#7 ずっと、言ってたんです
後頭部が、じんわり温かくなった。
2度目だから分かる。テイムが成立した合図だ。
そして。
『いたい』
——堰を切った、というのがいちばん近い。
『いたい』
『ここ、いたい』
『いたい』
『まいにち』
『ここ』
『ここ』
『いたい』
早口だった。単語が積み重なって、後から後から押し寄せてくる。犬とはまったく違う喋り方だった。アズキが「ごはん!」と1回叫んで満足するタイプなら、この子は言い切らないうちに次を言う。
僕は膝から鼻先を離させないようにしながら、頭の中を整理した。
『どこ』
『ここ』
『ここ』
——場所が分からない。「ここ」は、この子の中では明確な場所を指しているけれど、僕には見えない。
だから僕は、手を使った。
「ごめん、ちょっと触るよ」
僕は柵の隙間から手を入れて、首の付け根に触れた。
『……』
肩に触れる。
『……』
前肢の付け根。
『……』
そのまま、少しずつ後ろへ。胸を通って、右の脇腹に指が届いた瞬間だった。
『そこ!』
『ここ』
『いたい』
僕は手を止めた。
指の下の感触が、他と違った。
鱗がない。というより、鱗が育っていない。皮膚が引き攣れて、硬い板みたいになっている。触ると、その周りの筋肉が反射的に縮んだ。
僕は柵に額をつけて、覗き込んだ。夕日の残りで、かろうじて見えた。
右の脇腹、前肢の付け根から後ろへ20cmほどのところに、手のひらを2枚並べたくらいの範囲で、皮膚が変色していた。
古い火傷だ。
「これ、いつのですか」
僕は囲いの外に立っているリーゼに聞いた。
彼女は手綱を拾わないまま、そこに突っ立っていた。
「……なにが」
「この子の、右の脇腹。焼けた痕があります」
リーゼの顔つきが変わった。
「2年前だ」彼女は言った。
「演習中に雷に遭った。編隊が散って、こいつは山肌に落ちた。脇腹を焼いて、2ヶ月休ませた」
「治ったって、誰が判断しました?」
「……竜医だ。傷は塞がった、と」
「塞がってます」僕は言った。
「塞がってますけど、下が引き攣れてます」
僕は立ち上がった。
膝から下が痺れていて、1度よろけた。柵に掴まって、立て直した。
「団長さんは、どこですか」
——騎竜団の詰所に飛び込んだとき、オズワルドは夕食の途中だった。
木の卓に10人ほど。皿と杯と、煮た肉の匂い。誰かが笑っていて、その笑い声が、僕が扉を開けた音で止まった。
「団長」
「なんだ、テイマー殿。飯なら余っておるぞ」
「3つ、言わせてください」
僕は指を3本立てた。
「1つ。12番騎の右の脇腹に、2年前の火傷の古傷があります。皮膚が引き攣れて、下の筋が突っ張っています」
「……ふむ」
「2つ。制式の腹帯は、ちょうどその位置を締めます。今日、鞍を見せてもらいました。腹帯の掛け位置が、あの傷の真上です」
詰所が、少し静かになった。
「3つ。だからあの子は、飛んでいる最中じゃなくて、鞍を着ける時点で暴れています。落としたのは飛んだあとですけど、暴れ始めているのはもっと前です。記録を見れば分かると思います」
オズワルドは杯を置いた。
「……テイマー殿」
「はい」
「なぜ分かる」
僕は答えた。
「本人が言ってるので」
——詰所が、完全に静まり返った。
音が消えるというのは、こういうことを言うのだと思う。誰かが噛みかけた肉を、噛み切らないまま口からぶら下げていた。奥のほうで、鍋の火が小さく鳴っていた。
10人ぶんの視線が、僕に集まった。
——そのとき、廊下からバタバタと足音が近づいてきた。
扉が、勢いよく開いた。
リーゼだった。囲いから走ってきたらしい。肩で息をしていた。
「おい」
彼女の声が、震えていた。
怒りだと思った。実際、半分はそうだったと思う。
「2年だぞ」
「はい」
「2年間だ。あいつはずっと、痛かったってことか」
「はい」
「毎日か」
「毎日です」
「わたしは」
彼女は言葉を切った。
そこで初めて、僕は彼女の顔を見た。
日焼けした頬の、目のあたりが、赤くなっていた。
「わたしは2年、あいつの担当をしてた。7回落とされて、それでも降りなかった。周りが廃用にしろと言うのを、ずっと止めてた。……だけど、2年間、痛みに気づいてやれなかった」
僕は、なんと答えるべきか、少し考えた。
慰めることはできた。あなたは悪くない、と言うのは簡単だった。でもそれは嘘だと思った。彼女は気づかなかった。それは事実だ。事実を撫でて済ませるのは、この人に対して失礼な気がした。
だから、僕は本当のことを言った。
「この子はずっと、言ってたんです」
リーゼが顔を上げた。
「……誰にも、聞こえなかっただけで」
彼女は口を開けて、それから閉じた。
もう1度開けて、また閉じた。
そして、下を向いた。
オズワルドが、椅子を引いて立ち上がった。
「腹帯を持ってこい」
「団長」
「持ってこい! 今すぐだ! それから鞍具方を叩き起こせ! 酒瓶を抱えて伸びておるだろうから、水をぶっかけてでも引きずってこい!」
大声だった。
——その日の夜、僕らは竜舎の作業場で、鞍具をばらした。
やったことは単純だ。腹帯の掛け位置を、8cm後ろにずらす。それだけだと今度は鞍が前に滑るので、鞍の後橋に押さえの革を1本足す。そして腹帯の内側、傷に当たる部分に、羊毛を詰めた当て革を1枚噛ませる。
鞍具方の職人は、最初「制式を変えるのか」と渋った。
オズワルドが「変える」と言った。
一言だった。それで終わった。この人はこういうときに強い。
作業のあいだ、リーゼはずっと灰色の竜のそばにいた。
首を撫でながら、小さい声で、何か喋っていた。何を言っているかは聞こえなかった。聞かないほうがいいと思ったので、僕は近づかなかった。
——夜中の2時ごろ、作業が終わった。
僕は作業場の壁にもたれて座り込んだ。アズキが膝の上に顎を乗せてきた。この子は今日、1日じゅう僕につき合って、退屈だっただろうに、1度も文句を言わなかった。
——念話は、同時に1体しか繋がらない。
これに気づいたのも、この夜だった。灰色の竜と喋っているあいだ、アズキに送った言葉は届いていなかった。片方を切らないと、もう片方が繋がらない。
10m。1体。
僕が今持っているのは、それだけだ。
——翌朝。
朝靄の中で、鞍を着ける時間になった。
団員たちが遠巻きに見ていた。オズワルドが腕を組んで立っていた。リーゼが、改造した鞍を抱えて、囲いに入った。
灰色の飛竜は、囲いの真ん中に立っていた。
リーゼが2歩、近づいた。
竜が——首を伸ばした。
跳ねなかった。後ずさりもしなかった。
自分から首を下げて、鞍のほうへ、頭を差し出した。
リーゼの手が止まった。
止まったまま、動かなかった。
朝靄の中で、20人近い騎竜団の団員が、誰ひとり声を出さなかった。
僕は柵の外で、それを見ていた。
10分くらい経ってから、リーゼは鞍を着けた。腹帯を締めるとき、彼女の手はゆっくりだった。締め終わって、竜の脇腹に手を当てて、2回叩いた。
竜が、喉を鳴らした。
僕はそのとき、こう思った。
——ヒバリだ。
朝いちばんに空へ上がって、うるさいくらいに喋る鳥。日本の田んぼの上にいるやつ。この子は喋りすぎるし、朝の空が似合う。
「ヒバリ」
僕は言った。
囲いの中の飛竜が、こっちを向いた。
『……』
名前という概念は、まだ通じない。
それでいい。これから覚える。
2体目だった。




