#77 めんどう、だそうです
翌朝は、晴れていた。
夏の終わりの、よく晴れた朝。
僕は、ほとんど眠れなかった。
それでも、朝は来る。獣舎の掃除は、待ってくれない。糞の桶は14杯。アズキの散歩は30分。
中庭で、散歩の途中だった。
アズキが、全速力で走って、行き過ぎて、戻ってきて、また走っていく。
ススキが、3歩後ろにいる。
ソラが、頭の上。フクが、上着の胸から顔を出している。子イタチが5匹、外套のあちこちから。
ギンが、中庭の真ん中で、朝日を浴びて、腹を出して寝転がっていた。
回廊の端で、トトが桶を運んでいた。噴水の前で、ドーラが洗い物をしていた。王が、バウを連れて、朝の散歩をしていた。
いつもの朝だった。
——落ちてきた。
まとめて。
『ちいさいの』
僕は、足を止めた。
『しりあいの、たまご』
『そだてる、か』
——中庭の真ん中で、僕は、固まった。
育てる、か。
知り合いの、卵を。
育てるか、と。
僕に。
「……え」
声が、出ていた。
アズキが、走るのをやめて、僕を見上げていた。
ギンが、腹を出したまま、首だけ持ち上げていた。
「……あの」
僕は、北の空を向いた。
念話と、声と、両方で。
「……持ってきて、くださるんですか?」
——長い、沈黙だった。
中庭の噴水の、水の音だけがしていた。
1分。
2分。
ドーラが、洗い物の手を止めて、僕を見ていた。王が、バウの綱を握ったまま、立ち止まっていた。
3分。
——そして。
『めんどう』
——僕は、口を開けた。
めんどう。
去年の冬、岩棚の上で聞いたのと、同じ言葉だった。
同じ、声で。
『めんどう』
さらに、追い打ちのように。
『うみ、むこう』
『ちいさいの、とりに』
——それきり、また、黙った。
僕は、中庭の真ん中で、北の空を見上げたまま、動けなかった。
海の、向こう。
小さいの、取りに。
取りに——。
「え、取りに行くの、僕ですか!?」
叫んでいた。
中庭じゅうに、響いた。
——中庭が、騒ぎになった。
最初に動いたのは、トトだった。
桶を放り出して、走ってきた。
「兄ちゃん! 来た!? オーガスさん!?」
「来た」
「なんて!?」
「……卵、育てるか、って。持ってくるのは、めんどうだから、海の向こうまで、取りに行け、って」
「うおおおおおお!!」
トトは、記録帳を取り出して、その場で書き始めた。地面にしゃがんで、膝の上で。
王が、中庭の石のベンチの背を、両手で掴んでいた。
いつから掴んでいたのかは分からない。気づいたら、両手で握りしめていた。
「……海の、向こう」
王の声が、震えていた。
「……〈果ての大陸〉」
ドーラが、洗い物の桶を抱えたまま、立っていた。
「坊主、海を渡るのかい」
「渡るって言ってないです」
「顔が、渡る顔してるよ」
——回廊から、ヴィルマが出てきた。
騒ぎを聞きつけたらしい。
僕の顔を見て、トトの記録帳を見て、王の握りしめたベンチを見て、状況を理解したらしい。
ヴィルマは、僕の前に来て、言った。
「ほら」
いつもの、無表情で。
「面倒な形で、叶いました」
——騎竜団の詰所から、リーゼが出てきた。
鞍を肩に担いで。
事情を聞いて、眉を寄せた。
「海の向こうって、どうやって行くんだ」
——僕は、そこで、一度だけ、考えた。
海の向こうへ、どうやって行くか。
ソラ。
《瞬間移動》。行ったことのある場所になら、跳べる。王都からヴァルデン砦まで、瞬きひとつで跳べた。
でも、〈果ての大陸〉には、行ったことがない。
だから、跳べない。
ヒバリ。
翼開長13mの飛竜。空を飛べる。
でも、海の上では、休めない。30日の海を、1度も降りずに飛び続けることはできない。
だから、渡れない。
——リオの船なら、行ける。
「俺の船なら、行けるぜ」と、あの人は言った。
でも、船は、道を知らなければ、海の向こうへは着けない。
道を知っているのは——。
僕は、獣舎の屋根を見上げた。
屋根の上に、白い大きな鳥が、止まっていた。
右の翼に、まだ白い布を巻いて。
南の空を、見ていた。
『うみ、むこう』
ナギだった。
『かえる』
——ナギは、海の向こうから来た。
あの海を、渡ってきた。
道を、知っている。
——ひと月前、僕はこの子に、約束をしなかった。
『いつか、かえれる』とは、言えなかった。代わりに『いっしょ、かんがえる』と送って、通じたかどうかも分からないまま、屋根の上で並んで座った。
その「かんがえる」ことが、1つ、できてしまった。
ナギの翼は、まだ海を渡れない。エステルは、あと何ヶ月もかかると言っている。
でも、もし——この子の帰り道と、竜の卵のある場所が、同じ海の向こうなのだとしたら。
僕は、屋根の上のナギを、しばらく見上げていた。
——中庭の騒ぎは、まだ続いていた。
トトが、記録帳に何か書きながら、「竜の卵! 竜の卵!」と叫んでいた。
王が、ベンチの背を掴んだまま、ヴィルマに何か聞いていた。
リーゼが、腕を組んで、海の方角を睨んでいた。
エステルが、いつのまにか来ていて、口元を手で押さえていた。
オズワルドが、騎竜団の詰所の窓から、身を乗り出していた。
騒ぎの輪の、外に。
回廊の、柱のそばに。
アーリアが、立っていた。
1人で。
こちらを、見ていた。
騒ぎを見ているのだと思った。
アーリアの足元に、いつのまにか、ギンが座っていた。
さっきまで、中庭の真ん中で、腹を出して寝ていたのに。
ギンは、アーリアの足元に、きちんと前肢を揃えて、座っていた。
あの子は、なぜか、あの人のそばに座るのが好きだ。
——ギンが、立ち上がった。
アーリアの足元から、中庭を横切って、僕のところへ。
体長2.4m。300kg。
僕の前で、止まった。
鼻先を、僕の膝に、押しつけてきた。
『ユウマ』
「……うん」
『いく?』
——同じだった。
冬の屋根の上で、この子は、同じことを聞いた。
『いっしょ、いく?』と。
あのとき、僕は、答えられなかった。
あのとき、この子の尻尾は、動いていなかった。
——今は、違った。
ギンの尻尾が、揺れていた。
全力で。
中庭の石畳を、ばさばさと掃くくらいに。
『ギン、いっしょ!』
——僕は、空を見上げた。
夏の終わりの、よく晴れた空だった。
北に、山の連なり。
南に、ずっと遠くまで、広がる海と空。
まだ、行くとは言っていない。
言っていないけど。
竜の卵なんて、どうやって育てるのかも知らない。海の向こうのことも、何も知らない。
——なのに。
竜の卵って、どれくらいの大きさなんだろう。
殻は、硬いのかな。温かいのかな。
中で、動いたりするのかな。
生まれたら、最初に、何を食べるんだろう。
もう、竜の卵のことばかり、考えている自分がいた。
——頭の上で、ソラが、『たかい!』と言った。
胸の中で、フクが、『こわい』と言った。
足元で、アズキが、『いく!』と言った。
ギンが、僕の膝に鼻を押しつけたまま、尻尾を振り続けていた。
よし! 行こう! 海の向こうへ。




