#6 12番騎は誰の言うことも聞かない
獣舎の裏手には、崩れかけた低い石垣がある。
そこに腰かけて、僕は朝の空を見上げていた。アズキが足元で寝ている。犬は日向で寝るとき、必ず腹を上に向ける。腹を上にして寝る動物は、その場所を安全だと思っている。それを見ているだけで、僕は10分が一瞬に感じてしまうぐらい、平気で過ごせる。
——空に、影が差した。
1つではない。
僕は顔を上げた。
飛竜だった。
12騎。3騎ずつの梯形を4つ組んで、朝の光の中を旋回していく。
翼開長は14m近い。灰色、褐色、まだらの黒。飛膜が朝日を透かして、血管の走りまで見える。旋回に入るとき、内側の翼をわずかに畳んで、外側を伸ばす。首が先に曲がって、体がそれに引かれていく。喉のところが、呼吸のたびに膨らんでは凹む。
僕は石垣から飛び降りて、囲いの柵に飛びついた。
「うわ」
「うわ」
「うわ、翼指!」
——声が出ていた。
飛竜の翼というのは、指なのだ。前肢の指が異常に伸びて、そのあいだに膜が張ってある。コウモリと同じ構造で、鳥とはまったく違う。鳥の翼は腕全体が羽になっているけれど、飛膜を持つ生き物は、指で空を掴んでいる。
つまり今、頭上を旋回している12頭は、全員、14mの指で風を握っている。
「握ってる……握ってるよ、あれ……」
「兄ちゃん、大丈夫?」
いつのまにか隣にトトがいた。
「大丈夫じゃない。第四指が、あんなに」
「だいよんし」
朝の演習を終えた団員たちが、竜を降りて歩いてきた。
僕は柵に張りついたまま、彼らを見た。彼らも僕を見た。
そして、露骨に距離を取った。
3人が3人とも、進路を2mほど外側にずらして通り過ぎていった。柵にしがみついて竜を見上げながら「翼指」と呟いている見知らぬ少年に、近づく理由はない。正しい判断である。
「兄ちゃん、あれ、団の人たちに変な人だと思われたよ」
「うん、知ってる」
僕は柵から降りた。
そのときになって、囲いの奥に、もう1頭いることに気づいた。
12騎は空にいた。ということは、地上にいるこの1頭は、演習に出ていない。
灰色。喉のところだけが青い。翼開長は目測で13mくらい。体重は700kgと少し。他の個体より、ひとまわり小さい。
その飛竜は、囲いの中で暴れていた。
暴れていた、というより——僕にはそう見えなかった。
首を振っている。前肢で地面を掻いている。柵に体をぶつけている。3人の団員が縄を持って囲んでいて、そのうちの1人が鞍を持って近づこうとするたびに、竜が後ろへ跳ねる。
僕はしばらくそれを見ていた。
「あれ、なに」
「12番騎」トトが言った。声が小さくなった。「乗り手を7回落としたんだ。もう廃用にするって話が出てる」
「はいよう」
「使うのをやめるってこと。竜舎の隅に繋いだままにするか、南の牧に返すか。……返しても、たぶんもう飛ばないと思う」
僕は、もう1度、囲いのほうを見た。
女の人が1人、竜の正面に立っていた。
20代の前半。短い黒髪。日焼けしていて、手の甲に古い傷がある。革の胸当てを着けていて、体つきが明らかに他の団員より締まっている。
「12番! 落ち着け! こら!」
彼女は怒鳴っていた。声が低くて、よく通る。怒鳴っているのに、なぜか乱暴には聞こえなかった。
「あれがリーゼさん」トトが言った。
「リーゼ・ファルク。平民から騎竜団に入った、唯一の女の人。12番騎の担当だよ。……7回も落とされて、担当を降りなかったの、あの人だけなんだ」
僕は歩き出した。
「あっ、兄ちゃん!」
囲いのすぐ側に立つと、リーゼが振り向いた。
一瞬で僕の値踏みが済んだのが分かった。上から下まで、0コンマ何秒。それから彼女は前に向き直って、こう言った。
「客人は下がってろ」
「はい」
「今のはもっと離れろって意味だ」
「はい。ここで見てます」
「……」
彼女は舌打ちをして、また竜のほうを向いた。
そこへ、地面を鳴らして大きな男が歩いてきた。
40代。背が高い。声がとにかくでかい。
「なんだ、こいつは」
「客人だそうです、団長」
「ああ! あの、勇者じゃなかったという!」
——大声で言われた。
風通しがよすぎる人だった。
騎竜団長オズワルド・ハーグは、僕の頭のてっぺんから足元まで見て、それから鼻から息を出した。
「テイマー殿。悪いことは言わん。あれには近づくな」
「あの子、どうして暴れてるんですか」
「気性だ」オズワルドは断じた。「あれは気性が悪い。血だ。母竜も荒かった。血の悪いのは直らん」
「血、ですか」
「血だ」
もう1度言われた。この人は、言い切ることで会話を終わらせる癖がある。悪気はまったくない。ないぶん、始末が悪い。
僕は「そうですか」と言った。
それから、囲いの外の、風下側に回った。
しゃがむ。
横を向く。膝を立てて、両腕を膝の上に置いて、視線は地面。
そして——動かなかった。
「おい」
リーゼの声がした。
「なにをしてる」
「座ってます」
「座ってどうする」
「たぶん、なにも」
彼女はしばらく黙って、それから「勝手にしろ」と言った。
——ここからは、話すことがあまりない。
僕は座っていた。
午前の演習が終わって、団員たちが引き上げた。昼になった。トトが握り飯を持ってきてくれて、僕は座ったまま食べた。アズキは僕の隣で寝て、起きて、蟻を追いかけて、また寝た。
午後になった。
囲いの中の灰色の竜は、最初のうち、僕を警戒していた。柵の反対側の隅に張りついて、こっちを見ていた。それから、少しずつ、僕を無視するようになった。
無視されるのは、いい兆候だ。
危険なものは無視できない。無視できるということは、危険ではないと判断された、ということだ。
3時ごろ、竜は座った。
4時ごろ、水を飲んだ。
5時ごろ、僕の座っているあたりから15mのところまで来て、また座った。
僕は動かない。
これは根性の話ではない。むしろ逆で、僕はこういうときに何も考えていない。頭の中で恐竜や動物図鑑の索引を順番に辿ったり、飛竜の翼指の関節構造を思い出したり、家の冷蔵庫の中身を思い出したりしている。楽しいのだ。だから動かないでいられる。
1度だけ、灯に聞かれたことがある。何時間もしゃがんでいて、暇じゃないのか、と。
僕は「暇じゃないよ」と答えた。あいつは「そっか」とだけ言って、隣に座った。座って、本を読んでいた。あいつは1度も、僕に「もう帰ろう」と言わなかった。
——日が傾いた。
囲いの向こうの空が、橙色から赤に変わっていく。
石畳が冷えてきた。膝から下の感覚が薄い。
そのとき。
首が、伸びてきた。
灰色の飛竜が、柵のあいだから首を差し入れて、僕の膝に、鼻先を押しつけた。
——重い。
思っていたより、ずっと重かった。
飛竜の頭は、大きさで言えば馬より1回り上くらいだ。それが体重を預けてくると、膝が沈む。鱗が硬い。でも鼻先だけは、鱗が細かくて、なめらかで、少し湿っていた。
そして温かかった。
冷たいものだと思っていた。爬虫類に近い見た目をしているから、体温も低いのだろうと。違った。竜は温かい。犬より、たぶん少し高い。
僕は動かないまま、そっと息を吐いた。
囲いの向こうで、なにかが落ちる音がした。
顔を上げると、リーゼが立っていた。
手に持っていた革の手綱を、落としていた。




