#1 勇者ではありませんでした
7月の夕方は、いつまでも明るい。
僕は白い花束を抱えて、自転車を押しながら、その交差点に立っていた。
なんの変哲もない交差点だ。片側2車線、コンビニ、色の褪せたカーブミラー、電柱に巻かれた黄色いテープ。信号が青になって、赤になって、また青になる。人が渡って、車が流れて、それだけの場所。
3ヶ月前、ここで月島灯が死んだ。
4月の朝だった。僕は同じ時間に同じ道を通っていたはずなのに、あの日に限って寝坊して、いくつか後ろの赤信号にひっかかっていた。追いつけなかった。だから僕は見ていない。
歩道の端、ガードレールの支柱の下に、しゃがむ。膝が鳴った。
花束を両手で持ち直す。ラッピングのビニールが、じり、と音を立てた。花屋のおばさんに「白でお願いします」と言ったら、なにも聞かずに包んでくれた。トルコキキョウと、名前を知らない小さいのが何種類か。灯なら名前を知っていたと思う。あいつは、僕が見ようとしないものまで、よく見ている子だった。だから、僕の知らないことをたくさん知っていた。
僕は、ずっと言えなかった一言を、口に出そうとした。
3ヶ月ためて、ためすぎて、もう形が変わってしまったやつだ。葬式でも言えなくて、あれから1度も言えていない。
「灯、あのさ——」
足元が、光った。
最初は水たまりに夕日が反射したのかと思った。でも7月の、雨も降っていないアスファルトに、水たまりはない。
光は輪だった。僕を中心にした、直径2mくらいの、白い輪。輪の内側に文字みたいなものが浮かんで、ゆっくり回っている。読めない。アルファベットでもハングルでもアラビア文字でもない、見たこともない形。
僕はしゃがんだまま、その輪を見ていた。
逃げるとか、叫ぶとか、そういう発想が1秒も出てこなかった。僕はそのとき、まだ半分くらい灯のことを考えていた。
輪が縮んだ。
眩しくて、目を閉じた。
まばたきを、1回。
——空気が、変わった。
まず匂いだった。焼けたアスファルトと排気ガスの匂いが消えて、代わりに石と、蝋と、甘ったるい香の煙の匂いが鼻に入ってきた。空気が冷たい。7月の夕方ではありえない冷たさだ。
目を開ける。
石だった。灰色の石の床。磨かれていて、そこに僕の顔がぼんやり映っている。床には金属を象嵌した円環が刻まれていて、その円環は、さっきアスファルトの上で見た輪と同じ形をしていた。
顔を上げる。
天井が、遠い。首を限界まで反らしてやっと見えるくらいの高さに、色ガラスの窓が並んでいる。柱が何本も、林みたいに立っている。壁際には甲冑が並んでいて——いや、あれは中に人が入っている。
僕を囲むようにして、白い法衣の人たちが床に額をつけていた。30人はいる。香炉から煙が上がっている。誰かが、聞いたことのないような節回しで祈りを唱えていた。
柱の根元に、彫刻があった。
僕の視線は、そこで1回止まった。犬だ。首を伸ばして遠吠えをしている大型犬が、柱の四方に彫られている。耳が立っていて、胸が深くて、後肢の飛節の角度がしっかりしている。狩猟犬の体型だ。しかも彫った人間は、犬の後ろ肢がどういう仕組みで曲がるのかを、ちゃんと分かっている。
(うまいな、これ)
天井の高さより先に犬の彫刻の出来を評価している自分に気づいて、僕は自分でも少し引いた。母によく言われる。あんた、火事場でも動物に気を取られるタイプだよ、と。
僕はまだ、しゃがんでいた。
そして自分の腕を見た。
白い花束を、抱えたままだった。ラッピングのビニールも、花屋のシールも、値札を剥がしたあとの糊も、全部そのまま。花も僕の体も、召喚による見た目の変化はない。
正面の一段高いところに、椅子があった。椅子というか、玉座と呼ぶしかない形をしている。そこから、大柄な男が立ち上がった。
年は50くらい。赤褐色の髭を短く刈って、肩に毛皮を巻いて、指に大きな指輪をいくつもはめている。腹が出ている。静まり返った広間に重い靴音が響く。
その人が段を降りてきて、僕の前で両手を大きく広げた。
「よくぞ来られた、勇者よ」
——通じた。
耳がその音を拾って、頭の中で意味に化けた。日本語ではない。口の動きと音が、明らかに日本語じゃない。なのに意味だけが、すんなり入ってくる。
僕は、しゃがんだまま「はあ」と言った。
たぶん人類が異世界召喚に対して返した第一声として、歴代でもかなり下のほうだと思う。
そこから先は、めまぐるしかった。
腕を取られて立たされ、法衣の人たちが泣きながら床に額をこすりつけ、甲冑が一斉に片膝をつき、誰かが鐘を鳴らした。玉座の男——国王バルドウィン4世、と誰かが呼んだ——は僕の肩を掴んで、何度も何度も同じことを言った。
北のヴォルガード帝国が国境に兵を寄せていること。12年前から圧が強まり、去年からは目に見えて我慢がきかなくなっていること。この国は120年ぶりに「大召喚」に踏み切ったこと。国庫の3年分と、術師6人の寿命を燃やしたこと。
「そなたを呼んだのは、我らの祈りだ」
勇者、という単語が、そこまでで3回出てきた。
僕は思った。
(体育の成績、2なんですけど)
本当にそうなのだ。持久走はいつも下から数えたほうが早いし、跳び箱は5段で腰が引ける。得意なことといえば、しゃがんで動かずにいることくらいで、それは体育の成績には反映されない。
でも僕は黙っていた。周りの人たちが本気だったからだ。人が本気で祈っているところに水を差せるほど、僕は強い人間じゃない。
そのあいだも、頭のどこかは冷えていた。
母は今ごろ、夕飯の支度をしている。妹の陽菜は塾から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎ散らかして、冷蔵庫を開けて、何もないと文句を言う。あの2人が、僕がいつまでも帰らないことに気づくまでに、どれくらいかかるだろう。今日は何時までなら「遅い」で済むだろう。
考えかけて、やめた。
そこを掘ると、たぶん立っていられなくなる。だから僕は、目の前の男の毛皮の襟の毛並みを見ていた。狐だ。冬毛の。刈り取ったあとの下毛の残り方からして、たぶん去年の暮れに獲った個体——というところまで考えて、また自分に引いた。
広間の中央、円環の真上に、水晶の柱が運ばれてきた。
僕の胸くらいの高さの、六角の柱。表面に細かい傷が無数に入っていて、内側でなにかがゆっくり光っている。
「手を」
灰色のローブの女の人が言った。40くらい。無表情で、目だけがひどく速く動く。この人だけが、この広間で唯一、僕を「見て」いた。ほかの人は僕の後ろにある何かを見ていた。
僕は左手に花束を持ち替えて、右手を水晶に触れた。
温かい。
人肌より少し高い。犬の腹くらいの温度だ、と思って、自分でもなんでそんな喩えが出てきたのか分からなかった。
水晶の内側の光が、渦を巻いた。
柱の表面に、文字が浮かび上がる。
読めない。
さっき床の輪の中で見たのと同じ、見たこともない形の文字だ。話し言葉は分かるのに、文字はまったく分からない。2行、たぶん5単語か6単語。それが白く光って、ゆっくり回転している。
僕は文字を読めなかった。
だから僕は、顔を見た。
——広間の空気が、音を立てて変わった。
祈りの声が止んだ。誰かの吸い込む息が、天井まで届くくらい響いた。片膝をついていた甲冑が、鎧の擦れる音を立てて中腰になった。国王の後ろに立っていた若い騎士が、口を開けたまま、僕と水晶を3度見した。
法衣の一団の中で、いちばん前にいた老人が、天を仰いだ。
わざとらしいくらい、はっきりと。両手を広げて、顎を上げて、目を閉じて。
その顔が、全部を教えてくれた。
僕は、期待されていたものではなかったらしい。
灰色のローブの女の人だけが、表情を変えずに水晶を見ていた。それから、僕を見た。
胸のあたりで、花束のビニールが、じり、と鳴った。




