが、口を閉じた。
それから、ゆっくりと、言った。
「……大鹿」
「大鹿?」
「森の奥に、大きな鹿がいるの。とても大きな。角が、木の枝みたいに広がっていて。村の人は、森の主と呼んでいるわ。春から秋にかけて、森を、ゆっくり、ぐるりと回っているって」
——それだ。
その道を、歩いている子に、会いに行けばいい。
——翌朝、森へ入った。
一緒に来たのは、エステルと、リーゼと、それから、ルドルフだった。
ルドルフは、黙って、案内役を買って出てくれた。
この森を、いちばんよく知っているのは、自分だ、と。
言葉は少なかったが、道は、迷わなかった。
獣は、ギン、ススキ、モチ。それに、肩にスズリ、フードにブンとチン。
森は、深かった。
背の高いブナと、樫の木。足元は、厚く積もった落ち葉で、踏むと、さくさくと鳴った。
空気が、ひんやりしていた。
——カタリナの言っていた道は、すぐに分かった。
森の中に、細い、踏み固められた道が、続いていた。
人の道より、少しだけ幅が広い。下草が、そこだけ、低い。
道の両側に、銀色の草は生えていなかった。
土が、むき出しになっているところが、点々とあった。
去年まで、そこに、銀色の草があったのだろう。
——道を、1時間ほど、奥へ進んだ。
そこで、道が、塞がっていた。
大きな木が、倒れていた。
根元から、ぼっきりと。幹の太さは、僕の背丈ほどもある。夏の嵐で倒れたのか、根の土が、まだ、少し湿っていた。
倒木の向こうで、道は、続いていた。
「……この木を、越えられなかったんだ」
僕が呟くと、ルドルフが、倒木の向こうを指さした。
声は出さなかった。
指の先を、見た。
——いた。
倒木の向こうの、木々の間に。
大きな鹿だった。
本当に、大きかった。
肩までの高さが、僕の背丈より、ずっと上。2m、いや、それ以上ある。茶色の、長い毛。首の下に、髭みたいな、長い毛の房が垂れている。
そして、角。
頭の両側から、大きく、平たく、広がっていた。木の枝のように、いくつにも分かれて。両方の先から先まで、僕が両腕を広げたより、まだ広い。
図鑑の、ヘラジカのページを、思い出した。
あれと、同じくらいある。
——鹿は、左の前脚を、浮かせて立っていた。
蹄を、地面につけずに。
ときどき、そっと下ろして、すぐに、また、浮かせる。
『モチ』
僕は、後ろを振り返らずに、送った。
『あれ、おして。みち、あける』
のそのそ後ろをついてきていたモチが、目を開けた。
『……おす……』
モチが、倒木の前に立った。
肩を、幹に、押しつけた。
ぐっ、と。
400kgの白い体が、低く沈んだ。
倒木が、ぎしりと鳴った。
根の土が、ぼろぼろと崩れた。
それから——。
ずずずずず、と。
倒木が、道の脇へ、滑っていった。
モチの肩に押されて。
ゆっくり、ゆっくり、道の外へ。
最後に、どすん、と、下草の上に転がった。
モチは、その倒木の上に、顎をのせた。
『……ねる……』
寝た。
リーゼが、口を開けたまま、モチを見ていた。
ルドルフは、腕を組んだまま、1歩、後ずさっていた。
——道が、開いた。
鹿は、動かなかった。
僕は、道の真ん中に、しゃがんだ。
鹿から、20歩くらい離れたところに。
目を、合わせない。
少し、横を向いて。
背を丸めて。
待った。
ススキが、3歩後ろで、座った。
ギンは、ずっと後ろの、木の陰で、伏せていた。大きすぎて、鹿が怖がるかもしれないからだ。
エステルとリーゼとルドルフも、ギンの隣に下がって、息をひそめていた。
——30分。
鹿が、1歩、近づいた。
左の前脚を、浮かせたまま。3本の脚で。
——1時間。
鹿が、また、1歩。
木漏れ日が、少しずつ、傾いていった。
足が、しびれてきた。
しびれても、動かなかった。
——2時間。
鹿の蹄の音が、すぐそばで、止まった。
視界の端に、大きな脚が、見えていた。
茶色い、長い毛の生えた脚。浮いている、左の前脚。
蹄が月の光のような銀色で、きらきら光っている。
頭の上に、影が落ちた。
角の影だった。
それから——。
鹿の鼻先が、僕の頭のてっぺんに、そっと触れた。
ふすっ、と。
温かい息が、髪の毛の中に、吹き込まれた。
——繋がった。
テイム、48体目。
『……ひと』
鹿の声が、頭の中に、届いた。
低くて、ゆっくりした声だった。
僕は、顔を上げた。
大きな、黒い目が、僕を見下ろしていた。
『あし、いたい』
『あるく、いたい』
「……うん」
僕は、ゆっくり立ち上がって、浮かせた脚の前に、もう1度しゃがんだ。
『あし、みせて』
鹿が、左の前脚を、僕の膝の上に、そっとのせた。
重かった。
脚だけで、たぶん、僕の体重くらいある。
蹄を、見た。
2つに割れている。鹿の蹄は、そういう形だ。
その割れ目の、奥に。
尖った石が、挟まっていた。
親指の先ほどの、灰色の、角張った石。蹄の割れ目に、くさびみたいに食い込んでいた。周りが、少し赤く腫れていた。
これでは、歩けない。
1歩ごとに、石が、肉に食い込む。
——だから、今年は、道を歩けなかったのだ。
「エステルさん」
エステルが、木の陰から、そっと出てきた。
僕は、指で、石をつまんだ。
『いたい、すこし。がまん』
鹿は、脚を引かなかった。
石を、引き抜いた。
鹿の体が、びくりと震えた。
でも、脚は、僕の膝の上から、動かなかった。
エステルが、すぐに、蹄の割れ目に、手を当てた。
指の先が、淡く光った。
赤い腫れが、すうっと、引いていった。
——鹿が、左の前脚を、地面に下ろした。
そっと。
それから、体重を、かけた。
鹿は、首を、高く上げた。
角が、木漏れ日の中で、大きく揺れた。
そして、歩き出した。
ゆっくりと。
モチが開けた道を。倒木のあった場所を越えて。
いつもの、自分の道を。
——蹄の跡に、何かが、光った。
鹿が踏んだ土の上に。
銀色の、小さな芽が、ひとつ。
次の蹄の跡に、また、ひとつ。
その次にも。
ひとつ、またひとつ。
細くて、銀色で、針みたいに尖った、小さな芽が、蹄の跡から、芽吹いていった。
鹿の歩いたあとに、銀色の点が、道に沿って、続いていった。
「……つきしろ草」
ルドルフが、呟いた。
この人の声を、ちゃんと聞いたのは、初めてだった。
——スズリが、肩の上で、ぴくりと動いた。
『スズリ。おねがい』
『いっしょ!』
世界が、透けた。
視界の端に、文字が浮かんだ。
〈オオツノジカ(第2級・魔獣/特殊個体)〉《芽吹き》。
——芽吹き。
この子が歩いた跡に、つきしろ草が、芽吹く。
だから、この森の、この道にだけ、つきしろ草が生える。
毎年、春から秋にかけて、この子が、森をぐるりと歩くから。
今年は、蹄に石が挟まって、歩けなかったから。
だから、1本も、生えなかったのだ。
——夕方、森の入口まで戻ると、村の人たちが、集まっていた。
鹿が、森の道を歩いているのを、誰かが見つけたのだ。
蹄の跡に、銀色の芽が出ているのを。
村の人たちは、鹿が通った道の脇に、膝をついていた。
年寄りも、子どもも。
帽子を、胸に当てて。
——名前を、つけた。
大枝みたいな角だから。
「ケヤキ」
鹿は、首を傾げた。
それから、角を振った。
角の先が、道の脇の木の枝に、がつんと引っかかった。
鹿は、首を振って、枝から角を外した。
それから、何もなかったみたいに、また歩き出した。
たぶん、よく引っかけるのだと思う。
——館に戻る道で、ルドルフが、僕の隣を歩いていた。
ずっと、黙っていた。
館の門が見えてきたとき、ルドルフが、ぽつりと言った。
「……あの鹿に」
「はい」
「乗れるだろうか」
僕は、ルドルフを見た。
ルドルフは、前を見ていた。
耳が、少しだけ、赤かった。
「動物は、少し、苦手なんだ。……でも、あれには、乗ってみたい」
「乗れると思います。ケヤキがいいって言ったら」
ルドルフは、黙って、頷いた。
それから、館に着くまで、1度も、口を開かなかった。
でも、2回、森のほうを、振り返っていた。




