#4 貸してください、と頼むところから
翌朝、僕は寝台の上で、顔面に犬の前脚を乗せられて目を覚ました。
アズキは客間まで入ってきていた。侍女が扉を開けた瞬間に滑り込んだらしい。侍女は悲鳴を上げて、僕は謝って、アズキは寝台の真ん中を占領して腹を出していた。
「あの、この子、洗っていいですか」
「……お、お好きになさいませ」
洗った。
裏庭の井戸の水で、桶5杯ぶんかけて、厨房から借りた獣脂の石鹸で洗った。
濡れた犬は、臭い。
これは知識で知っていたが、実物は想像の3倍だった。濡れた毛の根元から立ちのぼる、生乾きの雑巾に少し血を混ぜたような匂い。しかも本人は上機嫌で、僕の顔に体を擦りつけてくる。上着に赤茶の毛が刺さる。刺さった毛は、あとで飯に入る。
『すき』
ゴシゴシ洗っていると、そんなのが頭に落ちてきた。
「うん。僕も好きだよ」
『すき』
「分かった、分かったから、振るな、振るなって——」
——ブルブルブルブル——
僕は水を浴びた。
——その日の朝、僕は2つ目のスキルに気づいた。
きっかけは、乾かしているときだった。
アズキが急に鼻を上げて、空気を細かく吸い始めた。犬がやるあれだ。鼻先を細かく震わせて、匂いの粒を集める仕草。回数で言うと1秒に4回くらい。上顎の奥に匂いの粒を溜め込む器官があって——という話を僕は延々とできるが、しなかった。誰も聞いていない。
見ていたら、視界の端に、文字が浮かんだ。
《利き鼻》
——読めた。
異世界の文字は一字も読めないのに、これは読めた。というか、文字として見えているのかも怪しい。意味が視界の端に貼りついている、という感じに近い。
僕は手を伸ばして、その文字に触ろうとした。
なにも起きなかった。
「……えっと」
指で突く。空振り。押す。空振り。2回まばたきしてみる。何も起きない。
アズキが「なにしてんの」という顔でこっちを見ていた。
だいたい僕はこういうとき、正解を引く前に恥ずかしいことを一通りやる。実際このあと、僕は自分で自分の鼻をつまんで「発動」と小声で言い、それでも何も起きなくて、しばらく井戸端で虚無になっていた。
それから、ふと思った。
——聞いてみればいいのでは?
僕は頭の中で、言葉を作った。
『それ、貸して』
アズキの尻尾が、止まった。
一瞬だけ止まって、それから、これまでの人生で見たことのない速度で振れ始めた。振れているというより、腰ごと振り回されている。
『いいよ!』
世界が、爆発した。
——本当に爆発したのだ。
まず羊の肉が来た。3棟分離れた厨房で今この瞬間に煮ている羊肉の、脂の匂い。次に蝋。回廊に立ててある蝋燭の、獣脂と蜜蝋の配合の違いまで分かる。それから汗。20m先を歩いていく衛兵の、革の下の汗。それが1人ずつ違う匂いをしていて、ああこの人は昨日酒を飲んだな、この人は今朝洗ったな、というのが全部分かる。
3日前に誰かが回廊にこぼした葡萄酒。床石の目地に拭き残しがあるはず。
厩の糞。遠くの。200mは離れているはずの。
土。カビ。鉄。血。錆。花。鳥の羽。何かの薬草。
全部が、同時に、時間差なしで、鼻から脳に押し寄せてきた。
僕は柱にしがみついた。
「ぐ、ぇ、」
涙が出た。鼻水も出た。両方止まらない。膝が笑って、僕は柱を抱いたまま、ずるずると座り込んだ。
匂いに殴られるという体験を、僕はこの日初めて、した。
情報量が多すぎるのだ。人間の脳は、これを処理する設計になっていない。犬は1万倍の嗅覚を持っているというけれど、それは同時に、1万倍の情報を捨てる仕組みも持っているということなのだと、僕はこのとき身をもって理解した。
「おい! お前、大丈夫か!」
誰かが走ってきた。衛兵だ。汗の匂いが強烈すぎて、僕は顔を背けた。
「はな、離れ、離れてくださ——」
「なんだって?」
「く、臭くて」
——通報された。
医務室に運ばれて、聖水をかけられそうになったところで、僕はようやく解除の仕方を思い出した。頭の中で『もういい、ありがとう』と送ったら、すっと引いた。
引いた瞬間、世界が静かになった。
静かというのは、音の話ではない。匂いの情報が消えると、こんなに静かになるのか、と思った。犬はいつもあの中にいるのか。あの中にいて、あの中から、僕たち人間の顔を見上げているのか。
——そう考えたら、少しだけ胸が痛くなった。
医務室の寝台に座って、僕は分かったことを整理した。
これが《スキル共有》だ、と教えてくれたのは、あとで来たヴィルマだった。彼女は僕の説明を最後まで聞いて、質問を3つして、それだけで仕組みをほぼ言い当てた。
1つ。テイムした獣が実際に使えるスキルを、僕自身が使えるようになる。
その獣が知らないことは借りられない。アズキは飛べないから、僕も飛べない。
2つ。発動条件は、同意である。
僕が『かして』と頼んで、相手が『いいよ』と返して、初めて発動する。同意がなければ、どんな緊急時でも発動しない。試しに、アズキが飯を食っている最中に『かして』と送ってみたら、無視された。飯の途中に貸してくれるほど甘くはなかった。
3つ。貸しているあいだ、その子自身はそのスキルを使えない。
これはヴィルマが指摘した。「あなたが借りているあいだ、その犬は嗅覚を失うのですか」
僕は寒くなった。確認したら、そのとおりだった。アズキは僕が《利き鼻》を使っているあいだ、匂いがほとんど分からなくなっていた。それでも尻尾を振っていた。無邪気に振っていたから余計にきつかった。
そして4つ目。
人間の体は、10分しか保たない。
「第2級・魔獣のスキルで、その時間です」ヴィルマは平坦に言った。
「上の格になるほど短くなります。超えると鼻血、視野の欠け、意識の混濁。翌日以降に高熱と筋肉痛。——覚えておいてください。あなたの体は、作りが違うため、獣のもつ能力に簡単には耐えられない」
「あ、はい」
「返事が軽い」
「……はい」
彼女は少しだけ僕を見て、それから出ていった。相変わらず謝罪はなかった。
1人になって、僕は寝台に座ったまま、少しのあいだ考えていた。
貸してくれと頼まないと使えない力。
普通に考えたら、これは弱点だ。同意が要る。相手が嫌がったら終わり。急いでいても使えない。ゲームなら間違いなく「使いにくい」と言われる仕様だと思う。
でも僕は、それを聞いたとき、なぜか嬉しくなっていた。
理由は自分でも、はっきりとは説明できなかった。
たぶん——この3日間、僕はずっと、勝手に呼ばれて、勝手にがっかりされて、勝手に部屋を与えられていたからだと思う。誰も僕に許可を取らなかった。国庫3年分も、術師6人の寿命も、僕の同意なしに燃やされた。
だから、僕の力だけが「頼まないと使えない」というのは、なんというか。
僕には、それがひどく、まともなことに思えた。
この世界に来て初めて、自分らしい、と思えるものだった。
寝台から降りようとしたら、扉の隙間からアズキが入ってきた。
医務室は動物立入禁止のはずだが、この犬に人間の規則の話をしても仕方がない。
アズキは寝台に前脚をかけて、僕の顔を舐めた。
べろん、と一発、頬から額まで。
臭い。
さっき洗ったばかりなのに、舌が臭い。犬の口臭というのは、体を洗っても解決しない。歯石だ。たぶん歯石だ。あとで見てやらないと。
「うわ、ちょ、待って、待って」
『すき』
「はいはい、僕も好き」
『すき』
「知ってるって」
べろん。べろん。べろん。
僕は顔じゅう犬の唾液まみれになりながら、医務室の寝台の上で笑っていた。
窓の外で、鐘が鳴っていた。この世界の鐘は、日本の鐘より少し高い音がする。




