#8 しゃがんで待つこと17分
王都から東へ、街道を半日。
そのあたりで、この1ヶ月のあいだに荷馬車が9台襲われていた。
死人は出ていない。積み荷の食料だけが食い荒らされ、御者が2人、逃げるときに転んで骨を折った。犯人は森狼の群れだ。危険度は星2つ——訓練された兵が3人がかりで、ようやく1頭を追い払える段階。群れとなれば話は別で、討伐隊が編成された。
騎竜団から4騎、歩兵が30人。指揮はオズワルドではなく副団長。
僕は同行を願い出た。
オズワルドは渋った。渋りながら、最後には「ヒバリの担当としてなら」と言った。ヒバリの担当は正確にはリーゼだけれど、この1週間、鞍を着けるときに僕が横にいるのが習慣になっていた。名目としては通る、ということらしい。
リーゼは何も言わなかった。ただ、出発の朝に僕の乗る荷車を指さして「そこだ」と言った。それだけだった。
現場は、街道が森を切り裂いて走っている区間だった。
両側から木が迫っていて、日中でも薄暗い。地面に轍が深く残っている。
「痕跡は新しいです」
歩兵の1人が言った。糞と足跡を見ている。玄人の見方だった。
リーゼが弓に矢をつがえた。
騎竜団は基本的に空にいるものだけれど、地上戦の訓練も受けている。彼女の弓は短弓で、竜の上から射つためのものだ。
僕は、その腕を手で制した。
「待ってください」
「なんだ」
「時間をください」
彼女は僕を見た。
「どのくらいだ」
僕は正直に答えた。
「……どれくらいかかるかは、僕にも分かりません」
リーゼは、たっぷり3秒黙った。
「隊長」彼女は副団長を振り返った。
「30分だけ、こいつにやらせてください」
「ファルク隊士」
「30分で駄目なら、そのあとは好きに射てばいい」
副団長は僕を見て、それから森を見て、「30分だ」と言った。
僕は街道の真ん中まで歩いていって、そこで座った。
いつもどおり、横を向いて、視線は地面。膝の上に腕を置いて、動かない。
最初にやったのは、鼻を借りることだった。
『アズキ。貸して』
『いいよ!』
——森が、殴りかかってきた。
王宮とはまるで違った。腐葉土。菌糸。樹液。獣道。もっと具体的に言えば、狐が4日前にここを通ったこと、栗鼠の巣が右手上方の木の洞にあること、少し先に小さめの池があること。それが全部、地図みたいに広がる。
そして、狼。
濃い。近い。左手の斜面、藪の向こう。
僕は数えた。数えられた。
——24。
24頭の群れは、この規模の森にしては多い。多すぎる。
僕は『ありがとう』と送って、アズキに返した。
使ったのはそれだけだ。持続の上限は10分だけれど、あれを10分吸い続けたら、たぶん僕は倒れる。
そして——ここからが本番だった。
まだ念話の通じない相手に向かって、僕は、ただ座っていた。
これしかない。
テイムの条件は2つある。相手が僕を怖がっていないこと。そして、相手のほうから触れてくること。
こっちから掴んで成立させることは、どんな状況でもできない。だから僕にできるのは、待つことだけだ。待って、座って、目を合わせないで、自分がここにいても何も起きないということを、時間で証明するしかない。
1分。
背中で、30人の兵が息を殺しているのが分かる。
5分。
蟬みたいな虫が鳴いている。木漏れ日が動いていく。
10分。
藪が揺れた。
顔は上げない。
13分。
借りなくても分かった。匂いが近い。右斜め後ろ。
——足音がしない。
狼は、本気で近づくときに足音を立てない。踵を落とさず、前肢の肉球の外側から着地して、体重を分散させる。知識としては知っていた。実物は、想像より、はるかに怖かった。
背筋に汗が流れた。
僕は、動かなかった。
17分。
鼻先が、僕の手の甲に触れた。
冷たい。アズキよりも、ずっと冷たい。
後頭部が、じんわり温かくなる。
『はら、へった』
——大柄な牝だった。
顔を上げると、目の高さにがっしりした前肢が2本。座っている僕と、立っている狼。灰色に黒の差し毛。頬のあたりに古い裂傷。
『はら、へった』
『こども、へった』
『しか、いない』
——それだけだった。
怒りでも、敵意でもない。憎しみですらない。
腹が減っている。子どもたちも腹が減っている。鹿がいない。
それが全部だった。
僕はすぐに理解した。
理解できたのは、来る途中でそれを見ていたからだ。街道の南側、川沿いの低地に、大量の流木と、砂が積み上がった跡があった。春に氾濫したのだと、御者が言っていた。「今年のは、ひどかった」と。
川筋が変わったのだ。
そして——鹿は、移動した。
川筋が変わったことで、鹿の通り道も消える。すると、そこを餌場にしていた狼の群れは、丸ごと飢える。腹を空かせたまま、子を連れての移動はきびしい。なんとか食い繋ぐために、ここにとどまるしかなかった。
「……荷馬車を襲ったのは」
僕は声に出して呟いた。
食料しか食われていなかった。人も馬も襲われていない。骨を折った2人は、逃げるときに自分で転んだ。
この群れは、24頭が飢えていながら、まだ1度も、人を殺していない。
僕は立ち上がった。
「南です」
背後の副団長に、僕は言った。
「南東の低地に、川の新しい流れができています。鹿はそっちに移っています。この子たちは、鹿がいなくなったから、荷馬車を狙ってるだけです」
「……それは、その狼が言ったのか」
「言いました。腹が減った、と。鹿がいない、と」
副団長は返事をしなかった。
僕はもう1度しゃがんで、牝狼に向かって、頭の中で言葉を作った。
『南に、鹿がいる』
『……』
沈黙。
もう1度。
『南東の谷に、鹿が移った。そっちに行けば食べられる』
『……』
——通じない。
僕は、そこで初めて、自分の力の輪郭をはっきり掴んだ。
「南」が通じない。「谷」が通じない。「移った」が通じない。この子が知っているのは、腹が減った、子ども、鹿、それくらいの世界だ。方角という概念そのものを、たぶんまだ持っていない。
僕がどれだけ正しい情報を持っていても、相手の語彙にない言葉は、途中で消える。
「……くそ」
思わず、日本語が出た。
考えろ。
考えて、20秒で思いついた。
——喋らなくていい。
僕は立ち上がった。
「隊長。この街道を、南東に下がります」
「なんだと」
「お願いします」
僕は歩き出した。
背後で、狼が動く気配がした。ついてきている。歩調を合わせて、藪の中を。
1時間ほど歩く、距離は5km。街道が緩く下って、木が切れて、視界が開ける場所がある。行きに通ったときに覚えていた。
そこで僕は止まった。
風が、谷から吹き上がってきていた。
——ここまで、来れば。
僕は牝狼を振り返って、たった一言だけ送った。
『におい』
——狼の鼻が、上がった。
1秒。2秒。
3秒目で、耳が前を向いた。
牝は喉の奥で、低く、短く鳴いた。
藪の中から、次々に出てきた。
1頭。3頭。7頭。子どもを背後にかばった中間の個体たち。若いのが列の外側を固めて、大きい牡が2頭、殿につく。
——23頭。
街道の上に、23頭の狼が並んだ。
30人の兵が、誰ひとり動けなかった。
そして狼たちは、僕らのほうを1度も見ないまま、南東へ、風上へ、斜面を降りていった。
最後の1頭が藪に消えるまで、40秒くらいだった。
矢は、1本も射られていない。
しばらく、誰も喋らなかった。
僕は立ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。手が汗でぐしょぐしょだった。膝が今ごろ震え出していた。
背後で、金属が擦れる音がした。
振り返ると、リーゼが弓を下ろしていた。矢はつがえたままだ。つがえたまま、腕が下がっている。彼女は僕を見ていた。目を大きく開けて、口が半分開いていた。あの人がそんな顔をするのを、僕は初めて見た。
副団長は、鞍の上で兜を脱いだ。
ゆっくり、両手で。それから汗を拭って、天を仰いだ。
歩兵たちは、槍を持ったまま、誰も構えを解いていなかった。解き方を忘れているみたいだった。
「……テイマー殿」
副団長が言った。声が掠れていた。
「今のは、なんだ」
「交渉です」
「交渉」
「はい」
「獣と」
「はい」
副団長は、それ以上何も聞かなかった。
——ふと、背中に気配を感じた。
振り返る。
若い狼が、1頭、残っていた。
体は小さい。まだ2歳くらいだろう。灰色の毛の中に、白いのが混じっている。群れの列にも加わらず、殿の牡にも従わず、藪の際に立っていた。
はぐれだ。群れの中で居場所を持てなかった個体が、たまに出る。
僕は何も言わなかった。
その子も、何も言わなかった。
僕が荷車のほうへ歩き出すと、3歩あけて、ついてきた。
止まると、止まる。
歩くと、歩く。
僕が座ると、3歩後ろに座った。
「……あの」
僕は言った。
『……』
無言だった。
そのまま、荷車に乗るまでついてきて、荷車が動き出すと、後ろを走ってついてきた。
——夕方、野営地で、その子は僕の毛布の3歩後ろに丸まった。
近づいてくるのを、僕はまた座って、待った。今度は5分だった。鼻先が手の甲に触れて、後頭部が温かくなって、それでも、何も言わなかった。
無口な子だった。
「ススキ」
僕は名前をつけた。
背中の白い差し毛が、秋の穂みたいだったからだ。
その子は答えなかったけれど、僕が寝るときには、3歩の距離を2歩に詰めていた。
3体目である。
念話は、まだ半径10m、同時に1体だけだった。




