#2 王様が謝ってきました
灰色のローブの女の人が、水晶の前に進み出た。
歩き方に無駄がない。裾も揺れない。彼女は水晶に浮かんだ2行を、少しのあいだ黙って読んだ。読み終わってからも、たっぷり3秒、黙っていた。
それから、平坦な声で言った。
「《テイマー》」
広間の音が、全部落ちた。
「以上です」
「……以上、とは」
法衣の老人——神官長らしい——が、震える声で聞き返した。
「以上、というのは、以上です」
灰色のローブの人は振り返りもしない。
「加護なし。称号なし。派生なし。表示されたのは職名1語のみ。2行目は、召喚年月の記録です」
若い騎士が、あからさまに肩を落とした。
音が聞こえるくらい、はっきりと。鎧がかしゃんと鳴って、隣の同僚に肘で小突かれていた。
そのあと、いろんなことが同時に起きた。
法衣の人たちが小声で言い合いを始め、神官長が「もう1度……もう1度は、できませぬか」と食い下がり、灰色のローブの人が「120年に1度です」と切って捨て、老人が絶句して、後ろのほうで誰かが本気で泣き出した。泣くほどか、と思った。泣くほどらしかった。
その騒ぎのあいだ、僕は僕で、頭の中で辞書を引いていた。
テイマー。
聞き覚えはある。ゲームでしか聞いたことがない。モンスターを手懐けて仲間にするやつだ。ゲームだと大抵、序盤は弱くて、中盤で強い個体を捕まえると一気に化ける。
化ける、のか。ここでも。
そのへんの空気を、僕はすぐに読み取ってしまった。誰も「テイマーだって捨てたものじゃない」と言い出さない。誰の顔にもそれが書いてない。
あとで知ったことだけれど、この国でテイマーというのは「猟犬使いの下位互換」と呼ばれている。犬に芸を仕込むより少しマシな程度、という意味だ。獣に懐かれやすいというだけの体質で、それ以上のことは何もできない。大陸全体で登録者が37人。この国には4人しかいない。4人しかいないのは希少だからではなく、それでは食えないからだ。
つまり僕は、国庫3年分と、術師6人の寿命を燃やして呼ばれた、犬に懐かれやすい高校2年生である。
——だが。
誰ひとり、僕を罵らなかった。
これは、あとになるほど効いてきた。
大声で嘆く人はいた。泣く人もいた。天を仰ぐ人もいた。でも、誰も僕のほうを向いて「お前のせいで」と言わなかった。若い騎士でさえ、肩を落としたあと、慌てたように僕に頭を下げた。
国王バルドウィン4世が、段の下で立ち止まった。
さっきまでの声の大きさが、嘘みたいに消えていた。肩の毛皮が重そうだった。
そして——頭を下げた。
50代の、腹の出た、指輪をいくつもはめた王様が、17歳の高校生の前で、腰から上を折った。
広間じゅうが、息を止めた。
「陛下」誰かが呻いた。
「呼びつけたのは我らの都合であり、そなたに落ち度は1つもない」
王は下げたまま言った。声が床に跳ね返って、低く響いた。
「我が国は追い詰められておった。追い詰められた者は、都合のよい奇跡を願う。願って、他人の人生を掴んで引きずり込む。それをやったのが、余だ」
「あの、頭、上げてもらえます、か」
僕は自分の声が裏返るのを聞いた。
王は顔を上げた。目が赤かった。
「帰す術は、今この国にない」
はっきりと、そう言った。
言い訳も、含みも、猶予もない言い方だった。
「探す。総力を挙げて探す。何年かかるとも言えぬ。だから今この場では、詫びしか渡せぬ。——それまで、そなたを客人として遇する。衣食住のすべてを国が持つ。命令はせぬ。戦えとは言わぬ。剣を握れとも言わぬ」
僕は、なにか言おうとした。
言おうとして、何も出てこなかった。
怒鳴りたかったのだ。本当は。勝手に呼んで、勝手にがっかりして、帰せませんって何だそれは、と。喉のところまでは来ていた。
でも、目の前の王が本気で参っているのが、分かってしまった。
分かってしまうと、怒鳴れなかった。
これは僕の悪い癖だと思う。相手のほうがつらそうだと、こっちの言い分を引っ込めてしまう。灯にはよく叱られた。ゆうくんはそれで損してるんだよ、と。
「……あの」やっと出たのは、間の抜けた声だった。
「僕、明日、模試なんですけど」
王は、たっぷり5秒黙ってから、「すまぬ」と言った。
たぶん模試が何かは分かっていない。それでも、すまぬ、と言った。
——案内された客間は、僕の家のリビングより広かった。
天蓋のついた寝台。彫刻のある卓。銀の水差し。壁には狩りの絵が掛かっていて、犬が3頭描かれていた。耳の形からしてたぶん同じ犬種だ。よく描けている。
侍女が2人がかりで湯を運んできて、着替えを置いて、深々と礼をして出ていった。扉が閉まる。
静かになった。
僕は寝台に、後ろ向きに倒れ込んだ。
天井が高い。天井にまで模様が描いてある。金と青の蔓の模様が、ずっと向こうまで続いている。
母の顔が浮かんだ。
キッチンで、洗い物をしながら、こっちを見ずに「ゆうま、明日ゴミの日だからね」という母。動物番組を一緒に見ていて、僕が解説を始めると「はいはい」と言いながら、最後まで聞いている顔。
陽菜の顔が浮かんだ。
中学1年。生意気。兄の話を「またそれ」と言って遮る。遮っておいて、学校で友達に僕から聞いた雑学をそのまま披露しているのを、僕は知っている。
夕飯の時間は、とっくに過ぎているはずだ。
いや——「はずだ」も何も、こっちとあっちで時間が同じかどうかも分からない。
僕は起き上がった。
膝の上に、花束があった。
倒れ込んだときも、離していなかったらしい。ぎゅっと握りしめていた手をひらくと、ラッピングのビニールが、少し折れていた。
僕はそれを、そっと抱え直した。
白い花は、少しも萎れていなかった。
花屋の店先で見たときのまま、水をあげたばかりみたいに張っている。7月の夕方、自転車の前かごに入れて30分走って、それからずっと抱えていたのに。
窓の外は、もう夜だった。月が2つ——とかいうことはなくて、1つだった。そこだけ普通で、逆に落ち着かなかった。
僕は花束に向かって、口を開いた。
「灯」
名前を呼ぶと、喉の奥が詰まった。3ヶ月経っても、まだこれだ。
「僕、異世界に召喚されちゃったよ」
返事はない。
当たり前だ。4月からずっと、そうだった。
僕は何度もこれをやっている。学校の帰りに、風呂で、いつものコンビニの前で、寝る前に。返事がないと分かっていて、それでも喋りかけるのをやめられなかった。やめたら本当に終わる気がしたからだ。
「勇者じゃなくてさ、テイマーだって。動物と仲良くなるやつ。……お前、笑うだろ、これ」
笑う顔が、簡単に浮かんだ。
口を押さえて、肩を揺らして、それから「ゆうくんにぴったりじゃん」と言う。絶対そう言う。
僕はもう一言だけ、続けた。
「これから、どうすればいいと思う?」
窓が開いていた。
夜の風が入ってきて、蝋燭の火が横に寝た。石と、草と、遠くの厩の匂いがした。
そのとき、遠くで、犬が吠えた。
一声。それから、尾を引くような遠吠えが2回。
どこか下のほう——たぶん厨房のある方角だ。飼い犬の声じゃない。呼べば誰かに答えてもらえる犬は、あんな声で呼ばない。あれは、誰にも名前を呼ばれたことがない犬の声だ。
僕は、なぜかその声から耳が離せなかった。
理由は、そのときは分からなかった。




