#3 頭の中がうるさい
——3日が経った。
食客というのは、思っていたよりずっと暇な身分だった。
朝、侍女が湯を持ってくる。着替えを出される。食事が運ばれてくる。量が多い。残すと侍女が悲しそうな顔をするので、頑張って食べる。それだけで午前が終わる。
僕は帰る方法を探して、王宮の中を歩き回った。
歩き回るくらいしかできることがなかった、というほうが正しい。書庫に入れてもらったけれど、背表紙の文字が一字も読めなかった。話し言葉はあれだけ完璧に通じるのに、文字は本当に、まるきり駄目だった。線と点の集まりにしか見えない。
宮廷魔術師のヴィルマ・ゼーレ——あの灰色のローブの人だ——は、初日に1度だけ僕の部屋に来て、こう言った。
「帰還術式については、こちらで進めます。あなたにできることは、今のところありません」
「なにか、手伝えることは」
「あなたはこの世界の文字を読めますか」
「……いえ」
「では、ありません」
そう言って出ていった。無駄口は一切なかった。冷たいと思った。この人が3ヶ月毎晩書庫にいると知るのは、もっと先の話だ。
——3日目の午後、僕は完全に手持ち無沙汰で、王宮の裏側をうろうろしていた。
表側はどこもかしこも磨き上げられていて、居心地が悪い。裏側のほうがまだ息ができた。洗い場、干した布、薪の山、厨房や作業場から流れてくる湯気の匂い。人が働いている場所は、どこの世界でも同じ匂いがする。
厨房の裏まで来て、僕は足を止めた。
生ゴミを捨てる木箱が3つ並んでいる。その陰に、犬がいた。
赤茶の短毛。体高は僕の膝より少し上、58cmくらい。痩せている。肋が浮いている。胸のところだけが白い。耳は半立ちで、尻尾は長い。
犬——にしては、目の色がおかしかった。
薄い金色で、瞳孔の縁がわずかに光っている。魔犬だ、とあとで教えられた。第2級・魔獣。魔力器官を持つ生き物の区分で、この世界では「野良の魔犬」というのは珍しくもなんともないらしい。厨房の連中に小石を投げられながら、それでもここに居着いている。
僕はそこで、動きを止めた。
正確に言うと、僕の全身が勝手に手順を思い出した。
10年だ。
10年、犬を飼いたいと言い続けた。母が犬アレルギーで、無理だと分かってからも言い続けた。だから僕は、飼えないぶんを全部、知識で埋めた。図鑑。動物番組。訓練士の本。獣医の書いたブログ。友達の家の犬を撫でさせてもらうための交渉術。犬に会ったときの正しい挨拶の仕方。
触れないぶん、憧れと知識だけが分厚く積もっていた。
だから僕は、まず、目を逸らした。
犬にとって、正面から目を合わせるのは挑戦だ。まっすぐ近づくのも駄目だ。手を差し出すのも、こっちからやったら駄目だ。
僕は横を向いて、そのままゆっくりしゃがんだ。膝を抱えず、体を斜めにして、視線は地面。呼吸は静かに。何もしない。
そして——待った。
これが僕の唯一の特技である。
待つのだ。しゃがんで、動かないでいるのだ。灯にはよく「ゆうくん、それ本当に何時間でもやるよね」と呆れられた。小学生のとき、公園の茂みにいた野良猫が出てくるのを、2時間半待ったことがある。灯はそのあいだ、隣に座って本を読んでいた。
犬は動かなかった。
木箱の陰から、僕をじっと見ている。何度も追い払われたことのある犬の目だ。
10分。
石畳が冷たい。膝が痛い。
20分。
厨房の中から大きな声と鍋の音がする。誰かが積み上げた皿を、床に落とした。
30分。
僕の足がしびれた。動かない。動いたら終わる。
40分。
——鼻先が伸びてきた。
木箱の陰から、犬が2歩だけ出て、首を伸ばして、僕の手の甲に、鼻を触れさせた。
濡れていて、冷たかった。
そして。
後頭部が、じんわり温かくなった。
1度だけ。湯を注がれたみたいな感じで、頭のうしろから中へ、温かいものが染みていった。
そのあとに、声が落ちてきた。
『はら、へった』
——僕は、「ふぇ」と言った。
情けない声だった。人生でいちばん情けない声だったと思う。そのまま尻もちをついて、石畳に手をついて、口を半開きにして、犬を見た。
犬も僕を見ていた。
『はら、へった』
もう1回、同じのが来た。
声じゃない。耳は使っていない。頭の中に、直接、文字ではなく意味の塊が落ちてくる。感じとしては、寝ぼけているときに人の声が聞こえるのに似ている。輪郭がぼやけていて、でも、確実に外から来ている。
そのとき、通りかかった侍女が僕を見た。
厨房裏の石畳に尻もちをついて、野良犬に向かって首を傾げまくる食客。
彼女は目を伏せて、足早に去っていった。あの目は、不審者を見る目だった。3日で不審者になった。
でも、そんなことは本当にどうでもよかった。
僕は座ったまま、頭の中で、そっと言葉を作った。
『名前は?』
返ってきたのは、これだった。
『……』
沈黙。無反応ではない。ちゃんと届いていて、その上で、何もない。壁に投げたボールが返ってこないのではなく、投げたボールが途中で消える感じだ。
『昨日、なに食べた?』
『……』
『ここに、いつからいるの?』
『……』
『腹、減ってる?』
『はら、へった!』
——即答だった。
僕は笑ってしまった。石畳の上で、1人で。
分かった。分かってしまった。
この子に通じるのは、この子が知っている概念だけだ。「腹が減った」は知っている。「名前」を知らない。「昨日」を知らない。だから僕がどれだけ丁寧に日本語を組み立てても、知らない語は、その手前で消える。
つまり僕は、この子と喋るには、この子の持っている語彙の中で喋るしかない。
これは——考えようによっては、めちゃくちゃに難しい。
同時に、めちゃくちゃに面白い。
僕は立ち上がった。しびれた足がもつれて、壁に手をついた。
「すみません、厨房の方!」
顔を出した太った女の人に、僕は「肉の切れ端があったら分けてください」と頼んだ。彼女はじろりと僕を見て、それから木箱の陰の犬を見て、鼻を鳴らした。
「あの盗人にやるのかい」
「盗んでません。腹が減って、生ゴミを漁ってるだけです」
「同じことじゃないか」
言ったあと、女の人は、たっぷり5秒黙った。
それから引っ込んで、燻製肉の端切れを木の椀に山盛りにして持ってきた。多すぎる。
「あんた、変な子だね」
「よく言われます」
僕は椀を、犬から2m離れたところに置いて、また離れた。近くに置くと、警戒して食べられない子がいる。
犬は、しばらく僕を見ていた。
それから椀に鼻を突っ込んで、猛烈な勢いで食べ始めた。
食う音がすごい。ぐちゃ、ごく、ぐちゃ。息継ぎをしていない。喉に詰まらせないかと本気で心配になる勢いで、椀の中身が消えていく。
僕はしゃがんで、その音を聞いていた。
そのうち、自分の手が震えていることに気づいた。
震えていた。両手とも。指先が、細かく。
——10年だ。
10年、ずっと犬が飼いたかった。
母のせいじゃない。アレルギーは母のせいじゃない。分かっている。分かっているから1度も文句を言わなかったし、これからも言わない。ただ、友達の家の犬を撫でさせてもらって帰ってくる夜が、毎回、少しだけ苦しかった。
犬が椀から顔を上げた。口の周りが汚れている。
そして、こっちに歩いてきて、僕の膝に、頭をぶつけるみたいに押しつけてきた。
熱い。
毛の下が、こんなに熱いなんて、知らなかった。犬の体温は人間より高い。知識としては知っていた。知っていることと、膝でそれを受け止めることは、まったく別のことだった。
僕は手を伸ばして、耳の付け根に触れた。
そこだけ、毛がやわらかい。
『はら、いっぱい』
頭の中で、声がした。
「……アズキ」
僕は言った。
赤茶だからだ。それ以上の理由はない。それでよかった。
『……』
沈黙が返ってきた。名前という概念を、この子はまだ知らない。
だから僕は、もう1度言った。声に出して。
「アズキ。お前の名前だよ。これから覚えよう」
犬は尻尾を振った。
折れるんじゃないかというくらい、全力で。
——のちに分かったことだが、このとき僕の《片言の念話》が届く範囲は、半径10m。同時に喋れる相手は、1体だけだった。
そして僕がこの世界で最初にテイムした生き物は、王宮の生ゴミを漁っていた、痩せた野良犬だった。
悪くない1体目だと、僕は今でも思っている。




