#5 いっしょ、いく
王宮というのは、歩いてみると想像以上に生き物だらけだった。
僕はアズキを連れて、敷地の端から端まで歩いた。
厩に馬が40頭。荷役の牛が6頭。鷹小屋に狩り用の鷹が9羽。鳩舎に伝令鳩。庭園の池に鯉。そして獣舎——王家が飼っている、あるいは献上されて行き場を迷った獣たちを入れておく建物——が、東の外れにあった。
獣舎の前で、少年が桶を運んでいた。
12歳くらい。痩せていて、袖が余っていて、顔じゅうに藁がついている。彼は僕を見て、それから僕の足元のアズキを見て、桶を落とした。
「うわあ! 魔犬! 生きてる魔犬! 近い! 近くない!? 近いよ!」
「あ、こんにちは」
「こんにちは! 兄ちゃん誰!? 触っていい!? 触っていい!?」
「触る前に、まず——」
「わかった! しゃがむ!」
しゃがんだ。
正しい。正しいが、勢いよくしゃがみすぎてアズキが後ずさった。
これがトトだった。獣舎番の少年で、動物が好きすぎて言葉が追いつかないタイプの人間だ。僕は初対面で、この子とは一生分かり合えると確信した。
トトは獣舎の中を案内してくれた。
囲いが12。うち埋まっているのは4つ。片脚の悪くなった老いた猟犬、羽を傷めた鷹、献上されたはいいが誰も世話の仕方を知らない斑模様の山羊、そして——なぜか、ものすごく機嫌の悪い豚。
「この豚、噛むんだ! すごく噛む!」
「豚は賢いから、退屈すると荒れるんだよ」
「たいくつ!?」
「うん。地面を掘れるようにしてやると落ち着くと思う。豚は鼻で掘る生き物だから、掘れないのはたぶん、僕らが1日ずっと手を縛られてるようなもので——」
僕はそこから7分くらい喋り続けた。
トトは目を輝かせたまま、最後まで聞いていた。この世界に来て初めて、僕の動物語りを途中で遮らない人間に会った。
——昼、厨房で飯をもらった。
料理長のドーラは50代の、腕が僕の太腿より太い女の人だった。3日前に燻製肉をくれたあの人だ。
彼女は僕の皿を見て、鼻を鳴らした。
「それだけかい」
「充分ですけど」
「もっと食べな。そんな量じゃ、うちの子らに笑われるよ」
うちの子ら、というのは、この人が世話をしている生き物たち全部のことだった。厨房の鼠を追う猫も、庭の鶏も、獣舎の連中も、なんなら騎竜団の飛竜も含まれる。ドーラは餌を作るとき、必ず自分の指で味を見る。
皿が2枚、増えた。
僕は全部食べた。食べきったら、3枚目が来た。
——その日の午後、王宮に小さな騒ぎが起きた。
大臣の娘が飼っていた小鳥が、籠から逃げたのである。
庭園に人が集まっていた。庭師が4人、梯子を2本かけて、木の上を突いている。侍女が3人、地面を這うようにして生垣の下を覗いている。大臣の娘——10歳くらいの子だ——が、噴水の縁に座って、声を殺して泣いていた。
「青いやつです」侍女の1人が言った。
「南の島から来た、青くて小さい鳥で」
「どのくらい前に逃げましたか」
「1時間ほど前です」
「餌はなにを」
「木の実を、砕いたものを」
僕はしゃがんだ。
籠が地面に置いてあった。竹に似た素材の、細かい籠。中の止まり木に、羽が2枚落ちている。青い。
匂いを覚えるには、これで足りる。
『アズキ』僕は膝の横の犬に送った。
『鼻、貸して』
『いいよ!』
即答だった。この子はいつも即答である。
——世界が、また爆発した。
2回目でも慣れない。庭園の匂いが一気に来る。土、水、花、腐りかけた葉、肥料、それから人間。人間の匂いが多すぎる。ここに立っている12人ぶんの汗と香油と、その人たちが今日食べたものの匂いまで分かる。
僕は目を閉じて、いらないものを捨てる練習をした。
これがコツだと、2日で分かった。嗅ごうとしないことだ。犬は嗅ごうとしていない。ただ、いつもの匂いの地図の上で、「いつもと違うところ」だけが鼻に飛び込んでくる。だから僕も、地図を作って、そこに載っていないものを探す。
籠の中の羽の匂いを、基準にする。
——あった。
でも、方向がおかしい。
みんなが探しているのは庭園の西側の生垣と、その上の木々だ。でも匂いは、そっちにはない。
北。しかも、上。
僕は目を開けた。顔を上げる。
視線の先には、王宮の本館の壁。そのさらに向こうに、太い煙突が3本立っている。厨房の煙突だ。
「あそこです」
僕は指をさした。
庭師の1人が、梯子の上で振り返った。そして体勢を崩して、落ちかけた。仲間が3人がかりで押さえた。梯子が石畳を叩く音が、庭園じゅうに響いた。
「あ、あそこって、あんた、煙突かい!?」
「はい。いちばん左のやつの、縁のところに止まってると思います」
「なんでそんなところに!」
「暖かいからです」
僕は説明した。
南の島から来た鳥だ。この国の夏は、たぶんその子にとっては充分に涼しい。籠には保温のための布がかけてあったはずで——大臣の娘が「はい」と鼻声で頷いた——つまりその子は、ぬくもりのある場所を探す習性を、この1ヶ月で身につけてしまっている。
飛べる高さで、いちばん暖かい場所。それが厨房の煙突だ。
「7分ですね」
「なにか?」
「僕が鼻を借りてから、7分でした」
庭師たちは、しばらく僕の顔を見たあと、なにも聞かなかったことにしたようだ。
小鳥は、本当に煙突の縁にいた。
回収は簡単だった。厨房の窓から、ドーラが皿に木の実を乗せて置いただけである。腹が減っていたらしい。降りてきて、皿の上で夢中になっているところを、大臣の娘が自分の手で捕まえた。
娘は鳥を胸に抱いて、僕に何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、勇者さま」
「あ、いえ。僕、勇者じゃないんです」
「え?」
「テイマーです」
娘はきょとんとして、それから「そうなんですか」と言った。
10歳の子には、たぶん違いが分からない。分からないままでよかった、と僕は思った。
——夕方。
僕は部屋に戻ろうとして、回廊を歩いていた。
1日じゅう歩き回ったので、足が重かった。窓から差す光が橙色で、床石の上に長い影ができていた。この世界の夕方の色は、日本のと同じだった。そこは同じなんだ、と思うと、なぜか少しほっとした。
足元で、アズキが立ち止まった。
僕も止まって、振り返る。
犬は僕を見上げていた。金色の目が、夕日を受けて、内側から光っているみたいに見えた。
そして、言った。
『いっしょ、いく』
——僕は、回廊の真ん中で固まった。
「え」
『いっしょ、いく』
もう1回、来た。
なんの重みもない言い方だった。ごはん、と言うのと同じ調子。尻尾は振れている。全力で。腰ごと。
僕は17年生きてきて、犬に「一緒に行く」と言われる日が来るとは、思いもしなかった。
10年ぶん、想像は、とことんした。飼えたらどうしよう、というのは腐るほど考えた。名前も30個くらい考えた。散歩の道順も考えた。でも、犬のほうから「一緒に行く」と言ってくるところまでは、想像力が届いていなかった。
そんなの、想像できるわけがない。
「……うん」
僕はしゃがんだ。
赤茶の毛の、耳の付け根に手を入れる。そこだけがやわらかい。指の腹で掻いてやると、犬は目を細めて、首をこっちに倒してきた。
「行こう」
『いく!』
なんでもない、明るい約束だった。
夕方の回廊で、犬が1頭、尻尾を振っていた。それだけの話だ。
——このときは、まだ。




